みわよしこのなんでもブログ : PTSD

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


PTSD

[雑感]原家族、ラスボスの恐怖

生まれてから56年間経った今、父親に対する恐怖心が、自分史上最大になっている。

離れて暮らし始めてから36年。その間、直接会って話した機会は、たぶん50回はないと思う。電話を含めても、会話をした時間は1年あたり平均では30分から1時間の間だと思う。「親類等がいる中に父親もいた」という場面を含めても、誤差の範囲だろう。それは36年間に20回もない数少ない機会だったから、いちいち数え上げられる。

客観的に見れば、たぶん力関係では、自分史上最大に自分が強くなっているはずだ。

父親は87歳。こちらは車椅子だが、肉体的な勝負なら勝てる自信がある。同居していたころみたいに、「眠っていたところ、深夜に帰ってきた父親が母親に何事かを吹き込まれ、階段を駆け上がってきて私を叩き起こしてビンタを浴びせる(ビンタ、ということにしておく)」というようなことは、今は起こらない。

父親の持っていた社会的影響力や実権も、そういうものを直接取り扱う現役でなくなってから数十年が経過すると、激減している。父親のパワーのピークは私が大学院生くらいのころだったが、その後の私は、ジリジリジリジリとしぶとくしつこく、簡単に潰されないように根を張り枝を伸ばしつつ逃げ足を鍛えてきた。たぶん力関係は、父親のパワーを最大に見積もっても「気を付けろ、依然として、油断したら自分がやられる可能性はある」程度であろう。

しかし今、私は父親に対して、自分史上最大の恐怖を感じている。私が物心ついて以来、苦しんで痛めつけられて育った世界のルールは、一言で言えば「男尊女卑」、より正確に言えば「女は使役動物で産む機械(例外はありうるが、例外条件は明確にされない)」。

時間を共にする時間が圧倒的に長かったのは母親と弟妹だった。私を直接に痛めつけたのは主に母親と弟だった(妹は9歳下で、私が実家を離れた20歳時点までは、さほどの脅威ではなかった)。しかし、「そうしてよい」というルールがある実家の世界のトップにいてルールを決定しているのは、父親だ。

私は20歳で実家を離れるのと同時に、自分を「使役動物で産む機械」とするルールからも離れるはずであった。むろん、原家族の世界がそんなことを許すわけはない。今となっては、その後の私に起こったことは、たったこれだけで概ね説明がつく。しかし「なぜ? どうして?」と自問しながら必死であがく時間が、その後、延々と続いて現在に至っている。まるで、ゴキブリホイホイにつかまったゴキブリのように。

私は生きたまま、このゴキブリホイホイから解放される日を迎えたい。父親に対して、根拠に基づきつつ実際の5倍10倍の恐怖心を抱くのは、おそらく生き物として正常なことなのだろう。恐怖と悲しみと怒りを叫び続けつつ、解放される日と、いかなる意味でも解放されたことの罰を受けないその後の未来を生きたい。

父親がそのようなルールの支配する家庭社会を作るにあたっては、むろん、父親一人だけに責任があったわけではない。終戦時の国民学校6年生として経験した過酷な出来事の数々があり、生き延びるために余儀なかったかもしれない多様な選択(たとえば結婚。母親の兄などとの関係はじめ、子ども心にも不可解なことが多かった)の影響があり、「そうしかやりようがなかった」という側面が多々あるのであろう。それは理解している。というより、理解と共感を強制されてきた。

もしかすると、今の私に起こっていることは、56年間にわたって感じないことにしてきた恐怖を、56年分まとめて味わっているということなのかもしれない。自分が他のきょうだいのように人間扱いされていないという事実を、幼少の私は認めたくなかったのだ。何をしても、両親に価値を認められることはなく、認められたらその後に恐ろしいことが起こるという自明の成り行きに対して、「そんなことはないと言える日が来る」と信じたかったのだ。自分の愚か者め!

今より愚かだった少し前の私、もっと前の私を責めても、何も返ってこない。責めるなら私じゃない。まず、私をそういう状況に置くことについて責任あった父親、そして母親、その状況を利用してきた弟妹だ。しかし、誠実な対話ができる相手ではない。もしそうなら、こんなことにはならなかった。

私はただ、自分と自分の人生とキャリアと、自分の大切な猫たちや大切な人々を、これまで以上に守って育てて生きていこう。

[雑感]原家族トラウマが薄れるとき

さんざん記している通り、私はいわゆる「毒親育ち」だ。20歳で実家を離れるとすぐ、PTSDの多様な症状に苦しめられ、現在に至っている。しかし、その苦しみは少しずつ和らいできた感じがする。

今年4月から、私は「いじめられ癖をなくす」ということを心がけた。両親はじめ原家族のメンバーの中でいじめられて育った過去は致し方ない。これから、自分に刷り込まれた「いじめやすさ」をなくすことはできるだろう。そして、それには成功しつつある。

並行して、腹家族で何があったのかを、なるべく隠さないようにした。いくらなんでも書けないことが未だに多数あるけれど。4月から5月にかけて、実家とトラブルがあったことが、私の背中を押した。

時に、激しい身体の痛みを経験した。叩かれたり蹴られたり、耳元で毒台詞を吐き続けられたりするとき、私は身体を固くして衝撃に備えていたようだ。いつもいつもそうだったから、それが身体に染みついていたようでもある。

コロナ禍でオンラインの講演会等が増えた。自分のビデオをオフにできるときは、ストレッチしながら試聴したりする。どうしても硬さが取れない筋肉に、幼少期からの痛みとやりすごしてきた努力がこびりついている。ほぐそうとすると、その場面が想起され、心身ともに激しい苦痛を味わうこともあった。いったんほぐれても、数日後にフラッシュバックとともに緊張がやってくることもあった。その一進一退も、だいぶ進む側に動いてきた感じがある。

