生まれてから56年間経った今、父親に対する恐怖心が、自分史上最大になっている。
離れて暮らし始めてから36年。その間、直接会って話した機会は、たぶん50回はないと思う。電話を含めても、会話をした時間は1年あたり平均では30分から1時間の間だと思う。「親類等がいる中に父親もいた」という場面を含めても、誤差の範囲だろう。それは36年間に20回もない数少ない機会だったから、いちいち数え上げられる。
客観的に見れば、たぶん力関係では、自分史上最大に自分が強くなっているはずだ。
父親は87歳。こちらは車椅子だが、肉体的な勝負なら勝てる自信がある。同居していたころみたいに、「眠っていたところ、深夜に帰ってきた父親が母親に何事かを吹き込まれ、階段を駆け上がってきて私を叩き起こしてビンタを浴びせる(ビンタ、ということにしておく)」というようなことは、今は起こらない。
父親の持っていた社会的影響力や実権も、そういうものを直接取り扱う現役でなくなってから数十年が経過すると、激減している。父親のパワーのピークは私が大学院生くらいのころだったが、その後の私は、ジリジリジリジリとしぶとくしつこく、簡単に潰されないように根を張り枝を伸ばしつつ逃げ足を鍛えてきた。たぶん力関係は、父親のパワーを最大に見積もっても「気を付けろ、依然として、油断したら自分がやられる可能性はある」程度であろう。
しかし今、私は父親に対して、自分史上最大の恐怖を感じている。私が物心ついて以来、苦しんで痛めつけられて育った世界のルールは、一言で言えば「男尊女卑」、より正確に言えば「女は使役動物で産む機械(例外はありうるが、例外条件は明確にされない)」。
時間を共にする時間が圧倒的に長かったのは母親と弟妹だった。私を直接に痛めつけたのは主に母親と弟だった(妹は9歳下で、私が実家を離れた20歳時点までは、さほどの脅威ではなかった)。しかし、「そうしてよい」というルールがある実家の世界のトップにいてルールを決定しているのは、父親だ。
私は20歳で実家を離れるのと同時に、自分を「使役動物で産む機械」とするルールからも離れるはずであった。むろん、原家族の世界がそんなことを許すわけはない。今となっては、その後の私に起こったことは、たったこれだけで概ね説明がつく。しかし「なぜ? どうして?」と自問しながら必死であがく時間が、その後、延々と続いて現在に至っている。まるで、ゴキブリホイホイにつかまったゴキブリのように。
私は生きたまま、このゴキブリホイホイから解放される日を迎えたい。父親に対して、根拠に基づきつつ実際の5倍10倍の恐怖心を抱くのは、おそらく生き物として正常なことなのだろう。恐怖と悲しみと怒りを叫び続けつつ、解放される日と、いかなる意味でも解放されたことの罰を受けないその後の未来を生きたい。
父親がそのようなルールの支配する家庭社会を作るにあたっては、むろん、父親一人だけに責任があったわけではない。終戦時の国民学校6年生として経験した過酷な出来事の数々があり、生き延びるために余儀なかったかもしれない多様な選択(たとえば結婚。母親の兄などとの関係はじめ、子ども心にも不可解なことが多かった)の影響があり、「そうしかやりようがなかった」という側面が多々あるのであろう。それは理解している。というより、理解と共感を強制されてきた。
もしかすると、今の私に起こっていることは、56年間にわたって感じないことにしてきた恐怖を、56年分まとめて味わっているということなのかもしれない。自分が他のきょうだいのように人間扱いされていないという事実を、幼少の私は認めたくなかったのだ。何をしても、両親に価値を認められることはなく、認められたらその後に恐ろしいことが起こるという自明の成り行きに対して、「そんなことはないと言える日が来る」と信じたかったのだ。自分の愚か者め!
今より愚かだった少し前の私、もっと前の私を責めても、何も返ってこない。責めるなら私じゃない。まず、私をそういう状況に置くことについて責任あった父親、そして母親、その状況を利用してきた弟妹だ。しかし、誠実な対話ができる相手ではない。もしそうなら、こんなことにはならなかった。
私はただ、自分と自分の人生とキャリアと、自分の大切な猫たちや大切な人々を、これまで以上に守って育てて生きていこう。