4歳下の弟との間にあったことを、時系列で書き記しておきたいと思います。

1963年 
・私が誕生。 

1967年
・弟が誕生。
 何人かの人に
 「母親を弟に取られて虐待と感じたのではないか」
 と言われたことはあるが、そういう感覚はほとんどなかった。
 母方祖母、叔母(母の妹)などとの交流が日常的にあった。
 それまでもしばしば、私は母方実家に預けられていた。
 弟が生まれた後は、預けられる頻度が若干増えた程度かな?
 それは私自身にとっては楽しいことだった。
 よく母方祖母に手を引かれ、池にカメや鯉を見に行ったという記憶がある。
 弟の出生で、大きく環境が変わったわけではない。
 その前後で日常の幸福感が極端に減少したという記憶もない。
 ただ母親と弟が産科から退院した後、母親は私に対し、弟に触ることを禁じていた。
 「お母さんの見てない間に触った」とか言われないよう、
 なるべく弟に近寄らないようにした記憶ならある。
 ちなみに妹の時も、妹が2ヶ月くらいまでは触ることを禁じられた。
 自分の実のきょうだいでは、
 生まれたての赤ちゃんのプニプニした肌の感触は、ほとんど経験していない。

1968年
・弟が歩行などの運動を行うようになる。
 私の髪を後ろから引っ張って泣くので喜び、繰り返すなど。
 母親は私に「お姉ちゃんだからガマンしなくては」「痛いと思ってはいけない」などと言うようになった。

1969年
・両親・弟ともども、それまで住んでいた福岡市長浜から、現在の春日市に引っ越す。
 父方祖母と同居しはじめる。
・同じ幼稚園に通っている近所の子どもが、幼稚園で習う歌「つくしのように」を暗唱していた。
 私はその歌を覚えていなかった。
 幼稚園では、覚えることは要求されていなかった。歌詞が掲示され、見ながら歌っていた。
 母親は、すぐに全部を暗記するように命じ、私がその歌の歌詞を唱えるのを後ろで監視していた。
 その私の尻を、弟が蹴ったりつついたりし続けていた。
・私、ピアノを習い始める。

1970年
・私、小学校に進学。家にいる時間が短くなったせいか、弟との間のエピソードはあまり記憶にない。
・3月か4月ごろ、私が知らない間に母親と弟が出かけており、夜になって帰ってきた。
 ふつうに「おかえりなさい、お腹すいた」と言った私の顔に、母親が平手打ちを浴びせた。
 母親と弟は、親戚のおじいさん(母方祖母の実家の誰か)が亡くなったので、
 そのお宅に行ってきたそうであった。
 (母親と弟が帰ってくるまで、その人が亡くなったことを私は知らなかった)
 弟は母親の悲しみを共有している良い子なのに、
 私は母親の気持ちが分からない心のない子なのだそうだった。
 母親にはかなり長い間「アンタには心がない」と言われ続けた。
 この時が最初だったと記憶。
・母親の留守中、私(6歳)と弟(2歳)が二人で家にいたことがある。
 弟は寝ていたが目覚め、母親がいないことに気づいてギャン泣きを始めた。
 私はあやそうと試みたが、私がちょっと触ると弟は「おかあさーん!」と激しく絶叫するという感じ。
 私は、弟をいじめて泣かせたと誤解されないようにしなくてはと思った。
 弟から数メートル離れた場所で、本を読んでいるふりをした。
 弟はギャン泣きを続けた。
 そこに隣のK家の奥さんが様子を見に来て弟をあやした。
 弟は泣き止んだ。
 そこに母親が帰ってきた。
 K家の奥さんは、私が本を読んでいて弟を放ったらかしにしていたと母親に話した。
 私はその後、母親にメッタ打ちされ、「心がない」と非難された。
 この時、弟が「お姉ちゃんにいじめられた」と虚偽の報告をしなかったことは不幸中の幸いであった。
 (そういうことも何回かあった)