そして私は、自分がその中で育ってきた原家族という舞台装置、そこにいる人々の動きを大きく決める原理を概ね理解できたのではないかと思う。すると、すべてのことは「そうなるしかない」。私が悪いのだと誰がどれほど激しく罵ったとしても、私は悪くなかったと言える。

このことは、私の気持ちを非常に楽にした。たとえば「◯年◯月、妹(◯歳)が、これこれの状況下で、私に◯◯をした」という出来事は、妹や私のキャラクターの問題ではなく、いずれかの性格や認知の問題でもなく、私が対応を誤ったわけでもなく、その舞台装置がその力学のもとにあるゆえに起こることなのだ。そういう認識を持てると、過去の記憶はむしろ、表に出しやすくなる。相手個人や相手のした個々の言動を問題にすると、「相手も人であり立場であり、屁理屈でも理を持っている」という事実の前に怯んでしまいがちだ。しかし、相手や相手の言動を、その舞台装置を描くために示すのであれば、私が罪悪感を抱くことはなくなる。

その舞台装置の中に生まれた私に、舞台装置を使ったことの責任はない。事実上弾き出されてしまっているというか、そこにとどまるという選択肢が事実上なかったことについては、「多数決」かつ大人と子どもの差により、やはり私の責任ではないはずだ。20歳で原家族を離れてなお、35年以上にわたって私が苦しまなくてはならなかったことも、かなりの部分は「私のせいじゃない」と言える。

ならば、誰にどういう責任があるのか? 知らない。少なくとも、私にはない。

そして2020年10月1日の朝、私は背中に羽が生える感じを味わいながら目覚めた。その後数日、目が覚めようとする時のぼんやりした感覚の中で、私の背中の羽は、高橋しん『最終兵器彼女』のヒロインの羽のように広がったりもした。


目覚めると、もちろんそんな羽は生えていない。しかし、羽が生えそうな朝を何日分か過ごすと、両親やその大事な子どもさんたちである弟妹とその配偶者、大事なお孫さんたちである甥たちへの恐怖心が消え、遠くのどこかで暮らす普通の人に見えてきた。普通の人たちなら怖くないわけではないが、血がつながっていなければ、私と血のつながりを持っている故に恐怖をもたらすことはない。これが、まともな感覚なのだろう。

私は、「誰も、私から翼をもぎ取ることはできなかった」という希望の結末と、救いあるその後に向かって、少しずつ歩みたい。

[雑感]「アスレチックランドゲーム」の記憶

「アスレチックランドゲーム」という、昭和のテーブルゲームがある。現在もけっこう人気。中古が3000円台で売買されているようだ。発売は1979年。


この年のクリスマス、実家の「サンタさん」も、このゲームをおねだりされていたようである。クリスマスの朝、当時12歳で小6の弟の枕元に、このゲームがあった。妹は妹で、何かサンタさんにおねだりしたものを貰っていた気がする。

ちなみに私へのクリスマスプレゼントは、クリスマスと無関係に必要なデスクランプだったり防寒衣料だったりした。もう、そんなものであることに慣らされてしまっていた。私が中学以後になると、母親は私に弟のクリスマスプレゼントを預けて寝てしまい、寝ている弟の枕元に置くのは私の仕事になった。

弟は、当時7歳の妹とともに、このゲームを楽しんだ。両親が参加しているのを見た記憶がある。私も少しくらいは触らせてもらった気がする。

一週間ほどで、お正月がやってきた。そしてお年玉。実家は父方母方とも子どもが多く、申し合わせをしてお年玉を比較的低く抑えていたが、それでも子どもにとっては数千円以上の現金は大金だった。

すると弟は、もらったばかりの「アスレチックランドゲーム」を、妹に売ってしまったのだ。
「あんなにほしくて、喜んでたのに。どうして?」
と聞くと、弟は
「ウチにあるから、これからも遊べる。僕は何も損しない」
と答えた。妹は数千円を損したわけだが、特に不満は持っていなかったようである。

私は文句を言わなかった。弟のこのような「賢さ」には、その何年も前から繰り返し痛めつけられていた。抵抗感や不満を表情に示そうものなら、母親に「倍返し」ではきかない仕打ちを受けることになった。

博多弁の「こすか(ずるい)」という言葉を、弟と無関係に口にしただけで、「たった一人の弟を非難した罪」によぅて母親に折檻されたこともある。その時の「こすか」の対象は弟ではなかった。いずれにしても、物心ついたら既に、私が弟に対して不満を持つ状況と、私が不満や怒りを示したらそれを口実にさらなる責め苦が注がれる構造が、母親によってガッチリと築かれていた。

 私は、両親によって作り上げられたアリ地獄から、逃げようとしてもがき続けてきた。いつになったら投げ切れるのか、分からない。

 2019年、はじめて和歌山県に足を踏み入れたとき、和歌山県出身者から負わされたトラウマと、この「アスレチックランドゲーム」に関するトラウマが同時に氷解する出来事があったのだが、その話はまた改めて。

[雑感]原家族トラウマはどのように癒えるのか(大学時代編)

 私がしつこくしつこく、原家族、特に両親との問題を書き続けている最大の理由は、回復したいから。というわけで、どのように私が回復してきたかをメモするシリーズ。

 生まれてから20歳までの原家族との同居で抱えたトラウマは、新たなトラウマの追加がなければ、おそらく「時間薬」だけでも20年くらいで癒えたのではないかと思う。実際には生きているだけで相当のトラウマ増し増しが行われることになる。また生きている間に、治療や回復に関する知見が進歩したり、一般ピープルまで届きやすくなったりもする。それも、一概に「良いことばかり」とはならない。
 何があれば、回復の見通しが立つのか。「◯年後の自分がどうなっている」と思えるのか。私は、その目安くらい欲しかった。誰かの役に立つだろうと思い、自分がどんなふうに回復してきたかを記す。

