みわよしこのなんでもブログ : ALS

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


ALS

[雑感]病気で体調の悪い首相は、退陣しなくてはならないのか?

本日2020年8月28日、安倍晋三首相が辞意を表明したとのことです。理由は、病気による体調不良とのこと。自民党内部でも世の中でも、特段の疑問は示されていません。当然と受け止められています。
 でも私、「あれっ?」と思ったんです。それって当然?
 (本記事はnote記事の下書きを兼ねています)

  • 「わけあり」職業人を排除しない流れ
 まだまだ不十分ですけど、日本は「わけあり」職業人を排除しない方向に進んできました。
 職業人の前提が「男性・健康・18歳~65歳くらい・独身または専業主婦の妻あり」というものであったことは、日本社会からじわじわとパワーを奪ってきました。
 報酬は、仕事そのものに対するだけではなく、その人に扶養されている家族の分まで支払うことになります。社会保険料も。本人が中高年になるころ、家を購入したり子どもが高校や大学に進学したり、そこに親の介護が発生したりします。やたらとお金が出ていく時期を支えるためには、年功序列の高給を支払うしかありません。長期安定雇用が「定年まで会社のモデルに沿って勤め上げれば、家も買えるし、子どもを大学に行かせられるし、老後は年金があるし(これは怪しくなってますが)」という暗黙の約束だった以上、簡単に「今のあなたは、仕事に対して高給すぎるから、出ていけ」と言うわけにはいきません。
 専業主婦の妻を前提にしていると、「妻が働いていて2馬力だから、夫が失職してもなんとかなるだろう」というわけにはいかないし、妻の収入や納税を当てにするわけにもいかないし。
 自公政権と雇用サイドの都合だけを考えても、「男性ではない」「健康ではない」「健常ではない」「出産したり育児したり介護したりする」「高齢」「家庭や家族に対する責任を負っている」といった”わけあり”の人々を職業人の世界から排除することは、メリットが全然なくデメリットだけです。
 どちらかといえば自公政権のもとで不利な扱いを受け、雇用される弱い立場にある人々にとっては、なおさらそうです。
  • 障害のある国会議員もいる
 現在の参議院には、重度障害を持つ2人の議員がいます。「れいわ新選組」の木村英子氏と舩後靖彦氏です。2人は、リクライニング車椅子に乗って介助を受けながら国会議員の役割を果たしています。木村氏の障害は固定したものですが、舩後氏は進行性疾患であるALSを患っています。2人は、「健康かつ健常」というわけではない”わけあり”議員ですが、そうであることが議員としての存在意義の一部をなしています。障害や病気を持つ人々を当事者が代表しているわけですから。
 地方議会でも国会でも、障害や病気を持っている議員が当然の存在になり増加していくこと自体は、問題にできないはずです。もしも問題なら、「妻が働いていて家事育児を担わなきゃ」「出産と育児をしながら仕事はやめない」という議員だってアウトですよね? いずれは「閣僚の1人か2人は障害者または病人」という状態が当然になるのではないかと思います。

  • 「病気だから辞めなくてはならない」ということはないはず
 私自身は、安倍首相を全然支持していません。そもそも、辞める辞めないは本人が決めることです。しかし、「病気で体調が悪いから辞めるのは当然」だとは思いません。
 治療を受けながら、苦痛を緩和しながら、首相の仕事を続ける選択肢はあったはずです。立って歩行したり椅子に座ったりするのが苦痛なのなら、苦痛を緩和できる車椅子で仕事すればいいじゃないですか。国会にはちょうど、木村英子さんや舩後さんという大先輩当事者がいます。相談したら、大喜びで器具選びのアドバイスを提供するのではないでしょうか。
 一国の首相が、車椅子のような補装具をフル活用して介助を受けながら職務を遂行する姿は、決してネガティブなものではなく、むしろ「日本の多様性尊重はタテマエではなく本気です!!」というポジティブなアピールになることでしょう。問題は職務の内容ですけど。

 安倍首相には、「病気と体調から辞めるのが当然」と言うメッセージを発してほしくなかったと思います。2014年、第二次安倍政権下で、日本は国連障害者権利条約の締結国となりました。病気があって体調が悪くても職務を継続しようとすることは、この条約のコンセプトにも適っています。実のところ、実行する気はなく、仕方なく締結した条約なのでしょうけど。

 ともあれ、安倍首相にはゆっくり休養していただきたいものです。
 そして今後の閣僚や国会議員には、「病気だから辞める」「障害者になったから辞める」という選択は本来はしなくて良いものであり、ご自分がそのような”わけあり”議員になったからこそ、日本のあちらこちらにいる”わけあり”の人々を代表できるのだと考えていただきたいものです。