1971年
・弟、幼稚園に入る。
 幼稚園から帰ってくると、私に暴力をふるうようになった。
 人間に対する暴力というよりは、布団やサンドバッグに力を加えているような感じだった。
 母親が「幼稚園ではいい子にして、代わりに家でお姉ちゃんにぶつけていいから」と言っていた。
 私は、痛がることも泣くことも禁じられていた。
・母親による陰湿な虐待が増える。
 食事直前に大量の漢字の書き取りを命じ、母親・弟と同時に食事することを許さなかったり。
 NHK教育(当時)のピアノ教育番組の時刻に夕食とし(ふだんはもう少し遅い時刻だった)、
 私にだけ視聴に専念することを命じ、母親・弟が私の目の前で食事していたり。
・弟が茶碗などを壊した時「お姉ちゃんが壊した」と母親に密告、
 母親がそれを全く疑わずに私を罰したこと数回。
・私が雑誌の付録などの工作をしていたとき、完成したところで弟がそれを破壊したこと数回。
 母親は、私に泣くことも悲しむことも許さず、
 「男の子はそのくらい暴力的でなくてはいけない、お姉ちゃんは弟が立派に育つためにガマンしなくては」
 というようなことを言っていた。
 私は、家の中で紙など簡単に壊される素材を用いた工作を行うことを避けるようになった。

1972年
・妹出生。
 母親は私に対して、妹に触ったり抱いたりすることを禁じた。
 妹が生後3ヶ月くらいまでだったと思う。
 母親によれば、理由は、私には心がなく悪魔の子だから何をするか分からないということであった。
 弟は妹を触らせてもらっていたし、抱かせてもらってもいた。
 なんともいえない悲しみを抱えて、妹を抱いて二人で笑い合う弟を見ていた記憶がある。
 妹が生後1ヶ月・2ヶ月ごろの時期も、
 沐浴用のお湯を汲むなどの戦力としては使われていた記憶がある。
 沐浴の準備を手伝ったことは小学校で作文に書き、よい評価を受けた。
 その作文がもし今でもどこかにあるのであれば、注意深く読めば、
 私が妹に触らせてもらえていなかったことが分かるかもしれない。
 私は、まさか学校に提出する作文に
 「弟は妹に触らせてもらえてるし、抱かせてももらっているのに、私は違う」
 とは書けなかった(*)ので、悲しみをこらえて、妹の沐浴風景を描写したのだ。
 妹の沐浴に関する作文は何本かあったはず。
 妹が大きくなった後のものだと、私自身が沐浴させていたりする描写もあるかもしれないが。
 妹がある程度大きくなると(生後4ヶ月以後くらい?)触らせてもらえるようになった。
 その後、妹の入浴は主に私の仕事となった。
 浴槽の中で、膝の上の妹に大便をされたことも。
 それは現在でも笑える、数少ない楽しい記憶である。

(*)
 学校で作文の時間に書くのであれば、書くこと自体は可能。
 でも母親は、学校での私の行動を逐一、近所に住むクラスメートに監視・報告させていた。
 私が小3~高3くらいまで続いた(中学・高校は実家すぐそばだった)。
 文具店で何を買ったか、私が帰宅する前に母親の知るところであったりした。
 小遣いの範囲でジャポニカ学習帳を購入したところ、
 帰宅したとたんに「普通のノートではないものを買った」と怒り狂う母親にぶちのめされたことも。
 (母親はふだん、私にジャポニカ学習帳を禁じていたわけでもなかった)
 ましてや作文に、母親に関するネガティブな描写をすることは不可能だった。
 長年、「侵入的な母親」という言葉でも説明がつかず、
 なぜ母親がそんなことをしたのか理解できずにいた。
 もしかすると、母親には自分が問題多い行為をしているという自覚があり、
 その問題多い行為がバレないように必死だったのかもしれない。

1973年
・クリスマスか何かの機会に、弟と私が同じお菓子をもらった。
 弟は自分の分を食べてしまい、私の分を欲しがった。
 私が拒むと、弟は母親に言いつけた。
 私は母親にお菓子を全部取り上げられ、それは弟に与えられた。
・夕食時、配膳などの準備が終わったところで、母親が何か理由をつけて私に罰を与えることにした。
 私はダイニングキッチンの床に正座させられ、数十分そのまま「反省」していることを要求された。
 目の前のダイニングテーブルに、母親・弟・妹が座り、
 TVを見ながら楽しそうに談笑しながら食事していた。
 同居していた父方祖母がいない時に限定ではあるが、特に1973年を中心に50回くらいはあった。
 私の食事は、母親と弟妹が食事を終えた後で許されたり、時には許されないままであったりした。