  • ふつうにトラウマ症状に襲われる(1984-1988)
 原家族との同居が終わったのは1984年3月、私の大学進学に伴ってのことだった。東京理科大の理学部第二部物理学科に進学。
 ところが、東京で1人暮らしをはじめて1週間も経たないうちに、フラッシュバックや過食をはじめとして、今なら「複雑性PTSD」の一言で片付く数々の症状が出揃った。しかし当時、PTSDという用語は日本の一般ピープルのところまで届いていなかった。そもそもは、米国でベトナム戦争後の戦争障害者を救済するために編み出された用語という一面も。1984年時点でいえば、現在のように幅広く使われてはいなかったはず。
 私は自分に起こっていることが何なのか、よくわからなかった。
 そして、1人暮らしを始めたのはいいけれど、毎日の母親からの電話に悩まされることになった。電話に出ないと、侵入的な父方叔母の一人(父親の末弟の妻)が母親とセットで「東京に様子を見に行かなくては」ということにしてしまう。その父方叔母は、自分の娘2人と私の妹(1972年生まれ)を連れて、宿泊費無料で東京に遊びに行きたいだけだったのだが、私が当時住んでいた木造アパートは、階下に高齢の家主夫妻が住んでおり、2階のアパート部分も静かな大人ばかりだった。静かな話し方や物腰といったものとは対象的な父方叔母と10代女子3人が来たら、いったいどうなるのか。6畳1間に私を含めて5人が雑魚寝するというのは、およそ非現実的な話だと思うのだが。
 私は、父方叔母の来訪計画に必死で抵抗した。父方叔母は「あそこまで嫌がるのは、何か悪いことをしているに違いない」と言い立て、さらにエスカレートした。結局、この父方叔母の攻勢は、1984年12月、出張で東京にやってきた父親が私の留守中にアパートを訪れ、家主に鍵を開けてもらって中に入って置き手紙をして帰るまで続いた。この父親の来訪のことを、母の兄の息子たち2名(双子で私より1歳下)は「立入検査」と呼び、親類が集まる際の話題にした。その時の屈辱感は、未だに身体に刻まれている。
 トラウマが癒えるヒマもなく上塗りされたわけで、もちろん学生生活にも学業にも、大学2年から始めた常勤アルバイトの仕事にも、相当の支障があった。にもかかわらず、表面的には要領よく単位を取得した。大学3年までに卒業に必要な単位+50単位くらいを取得。理科の教免に加えて数学も取ろうとしていた上、昼の仕事が結晶学だったため関連する化学科の科目まで履修していた。部活(物理研究)、学友会活動(大学祭実行委員として大学との交渉に当たるなど)、バンド活動、ピアノや歌のスキルを落とさないための自主訓練、登山、スキー、スケートなどにも励む。昼間の仕事を続けながら(それは職場の多大な理解と支持あってのことだけど)大学院修士課程に合格。理科大には嫌気がさしており、国立大学の院に進学したかったけど、理科大に引っかかって新設の研究室に拾われたおかげで、超絶的に恵まれた修士課程を送れる……はずだった。
 表面的に見れば「なんと充実した大学生活」ということになる。休む間もなく「何かする」ということで時間を埋めていないと、気がヘンになりそうだった。

  • 今から振り返る「こうだったらよかったのに」
 2020年現在のセオリーでいえば、ここまで激烈なPTSDの症状が出揃っている場合、大学で誰かが気づくなり話を聞くなりしただろう。1984年の東京理科大(神楽坂)には、それが可能な体制はあった。なかったのは、複雑性PTSDに関する知識と対応スキル。入学当時、学生相談室はまだなかったけれど、確か1988年か1989年に設置されている。理由としては、「理科大の高い自殺率が問題になったから」とまことしやかに囁かれていたけれど、教員養成校としての一面が強い理科大と、教員に強い影響力のある故・國分康孝先生が当時理科大にいたことが最大の背景と思われる。実は私、國分先生に個人的にずいぶん助けていただいた。「合法的家出」としての大学進学については理解があった國分先生だったけれど、虐待後遺症や複雑性PTSDについては概ね知らなかった(あくまでも1987年度まで、私が学生として接していた時期のこと。念のため)。
 原家族と物理的に距離を置いたのだから、医療その他の介入のもと、原家族とのコミュニケーションを制限することが可能なら、まずそれが第一の選択肢になるだろう。帰省時のファミリーカウンセリングといったことも、手段としてはアリかもしれない。原家族や原家族との関係がどうにもならないようなら、学生の安全を保ちながら生活と関係を分離すべく社会保障その他の制度を総動員することも(利用できる制度は2020年現在も皆無に近いけど)、考えられるかもしれない。ただこれは、良くも悪くも面倒見が悪く「放置プレイ」が学風の当時の東京理科大だと、考えにくい路線。
 いずれにしても、すべきことは単純な話。目に見える擦り傷切り傷に例えれば、患部を保護し、新たな刺激を避けて回復を待つ。感染症に罹っていたら、それも治療する。回復すれば、傷跡は残るかもしれないけど、保護する必要のない患部と身体に戻る。
 ところが私に出来たことは、物理的に1000km以上の距離を取ることだけだった。新たな刺激は多様な理由で続いた。回復するどころではなかった。PTSD症状は、年々悪化していった。


 父親にアルコール問題があったことも、別途書き記しておく必要があると思うが、それはそれで長い話になるのでやめておく。
   


 私が理科大二部に進学することになった直接のきっかけは、父親のアルコール問題、そして母親のイネイブリングに関係している。

  • 原家族との間で起こったこと(1984-1988)
これは箇条書き的に書くにとどめる。2020年現在、まだフラッシュバックするような出来事が多数。

1984年3月
私が東京に出ていくことが確定すると、もともと私に対して「そこに一人の人間がいる」という扱いをしていなかった弟が、私を透明人間か何かのように扱うようになる。私に懐いていた実家の初代猫(当時5歳)が私の横にいるとき、黙って部屋に入ってきて黙って猫を抱き上げて立ち去るなど。