[雑感]京都ALS嘱託殺人に関連した記事や発言をしばらく読まない宣言

 2019年11月、京都市に在住していたALS患者の女性(当時51歳)を嘱託殺人した疑いで、2020年7月23日に医師2名が逮捕されました。
 それから1ヶ月が経過したわけですが、私は日に日に、報道や障害者団体の発言等の一部に耐えられなくなってきました。
 8月20日ごろ、記事や声明を見ていると苦痛で泣き叫びそうになり、「限界だ」と感じました。読むと心と精神をタコ殴りされ、口や手に見えない猿ぐつわや見えない手錠がかけられようとしているような気持ちになってくるのです。
 私は障害者です。「障害者だから言うべき」も「障害者だから言ってはならない」も、あってはなりません。しかし、期待されることを言わずタブー発言を口にすることは、「障害者としては生きていけなくなる」、すなわち生きていけなくなることにつながりかねません。そういう世界に自分が閉じ込められていることを、思い知らされつづけているのです。


理由1 報道が寄ってたかって介護者支援者像を作ってないか?

 報道が開始された当初から、「なんだか怪しい」と感じていました。世論が介護事業者やヘルパーの責任を問う方向へと流れないように、報道が先手を打っている印象を受けたからです。
 亡くなった林優里さんは、「死にたい」という思いやヘルパーによる苦痛を、ブログツイートに書き残していました。
 最初に「怪しい」と感じたのは、介護事業者など支援者側が、林さんのブログやツイートを「知らなかった」としているという報道を見かけたときです。「なぜ、わざわざ、そんなことを書くかなあ?」と思いましたよ。そもそも、不自然すぎる話です。
 役所の福祉部門も介護事業所等も、障害者や生活保護利用者によって自分たちの悪口が書かれていないかどうか、けっこう神経を尖らせているものです。

 私なんて、誰にも存在を話していない英文のブログに書いた杉並区障害福祉とのゴタを書いた3日くらい後、「そんなことを書くと、今のわずかな障害者福祉もなくなるぞ」と圧力かけられたことがありますよ。居住している杉並区の区役所ではなく、区役所が強引に押し付けた訪問医療の作業療法士からでしたけど。2007年から2008年にかけての話です。

 全くチェックしていないとしたら、危機管理の観点からいって、ちょっと問題ありそうに思えます。「サービスや制度の利用者に自分の悪口を書かれる」という恐れもあるでしょう。虐待やハラスメントなら、そういう書かれて困ることは最初からしなければいいんですけどね。逆に「組織や上司の目のとどかないところで、末端の従業員が何をしているかわからない」という恐れから、ある程度の”エゴサ”を行い、利用者が公開している文書をチェックするのは、非常に自然です。
 林さんの場合は、「京都市」「ALS」「24時間介護」「女性」あたりから、ブログやSNSアカウントを簡単に突き止められたはず。介護事業所との関係の中での救いのないストーリーを、結末が救いのないままながら希望のもてる書きぶりで締めくくっていたりするあたり、実際に起こっている虐待的な扱いをマイルドにしているように思える書きぶりなどから、介護者・支援者の目や反応を意識していた可能性が見受けられます。
 もちろん、メールやSNSメッセージのやりとりを介護者や支援者が知るのは、好ましくありません。ましてや安楽死の相談となると、林さんは見せない努力をして成功していた可能性が高いと思われます。
 ブログやSNSアカウントの存在や内容に関して、報道の数々に紹介された支援者や介護者の言葉は、非常に不自然な点が目立ちます。フツーの健常者は疑問を持たないかもしれないけど、障害当事者でありモノカキ稼業23年目の私を、煙に巻けるとは考えないでほしいです。そもそも報道が解禁されはじめてから数日間の記事は、締切時間とコメントが取られたと考えられる時間帯とコメントの主だけで「怪しすぎる」ものがいくつも。
 最大の疑問は、「なぜ、そんなことを?」「なぜ、ここまで?」でした。今もそうです。


