みわよしこのなんでもブログ : 当事者

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


当事者

「庶民感覚」「主婦感覚」「当事者感覚」って、そんなに大事?

「庶民感覚」「主婦感覚」「当事者感覚」は、私がどうにも違和感を感じてならない言葉です。
それはいったい何なのでしょうか? そんなに大切なものなのでしょうか? 

そもそも、「庶民」「主婦」「当事者」の範囲を定めるのは至難の業です。
たとえば、「庶民」の年収の上限はどの程度なのでしょうか? 
世帯年収が1000万円あっても
「家のローンと子どもの教育費で生活が厳しく、交通不便な地域に住んでいるため自動車を手放すわけにもいかず、スーパーで見切り品の食材ばかり購入している」
というケースは考えられます。
この一家は「庶民」なのでしょうか? そうではないのでしょうか?

「主婦」もそういう言葉ではないでしょうか。
「主婦」が意味すると誰もが考える内容は、「女性である」「家計を預かる」「家事・育児を担う」であろうかと思います。しかし、家計に対する責任範囲や権限も、家事・育児に関して行っているものごとの範囲も、各人各様でしょう。

「当事者」はさらに危ういものを含んでいると思います。
「障害当事者」でも「生活保護当事者」でもなんでも、すべての「当事者」は、「当事者にならないと分からないこと」を大小なりとも経験していると思います。
それでも、「自分は当事者だから言える」「当事者ではないあなたには分からない」と主張することは、自ら伝えることを放棄しているも同然だと思います。
もう一つ問題があります。
たとえば「障害当事者」には、難聴であることは確かだった佐村河内守氏は含まれるのでしょうか?
「生活保護当事者」には、漏給層(生活保護基準以下で生活している方々)は含まれるのでしょうか?
「当事者だから」「当事者ならでは」という主張は、同様の困難を抱えている人々を排除する可能性もあります。

もう一つ。
これらの「……感覚」は、包摂の文脈ではまず使用されません。排除や非難の文脈で使用されます。
例としては
「◯◯議員が6泊7日の海外出張に200万円を使用した、庶民感覚からして許しがたい」
という主張をあげることができます。
確かに、出張・滞在費としては高くついていることは否めないでしょう。私は14日程度の米国滞在を毎年行っていますが、総経費は多くても20万円以下に抑えています。
しかし、公務での出張であれば、旅費を安く抑えることよりも効果を求めるべきではないでしょうか。
20万円で100万円の効果しかあげられないのと、200万円で1000万円の効果があがるのは、どちらがよいでしょうか?
エコノミークラスでロクに眠れず時差ボケに苦しんでいる状態で現地での公務に向かってもらうのと、ビジネスクラスでじっくり眠って爽やかに目覚めて現地で公務に向かってもらうのと、どちらがよいでしょうか? 多額の費用をかけて選出し、一般サラリーマンの感覚に照らせば多額の報酬を支払っている議員です。報酬以上にしっかり働いて結果を出して貰ったほうがよいのではないでしょうか? 
そして、社会にどれだけの結果がもたらされたか評価して、次の選挙で投票したりしなかったりすれば良いだけの話ではないでしょうか? (現在の小選挙区制度は、その評価を妨げているのですが)
そこに「庶民感覚」を持ち出す必要は、全くないと思います。

「庶民感覚」「主婦感覚」「当事者感覚」とも、私は使わない用語です。
自分の経験に基づく「感覚」に依拠して、その「感覚」を持ち得ない誰かに対して何かを主張することは、伝わらない・受け入れられないという結果を自ら選択しているも同然です。
もちろん、収入面では紛れもなく「庶民」に属し、家計家事をマネジメントしているという意味で「主婦」でもあり、障害「当事者」でもある自分は、それらの経験や、経験に基づく感覚を持ちあわせています。
しかし、その感覚をもって自分の正当性を主張したり、相手に仲間と認識することを求めたり、その感覚を持ち得ない人を排除するようなことはしたくありません。
「消費税が5%から8%になることの打撃は、富裕層出身の政治家である貴方には分からない」
と声を荒らげるのは、
「障害基礎年金の他に若干の就労収入があり、生活保護基準に比べれば相当の余裕のある生活をしているけれども経済的に充分な余裕があるというわけではないという状況にある自分にとっては、消費税が5%から8%になることの経済的インパクトは、たとえば野菜の購入を……だけ控えるという形で現れている」
と説明して、「それでも全く伝わらなかった」という結果が出た後で充分だと思うのです。

「明日、ママがいない」の放映は続行されるべき(反語)

ドラマ「明日、ママがいない」の放映が、
続行されるべきか中止されるべきかをめぐって
スポンサーのCM自粛も含めた大きな動きが起こっています。

今の成り行きを見ると、
近い将来に放映中止の判断がなされそうではあります。
ありうる、妥当な判断の一つだと思います。

しかし私はあえて、
「最終話まで放映されるべき(反語)」
と考えています。
このドラマに、
問題ありすぎる表現、関係者を傷つける表現が多いことは
承知しています。

・放送局の責任
 
  どのような体制、どのような意思決定のもとで、
 制作されオンエアされたのか。 
 その判断材料としても、ドラマそのものは重要です。
 多くの問題を含むドラマの放映を開始した以上、
 スポンサーが降りても最後まで放映するのも、
 一つの責任の取り方ではないでしょうか。

・表現者の責任

 すべての表現には、
 確かに誰かを傷つける可能性があります。
 その表現によって誰がどんなふうに傷つくか。
 表現する必要があると確信している表現者ならば、
 傷つけられる人々と傷つき方を見届けたうえで
 「ケツを拭く」 だけの覚悟があるのでしょう。

・視聴者の責任

 放映開始までには
 「視聴者は『あるある!』と思うだろう」
 「視聴者にウケるだろう」
 という判断が、明確にでなくともあったでしょう。
 「視聴者そういうもの」
 と考えられてしまっているモデルに近い視聴者は、
 少数であっても、確かにいるのでしょう。
 その番組を見ていない貴方は、
 「TVのドラマでもやってたから」
 と身近な誰かに事実であるかのごとく言われた時、
 「私、それ見てないけど、ちょっと違うんじゃないかと思う」
 と言えるでしょうか?
 世の中に流布しすぎているけれども、
 ちょっと考えてみると、どこかおかしな言説。
 たくさんあります。
 「ちょっと違うんじゃないの?」
 と言えますか?
 私も、生活保護問題を除くと、
 「ちょっと違う」と感じる自信も、
 「おかしい」といえる自信もないのです。
 さらに、その自信のなさについて、
 「私、TV持ってない歴30年だから免責ね」
 と言い訳するわけにもいかない気がしています。

放映が続行されるとしても、中止されるとしても、
なぜ放映に至ってしまったのかが
きちんと検証され、議論され、検討されますように。

間違っても
「抗議を受けたしスポンサーも降りたし
 BPOにも怒られちゃったから、
 仕方なく放映中止。
 おざなりな検証番組を作って、解決したことに」
という成り行きにならないことを、
私は心から望んでいます。
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 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
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「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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