1984年4月 
東京都新宿区、理科大(神楽坂)の近くで一人暮らし開始

1984年4月 
福岡の母親からの毎日の電話攻勢が、アパートの共用ピンク電話に対して行われる。出ないと他の住人に迷惑がかかる。出たら30分も1時間も解放してくれないので他の住人に迷惑がかかる。それを言っても「お母さんが電話してやりようとに(電話してやっているのに)」。

1984年5月 
幼少のころから半分育ての親のような母方叔母が、出張ついでに来訪。特に問題なし。母方叔母は、東京に本社がある企業の九州支店に高卒で就職。定年まで勤め上げ、最後は経理の責任者のような仕事をしていた。

1984年5月 
上述の父方叔母から「行って泊まって様子を見てあげる」という申し出が、母親に対して始まったらしい。母親(時に父親)から、受け入れない私のせいで自分たちが責められるかのように言われはじめる。

1984年7月
共用ピンク電話への母親からの電話の心労に耐えかね、7万円払って部屋に電話を引く。ちなみにアパートの共益費には、ピンク電話の利用料金が最初から上乗せされていた。私が自室に電話を引いても、その費用はそのまま支払うこととなり、電話にかかわる費用を二重に払っていたわけ。
周囲の住人に遠慮しなくてよくなったため、母親の電話の頻度と長さと内容はさらにエスカレートする。念のために書いておくと、「ナンバー・ディスプレイ」はまだなかった(2008~2010年ごろ、筑波大の当時の指導教員に本件で「電話に出るからいけない」と笑いものにされたので、わざわざ書いてる)。

母親が「東京は野菜が高いようだからいろいろ送ってやった」と電話してきた。当時は、配達時間指定がまだなかった。母親が何か送ってくると、土曜日や日曜日を一日潰して在宅していることになった。さらにクール便や宅配便の温度管理がまだなかった。
届いた段ボール箱の中には、ほうれん草など野菜や果物がたくさん。しかし、ほとんどが腐っていた。一日を潰した上、届いたものをすぐ捨てなくてはならないのである。泣きながら始末し、実家に電話をかけると、妹が出て
「あ、お姉ちゃん? お母さんが送った荷物届いた? お母さんが、『腐って大変やろうねえ、ふふふ』って言いよんしゃったよ」
と言った。
以後、母親からの「荷物を送る」という申し出は固辞に固辞を重ね、どうしても送ると言うときには生鮮食料品だけは入れないように念に念を押した。
ちなみに1990年を過ぎ、私が就職したころ、母親から「野菜を送った」という電話があった。私は「やめてほしい」と言った。母親はなぜか素直に応じ、実家近くの取り扱い店に連絡し、送り返してもらったそうだ。送った翌々日だったが、何も悪くなっておらず、入れたナスは熟成されて美味しくなっていたそうだった。このことは母親と妹の2人からその後何回か繰り返された。なぜそんなに繰り返すのか理解できなかったが、その後のある時に納得することになった。母親と妹にとって、1990年過ぎ、宅配便の所要日数が減り、通常便でも一定の温度管理がされるようになった時、腐らないように私に野菜を送ることは、1984年の意図的腐敗便を打ち消す効果があったようだ。しかも私は送らせず受け取らなかったわけなので、「理由なく親の好意を拒んだ、ひどい長女」というエビデンスまで作れたわけである。

1984年8月 
帰省。父方叔母から「東京に行って泊まりたい」としつこい依頼を受けるが、「静かな住宅街の中の静かな住人ばかりのアパートだから、迷惑がかかるので」とお断りする。
この時に衝撃的なことを知るが、それについては書かないことにする。弟に関連している。
学生・院生時代の帰省は、この後、1986年正月、1986年8月、1987年正月、1989年8月(これが最後)。
いずれの時も、実家の初代猫は私を覚えていて、私に甘え、抱かれたり、一緒に寝たがった。ところが最後の帰省のとき、猫が私の背中の上で寝ていたところ、部屋のドアを黙って開けて9歳下の妹(当時高校生)が入ってきて、背中の上で寝ている猫を黙って抱き上げて連れて行ってしまった。この時の悲しさから、猫の存命中は実家には一度も泊まらなかった。私が猫を離さなかったり、猫が私から離れなかったりすると、私が口を極めて罵倒されることになる。

1984年9月
父方叔母の「子どもたちと東京に行ってヨシコちゃんのところに泊まる」という意向が、さらに強まる。勉学どころではない中、大学で最初の定期試験。
共通一次にも出願。理科大の環境に馴染めないものを感じたため。

1984年12月
出張で東京にやってきた父親が、私の留守中に大家に依頼してアパートの自室に入って様子を見て、置き手紙をして帰る。出張の予定を知らされていたので、私は黙って不在にし、福岡に帰って予備校時代の旧友や恩師と会っていたのだが、東京に戻ってみると……。

1985年1月
年末年始に帰省。この時、1歳下の従弟たち(双子、母親の兄の子たち)によって、父親による私の「立入検査」が話題にされる。
私の受験した英検などについて、母親の弟の妻(母親は非常に嫌っていた)が熟知しており、質問責めにされる。1986年1月には、同じ叔母から常勤アルバイトの仕事について質問責めにされた。その叔母の家には、私より数歳下の従妹2名がおり、将来の参考にしたいというのなら分からなくもない。しかし、叔母はそのために尋ねている感じではなかった。いずれにしても、答え方や用語に対して、あとで母親から責められる(理由はよくわからない)ことになるため、私は盆暮れの帰省を避けるようになっていく。具体的には、親類が集まるタイミングを避けて最小限の義理を果たす方向。新幹線の1日乗り放題切符を使い、1月1日夜に帰省、1月2日に東京に戻るなど。

1985年1月
初めての学年末試験。
共通一次も受験。880点だったか。東工大に出願しようとした。ところが出身高校の教諭が、理由になっていないことを言って妨害。母親の知るところとなる。母親からも強い妨害。