1974年
・実家に2階が増築され、子ども部屋となった。
 弟と私は、協同で清潔さを保とうと珍しく意見が一致し、掃除ローテーションを立てていた。
 そこに母親がやってきて、弟に掃除をさせることを私に禁じた。
 母親によれば、弟は長男なのであるから、将来、従順で家事をよくやる女性と結婚しなくてはならない。
 弟の妻は、両親の老後の面倒を見てくれる女性でなくてはならない。
 そのためには、弟自身が家事が出来るようになっていてはならないということであった。
 (現在の弟は、共働き家庭の夫として、かなり家事を分担していると聞く。
  母親がそれについて不満であるという話は聞いたことがない。
  また、私以外のきょうだいやその配偶者が、強く介護を求められたということも聞いていない)
・母親が家計のために医療事務の仕事を始めた。
 本来、カルテを持ち出さずに医院内で行うべきものであるはずだが、
 なぜか自宅で仕事することが許されていた。
 私が1mくらい離れたところから「そのカルテは何?」と聞くと、
 母親は「勝手に大人の書類の中身を見た」と怒り狂った。
 母親によれば、私がじっと見たからカルテであることが判明したのだそうだった。
 その直後、母親の横に座った弟が、目の前のカルテを「カルテ」という言葉を使って話題にした。
 母親は平和に弟と会話していた。

1975年
・町内の子ども会の委員だった私は、夏休み、毎日「ラジオ体操」の世話をしていた。
 皆勤したため200円相当くらいの文具をもらった。
 3回くらいしか来なかった弟は、消しゴム1個か何かしかもらえなかった。
 弟は私に「自分も欲しい」といった。
 私は「これは私が毎日行ったのでもらえたんだから」と拒んだ。
 私がトイレに行っている間に、弟が私のもらった文具を全部破壊していた。
 泣いて怒った私を、母親がぶちのめした。
 母親によれば、私が喜んで「はい」と与えないからいけないのだそうだった。
・ 私が何か工作していて手にカッターナイフ(刃は入っていなかった)が握られていたときに、
 弟が空中を飛んできた。そこまでは覚えている。
 次に覚えているのは、カッターナイフの先端が弟のまぶたにあたり、相当量の出血をしたこと。
 母親は、私が悪意をもって弟の目を攻撃したが幸いに外れたものと断定し、父親にそのように伝えた。
 夜中に帰ってきた父親に起こされて、私は何回も殴られた。
 もしそんな攻撃の意図があったら、刃を入れておかないということがありうるだろうか?
 私はこの大変な出来事に動転してしまい、前後の記憶が定かでない。
 なぜ刃の入っていないカッターナイフを手に持っていて、それが弟のまぶたに当たったのか分からない。
 刃の入っていないカッターナイフを持っていたのは、刃を交換していたから?
 で、何らかの理由(弟が私の顔を叩くか何かしようとしたとか)で、
 それを手に持ったまま自分の顔をかばおうとしたとか?
 自分自身さえ覚えていないので、母親の
 「悪意を持って目を攻撃したが外れた」
 説に、未だに反論できていない。
 でも、断じて、意図したことではなかった。
 私は、弟を傷つけたいとは思っていなかった。
 自分が傷つけられつづける状況からは、切実に逃げ出したかったけれど。

1976-1982年
・私は私立中学・高校に在学。
 弟との関係は
 「弟が私の何かを非常な悪事であるかのように母親に告げ口し、母親はそれを疑わずに私を責める」
 といったことが中心。
 その「非常な悪事」であるかのようなことは、
 私が勉強中に髪をいじっていたとか、すね毛を剃っていたとか、服装のセンスが悪いといったこと。
・弟の学業成績はあまりふるわなかった。
 母親はそれを私のせいにした。「アンタのせいで家中迷惑する」と。
・弟が中学生のとき、同じクラスの女子がバレンタインチョコを持って実家を訪れた。
 母親はけんもほろろに追い返し、その女子の手紙を読んで「不潔!」「気持ち悪い!」と私に言っていた。
 (本人は追い返したけれどもチョコレートや手紙は受け取っており、手紙を勝手に開封していたということ)
 そのチョコレートや手紙を弟が受け取ったかどうか、弟が母親の反応を知っていたかどうかは知らない。
 ちなみに私も遠隔地の同年齢の男子高校生との文通を行っていた時期があったけれども、
 (音楽雑誌を通じて知り合った)
 相手からの手紙は全部母親に読まれていた。
 まず、母親が私の前に封筒を持ってきてニヤニヤする。
 私が「あ、ありがとう」と封筒をカバンに入れようとしたりすると、母親が血相を変えて、
 「自分がいかに理解のある母親であり、寛容にも文通を許しているか、
  親に見せられない秘密があるなら文通は禁止する」
 という内容の主張を行う。
 私はしかたなく、母親の目の前で開封した。
 母親は手紙を私の目の前で読み、さんざん笑いものにした後で、私に手紙を返した。