理由2 なんのために、介護者や支援者の像を作らなくてはならないのか

 まず、「ケアマネの横暴やヘルパーによる虐待の可能性に注目されたくない」という至極当然の理由は、そりゃまあ、あるでしょうね。ただ、それは単純に「不適切な対応や虐待があったら都合が悪い」という話でもないと思われます。
 自分自身の記事でさんざん書いてきていますが、そもそも介護業界には深刻な人材不足があります。仕事と責任の重さに見合う給料じゃないですから。最低賃金よりは相当高いけど、コンビニやスーパーが人手不足から時給を上げれば簡単に抜かれる時給です。2019年は、1人のヘルパーさんを14.5件の求人が奪い合う状況でした。さらに、高齢者福祉よりも障害者福祉、障害者福祉の中でも医療的ケアを伴う分野だと、さらに深刻な人材難になります。
 ALSの介助は、特別な技術をいくつか身につけ、さらに各患者さんに個別対応する必要があります。しかし、長期にわたって腕を磨きながらキャリアを継続できる可能性もあります。私の直接知る範囲に、キャリアアップして介護事業所の経営に至った女性もいます。「介護は給料が安くて悪条件で不安定な仕事」という”常識”の例外を生み出しやすかった障害分野の一つは、ALSの介助だったりしました。ヘルパー資格を持っていない人の登用をやりやすくする仕組みも、長年かけて作られてきました。
 それでも深刻な人材難。厚労省の報酬削減の影響がないわけはありません。「人であればなんでもいい」という採用をせざるを得ない場面も増えてきているようです。それで「虐待があるわけない」と言われたって、信じられません。
 とはいえ、世の中や患者さんたちに「そんな介護を受けて暮らすしかないのなら、もう死んだほうがいい」と思われてしまったら、今までの蓄積まで失われてしまいます。24時間介助を受けて地域生活をする重度障害者を増やし、そのポジティブなイメージを広報していけば、人材難が解消されてヘルパーの質も上がるかもしれません。良心的な支援者たちや介助者たちが、それを何とか目指し続けようとしているのは私にも分かります。
 が、その路線に報道が沿い続けていいんでしょうか。広報ではなく報道であることの意義は、どこにあるのでしょうか。現状を伝えながら、ポジティブな事実もあることは伝えながら、しかし虐待の可能性に蓋をせず、介護や介助に関する構造的な問題を解決する方向に世論を動かしていく方向性はあるのではないでしょうか。
 私は、心ある報道陣の一部がそういう動きをしていると見ていました。それに期待していました。でも、今後も期待していいんでしょうか。「たぶん無理だろう」と絶望的な気持ちになっています。
 ALSの介助に関わっている数少ない介護事業所や支援団体や当事者団体は、取材にあたって情報源の中心にならざるを得ません。その意向に沿わない取材や報道は、「やってもいいけど出禁覚悟」ということになるでしょう。政治スキャンダルなら、ときには公益のために、信用させておいて裏切ることもありえます。しかし、このケースで「公益」とは? ALSの介護に関わっている数少ない事業所を減らし、虐待はするけれど仕事は一応するヘルパーを退場させると、「公益」どころではなくなるでしょう。しかしながら、障害者虐待の可能性に蓋をすることも「公益」ではないでしょう。




理由3 「死人に口なし」とは言うけれど


 私が報道に接することに耐えられなくなっていったのは、2020年8月5日の京都新聞記事『ALS女性嘱託殺人事件報道について、日本自立生活センター記者会見全文』を読んだ時が決定的な契機だったと思います。
 会見した障害当事者スタッフ3名のうち、大藪光俊さんと増田英明さんには直接の面識があります。私は、増田さんの言葉に、なんといいますか。立ち上がれないくらい打ちのめされてしまいました。

私たちは生きることに一生懸命です。安楽死や尊厳死を議論する前に、生きることを議論してください。

 私自身の記事での立場は一貫しています。今の日本には、安楽死や尊厳死を云々する前提がありません。なぜなら、「安楽生」「尊厳生」が無条件に保障されているわけではないからです。生きることに関する多数の魅力的な選択肢があり、どれも容易に選ぶことができ、それよりやや選びにくい位置に「安楽死」「尊厳死」があること。それが、明日も生きる選択の代わりに「安楽死」「尊厳死」を選択できるための最低条件でしょう。「生きる選択が事実上出来ないから死ぬ選択を」というのなら、社会全体で自殺幇助しているのも同然です。この点では、増田さんとの意見の相違はないと思います。

そしてヘルパーさんや経営者のみなさんにエールを送ってください。おねがいします。


 エールだけじゃ無理です。同情するなら人間らしい暮らしが営める報酬を。そういう経営が無理ゲーにならない環境整備を。もちろん、増田さんを含む日本の重度障害者たちは、そのために闘ってきています。しかし、この文は何のためにあるのか。次の文を読むと浮かび上がってきます。

安易に彼女の言葉や生活が切り取られて伝えられることや、そうやって安楽死や尊厳死の議論に傾いていくことに、警鐘を鳴らしてきました。いま私たちの間には静かな絶望が広がっています。