1985年2月
東工大には結局は出願できたものの、母親から毎日の電話。「期待を裏切ったら許さない」「失敗は許されない」など。落ちても理科大の学籍はあるのだが、母親の目的は再受験を失敗させることにあったと思われる。
福岡の大学に進学していた予備校時代の友人(女性)がおり、将来へ備えたスキル習得のため、長期の休みに東京の大学に進学した予備校の友人たちの住まいを渡り歩いていた。彼女が私の住まいに泊まっていた日、私の不在中に母親から電話。うっかり電話をとってしまった彼女は、「アンタ誰? どこの大学?」などと母親に詰問されて泣き出した。泣いているところに私が帰宅。

1985年3月
母親の「励まし」の電話で精神状態が極めて悪くなる。
東工大の受験日は、受験会場まで行けず棄権。
理科大の単位は全部合格。進級できることに(ストレート進級は学年の1/3)。
この年、弟が高校を卒業して福岡の大学に進学したはず。

1986年
アパートの横に別のアパートが建って生活環境が悪化したため、徒歩5分ほどの別のアパートに転居。
母親からの電話攻撃は相変わらず。
3月、妹が中学受験に合格したご褒美に東京に滞在。私のアパートに泊まる。東京ディズニーランドに行きたがったので、随行した。また、池袋など妹が買い物に行く場所にも随行した。妹がしたいことに、安全のため付き添ってただけ。

1987年
2月、弟が日大芸術学部を再受験するといって、私のアパートに泊まる。この時のアパートの大家は、プライバシーへの詮索や介入の度が過ぎる高齢女性で、弟の滞在に関する理解を求めるのは大変だった。母親は「たった一人の弟を世話してやらんと」といい、弟が不合格だったら私のせいにするかのようなことも言う。しかし実質、親の意向通りに福岡の大学に通い続けるために認めてやった記念受験のようなものだったらしい。弟は中学1年レベルの英語や社会の復習をしていた。日大芸術学部は不合格。弟は、食事については「作ってほしい」「不要」などと言うことはなく黙っており、ただコンビニで買ってきたものばかり食べていた。私が作った食事は弟の分が無駄になるだけだった。その他、私が弟に「しないでほしい」といったことが、弟が福岡に帰った後、ほとんどすべてやられていたことに気づく。実家に電話すると母親が出て「(弟が)……をしたから、お姉ちゃん怒っとろうやと言っとったけど、アンタ怒ったらいかんよ」と言っていた。
弟は、この時の受験というか東京旅行で、「ルームサービスのあるホテルに泊まる」ということが希望だったらしい。私はそんなホテルは知らず、弟が自分で探した池袋のビジホに泊まったらルームサービスはなかったらしい。その不満も私のせいということにされた(母親談)。

7月、先輩たちにくっついて国家公務員試験(II種)を受験。自分だけ合格。

母親が希望したのか、父親と母親が希望したのか不明だが、父親が東京に転勤する話が持ち上がる。それ自体はありうる話なのだが、母親によれば私は父親と同居して、父親の「お世話」をし、「アンタのしたいことやら、何もできんとよ、ふふふふふ」ということだった。父親によれば「一家の住居が3つというわけにはいかない」ということだった。私は仕事を捨て、大学も退学して行方をくらますことを検討せざるを得なかったが、父親の転勤話が頓挫。

1988年
大家が同居しておらず、プライバシーが守れる(しかし安全面では若干の懸念のある)アパートに転居。1990年に西荻窪に転居するまで3年間住んだ。

この年は大学院受験だったが、保険につぐ保険をかける気持ちで、7月に国家公務員試験(II種)を受験。合格。
大学院受験は、当時の大学の研究室の指導教員の妨害にあった。東工大は出願できず。次に電通大に出願したが、同じ研究室の大学4年生男子から、試験数日前から色恋沙汰のお誘いが。どうも試験を狙って、指導教員がなんとなく承知のもとか、それとも指導教員の歓心を得るべく本人が策略をねったのか。そして試験前日に「受験やめちまえ」と1時間以上罵倒される。翌日、試験に行ったものの、全く出来ず。試験内容も覚えていない。不合格。
理科大の大学院への出願は、なぜか妨害されなかった。出願しても合格を妨害できるだろうという指導教員の心づもりがあったのかもしれないが、ペーパーテストで合格圏。面接では、新任の指導教員が採りたい意向を示し、合格。
理科大の院試のペーパーテストのとき、同級女子が保護猫3匹を試験会場につれてくるという笑い話あり。その1匹が我が家の初代猫となる。
母親は、もちろん大学院進学には反対。毎日電話をかけてきては「お父さんが……に就職したらどうかと言っている」。父親が勧めているという私の就職先は日替わりだった。事実ではなかったのかもしれない。大学院の合格を知らせると「はあ、まだ学生が続くとね」と嘆息。母親はその後、近隣の人々や親類たちに「おめでとうと言って泣いた」と言っていたそうだが、私の知る限り、そんな事実はない。
指導教員の反対にもかかわらず大学院を受験して合格、しかも同じ研究室から受験した学生は他1名を除いて全員不合格。私がどういうお仕置きを受けるか。想像するまでもない話で。それはもう凄まじいことが。

話はやや前後するが、国家公務員試験に合格した時、留守電電話を買った。SONYのミニカセット式の留守番電話。昼間は働いていた私が、採ってもらえそうな官公庁からの連絡を受けるため。4万円もしたけれど、「これで母親からの電話に出ないことが可能になる」という目論見もあった。でも、甘かった。
母親によれば、「留守番電話の応答の音声が感じが悪い」ということであった。何回も応答の音声を変えてみたが、母親は「感じが悪い」「こんな電話では親がおかしいと思われる」と繰り返すのみ。なぜ、私のアパートにある電話で両親が「おかしい」と思われるのか理解不能だった。しかし私には、「昼間、不在のときに連絡を受ける必要がある」という現実のニーズがあった。大学院に合格するまでは。その後は母親の「感じが悪い」攻勢に屈し、せっかくの留守番電話を使えなくなった。
結果として、この4万円は無駄な投資にはならなかった。修士の院生のとき、大学4年のときの所属研究室を引きずった嫌がらせに対抗するのに役立った。しかしその時期、留守番電話を機能させておくと、母親の「感じが悪い」に責められることになった。さらに母親は、その嫌がらせを支持したのであるが、それは1988年度以後のこと。