1983年
・弟、私立高校に進学。県立高校は不合格。母親によれば、私のせいだった。
・弟、高校進学後すぐバイクの免許を取得。父親が中古バイクを買ってやった。
 当時の福岡県でも「三ない運動」はあったのだが、父親によれば
 「男の子にはこういう時期が必要」
 ということ。
・確かこの年に、弟と最後の会話をした。
 何がきっかけだったか忘れたが、弟が
 「なんだよ、浪人のくせに」
 と私に言い、私が
 「なんだよ、私立中学落ちたくせに」
 と言い返したところ、弟が大荒れし、母親はいつもどおりに私を悪者にした。
・父方祖母、他界。
 現在、弟一家が住んでいるのは、この祖母の残した土地に建てた家。
 父親は何を警戒していたのか知らないが、当時から私に対して、
 「まだ中学生のH(弟)が土地を相続できるわけはない」
 と繰り返していた(2000年ごろまで)。
 弟一家には関心はないが、いつか、この相続時期は確認したい。
 父親が私にウソをついていたのかどうか、いつまでウソをついていたのかを確認したい。
・母親によれば、私が浪人しているせいで、
 弟妹が学校で「お前の姉ちゃん浪人」とからかわれたりなどしたそうであり、
 「アンタのせいで家中が迷惑する」のだそうだった。
 相手が誰だったのかは不明。
 もしかすると、事実でなかった可能性もある。
 もし事実であり相手がはっきりしているのなら、母親は
 「●さんにH(弟妹のイニシャル)が……と言われたと言っていた」
 と言ったはずなので。
・夏、私がピアノの前にいたら、弟と母親がやってきてニヤニヤしながら、
 「今、お姉ちゃん(私)が使っている部屋にエアコンをつけることになったから、明け渡すように」
 と言った。
 弟の部屋は西日が当たるためエアコンをつけるのに不適切であるという理由であった。
 真の理由はたぶんそうではなく、私の使っていた部屋の方が広かったからであろう。
 その部屋は、妹と私が二人で使うことが想定されていたので幾分広かった。
 私は、あと半年で出て行くんだから、このままにしておいてほしいと懇願。
 弟と母親は不承不承ながら承諾した。
 ちなみにエアコンは窓枠に設置するタイプで、設置に工事は特に必要なかった。
・この時期、
 「弟と母親が私のそばにやってきてニヤニヤしながら私の何かをどうにかしようとする」
 は他にも何回かあった気がするけれども、内容は思い出せない。思い出したら書く。

