私が作った味噌汁を、母親が「まずい!」と言ってひっくり返したことがある。1983年。私は19歳だった。目撃者はいなかった。数分違いで食べた他の家族は、同じ味噌汁に対して、特に何も言っていなかった。母親にだけ、特製の美味しくない味噌汁を出したわけでもない。母親は、勝ち誇ったような嬉しそうな表情を浮かべていた。私は、嘆きも悲しみもしなかった。毎度のことだ。

 現在の私の住まいには、もろもろの都合で、母親が味噌汁をひっくり返した現場と同じ配置、同じような日照条件となる場所がある。日中、その部屋のその場所に行くたびに、私は母親の「まずい!」とひっくり返された味噌汁を思い返す。思い出したくて思い出すのではない。記憶のほうから勝手に出てくる。忘れたいのに忘れられない。トラウマ記憶とはそういうものだ。



 ところが2ヶ月ほど前、2020年7月、大きな変化が起こった。

 その場所で、私が母親の「まずい!」と言う声と、勝ち誇ったような嬉しそうな表情と、ひっくり返された味噌汁を思い出すことは変わらなかった。しかしその時、ひっくり返されて椀の中からこぼれ出た味噌汁が、竜巻に巻き上げられたように浮かび上がり、母親の頭の上から降り注いだ。

 私は「えっ?」と驚いた。まあ、物理としてあり得ない話ではあるんだけど。その日から、私の中に少しずつ変化が起こりはじめた。

 母親はじめ原家族から受けたことは、今のところ「言われっぱなし」「やられっぱなし」「泣き寝入りさせる」でしかない。幼少のころ、さらにそれを引きずって成人後も現在もそうである私としては、「せめて、なかったことにしないことができる」という希望を見出したい。それは、たった一つだけ私に残された、原家族に関する希望である。

 でも、私が「なかったことにしない」という現実を作ろうとすると、原家族によって、あるいは原家族の影響が濃厚な何かによって全力で潰された。原家族にはもちろん、なかったことにしなくては都合が悪いという現実があるだろう。

 私も、最初からそんなことはされなかった過去を望んだ。もしも、望んで叶うものなら。でも過去は変えられない。過去にその事実があったこととその影響自体は消せない。誰かの都合で、なかったことにされるかどうかは、また別の話。

 私が最初からそんなことをされなかった過去とは、両親はじめ原家族が私にそんなことをしなかった過去である。でも両親は、私の記憶にある限りは55年前(私が2歳のころ)よりも前に、今となっては「なかったことにしなくては」と必死にならなくてはならない現実を作る道を選んだ。

 これは戦争なのだ。私は生まれて物心ついたら、両親が作った戦争に巻き込まれていた。好きで巻き込まれたわけではないが、勝たなければ生き延びられない。でも、勝ち目はない。どうせ負ける。生まれて来ないほうがよかった人生の「生まれて来ないほうが良い」度が増すだけだ。負けがひどくなるだけのなら、損切りしなきゃ。自分が死ぬことによって。ずっとずっと、そう考えていた。客観的に「それは違う」と言える変化は、少なくとも私が知る限り、何もない。

 両親にとっても、事情はおそらく似たりよったりだろう。55年前に止められず、その後もエスカレートを止められなかった。今となっては隠蔽するしかないのだが、当事者である私は絶対に応じない構えを示し続けている。こうなったら私を消すなり潰すなりするしかないのだが、私は全力で抵抗を続けている。両親の真意や心情は推測するしかないのだが、ここで停戦したら、過去少なくとも55年分のすべてが無駄になるのかもしれない。勝ち目があろうがなかろうが、私を消して潰すことに全力を尽くすしかないのかもしれない。

 私は抵抗を続けてきたが、正直なところ、「両親の思い通りにならない結末がありうる」と考えたことはない。相手の方が圧倒的に優勢だ。人数だけで言っても、両親と弟妹で4人。最初から4対1の負け戦だ。その後、弟妹の配偶者とその社会的地位と経済力などが加味され、さらに両親側が優勢になった。弟妹夫妻の子どもたちは成長し、いまだ未成年ながら、さまざまな輝かしい活躍をしているようだ。もう絶望的だ。親を選んで生まれたわけではない甥たちに対して何かをしたいとは思わないが、私は自分と自分の人生と自分の猫たちと暮らしを守りたい。でも、どうやって?

 今でも、客観的に私の不利が減ったという事実はない。でも2ヶ月前、約40年前の記憶の中の母親がひっくり返した味噌汁は、空中に飛び上がって母親の頭に降り注いだ。それは私の脳内での出来事に過ぎないけれど。

 その次の日も、さらに次の日も、私は同じように母親と味噌汁を思い出した。そして味噌汁は、同じように母親に降り注いだ。日を重ねるごとに、母親の表情が変わっていった。勝ち誇ったような嬉しそうな表情は、頭の上から味噌汁が降り注ぐと「まさか」「なぜ」「どうして」という驚きと悲しみへと変わるようになった。

 私は驚いた。おそらく、私の知る範囲の現実として、原家族のメンバーが私に対してしてきたことに向き合うことはないだろう。自分たちが正義であり、私には何をしても許され、何もかもを「なかったこと」にできる。都合が悪ければ、私をさらに踏みつければいい。ずっとそうしてきた、それしか出来なかった人たちが、同じ相手に対して違うことを始められるわけはない。私も、その可能性には全く期待していない。

 しかし、もしかすると、原家族からのもろもろを「なかったこと」にされず、その懲罰として消されたり潰されたりすることもない今後が、私に訪れるのかもしれない。
 根拠はないけれど、ぼんやりした希望を抱くことができるようになった。