1988年3月
東京理科大二部物理学科を卒業。

  • PTSD治療に関して
 しつこいようだが、1984年から1988年の時期、まだ「PTSD」という用語は日本の一般ピープルや学生のところまで届いていなかった。精神科開業医のほとんどのところにも。自分にも「病院に行くなら精神科なのだろう」という自覚はあったけど、いくつかの理由で、大学在学中は1度も受診していない。

1. 辛うじて、学内で精神面の支援が得られていた

 教育心理学を教わった國分康孝先生に助けていただいていたことは前述したとおり。教育心理学の講義が21時過ぎに終わって、國分先生がさいたま市のご自宅へと帰途につくまでの3分5分の立ち話だけど。「困りごとと背景を要領よく聞き取り、一人で限られた時間で出来るワークを出し、翌週、その結果を見て次のワークを」ということの繰り返し。症状は軽減しなかったが、どれだけ助けられたか。回復に至らなかったのは、國分先生が「PTSD」を知らなかった以上、しょうがない。

 学校教育の現場にカウンセリング・マインドを導入するというのが國分先生の思いだったのだけど、カウンセリングマターとそれ以外の切り分けについては、繰り返し教えられた記憶がある。たとえば、精神疾患をカウンセリングで治すのは無理ゲーだし、悪化させる可能性もあるし。でもカウンセラーには「それは精神疾患だ」と診断したりできないし。その場面で、学校教員はどうすればいいか。その具体的な方法論もあり。「親を呼び出して精神科につれていくように言う」といったメチャクチャはなかった。
 私自身も、國分先生に対して「カウンセリングマターの範囲で」という配慮をして話していたところもある。本当に深刻なところは口から言葉に出せなかったから、結果としてそうなったというところも。なんとか少しでもラクになりたかったから、「目の前の凄い人から確実に得られそうな助けで確実にラクになれる部分が一部でもあるのなら、まずはそれ」と割り切ったというところも。
 ただ、「これはカウンセリングマターではない」と判断されたとして、それではどこに行けばよかったのか。当時の日本には、どこにもなかった。下手に当時の精神医療につながらなかったことは、もしかすると不幸中の超幸運かもしれない。

 神楽坂キャンパスの保健室の看護師さんにも、ひとかたならずお世話になった。
 私はほとんど通年、母親から強烈な電話を受けては数日後に体調を崩し、胃痛や頭痛や震えで講義室に居られなくなり(実験室は大丈夫だった)、保健室を訪れては簡単な投薬を受けていた。試験時期は、ほとんど毎日のように微量の鎮静剤をもらっていた。
 私自身、「背景と原因は原家族」という認識を明確に持っていたわけではないし、そういう路線で聞き取りをされたわけではないし、話したわけでもない。しかし、4年間ずっとそうだったので、一定の理解と支持はされていた感じがあった。たぶん「理科大生(特に二部生)あるある」だったんだろうと思う。似たような女子学生は、他にも少なからずいた。いつの間にか退学して大学から消えたりせず、この世からも消えず、卒業してその後があることを今も確認できるのは、私以外に2人くらい。

2. 健康保険が父親のものだった

 大学3年の時まで、私の健康保険証は父親の保険組合の遠隔被保険者証だった。精神科や心療内科に行くと、親バレするということである。このため、身体の病気で深刻になりそうな気配があったら、病院に行けなかった。「それを口実に福岡に連れ戻されたら」と思うと、病院に行けない。ましてや精神科は。
 大学4年になるのと概ね同時に、常勤アルバイトから嘱託になり、自分の健康保険証を持てることになった。この時「やった、精神科に行っても親バレしない」と思った。しかし、なにしろ精神科というところに行ったことがない。中の想像がつかない。今だったら、駅前に複数の精神科・心療内科クリニックがあって選択に困るくらいだが、1980年代は街中にそもそもなかった。どうすれば、より傷つけられることだけはないところを探し当てられるのか。それもわからない状態。

 というわけで、自分に何が起こっているのか皆目わからず、治療や回復の当てもないまま、トラウマにさらなるトラウマが重なり、状況も症状も悪化する中で、私の大学生生活が終わった。

  • 1989年を目の前に

 日本の一般ピープルのもとに「PTSD」がもたらされる先駆けとなる出来事は、私が修士課程1年だった1989年に起こる。もちろん、それで万事解決するわけはない。

[猫の闘病記]摩耶を失ってもうすぐ満三ヶ月、一つの気づきと三つの出来事

2015年9月9日未明に猫の摩耶(18歳+約4ヶ月)を失ってから、あと3日で満3ヶ月となります。
早いものです。
摩耶に逝かれた後は、二度と立ち直れないかのような気持ちになり、ダメージを引きずっている状態が11月中旬まで続きました。自覚していないだけで、まだダメージは残っているのかもしれません。
しかし、一つの気づきがありました。
そして、「立ち直り?」と思える出来事が三つありました。

2013年12月の摩耶(17歳7ヶ月)と私。
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  • 一つの気づき
2009年12月、私は公私ともに最低に近い状況にありました。
そんな中で、猫の悠(当時11歳)の慢性腎不全が発覚し、毎日の服薬が始まりました。悠は5月には甲状腺機能亢進症であることも判明し、薬剤の量の調整に成功しないまま夏を迎え、2010年8月には、夏が越せるかどうかも危ぶまれる危機的な状態に陥りました。
同じ2010年8月、摩耶(当時13歳)の慢性腎不全が発覚しました。
2010年8月、私は公私とも、最低より酷い「ドツボ」というべき時期にありました。
しかし摩耶と悠の闘病を支えることで自分を支え、立ち直り、現在に至っています。
2009年12月に始まった摩耶と悠の闘病は、2013年3月に悠が他界し、ついで2015年9月に摩耶が他界したことで、ひとまず終止符が打たれました。
5年10ヶ月。
長いような短いような、毎日、プレッシャと大変さに「放り出してしまいたい」と思うような、しかし同時に、永遠に続いてもいいと思えるような、濃密な時間でした。