1984年
・3月、私が東京の大学に進学することが決定。
 私がまだいる間から、弟は自分の部屋になる予定の(元)私の部屋に、
 私がいないものであるかのように入り込んだり(私の不在時ではなく、在室中の話)、
 私の膝の上にいた実家の猫を、私に何も言わずに抱き上げて連れて行ったりした。
・私、大学進学のため実家を離れる。
 弟は高校不登校に。
 母親、私への電話で、
 「アンタが家を離れたせいで、家中迷惑する」
 と言う。
 私が実家にいたときは、弟の学業不振は「アンタがいるせい」。
 私が実家を離れると、弟の高校不登校が「アンタがいないせい」。
 母親がこういうことを言うので、なるべく実家に寄り付かないようになった。
 実家に寄り付くと、具体的な言動や「いる」ことそのものを理由にした何かが起こる。
 実家にいなければ、「いない」ことを理由にした何かで済む。
 だったら「いない」方がいいという当然の判断。
・夏休み、私は実家に10日ほど滞在した。
 台所の食器棚には、交通違反の赤キップ白キップがたくさん挟まっていた。
 50ccバイクに乗っていた弟のものであった。
 私の滞在中、両親が弟とともに家裁に出頭したことがあった。
 家裁の裁判官は「高校を退学になったらかわいそうだから」と配慮した措置を取ったとのこと。
 (後に両親は「そのような事実はなかった」と言うようになったので、
  私は自分がたしかに見たと記憶している違反切符や、その時に両親に聞いた家裁の話が、
  幻でも記憶違いでも妄想でも作話でもないことを確認したいと今でも思っている)
 弟は高校を退学にならずに卒業したようである。
・私が転居した後に(もちろん私宛に)届いた郵便物は、母親に開封されていた。
 理由は
 「弟(妹)が中身を見たいと言っているから」
 であった。
 そのいくつか、友人が送ってくれた女子好みのグッズなどは、帰省時に妹に使われていたりした。
 「お姉ちゃんだから」妹に喜んで与えなくてはならないのだそうだった。
 私の手元に届かなかった個人からの手紙は、いったい何通あるのか不明。
・弟とは直接の関係のないことであるが、
 予備校など母親の関知できない場で出来た私の友人たちが、実家に電話して私の転居先を聞いたところ、
 母親が
 「教えないでほしいとヨシコに言われています」
 と答えていたと聞いている(そんなことは全く言っていない)。
 その友人たちが、共通の友人を通じて私に連絡したため、私は母親のしていたことを知った。
 (このことを父親に訴えたところ
 「長女はそういう目に遭いやすいもので、それに不満を持ってはいけない」
 という返事だった)
 一方で、私がもう関係を断ち切りたいと望んでいる高校(母親も同じ高校の出身)の同級生には、
 母親は私が転居しても転居しても、転居先を教えていた。
 その同級生たちは、私から見ればイジメっ子であった。
 (’私が、当のその相手たちからイジメに遭っていた事実を、母親はよく知っていた)
 また、高校同窓会への出席も強要していた。
 行ってもイジメられるだけなので行きたくなかったが、行かないと母親が恐ろしい。
 1浪目と2浪目は行って、予想通りイジメられた記憶がある。
 私が福岡を離れた後は、母親は東京支部の同窓会への出席を強く求めつづけた。
 (平日日中に行われるので参加できないと言うと、会社を休んで参加するよう求められた。応じなかったが)
 1997年ごろ、私は高校同窓会に連絡し、
 「高校時代はクラスメートからの酷いイジメに遭っていて未だに思い出すと辛いので退会したい。
  今後は連絡しないで欲しい」
 と申し出た。その後、同窓会報は来なくなった。
 しかし私が転居するたびに、高校同窓会から同窓会報が届いた。
 私は転居のたびに、「もう送らないでください」と言わなくてはならなかった。
 母親が高校同窓会に依頼していたものと思われる。
 実家に知られないように転居したら、
 転居先にまで高校同窓会が追いかけてくることはなくなるかもしれない。

1985年
・弟、大学進学。4年在学して中退したらしい。
 父親は長年「ちゃんと卒業した」と私には言っていたが、結婚式の時に中退であることが判明した。
 それについては私は特に大きな思いはない。人それぞれでいいと思っている。
 でも両親に対しては「私の学業がまったく評価されないのに?」という怒りがある。
・この年の夏休み、私は実家に4日ほど滞在したかと思う。
 既にフルタイム就労していたので長居できなかった。
 実家に行ってみると、庭のほとんどがカーポートとなっており、スポーツタイプの車があった。
 弟のものであった。
 工事費用と車の費用、弟の免許取得費用を誰が出したのか、私は知らない。

1987年
・弟が大学再受験のため、私の住んでいたアパートに滞在した。
 母親が「お姉ちゃんだから面倒みてやらないといかんよ」と言うため、
 とにかく母親に何か告げ口されないように必死の数日間だった。
 弟が受験した大学は日東駒専クラス。
 しかし弟は、おそらくは受験勉強のつもりで、中学1年レベルの英語の書き取りをしていた。
 「これは合格しないだろう」と思った。
 とにかく私は、不合格を母親や弟が私のせいにしないようにヒリヒリしていた。
 必要最小限、何か具体的な用事についてしか言葉を発しないようにしていた。
 弟の方から何か聞かれたら答えていた。近隣のコンビニの場所とか交通情報とか。
 ちなみに当時、私は勤労学生だったので、昼間働いて夜大学に行っていた。
 そのことに対する考慮は、母親からも弟からも示されなかった。
 当時、バンドでキーボードを弾いていた私のアパートには、
 キーボードやドラムマシンがあった。
 受験を終えた弟は、それらに関心を示した。
 私は、
 「触ってもらうのは全然かまわないけれども、
  この操作をすると中のデータが飛ぶから、それはやめてほしい」 
 と言って、マニュアル等を置いて家を出た。
 弟が福岡に帰ったあと、母親から電話があった。母親は
 「H(弟)がお姉ちゃんの困ることをなんかしたと言っているけど、怒ったらいかんよ」
 と私に言った。
 すぐにキーボードとドラムマシンを確認すると、
 私が何日もかけて打ち込んでいた楽曲データが全部消されていた。
 この時の怒りが、私は未だに収まらない。
 私は両親に対して何度も怒りを表明しようと試みた。
 しかし父親は、「わだかまるのはおかしい」と私に言いつづけており、
 弟や母親の対応には全く問題がないとしている。
 ちなみに弟のこの時の再受験は不合格。
 現在に至るも、母親からも弟からも「お姉ちゃんのせいで落ちた」とは言われていない。
 それだけは救い。

