4月から、進学や就職をきっかけに一人暮らしと自炊を始めた方も多いかと思われます。
自炊を始めて一ヶ月足らずの時期にできることは、その方の生活スタイル・それまでに蓄積した生活スキルなどに大きく左右されることでしょう。
本エントリーでは、 「クックパッド」をはじめとするインターネット上のレシピ・一般的で比較的安価な料理書からスタートして、自炊初心者が料理の腕前を短期間で向上させる方法について書いてみたいと思います。
  • 腕前向上のための超簡単な方法:味見回数を5~10倍(自分比)にする
どれか一つ、スタート地点とする料理とレシピを決めます。自分の好物料理を選んでください。
スタート地点とするレシピは、「クックパッド」でも書籍でも、誰かに教えてもらったものでも何でもかまいません。自分が無理なく「面倒くさい」と思わずに作れそうなものを、定評あるレシピの中から選びます。
「クックパッド」には「玉石混交すぎる」という難点はあるのですが、一定数の「つくレポ」があって何人かに「リピします」と書かれているレシピならば、大きな問題はないでしょう。
道具は、今、必要最低限と思われるものが揃っているのであれば、何かを新しく揃える必要はありません。「包丁を研ぐ」などの手入れを改めて行う必要もありません。 ただ、箸5膳・スプーン5本くらいが余分にあると便利です。ごく安価だったりタダでもらえたりする割り箸・スプーンでかまいません。スプーンはなるべく金属製がよいのではありますが、樹脂のスプーンでかまいません(耐熱温度は確認しておいたほうがよいかも)。

まずは、レシピ通りに作ってみます。
ここで私が提案したいのは、
「一行程ごとに、ちょっとだけ口に入れてみる」
ということです。 
つまり「味見をする」ということですが、私がお勧めしたいのは、味見を通常考えられる数倍の頻度で行うことです。
たとえば、
「濃縮めんつゆを3倍に薄めて調味液を作る」
とレシピに書いてあるのなら、濃縮めんつゆ段階・3倍に薄めた段階のそれぞれで口に入れてみます。その濃縮めんつゆの味の特性を把握し、この場合の塩分濃度やダシの濃さの「ほどよい」とはどういうことであるかを考え、最終的に出来上がった料理への影響をモニタリングするためです。一回ごとに水を飲んで口の中を「リセット」することをお忘れなく。
カレーを作るために
「タマネギを刻んで炒める」
というのであれば、刻んだ生タマネギ・1分炒めたタマネギ・2分炒めたタマネギ……炒め上がりと考えられるタマネギを少しだけ口に入れてみます。すると、刻み方や火の通し方による影響が分かります。
この「段階的味見」を、その料理の最終工程まで行います。
「弱火で煮込むこと30分」
を含むレシピだったら、煮込む前と後の味を見ておきます。ついでに、煮込まれる肉なり魚なり卵なりの表面を、煮込み前・煮込み後のそれぞれ、割り箸で軽くつっついてみましょう。すると、表面の固さや弾力がどう変化するのかに関する情報を得ることもできます。ちなみに私、焼き魚の振り塩やステーキの塩コショウも、焼く前に魚や肉の表面をちらっと舐めますよ。自分が作って自分だけが食べる場合に限定ですけど。
ただ、味見一回あたりの量が一般的な味見の場合の量だったら、独り者の一食分のおかずは、完成する前に簡単に消滅してしまいます。だから、一回あたりの味見は「お箸の先で野菜みじん切り1切れ」「スプーンの先で調味液や汁を1cc以下」という感じで行う必要があります。少量を確実に取るためには、箸やスプーンが必要です。味見のたびに箸やスプーンを洗っていたのでは面倒くさいし、乾燥しきってない箸やスプーンの水気が加わると味見にならなくなったりしますので、「箸とスプーンは余分にあったほうがよい」というわけです。