甘え上手で、可愛さのアピールが上手だった悠。
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摩耶を失ってしまった私は、9月半ばごろから、脳内に一気に噴き上げてくる幼少時からのトラウマティックな記憶に苦しめられました。主に原家族での記憶で、登場するのは両親ときょうだいです。
しばらくの間、まるで自動筆記マシンになったかのようにツイートし、ときおりtogetterに「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」というまとめを作りながら、気づきました。
大学4年で23歳だった秋、最初の猫と暮らし始めて以来、私は「目の前の猫を守る」に没頭することで、辛い記憶の数々から、目をそらし続けてきたのです。
2009年12月以後、摩耶と悠の闘病が始まって以後は、なおさらそうでした。その時期、特に2010年から2012年前半にかけて原家族のメンバーとの間に何があったかは、「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」に書きました。知りたい方は、そちらをどうぞ。もちろん私は今でも思い出すことができますが、あまりにも辛いので、繰り返し思い出して書きたくありません。
原家族の中での辛い体験の辛い記憶に直面することを避けながら、原家族のメンバーと表面的な付き合いを続けながら(2007年、実質的に縁を切られるまでのことですが)、私は51歳まで、何とか生き延びて来ました。
原家族のメンバーとの話し合いの努力は、精一杯してきました。話し合いに応じられないので対決することも試みました。しかし、何も通じませんでした。
さらに2010年から2011年にかけての出来事で、私は原家族に対して、どのような望みも抱かなくなりました。あの状況で何かを望んだら、私が愚か過ぎるということです。何があったかは「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」をご参照ください。
摩耶を失い、毎日の注射や皮下補液や服薬や健康状態チェックや……という日課と生命を守るプレッシャから解放された私に、長年、直面することを避けていた原家族との問題が、一気に降りかかってきた気がしました。
「摩耶と悠を守らなくては」という5年10ヶ月間の緊張は、原家族の問題によるダメージから自分を守る殻としても機能していたのです。
摩耶が逝ってしまって初めて、私はそのことを自覚したのでした。
「母は強し」と言いますが、母は子のために強くなることによって、初めて、自分を守れる人間になれたのかもしれません。
過去に読んだことのある「母親」の物語を、そういう視点から、もう一度たどり直してみたいものです。


  • 一つ目の出来事
2015年12月1日朝。
私は目覚め、中国・北京市のホテルで朝風呂をしました。
学会参加のため11月29日夜から北京市のホテルに滞在していた私は、11月30日に無事に発表を終え、ほっとした気持ちで長湯しました。
じっくりと身体を温め、浴槽の中で悠の愛した「アンパンマンのマーチ」を歌い(我が家で「読経」と呼んでいる日課です)、冷水シャワーを浴び、汗が引いたところで身体を拭いて服を着て。
私は
「動物虐待 動物虐待 大変だ 大変だ」
と歌い始めました。意識してではなく、自然に。
それは、摩耶の毎朝の皮下補液とインシュリン注射のために作った歌の冒頭でした。

摩耶の皮下補液の様子を記録した、唯一の動画です。歌も入っています。


でも、そこは北京のホテルです。
ずっと東京で暮らし、3ヶ月近く前に死んでしまった摩耶がいるわけはありません。
私は歌い続けましたが、歌の途中で涙が止まらなくなり、数分間、そのまま涙を流し続けました。
そして思いました。
摩耶は猫の肉体をもって、18年と約3ヶ月を私とともに過ごしてくれました。
今もきっと、摩耶は私とともに生きているのだ、と。
  • 二つ目の出来事
12月3日、帰国のため北京市内を駅に向かって移動していた時のことです。
信号も横断歩道もなんのその、車の流れが途切れない交差点を渡ろうとしていたら、車がすぐ横手に迫ってきました。
頭の中に
「失敗は許されんとよ(許されないのよ)」
という声が響きました。母親のものでした。私だって「失敗したくない」と思っている入試などの直前に、母親が何十回も耳元で繰り返す「失敗は許されんとよ」に、私はどれほど苦しめられてきたか。言い表しようもありません。
外国で交差点を渡ろうとするときも含め、一歩間違えば身の危険に繋がるような場面、あるいは仕事や学業で強いプレッシャの下にあるとき、私の頭の中には母親の「失敗は許されんとよ」がいつも鳴り響いたのでした。私は頭の中でガンガン鳴り響く「失敗は許されんとよ」に絶叫したいような気持ちになりながら、いくつかの困難に立ち向かいました。乗り越えられた困難も、避けられた危険もありますが、失敗の方が多かったのではないかと思います。母親によれば、成功すれば「お母さんが言ってやったから」と母親のおかげ、失敗したら私のせい。
しかし、その北京の交差点で、私は
「失敗は許されんとよ」
という母親の声に
「そうですか」
と答え、そのまま車を避けて交差点を渡り終えました。
当惑して立ち尽くす母親の姿が交差点の中に見えましたが、まもなく、行き交う車に隠されて見えなくなりました。

たったそれだけのことですが、私にとってはエポックメイキングな出来事でした。
私は長らく、脳内に深く打ち込まれた辛い記憶に苦しめられずに生きられるようになれれば、と望んできました。
この時、「もしかすると現実になるかもしれない」と確信できたのです。
少なくともその一瞬、私は自分の「そうですか」という言葉で、「失敗は許されんとよ」という母親の声に混乱させられることなく、危険な交差点を渡り切ることができたのです。