 林さんが書き残した程度も内容もさまざまな苦痛の数々は、そう安易に切り取れるものではありません。時系列的にも内容的にも、矛盾がありません。全体を踏まえながらどこかを切り取ると、「つまみ食い」になりようがありません。論理的に「だから生き続ける選択はなく、安楽死しかない」という結論が導かれます。私は、林さんのその明晰な思考を否定したいとは思えないんですよ。それはそれで尊重したいです。そして、「だから安楽死しかない」という結論を導く前提条件や仮定を突き崩したいです。というか、何があれば死ななくてよいのか、林さん自身が見抜いていました。介護報酬を高めること。他の仕事にも就ける人が誇りをもって介護職に就けるように地位を高めること。ツイートに繰り返し出てますよ。アケスケに書いてはありませんが、それで介護業界に「良貨が悪貨を駆逐」が起これば、解決になるでしょうね。実はリーマン・ショック後の2~3年間、現実になりかけていました。
 「虐待に甘んじていなくてはならないのはイヤだ」という林さんの魂の叫びが浮かび上がってくるような記述の数々を、なぜ、障害当事者や介護や支援に関わる人々が、よってたかって掻き消さなくてはならないのでしょうか。「死人に口なし」にしてしまうのでしょうか。そうなってしまう背景は、ある程度は分かるつもりです。それだけに、私は深く深く絶望します。

 私の仲間はこの報道を聞いて、自分がどうしていいのかわからなくなったといいました。支援者もこの事件や報道に傷つきながら、わたしたちを支えてくれています。


 福祉・介護・医療のパターナリズムは、障害者だけで話をするとき、「あいつら最悪」という形で語られることが多いものです。しかし障害者が抵抗して声をあげようとすると、うまいこと”回収”されてしまうんですよね。「私たちも、もう少し考えなくてはなりませんね」「私たちも、そういうお気持ちを理解できるようにならなくてはなりませんね」などと。
 私は「こういう言動がイヤだからやめてほしい」と言いたいだけです。それは膨大なリストになるようなものではなく、重要なものに絞れば10項目以下になりそうなものです。でも、それを聞いてもらえたことがありません。そういう話にしようとすると「その前に相互理解が」とか言われて、さらにすり減り、絶望して離れていくことの繰り返しです。あまりにも同じパターンが繰り返されるので、「相手が意図的に、こちらの消耗と絶望を誘起しようとしている」と考えるようになりました。
 増田さんの仲間の当事者の方の「自分がどうしていいのかわからなくなった」という言葉。私も、どうすればよいのかわかりません。でも、現状がおかしいのは、はっきりしています。このおかしな現状を変えなくてはなりません。

彼女のひとつだけの言葉をとって、安楽死や尊厳死の議論に結びつける報道は、生きることや、それを支えることにためらいを生じさせます。いまこの事件をしって傷ついているひとたちに、だいじょうぶ、生きようよ、支えようよ、あきらめないでと伝えて、応援してほしいです。生きていく方法は何通りも、百通りだってあります。ひとの可能性を伝えるマスメディアの視点を強くもとめます。

 
 増田さん。なぜ、そうなるのでしょう? 
 生きることに向かおうという方向は、私も同じくしているつもりです。
 でも、生きる方法や可能性を探る前に、苦痛を取り除かなくていいんですか? 
 少なくともご本人が虐待だと感じていて、読んだ私や友人の障害者たちが「これ虐待だよね」「これだったら私だって死にたくなる」と感じるようなことを、まず止めさせるべきではないのですか?
 そこに女性というジェンダーや、「にもかかわらず」の高学歴や過去の職業キャリアが絡んでいて、苦痛が除去しがたいものになっているとすれば、まず、女性であっても高学歴であっても職業キャリアがあっても快適に今を生きられるようにすべきなのであって、その阻害要因を除去するべきではないのですか? 
 現実の問題として、阻害要因を除去したら抱き合わせで支援が除去されてしまい、生きていけなくなるわけです。その現実に正面から向き合って環境を変えなければ、いつまでもこのままになるのではないのですか?