1988年-1990年
・私、大学院修士課程在学。 
 結婚を考えて付き合っていた男性がいたが、
 父親の強い希望でその男性を連れて福岡に行ったところ、 
 私に席を外させている間に、両親が壮絶な嫌がらせをしたらしい。
 (本人が口をつぐんで語らなかったので詳細不明。
  ただ、私がトイレに行って戻ってきたときに、
  母親が男性に近づいて「家柄が」とかなんとか文句を行っていたのは見た)
 母親が後に電話で私に語ったところによれば、弟が
 「お姉ちゃんのせいで、みんな迷惑する」
 と言っていたということ。

1990年
 私、企業に就職。
 実家方面からは、弟に彼女が出来たという話をときどき聞くようになる。
 両親が、弟の異性との交際について何か言っていたという話も、
 不快を表明していたという話も、家柄の釣り合いを気にしていたという話も、
 聞いたことがない。

1993年~1995年ごろ
 母親からの電話でしばしば
 「弟妹も含めて子どもたちが一人も結婚しておらず孫もいないのはアンタのせい」 
 と責められる。

1997年ごろ
 母親との電話で、私が「運転免許を取得しようと考えている」と話すと
 理由はよくわからないが母親が大反対、
 「H子(妹)にもまだ取らせていない」
 と言った(妹は2002年(?結婚した年)に運転免許を取得)。
 母親に、免許取得費用を出して欲しいと言ったわけでもなんでもなく、
 ただ私が「免許を取ろうとしている」と言っただけなのに?
 母親がいつも、
   弟>妹>>私
 という序列であることを非常に望んでいたことを考えれば、不思議ではない反応である。

1998年ごろ
 父親から電話。
 弟がアパートを借りて一人暮らしを始めるので、保証人になってほしいということ。
 (当時の原家族には、企業の正社員が私しかいなかった)
 私は弟に代わってもらい、協会保障という手段を教え、
 「ダメなら私が保証人になることを考えてもいいから、その時に連絡してほしい」
 と言った。
 その後、弟がどうしたかは知らない。

2000年
 私、企業を退職。フリーランスに。

2002年?
 妹、結婚。
 
2003年?
・弟、結婚。相手は立派な学歴と立派な職業を持つ女性(2014年現在も就労を継続)。
・父親が私に「ヨシコはもう良かろうもん」と言い始める。
・妹夫妻に長男誕生。

2005年?
・弟夫妻に長男出生(懐妊がこの年で、出生は翌年だったかも)。
・妹夫妻に次男・三男(双子)出生(懐妊がこの年で、出生は翌年だったかも)。
・父親がそれ以前よりも頻度多く「ヨシコはもう良かろうもん」と言い始める。
 弟の長男・妹の次男・三男の懐妊を満面の笑顔で私に告げた父親が、
 ついでその笑顔のまま
 「ヨシコはもう良かろうもん」
 と私に言った時の怒りと悲しみは、未だに忘れられない。
 2005年12月ごろのことであったと記憶。
 (だったら弟の長男・妹の次男三男の出生は2006年か?)
・秋、私に運動障害が発生。

2006年
・父親の「ヨシコはもう良かろうもん」の頻度がさらに増える。
 どういう意味なのか良くわからない。
 自分の人生を断念して親の介護をしろということ? 
 仕事をやめろということ?
 それとも「生きるのはもう良かろうもん」、つまり早く死ねということ?
 この時点では「もう良かろうもん」としか言わないので意味が分からなかった。