この「細かく味見」を習慣づけると、たいていは自動的に料理の腕前が上がるでしょう。
最初に選んだ大好物を、繰り返し作ってみたくなります。前回「これでいいのかな?」と思ったポイントを改良して試してみたいと自然に思うでしょうから。それを繰り返していれば、最初から大好物であったものが、さらに美味しく作れるようになります。時間もかからなくなっていきます。「これは省いてもいい」「これに関しては包丁でのみじん切りではなく、ミキサーでガーッとやっても仕上がりには響かない」「加熱に入ったら◯分間は大きな変化はないので、タイマーかけて他のことやっていようっと」「材料の一部を取り分けておいて、弱火煮込み段階でポリ袋に入れて参加させて別の料理を」などの工夫が、半自動的に行われるようにもなるでしょうから。
平たく言えば、「PDCAサイクルを回す」ということです。義務だから回させられるのでも、良い社畜であることのアピールのために速く回したいと思っているふりをするのでもありません。ただ楽しいから、面白いから、美味しいから、回せるときに回したいように回す。この繰り返しは当然のことながら、その料理を作る手際や出来上がりを向上させます。
その向上のプロセスに、数多くの「おまけ」がついてきます。自分自身に料理の地力がつくということ。
まず、料理書から得られる情報量が多くなります。同じ文章・同じ写真を見たときに「何をどうすればそうなるのか」が理解しやすくなります。
「食べたことのない料理を、文字と完成写真だけを手がかりにして作ってみる」
という場面でも、少なくとも食べられるもの・極度に不味くはないものが作れるようになります。
たとえば柴田書店のプロ向け料理書(買ったら高いけど図書館で読めます)のレシピを、ひとり暮らしや数人での「家飲み」向けのレシピに読み替えることも容易になります。10人前のレシピを1人前に置き換えるとき、単に量を1/10にしただけでは似て非なるものしかできないわけです。どこをどうすれば本質を変えずに仕上がり量だけ変え、肝心なポイントは外さず、自分の事情に合わせてアレンジできるのか。そのための「道具」は、
「アレをコレしたらソレになる」
という細かな因果関係の組み合わせ・重ねあわせが数多く「保存」されており「この場合の組み合わせ最適」を見つけ出すことのできる自分の脳と、可能な範囲で再現できる自分の手(または、他人に行ってもらうための自分の口)しかないと思います。

  • 「細かく味見」法にたどりついた経緯
進学で東京に出てきたときに住んでいた大学近くのアパート(6畳+半畳のキッチン、風呂なしトイレ共同)のすぐ近くに、新宿区立中町図書館がありました。そこに、津村喬「ひとり暮らし料理の技術」があったんです。偶然手にとり、あまりにも面白いので借りて読み、のちに購入しました。名著ですが絶版。

 この本は、料理の「食文化」という側面が「ひとり暮らしの自炊」というテーマを通じて幅広く解説されているのですが、「何を何グラム」といった分量の解説は皆無に近いんです。著者のポリシーとして記載しないということでした。
私は掲載されている料理の数々を読んで「なんと魅力的な」と思い、実際に作ってみようとしたんですが、失敗したり「食べられるものは出来たけど、これはその料理そのものなのか?」という疑念が湧いたり、でした。
そうこうするうちに、「ひとり暮らし料理の技術」で紹介されていた、辰巳浜子「料理歳時記」を読んでみる機会がありました。この本は現在も新刊で入手できますし、Kindle版もあります。
辰巳浜子さんは、昭和30年代~40年代に活躍された料理研究家で、料理研究家の辰巳芳子さんの母上です。