 私は、その可能性に向かうメディアの一員であろうとしています。
 が、毎日のように「これでもか、これでもか」と繰り返されるポジティブ重度障害者ライフキャンペーンに、ぶちのめされてしまいました。
 ポジティブ要因が悪いと言いたいわけではありません。虐待や差別といったネガティブ要因に蓋をせずにポジティブキャンペーンを展開することだって出来るはずだと言いたいのです。

私は疲れ果て、絶望しています

 ともあれ、私はぶちのめされてしまいました。
 ことさらに誇示されるかのような、ポジティブ重度障害者ライフの数々に。
 「安楽死上等」という意見だって人の意見であり、それも尊重してこその言論の自由なのに、「言ってはならない」と言わんばかりの識者の声の数々に。
 立場の弱い人の主張を支えて拡大する方向や、誰もが自分の言論の自由を行使出来る方向に向かっているとはいえない、本件の報道の数々に。
 虐待や差別や排除が「ある」という事実を認めて無くすのではなく、「つながり」「共生」「包摂」といった実体不明の言葉で明るい将来像が示され続けることに。
 絶望しました。疲れ果てました。
 しばらく本件から離れていようと思います。

[メモ]ALS嘱託殺人に関して報道されていないけれど気になることがら

いつものように、note記事の下書きを兼ねています。

 2020年7月に報道が開始されたALS嘱託殺人(発生は2019年11月)に関して、報道は概ね、以下の5点に集中しているように思われます。
  1. 容疑者の医師たちが異常
  2. 呼吸器をつけて明るく楽しく生きている人たちがたくさんいる
  3. 安楽死の是非、安楽死の議論を行うことに関する是非
  4. 周辺の人々(介助者や支援者など)の記憶や思い
  5. 亡くなった林優里さん(当時51)の人となり
 どうも、私には違和感があります。

1. 容疑者の医師たちは異常なのか?

 「死にたいなら殺してあげますよ」という人なら、恐らくいつでもいます。2017年の座間9遺体事件もそうだったし。1998年には、「ドクター・キリコ」を名乗る人物が青酸カリ入りのカプセルを通販し、実際に飲んで自殺した女性がいました。当時、SNSはまだ出現していませんでしたが、「自殺系サイト」は珍しくありませんでした。



2. 呼吸器をつけて明るく楽しく生きている人は確かにいるけど?

 呼吸器をつけて、大変ながらも楽しい毎日を送っている方々は、私の直接知る範囲に多数います。
 そのお一人である練馬区の橋本みさお(日本ALS協会相談役)さんは、身体の状況は亡くなった林優里さんと同様ですが、人工呼吸器を装着して大活躍。ヘルパーが痰の吸引をできるように制度を創設するなど、最重度の障害者が生きて暮らせるように社会を変えてきたお一人です。
 それだけではなく、派手で可愛い服に身を包んでアイドルグループの追っかけを楽しみ、時には高級レストランで胃ろうから美食とワインを楽しみ、犬のポンちゃんのしつけに苦労していました(ポンちゃんは高齢のため既に他界)。
 私の身体障害が発生したとき、ALSも疑われていました。どういう病気か知らなかったのでネット検索してみると、最初に見つかったのが橋本みさおさんの暮らしぶりでした。こんな楽しそうな暮らしが最悪の可能性なら、何を恐れる必要があるでしょうか。私はヘラヘラ楽観的になってしまいました。楽観的なので、障害や難病に嘆き悲しむ私を期待する周辺の人々との間に軋轢が引き起こされることになり、むしろ私はその軋轢に困惑したものです。
 しかし、橋本さんのような暮らしは、全身の運動能力を奪われた難病患者や障害者の全員に対して「当然の権利」として与えられるものではありません。自ら支援者や介助者を組織し、行政に立ち向かうことの出来る人々だけが獲得できるものです。まだまだ、例外的な少数の人々が道を切り開いて「既成事実」を作っていかなくては、現在は生きられている人々まで生きられなくなるのが実情です。日本の障害者の間では、「障害者は、生きるために障害者運動家にならざるを得ない」と言い伝えられてきました。程度の大小はともあれ、それは2020年現在も事実です。
 問題は、障害者運動家として生きる道を切り開いていく「例外的な少数」に入れない人々、あるいは、障害者になったために否応なく押し付けられる運命や宿命の数々が存在することを受け入れられず、したがって「生きることを諦める」ということになる可能性の高い方々です。「障害者になったら特別な何かをしなくては生きていけない」という現実は、私自身にとっても未だに受け入れがたいものです。適応しなくてはならない現実だし、適応してきたから今があるわけです。でも、それで良いとは思っていません。