2007年
・私、筑波大の大学院博士後期課程に進学。
 父親は「もう良かろうもん」とは言わなくなったが、親戚づきあいなどからの切り離しが始まった(参照)。
・確か2007年12月、私が実家に行ったところ、弟の長男(当時2歳くらい)がやってきた。
 弟の長男は、布団の山に飛び上がったり飛び上がったり活発。
 母親は「男の子だからねえ」と目を細めて喜んでいた。
 私は、同じ場所で約40年前に、
 2歳くらいの弟に6歳の自分が受けていた暴力を思い出してしまった。
 「男の子だからねえ」と喜んでいる母親の声も口調も、40年前とまったく同じ。
 弟の長男は、顔が弟にそっくりだった。
 恐怖から、以後、弟一家との接触はなるべく避けるようになった。
・この2007年12月の時、母親が父親に奇妙な目配せをしながら、
 「揉め事に巻き込まれたくないので、お母さん(母方祖母)の相続を放棄した。
  弁護士さんからは
  『お孫さんたちにも行くのに、その分もなくなりますよ、いいんですか?』
  と言われたけれども、お父さん(私の父親)も『それでいい』と言うから、放棄した」
 と私に語った。
 私は、母親の目配せや言い方に不自然なものを感じた。
 それは過去、私を陥れるときに使われた目配せや言い方と非常に似ていたから。
 当時、母方祖母は存命(2012年他界)しており、同居していた叔母が懸命に介護をしていた。
 存命中の人物の相続は不可能であり、したがって相続を放棄することも不可能である。
 もしかすると母親は、母方祖母ではない誰かの相続放棄をしたのかもしれないが、であれば
 「お孫さんたちにも行くのに」
 という弁護士発言(事実かどうかは確認のしようがないが)と矛盾する。
 (父方祖母は1983年に他界)
 その「お孫さんたち」が母親の子どもたちを意味しているのでなかったら、母親の孫たち?
 でも、両親自身の相続放棄を母親がするということはありうるだろうか?
 だったら母親は間違いなく「母方祖母の相続放棄をした」と言ったのだろうか?
 認知症とはいえ身体は元気で楽しく毎日を過ごしている母方祖母(母親自身の母親)が存命中なのに?
 それとも、弁護士の話とか相続放棄の話自体が母親の虚言?
 母親が何のために私にその話をしたのかは、これ以上は推測も解釈もしない。怖すぎる。
・私、障害者手帳(身体・精神)を取得。
 2007年12月に実家に行ったとき、そのことを知った父親は、
 「良かったなあ」
 と言いつつも、あまり嬉しくなさそうであった。このときは、まだ「なぜ?」と思っていた。

2008年
・父親、「ヨシコに財産を残す人間は誰もいない」と電話で宣告。
 私を廃除するという遺言でも書いたということであろうか?
弟とは直接は関係のない出来事だが、父親に
 「いつまで生きるつもりや」
 と言われた。
 マイルドに翻訳しても「早く死んでくれないかなあ」ということであろう。
 その場では、言葉通りに解釈したふりをして
 「寿命までは生きようと思ってるけど」
 と答えた気がする。
 この時点で、父親の
 「ヨシコはもう良かろうもん」
 の真意を
 「ヨシコはもう生きなくていい(親の介護などの労働力になっている期間を除く)」
 と判断。
 私は肉体的に親の介護などの労働力になれないので、
 「ヨシコはもう生きなくていい」
 ということになる。
・父親がこういう意向であったことを弟夫妻が知っているかどうかは全く不明。
 とにかくこれ以後、弟一家が私に対し
 「できれば付き合いたい」
 「できれば円満な関係を持ちたい」
 と希望していると仮定することはできなくなった。
 いくら両親が強く希望しても、廃除の申し立ては簡単に認められるものではない。
 でも私が死ねば、わざわざ廃除する必要もなくなる。
 弟夫妻がそれを本気で希望しているのかどうかまでは全く不明。
 しかしこの時期の父親の発言以後、
 自分の両親に対しては、そういう意向である可能性を捨てるわけにいかなくなった。
・この年末、障害年金受給開始。
 このことは、当時、父親には特に話していないと思う。
 私が生存できる・生存がより容易になる・活動しやすくなる方向性の情報は、
 両親には提供しないほうがよいと判断。
 1990年代後半から、
 私が苦境にあればあるほど父親は喜び、私が平穏に活躍していると父親は不機嫌になる。
 理由はわからない。

2011年?
・弟夫妻に次男出生。
・父親、再び私に
 「ヨシコはもうよかろうもん」「慎ましく生きていければそれでよかろうもん」
 などと言い出す。
 「慎ましく生きていければそれでよかろうもん」
 とは、
 「生活保護を使って原家族に迷惑をかけずに生きていってほしい」
 ということであろうか?
・6月、連載「生活保護のリアル」開始。

