2014年1月31日午後、私は杉並区のとある福祉事務所にいました。
自分の利用している障害者福祉サービスに関する申請を行うためです。

ロビーには、手持ち無沙汰な感じの人が十数人いました。
多くは男性で、年配の方が目立ちました。30代、40代と思われる人もいました。
その人達は、互いに言葉を交わすこともなく立っていたり座っていたりしていました。
ときどき、
「さっき呼ばれたのは何番?」
「34番でした」
というような会話が、ぽつり、ぽつりとされていました。
この日は生活保護費の支給日でした。
ロビーで待っていた人たちは、番号札を受け取って自分の番が来るのを待っている、生活保護当事者たちでした。

身なりは、こざっぱりしていたり汚れていたりします。
色合いは、くすんでいて目立たない感じのものが多かったです。グレー系だったり、ダークブラウン系だったり。
その人たちの表情も、概ね、くすんでいました。
その表情を何と言い表せばよいのでしょうか。私には、適切な言い回しが思い浮かびません。
諦念・やるせなさ・焦燥・悲しみ・期待 といったものが入り混じっているように見えました。

午後になっても30番台、という番号札も気になりました。
生活保護を利用している当事者本人であることを確認して保護費を渡すだけのことに、なぜそんなに時間がかかるのでしょうか?
ロビーを離れ、生活保護担当のカウンターのあるあたりを覗いてみました。
長い列ができていました。
はっきりと先頭を見ることはできませんでしたが、カウンターの2ヶ所か3ヶ所に立ち寄らなくてはならない仕組みとなっているように見えました。
もしかすると、就労活動の記録をチェックされ、就労活動が足りないと考えられたら応募できそうな企業の候補を挙げられ、そんなこんなの後に、やっと保護費を手にすることができる仕組みになっているのかもしれません。
もちろん、もしかすると、単に「保護費を渡すだけ」に結構な手間がかかるものであるのかもしれませんが。

こんど、きちんと見て、調べてみようと思います。
しかし、保護費を受け取りに来た当事者たちの表情の暗さ。
見ているだけで、心が締め付けられるような気がしました。
生きていることに、なぜ、喜びと誇りが伴わないのか。
なぜ、生活保護当事者たちは、生きることを喜び、日々を自分なりに生きていることを誇る表情になれないのでしょうか。 
なぜ、くすんだ色合いの目立たない服装ではなく、安価であっても、思い思いの喜びや誇りの表現になるような服装でいないのでしょうか。 
なぜ、当事者たちの間に、会話がほとんどないのでしょうか。
大声で、保護費の使い道について話していてもいいじゃないですか。
給料日のオフィスの、どこかウキウキ、ちょっとホンワカした雰囲気と、なぜこんなに違うのでしょうか。
使えるお金が入ってくることに違いはないのに。

私は、今のところ、生活保護を利用した経験はありません。
でも、もし自分が利用することになったら、質素な生活の中でも、小さな喜びや小さな誇りを大切にしたいと思います。
卑屈にならずに、胸を張って、堂々と生きていたいと思います。
安価でも自分の着たい服を来て、自分らしさの表現であるようなアクセサリーやスカーフや小物で彩っていたいです。
生活保護を利用している、あるいは利用することになりそうな友人たちにも、そうあってほしいです。
そこに「生活保護(のうえに障害者)のくせに」「生活保護(のうえに障害者)なのに」という非難が浴びせられるのは承知の上です。

そんな非難、する方がおかしいんです。
おかしいものはおかしい。
私の収入がいくらであろうが、生活保護を利用していようが無縁でいられようが、そんなことは関係ありません。

近未来のいつか、堂々としていて楽しそうで生き生きとした表情で談笑している生活保護当事者たちを、保護費支給日に福祉事務所で見かけたいものです。
私はそのために、書くことで最善を尽くします。
 
拙著です。

Kindle版もあります。