3. 安楽死の是非、安楽死の議論を行うことに関する是非

 生の選択肢の一つとしての「安楽死」は、私は「アリ」だと思っています。だから、実質的に選ぶことも選ばないこともできるようにしてほしいと思います。「安楽生」は選べないけど「安楽死」なら選べるというのでは、消極的に自殺を奨励しているようなものです。
 ところが現在は、闘う障害者、せめて道を切り開くリーダー的障害者にならないと、「安楽生」どころか「生きる」ことが実質的に選べないわけです。この状況を変え、障害者になったら誰もが安楽に必要な支援と資源を得て楽しく生きられるように、そういう障害者たちが頑張っているわけです。現状がこのようである以上、多くの障害者にとっては、生きて暮らしながら享受する「安楽生」の数々の選択肢の端っこに「安楽死」という選択肢があるわけではなく、生きて暮らすだけで消耗する日常から降りたいと思ったら死ぬしかなくなるわけです。
 私から見れば、安楽死を議論する以前の問題です。現状も現実も充分に知られていません。安楽死を希望する障害者たちのSNSでの発言を見ると、確かに苦痛や不安に満ちています。最初にすべきことは、何がその苦痛をもたらしているのかを見極め、苦痛や不安を減らしたりなくしたりするために必要なもろもろを提供することではないでしょうか。生きることを容易に可能にするための議論は、安楽死の議論に比べて、あまりにも不足しています。



4. 周辺の人々の記憶や思い

 林さんが嘱託殺人によって亡くなった以上、周辺の介助者や支援者が林さんに「この楽しい人生を明日も生きたい」と思えるようなケアや支援を提供できていなかったことは、事実として認めるべきでしょう。
 何がどのように欠落していたのか。あるいは、どのように、あってはならない虐待などの出来事があったのか。その視点からの検証が、少なくとも現在までの報道には見当たりません。
 とはいえ、報道機関がコメントや参考情報を求める対象は、生きて道を切り開くALS患者さんや介助者や支援者や家族にならざるを得ないでしょう。ALSの介助に対応できる介護事業所やヘルパーさんは、非常に少ないという現実があります。これ以上減ると「現在は地域で生きて暮らせているALS患者さんが、施設にはいらざるを得なくなる」といった成り行きも想定されます。コメントや参考情報が、辛うじて支え合っている介助者や支援者や家族の小さなコミュニティからしか出てこないことは、どうしようもありません。せめて「そういうものである」と理解し、「実はどうなのか?」を照らし出せる別の誰かの視点からのコメントを添えるのが、現状では精一杯でしょう。



5. 亡くなった林優里さん(当時51)の人となり

 ご本人は既に亡くなっており、深堀りしても新事実が出てくるわけではありません。
 私から見ると、林さんにとっての障害者福祉の使い心地が大変気になるところです。日本の福祉制度の多くは、社会的弱者に対する「これだけは、してあげる」という恩恵的な発想から脱しておらず、「基本的人権を無条件に保障する」というものにはなっていません。林さんのような高学歴キャリア女性は、想定範囲に入っていません。制度の「あなたのような障害者は想定していない」という言外のメッセージは、林さんにとってどのように感じられていたのでしょうか。高学歴で留学歴もある専門職、しかも今はALS患者ということで、あまりにもマイノリティになりすぎてしまったゆえの苦痛はなかったでしょうか。
 周囲の方々は、林さんに気遣いをされていたけれども気づいていなかった可能性が高いと思われます。その方々から聞き取っても、おそらく何も出てこないでしょう。



障害者コミュニティの「外」の方々に期待しています

 「このまま、林さんご本人の声はヴェールに隠されたままになってしまうのか」と思っていた8月4日、江川紹子さんのご記事に、「おおっ」と思いました。Yahoo!ニュースじゃないから安心して読めて、助かります。

【ALS患者・嘱託殺人】亡くなった林優里さんの発信が投げかける、社会への重い課題

 私の「おおっ」を抜き書きします。

 難病に限らず、「死にたい」という言葉は、「生きたいのに生きられない」というメッセージでもある。今回のケースについても、「どうすれば彼女は生きられたのか」との議論が必要だろう。

 死への願望がある種のタブーにされ、亡くなった林優里さん(当時51)の声がメディアであまり伝わっていないのは、それはそれで気になる。彼女のSNSなどを読むと、同じ難病の患者などと対話をしながら、患者自身の“命の権利”を訴え続けていたことがわかる。今回は、その発信から、彼女が社会に投げかけた重い課題を考えたい。

 死への願望をタブーとし、困難ななかでも前を向いて懸命に生きる人ばかりが登場するメディアの報じ方には、いささかの疑問を感じている。それで私たちは、本当に課題の重さを感じ取ることができるのだろうか。

 林さんは最後まで精神的に自立した日々を送っていた。「安楽死」を望んではいたが、それは自分の生を主体的に生きることの延長線にあり、背景には「心の安堵と今日を生きる希望」を切望する思いもあった。