  • 三つ目の出来事
いくつもの病気を抱えることになった摩耶と悠に対し、資金も時間も体力も限られた中で、出来るだけのことはしてやりたいと思いました。それは、99%くらいは実現できたと思っています。
しかし摩耶の最後にあたって、私には大きな心残りがありました。
亡くなる3日前の9月6日夜、タクシーで摩耶を動物救急センターに運びこんだとき、脳神経疾患を疑った獣医さんにMRI検査を勧められたものの、「10万円」という費用を聞いて尻込みしてしまったのです。
住まいの耐震補強に伴う仮住まいへの引っ越しなどなど、何かと出費のかさむ時期だったので、10万円という費用に対して「お願いします」と即決できませんでした。
摩耶は翌朝、いったんは起きて食事が出来るところまで回復しましたが、その後すぐ容体が悪化。二度と起き上がることなく、9月9日早朝に亡くなりました。
死後のMRI検査・CTスキャン検査・髄液検査で、死因は脳髄膜炎であること、脳にリンパ腫があり脊髄に転移していた可能性も高いことが判明しました(麻酔不要なので、頭部MRIと全身CTスキャン合わせて3万円でした)。
私は大いに後悔しました。なぜ、あのとき、10万円を惜しんだのだと。
脳と脊椎の状況が判明したからといって、大きな改善が見込めるわけはなく、せいぜい数日の延命が可能だった程度でしょう。
でも、そのせいぜい数日、意識のある摩耶に話しかけ、コミュニケートすることができれば。
今、身体の中で何が起こっていて、これからどうなるのかを話して聞かせてやることができれば。
摩耶の最後の何日かは、もっと幸せだっただろうに、と。

それから自責しました。
私は2014年度のほぼ一年間、「生活保護」というキーワードに関連して、二人の男性に苦しめられました。
一人は「生活保護詐欺」というべき悪質なタカり。実際に支出させられることになり、「返します」という再三の言葉にもかかわらず返されることのなかった費用は、直接の出費だけでも9万円に及びます。あの9万円が失われていなかったら!
(本件、ここに詳しい事情は書きませんが、いわゆる「不正受給」には当たりません。その期間、カネを出させた相手(妄想性の精神疾患ありと思われる)は保護廃止中でした。タカった直接の相手はその人の親で、日本人ですが日本には住んでおらず、もちろん日本の生活保護受給者でもありません。外国居住中の日本人に対する「生活保護を利用した都合の悪い家族の捨て方マニュアル」でも存在するのか? と思うほど巧妙な、居住地・現在地など生活保護の「ツボ」を知り尽くして突いているとしか思えないパターンでした。2015年2~3月に大変な目に遭い、ついで6月に「タカられた」が確定して以来、タカった相手への怒り・騙された自分への自責と嘆き・無理解から(なにしろ詳しい事情を語ることができませんので)私を責めた人々・私がリアルタイムで苦しんでいるというのに社会運動の論理でさらに追い打ちをかけてくる人々などへの怒りでいっぱいでした。しかし、激しい感情は、そろそろ収まってきました。来年前半には、この件をまとめて書く事ができるかと思います)

もう一人については、相手が10代のころから15年以上にわたる付き合いでしたが、もう、書きたくも思い出したくもありません。かつては良い友人関係にありましたが、最後は単なる搾取者でしたから。
もしも私が「自分は生活保護」「自分は精神障害」を理由にして時間・気力・体力を奪いつづける男性を、2014年度に自分に近寄らせていなかったら、金額換算で何十万円を得ることができていたでしょうか? 失った時間、それによって失った機会、それを取り戻そうとしての消耗を考えると、いまだ数百万円の損害を被っているのかもしれません。
(「こんなことを書くと人格攻撃してくるだろうな」と思い浮かぶ反貧困運動界隈の男性が何人かいるのですけれども、「もう勝手にしろ」としか思いません。その人たちは、私と家族の人生に責任を負っているわけではないし、負いたくても負えないわけですから)
私が愚かすぎて、ジェンダーというものに対して充分な注意を払わずに男性のメールに答えたり、男性に会ったりしたから、こんなことになった。
だから、摩耶に最後に充分に治療を受けさせてやれなかったんだ。愚か者め、愚か者め、愚か者め!
私はそんなふうに、自分を責め苛み続けていました。3ヶ月近くにもわたって。

でお12月3日、中国から帰国して。摩耶ねーちゃんが大好きだった瑠に再会して。
幼少のとき虐待から救出され、5歳までシェルターにいた瑠は、今でも人間を簡単には信頼しません。
一緒に暮らし始めて2年8ヶ月になる私も、数日に一度は触らせてもらえるかどうかです。
でも、ちょっとぎこちないコミュニケーションで、アイコンタクトで、再会を祝しあっているうちに。
「摩耶の最後に10万円を出し惜しむことになったのは、あの二人のせいだ。あの二人が、摩耶から最後の十分な治療と、最後の数日間を奪ったんだ。悪いのは、あの二人。自分を責めるのはやめよう」
という気持ちになり、
「そういうリスクをもたらす人との接触は、これからは最小限にしよう、人語を話せない猫たちに、しわ寄せが及ぶんだから。私が『猫のおかあさん』である以上、しなくてはならないことなんだから。私はまず、私を守らなくちゃ。どういう名目でも、私の安全や健康の脅威になる人は近づけず、脅威になってきたら全速力で遠ざかるようにしなくちゃ」
と決意しました。
摩耶と一緒に苦しみ、摩耶と一緒に吹っ切った気がします。

2015年12月6日、これから50cmほどの下降ジャンプを試みようとする瑠(7歳7ヶ月)。
私の出張中、過食気味だったようで、太っちゃってます。
適量のご飯にカーチャンがいる心の満足をプラスして、少し痩せてもらわなくちゃ。
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  • たぶん、まだまだ続くプロセス
なんといっても、18年3ヶ月という長い時間をともにしてくれた摩耶がいなくなった喪失感は、やはり多大なものです。
これからもまだまだ、私自身の回復のプロセスは続くのでしょう。
もうすぐ3ヶ月になろうとしている今のところを、とりあえず記録しておきます。 

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 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
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「生活保護リアル(Kindle版)」
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「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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