博士号取得へのチャレンジ(2回目)が始まって、1ヶ月が経過しました。
大学院受験の結果が出た昨年9月から研究はぼちぼち開始しています。といいますか、仕事のための取材は概ね、研究のフィールドワークでもあります。
3月末から心身とも調子よくない状態が続いてるので、仕事はちょっと減速しつつ、社会学の教科書を持ち歩いてヒマがあれば開いてます。「とにかく、基本概念はまず全部頭に叩き込んでおかないとダメだろう」と思うのです。
人名や用語を、意味や関係とともに記憶するのは、そんなに難しいことではありません。それらを道具として「使える」ようになるのも遠い将来ではないでしょう。
約30年にわたり、私は仕事の一部または全部として「ノンフィクションを書く」を続けてきたわけです。社会学は「ノンフィクションを書く」と非常に親和性の高い学問分野でもあります。教科書で新規に学ぶ手法や概念の多くは「あ、これ、私使ってた」「あ、これ、私が考えてた」でもあります。

しかし。
関心ある外野としての立場で見ていた社会学と、「中の人」としての社会学は、まったくの別物でした。

自然科学や、自然科学の応用としての技術は、
「この方法は、この範囲で確か」
「ここまでは分かっている」
の積み重ね+α です。
もちろんそれは、社会科学とも共通しています。
しかし社会科学ではどうも、「方法」「範囲」「確かさの評価基準」「『ここまで分かっている』とできるかどうかの判断基準」のどれも、そんなに明確に定められない場合の方が多いらしい……。

当たり前です。そもそもの対象が、「人間の社会」という極めて複雑で形の定まりにくいものであるわけですから。
そんなことは、「中の人」になる以前から知っていたはずのことです。
しかし、現在は正直なところ
「なんだか気持ち悪い、めっちゃくたびれる」
と感じています。
異文化を知ることと、 その異文化の「中の人」となって適応することは、無関係ではありません。でも「知ることができているから適応もできる」あるいは「適応が出来てるから知っていると言える」は、いずれも成り立ちません。
おそらく現在の私は
「社会学について知っているけれども、 適応はできていない」
という段階にあるのでしょう。 

一般的に、
「理転は難しいけど、文転は難しいことではない」
と考えられています。私もそう思っていました。
今は
「その人が理系の勉強に適応できるかどうかに関する問題を除くと、理転より文転のほうが難しいのではないか」
と思っています。
「(理系とされる)A分野で、Bという職能を持った人になり、Cのような場でDという成果を挙げるにはどうすればよいか」 
は、比較的明確にしやすいと思います。実行できるかどうかは人にも状況にもよりますが、「A分野」「Bという職能」「Cのような場」「Dのような成果」をイメージ出来ない場面は少ないと思います。たとえば
「発生生物学分野で、研究と研究マネジメント能力を持った研究者になり、理化学研究所に就職して、ノーベル賞を獲得する」
は容易に実現できることではありませんし、「実現のために何をいつまでにどうすればよいか」を全部明らかにできるわけでもありません。でも、これらに関する情報源が新聞・週刊誌・TV番組に限られている方々にも、イメージはできるでしょう。

文系とされる分野では、理系とされる分野に比べてイメージが作りにくく定めにくいと感じます。
ゴールのイメージを作りにくいからといって今日の一歩を進めなかったら、永遠にゴールには到達しない。
今日の一歩がゴールに本当に近づく一歩なのかどうかを、今日判断することはできない。
なんとも気持ち悪い状況です。 
そして、私にとっての「文転」の最初のハードルは、この気持ち悪さに適応することであるようです。