 抜き書きした部分からは、「障害者と介助者と支援者のコミュニティの中で障害者が生きざるを得ないことについて、江川さんは実は詳細を相当ご存知であったり、解き明かさなくてはならない謎だと思っていたりされるのかも」と期待したくなってしまいます。ブログとツイッターに残された林さんの言葉も、丁寧に読み込まれています。難病や障害の当事者の方々から、江川さんは早くも期待されているようで、「安楽死の法制化 江川紹子さんとつながる」というmixi日記に一端が示されています。

 障害者のコミュニティの外からの視線が、「前向きに生きれば道は開ける」と「安楽死は認められるべき」ばかりでは困ります。まったく外の立場から、障害者が生きて暮らすことの現状を明らかにし、「死にたい」を増幅する要因は何なのか明らかにする記事がもっと増えることを願っています。

[ニュースクリップ]2020年8月8日 東京新聞より

前回は2020年8月3日。5日も空いてしまいました。週イチでいいから習慣化したいと思っているニュースクリップです。note記事の下書きを兼ねています。

 本日の東京新聞朝刊(Web配信される紙の紙面データ)は、紙だからこそのレイアウトの妙が光ります。

  • 「ワクチン開発 焦り禁物 免疫学の第一人者 警鐘」と「検証・コロナ対策(第12回) 専門家押しのけ 宣言解除」(一面)

 日本政府の専門家軽視は、今に始まった話ではなく、新型コロナ限定の話でもありません。生活保護政策は、戦後ずっと、その時期の第一人者である研究者たちを集めて委員会や検討会を設置し、その意見をテキトーにつまみ食いして決定されてきています。
 それにしても、新型コロナに必要とされる対策の励行や経済活動への制約、そして直接間接の打撃の数々には、多くの方々が「疲れたよ、パトラッシュ」と言いたくなっていることでしょう。ワクチンには期待がかかります。特に政府は、大きな期待を寄せているようです。来年の東京五輪がかかってますからね。
 しかしコロナウイルスのワクチンに対しては、今年2月や3月あたりには、私の汁専門家たちから「本当に有効なワクチンは作れないのではないか」「有効なワクチンが出来たとして、コロナウイルスワクチンとインフルエンザワクチンの食い合わせになり、インフルエンザがワクチン接種で発症するとかいう救いのない事態にならないか」といった懸念がありました。そういう懸念を払拭すべく、医薬品の承認には然るべき手順が定められています。その手順をごまかしなく最短で踏むと、最短で2年かかります。ということを、免疫学の専門家中の専門家である宮坂昌之氏が語っています。
 その記事の真下に、連載「検証・コロナ対策」第12回があります。この連載は、毎日リード部分が第一面に掲載されており、今日が例外だったわけではありません。しかし、今日の内容は、安倍首相が緊急事態宣言を全面解除する可能性を5月21日に示したことに関するものです。専門家会議(当時)には「28日に判断する」と伝えられていましたが、専門家たちの意見を求めることもなく、経済面への考慮から前倒しして判断したわけです。その後、専門家会議は廃止され、経済の専門家を含む分科会が発足しています。

私見
 新しい分科会が政府協賛しかしないであろうという懸念は、どうも、そのとおりになりつつあるような。ため息をついて視線を上に動かすと、ワクチンへの期待に関する専門家の懸念がドドーンと目に入るわけです。関連づけて表示して読ませることは、Web媒体のほうが得意だと考えられていますし、実際にそうでしょう。しかし「これだけは、頭のどこかに必ず入れておいてほしい」という重要なメッセージを伝える場面では、いまだ紙の優位性が目立っているのではないでしょうか。パピルス以来、人間が手にとって持って目にすることのできる平面上の文字や図表や絵には、生き物としての人間に適するように鍛えられてきたアドバンテージがあります。


  • 連載「雪が落とした災い(第10回・最終回) 仮設暮らし 6年耐えた」と「除染土 覆土せず利用」(二面)
 連載「雪が落とした災い」は、福島第一原発事故で全村避難を強いられた福島県飯舘村の農家を中心とした苦難をつづってきました。2011年5月に避難が始まり、まずは福島市の公共施設に。専業農家の男性(現在76歳)は「やることがないのがつらかった」といい、その施設の草刈りを「やらせてもらった」ということです。放射性物質に汚染された畑で食糧生産を継続するわけにはいかず、メガソーラー用地として貸すことに。福島市と川俣町で畑を有償で借り、営農を再開。そのことで気力を取り戻せたといいます。仮設暮らしは2017年3月末で終わり、飯舘村に戻ってきています。しかし現在も「目の前に自分の畑あんのに、お金出して畑借りてんだ」。
 その下に、飯舘村の除染で出た汚染土の利活用に関する記事。これまでは、汚染されていない土で覆って、食用ではない作物(園芸用・燃料用など)限定で使用するという方針でしたが、環境省が方針を転換し、食用作物に使用するための実験を既に始めているということです。汚染土を覆わず直接、というパターンも試されているとのこと。環境省の未公開文書から明らかに。文書は、龍谷大教授の大島堅一氏が行政文書開示請求で入手。