「料理歳時記」を読んだ大学1年の私、「ひえええええええええええ!」とぶったまげました。ご飯や味噌汁やお浸しや焼き魚といったものに、一つ一つ深い情熱を傾ける人がいたという事実。その情熱の目的は、料理研究家として世に出ることでもなんでもなく、動機は「家族(+お客さん)に美味しいものを食べさせたい、家庭を喜びで満ち溢れさせたい」ということであったらしい、ということ(結果として世に出たのではありますが)。伝統を大事にしつつもハイテク(冷凍庫←昭和20年代の話です)は積極的に導入する超合理性。アウトプットを最良最高にするために大切にされるプロセス。辰巳さんは決して「手段の目的化」をしません。真似する気にもなれない手間暇をかけ、これ以上はないほどの真心は込めていますけど、「手間暇」「心を込める」が目的なのでもなければ、そこを評価されたいというわけでもなく……。どの一つにも驚嘆しました。家事、料理、主婦業といったものを、才能と志ある人は、そこまで高めてしまうわけです。さらに「高める」が本人の心がけや家族の幸福感で終わったというわけではなく、夫君の生産活動を支え、社会で何らかの生産を行うことのできる子どもたちを育てたうえに、後には自らの料理も評価されているわけです。「おいしいね」という言葉や家族の笑顔だけではなく、経済的に、金銭という形で。なにしろ死後40年近くにもなる現在、まだ売れ続けているご著書が何冊もあるという事実。
こんなことを書かれたら辰巳さんご自身は不快になられるかもしれませんが、この方は生涯に、いったいどれだけの経済的生産を行われたのでしょうか。ご著書のセールスだけでも大変な金額になっているでしょう。その達成の前提となったのは「恵まれたご家庭に育ち、適切な教育を受け、良家に嫁いだ」という幸運ではありますが、「費用対効果」が非常に大きい方だったことは間違いないかと思われます。どういう偶然が重なったら、ここまで費用対効果が大きくなるのかは分かりません。才能と志が素晴らしいものであったことは感じますけれども、それだけではないように思われます。最も重要だったのは、原家族での育てられ方、生育環境、受けた教育でしょうか。私立の高等女学校に通っていたこと以外は、特別にお金のかかるものではなさそうに思えますが、「生まれてから18歳まで」というタイミングに大きな意味があったのは間違いないでしょう。そのタイミングをのがした場合、あとで補いがつく可能性はあるでしょうか? あるとすれば、どうやって……? 本当に、いろんなことを考え始めるきっかけになる本でした。
この本は、「職業って何だろう? キャリアって何だろう?」と考え始めるきっかけにもなりました。私が職業を手放さずにきたこと、職業を継続できていることの根には、「料理歳時記」に学んだ職業観・キャリア観があるようにも思えます(ただし、昭和の高度成長期の専業主婦のほとんどを、私は職業人とは考えていません。彼女たちの家事を「キャリア」とも考えていません。「主婦業も立派な仕事」という言い回しには警戒を怠っていません。念のため)。
この本には一つだけ、大きな問題点がありました。読んでも「実際にやってみよう」というモチベーションが沸かず、むしろ萎えることが多いのです。心がけも考え方も手順の一つ一つも、あまりにもハイレベルというか面倒くさすぎて。料理好きな専業主婦・主夫の多くにとっても、おそらくはそうなのではないかと思います。まして、昼も夜も職場や大学で過ごしている勤労学生だった私に実行可能そうなことは、片手で足りるほどしか見いだせませんでした。
私は大学のすぐそばに住んでいましたから、「職場帰りに買い物をして、いったんアパートに帰って軽い夕食を食べ、明日の朝食の下拵えをしてから大学で授業に出る」が可能な日もありました。勤労学生としては恵まれた条件にあったと思いますが、それでも「料理歳時記」は「こんなこと、実際に出来るわけがあるもんか!」の連続でした。私は幼少時から料理を自然に覚え、習慣的に行って(というかやらされて)育っています。漬物・梅干し・味噌といったものは家で作ったり、作った方に分けてもらったりするのが当たり前という環境でした(お店で買えると知って驚いたのは10歳くらいの時)。20歳時点での料理スキルは、同世代の中では、偏差値でいえば確実に75以上だったでしょう。それでも、「料理歳時記」の記述のほとんどは「出来るわけがあるもんか!」だったんです。
最も驚かされたのは、数え年17歳の辰巳浜子さんが白和えを作り始めたときのエピソードです。「白和え」という料理一つをものにするために、少女といってよい年齢の辰巳さんが何をなさったか。ぜひ、「料理歳時記」でお読みください。