2012年
・弟の妻と妹に「もう年賀状を送らないで欲しい」というハガキを送る。
 その旨は、私の両親や叔母などにも伝わったようであるが、私が問題視されているようである。
 「ようである」というのは、その件について、はっきり話をしたことがないから。
・母方祖母、他界。
 父親より、通夜・葬儀の場所と日時が知らされた。
 冠婚葬祭の予定が私に具体的に知らされたのは、弟の結婚式以後は、この一度きり。
 しかし列席は強く拒まれた。
 理由は私の多忙への配慮ではなく、私が行くと、喪主である叔母に迷惑がかかるということであった。
 ちなみに通夜・葬儀の会場はバリアフリー。
 その時、叔母の住まいに寄ることは、私は全く考えていなかった。
 父親自身が、私に「来ないで欲しい」ということであったら、まったく矛盾のない話。
 ただ、その時に父親が理由としたのは、叔母の迷惑であった。
 叔母自身が「迷惑だから来てほしくない」と思ったのかどうかは不明。
 少なくとも2013年11月時点までは、
 叔母からは
 「あの時、迷惑だから来ないでほしいと思い、パパさん(私の父親)に伝えてもらった」
 に類することは言われていなかった(**)。
 葬儀のしばらく後、私が叔母から電話で聞いたのは
 「遠いので来れなかったんだね、心のこもった電報ありがとう」
 といった言葉であった。
 弟一家、妹一家(当時、京都在住)の一部は列席したと聞いている。
 妹一家の一部が列席した以上、
 父親には「私が遠隔地にいるから配慮した」という弁明の余地はないかと。

 (**)
 叔母が今後にわたってそういう発言をしないかどうかは、現時点では何とも予想しがたい。
 ただ、少なくとも2013年11月まではなかったことを記録しておく。

2013年
・弟一家との接触はないまま。
・7月、私、「生活保護リアル」を出版。7月~10月にかけ、両親が接近を計ってきた。
 父親、「もうよかろうもん」とは言わなくなっていた。
 口で言わなくなっていたというだけ。内心どうなのかは全く不明。
・11月、両親方面より、私の生活の根幹を揺るがす事態発生(詳細は記載しない)。
 きっかけについては、こちらを参照のこと。
 2014年3月現在、その事態は継続中。
・この11月の出来事の直前、父親が世間話のついでのように
 「ヨシコは障害年金は取っとうとや?」
 と聞いた。受給しているので「Yes」と答えた。
 私が障害者福祉を利用できているかどうかについて父親が自分から関心を示したのは、
 この時が初めて。
 なんのために父親が関心を示したのか、得た情報をどう利用したいのか、
 その後何らかの利用をしたのかしていないのかなどは全く不明。
 ただ、「私が自分の生存に必要なものを得ている」という情報を父親に与えたことについて、
 強く後悔している。
 今後、自分へのどういう悪影響につながるだろうかと、怯えている。

2014年現在
 弟一家との接触はないまま。

今後
 もうこのまま一生、弟一家からフェイドアウトできればいいと思っている。
 弟の二人の息子は、顔が弟にそっくりだと聞いている。
 弟と母親に受けた辛い仕打ちやその時の悲しみを思い出したくないから、
 弟の息子たちには会いたくない。
 今後、私が会いたくなることはないと確信できる。
 「会ってもガマンできる」くらいならあるかもしれないが。
 弟の息子たちには全く責任のないことではあるが、
 私は恐怖や悲しみを呼び起こす人の顔を見たくない。
 弟の息子たちが将来、この記録を読んで、私に会ってみたいと思うのであれば、
 会えないという事情の責任は、自分の父親や父方祖母に求めてほしい。

両親の態度
「そういう時代だったから」「長男だから」「長女だから」と繰り返すのみ。
また、私に対する
「わだかまるのはおかしい」「恨めしい」
などという非難も。
まだ接触があった時期には、
「甥だから可愛いと思わなくては」「甥だから可愛がらなくては」
という強制もあった。

時代背景、「長男」であること、「長女」であることを考慮してなおかつ、
この一連の出来事が虐待であるのかないのか、
私が未だに許しがたい感情を持っていることは「おかしい」「恨めしい」と断じられるべきなのか、
見た人に判断してもらいたいと考え、この記録を残すことにした。