私見
 福島第一原発事故の直後から、「放射性物質は薄めて流して広げて、福島第一原発の周辺だけが特別というわけではないということにするってか?」と懸念していました。「そういう意図がなければ、やらんでしょ」という対処のオンパレードでしたから。除染も、「あれは除染ではなく移染だ」と言われていました。今度はそこで、食糧生産ですか。作物から放射能が検出されたとき、苦しむのは農家の方々なんですが、補償は考えられているんでしょうか? 福島第一原発事故は、まだ全然「終わった」といえる状態ではありません。引き続き、関心が必要です。2面の上下に並んだ2つの記事に、そう思わせられます。


  • 「売却圧力 TikTok苦境 取引禁止へ 米大統領令」と「バイデン氏も『核なき世界へ』 オバマ氏の目標継承」(三面)
 こちらも紙ならではのレイアウトの妙。バイデン氏の記事は小さめであるにもかかわらず、11月の米大統領選が迫る中での米国の状況がよく伝わってきます。

私見
 個人的には、かなり要注意の「レイアウトの妙」。トランプ大統領が再選される可能性は、かなり低くなってきているとはいえ、米国内の白人を中心に「中国のせいで(アジアンのせいで)自分たちがワリを食っている」「オバマのせいで損をさせられた」という感覚は根強いです。その感覚が刺激される出来事が何かあれば、大統領選は本当にどう転ぶかわかりません。東京新聞の読者層の多くは、どちらかといえば「トランプ大統領に再選されてほしくない」と思っていることでしょう。「だからこそ、情勢判断を誤らないための情報がほしい」と私は思います。元・半導体屋としては、ICT技術の弱点が際立ってきた感もあります。情報産業は、半導体のような巨額の設備投資やランニングコストとは無縁です。そこが急成長や寡占のカギでもありました。しかし実体のあるモノやデバイスのような囲い込みは出来ないわけですよね。「なーに、必要なら結局は買われるよ」という成り行きにはなりにくい分だけ、政治力に弱いのかもしれません。

  • 酒井順子の3冊の本棚(読書面)
今回の3冊は、日本の歴史的「女帝」たちに関する1冊、有吉佐和子『開幕ベルは華やかに』、そしてミステリーの女王こと山村美紗に関する1冊。

私見
 酒井順子さんの視野の広さと深さに唸りました。数々の作品が、いかに表層的に見えても広い背景と深い奥行きを含んでいることの秘密の一端かもしれません。有吉佐和子さんは晩年、タモリ「笑っていいとも」にゲスト出演したとき番組ジャックに近い状況となり、「サワコル」と皮肉られる中で亡くなりました。その事実を書籍等に残している橋本治さんも、既に亡くなられています。日本では結局、女性は日の当たるところに居続けられない現実があることを認めざるを得ないように思われます。酒井さんは、このコラムでジェンダー問題について声高く述べているわけではないのですが、日本で女として産まれて生きることの苦しさ、日の当たるところには所詮居続けられない運命に逆らうことの困難さは、抑えた筆致から浮かび上がってくるように思われました。


おまけ。


  • ひもとき時事ワード「安楽死」(みんなのニュース)
すべての漢字にふりがながあるキーワード解説。7月に明らかになった、2019年11月に発生したALS女性への嘱託殺人容疑を取り上げ、安楽死を「助かる見込みのない病人を、本人の希望に従って、人の手を加えて苦しみの少ない方法で死なせること。日本では認められていません」と解説しています。

私見
 その上には、食糧危機への対応策としての昆虫食に関する詳説があります。たぶん、食糧危機と安楽死を結びつける意図はないのでしょう。でも、ギクっとします。「食糧危機なので高齢者や障害者を死なせて食い扶持を浮かせる、あるいはその人々を食糧などの資源にする」というテーマは、フィクションで繰り返し取り上げられています。また、過去の現実であったりもします。ALSを「助かる見込みのない」病気とすることには、私は抵抗があります。ALS自体は現在のところ治りませんが、快適に長く生きて活動を続けることはできます。日本は、それについては世界のトップレベルの実績を持つ国でもあります。「安楽死はあってあたりまえだ」という安易な誤解を日本に定着させないように、ぜひ、別記事でフォローしていただければと思います。


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 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
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「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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