私は1990年、修士課程を修了して電機メーカーに就職しました。絵に描いたような「バブル入社」です。
1988年、学部を卒業したときは、女子にとっての就職はそれほど容易ではありませんでした。
私は「公務員試験を受験して国立研究所に就職する」「ベンチャーに就職する」といった数多くの可能性を考えながら、修士課程に進学しました。
教員免許を取得していましたから、「教員になる」という選択肢もありました。 当時、教員採用は今のように難関化はしていませんでした。1年ほど腰を据えて受験勉強すれば受かるだろう、という感じでした。修士だと若干有利だったかもしれません。
そんな風だった私が、大手電機メーカーに就職してしまったのは、まったくバブルのおかげとしか言いようがありません。修士課程に進学してまもなく、メーカーは深刻な新卒採用難に陥り、女子・下宿・二浪・しかも修士の私にまで「来ませんか?」とお声がかかるようになったのです。
私は、電機メーカーに就職することにしました。企業の研究部門で生々しい現実にまみれて働くことは、やはり魅力的でしたから。 

どの電機メーカーも、新卒を採用するために
「女性も活躍できます」
「産休も育休も取れます」
といったアピールに必死でした。
私の就職した電機メーカーも、1990年に
「女性社員が結婚して姓が変わっても、旧姓を利用してよいことにします」
ということになりました。
それだけではありません。
「外国人も歓迎です、宗教的バックグラウンドに対しては配慮します」
と、ムスリムの新人に対しては、入社後まもない時期の合宿研修のとき、宗教的禁忌を配慮した食事を用意していたのです。
そのような「多様性重視」のポーズは、新卒採用難への対策に過ぎませんでした。しかし、もしバブル期が1995年ごろまで続いていたら、その企業の文化を変える力になったかもしれません。5年ほどの幅のある世代が、そういう文化で育っているわけですから。

しかし半導体の世界では、1991年にはバブルは崩壊しかけており、1992年には崩壊していました。その後は私自身、文化や多様性を会社で口にするどころか、パワハラに潰されかかりながら自分を守ることで精一杯でした。