私は「この人の真似はできない」と思いました。「私は物理屋になろうとしているんだから、この人のようになれなくても別にかまわないんだし」とも思いました。人生の最初に見た白和えのレシピが、辰巳浜子さんの「究極」といってよいレシピだったことは、私から「白和えを作ろう」というモチベーションを失わせてしまいました。半端に作ったって「まがいもの」しか出来ないんだから、とモチベーションが萎えてしまったのです。「料理歳時記」を読んで以後、一度も白和えは作っていません。それどころか、「料理歳時記」に書いてあるとおりに何かを作ったことは、ほとんどありません。ちょっとしたコツのいくつかを取り入れるのが精一杯でした。
でも、この本は深いところで、私の何かを変えてしまったようです。

いつの間にか私は、味見を細かく行うようになっていました。
当時も今も、料理には時間はかけられません。体力気力がないときには、時間がない上に、やることが雑になります。しかし、時間も体力も気力もない中で「今できるベスト」「今できる『ちょっとだけマシ』」を追求することならできるだろう、と思ったんです。
そのために必要なことは、「今、何が起こっているのか」を知っておくことでしょう。味見を細かく行うことは、特に面倒くさくも苦痛でもなく、疲れることでもありません。辰巳さんの「白和え」の取り組みを爪の垢ほどでも取り入れてみるかと始めてみたら、面白くて楽しいので、ごく自然に習慣になりました。
それを積み重ねて、30年経ちました。
「中間データを可能な限り細かく取る」は、実験でも重要です。大学2年から実験を職業にしていた私は、そのノウハウも自炊料理に惜しみなく投入しました。キッチンサイエンスの成書・科学的知見を盛り込んだ料理書に接する機会があったら、自分が日々やっていること・舌や指先で得た「データ」の数々と頭のなかで突き合わせてみました。結果は、次回に自然にフィードバック。
この繰り返しは、基本的には楽しいことでした。そして余裕のあるときに「楽しんで」おく積み重ねで、疲れているとき・本当に時間のないとき・ロクな道具がないときに出来ることのレベルが上がっていきました。これもまた楽しく快適なことでした。なにしろ食べて旨く、身体にも悪くないわけですから。
残念ながら、料理に関しては記録をほとんど残していません。あまりにも日常的なことなので、わざわざ記録してみようという気にもならなかった……という理由もあります。専攻が同じ男性の先輩・同じ仕事をしている同僚と付き合っていたり半同棲していたり事実婚していた時期が、通算15年ありました。料理という「女性的」なことに取り組んでいる姿を男性に見せたら、「やっぱり女性だから」と軽蔑される……という危惧もありました(相手の選択を間違えていたのかもしれませんが)。読んだ論文・やった研究については、同居男性がそこにいても、神経質なくらいノートつけてました(ただし相手のプライドが傷つかない程度に配慮しつつ)。それは「私はこの仕事を手放さないからね、あなたには『手放せ』という権利はないからね」という無言の主張でもありました。
料理について書籍を読んだりノートをつけたりすることは、少なくとも「男性の前でやる」はやりたくありませんでした。料理の記録を若干とも残せるようになったのは、パソコンを所有するようになって以後の話です。電子データだったら、紙のノートよりは安全ですから。
それでも、漬物や梅干しはノート作ってました。年に1回~数回しかやれないわけですから、繰り返して「前回よりマシ」にしたいと思ったら記録が頼りです。それなりの手間暇をかけて、不味いもの・食べられないものが出来たら悲しいです。それに、限られた手間暇でも少しでも旨いものを作りたいですからね。
ああ、毎日の料理での試行錯誤の数々をノートに記録していたら、もっと大きな発展があったかもしれなかったのに。残念。

今の私は自分の自炊に対して、「料理の食味そのものについては100点満点の85点くらい、総合点では100点満点の65点かな」と考えています。食味については、自己ベストからの減点。総合点の減点ポイントは、台所や用具・道具のマネジメント、盛り付け・見た目などについてです。
「私は、辰巳浜子には絶対になれない」
と諦めた20歳大学生女子、30年後にも大した高みには上れていませんが、小高い丘の上には到達できたかなあ? と思っています。

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