みわよしこのなんでもブログ : 子ども

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


子ども

[貧困問題]大阪市北区天満母子変死事件から3年と1日

2013年5月24日は、大阪市北区天満のマンションで、若いお母さんと2歳の息子さんが遺体で発見された日です。
Togetter: 大阪北区天満母子変死事件

当初は「孤立と貧困の末に母子とも餓死」と見られており、生活保護を申請しようとして断られたという報道もありました。
なぜ母子とも亡くなる結果となったのか、結局、判明しないままです。
間違いないのは、お母さんと息子さんを悲劇的な結末から誰も救えなかったことです。
すべての神様が背中を向けているうちに、神様たちの死角で亡くなってしまった。
そうしか言い表しようがない気がします。


私は、息子さんのお名前の一文字を、我が家に来て1ヶ月半ほどが経過していた猫の瑠(りゅう・当時5歳)に頂戴しました。
もともと「リュウ」と呼ばれていた彼には、「ウチで名前を新しく付け直そうかな」とも思っていたのですが、ヘルパーさんたちに「リュウくん」で定着したので、「ま、いっか」と。
「どういう漢字にしようかな」と考えていたときに、この事件が報道されました。
私は
「生まれて3年も生きなかった、ほとんど誰の記憶にも残らなかったであろう息子さんのことを、せめて忘れないでいよう」
と思い、息子さんのお名前から一文字を頂戴して、「リュウ」を「瑠」にしました。
この経緯は、本ブログ:「大阪・天満 母子変死事件報道から1年」に少し詳しく述べています。

お花とケーキを買って来て、お二人のご冥福を祈りました。
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漢字を頂戴した瑠は、8歳になりました。
カメラが好きじゃない瑠、なかなかカメラ目線バッチリの写真は撮れません。
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3年後の2016年5月、同じような状況のお母さんとお子さんの状況は、良くなったのでしょうか?
「良くなった」という実感は、正直なところ、ありません。
 良くする方向性に向かう芽が、たくさん生えてきたのは事実だろうと思います。
でも、枯れる芽もあれば、おかしな方向に向かう芽もあります。
その間にも、介入や援助の必要な子どもたちは、その年齢で必要な経験や配慮が得られないままで育っていくのです。

伝える人間に出来ることは多くありません。せめて、出来ることをするしかありません。
そんなことを考えながら、ケーキをいただきました。
自分の心と身体のエネルギーは、出来ることをするためにも必要ですから。

 
お母さんと息子さんが同じ町内のご近所にいたら、私に何か出来たでしょうか?
たぶん何も出来なかっただろうと思います。
生き延びて今日を迎えている自分は、
「無力だけど、しないよりマシ」
と自分に言い聞かせながら、出来ることをするしかないのです。 

それは、確かに本題ではないけれど? - メディア取材が見ても見えない「貧困」

2014年4月27日のNHKスペシャル
調査報告 女性たちの貧困 ~"新たな連鎖"の衝撃~
が、貧困の本質的な原因や脱出方法に触れていないとして批判されているようです。 
TVを所有していない歴31年目の私ですが、NHKアーカイブスで見てみようと思っています(問い合わせてみたところ、本日18時から公開予定とのことです)。

TVメディアは、生活保護抑制を明確に企んでいるのでしょうか? 
もしかすると、そうなのかもしれません。 
でも、それ以上に思い当たる可能性は、「当事者や問題が見えていない」ということです。
目の前にまぎれもない生活困窮者がいて貧困に由来する問題を抱えていても気付かず、したがって支援の必要性も感じず、取材はしても報道する必要性を感じない。そういうメンタリティの問題であるのではないかという気がしています。
もしそうなのであれば、噂される「メディア・スクラム」よりも、さらに深刻というべきではないでしょうか。

そしてそのメンタリティは、リーマンショック以後、あるいは生活保護バッシング以後に始まったわけではなく、もっと以前から存在した可能性があります。
困窮状態に陥った人が救われないことを問題とした番組は、水島宏明さんの「母さんが死んだ」(1987年)以後、どれだけ制作されているのでしょうか?
人はさまざまな理由で、簡単に困窮状態に陥ります。そこで救われにくいこと、具体的にいえば生活保護を受けられないことは、非常に深刻な問題なのですけれども。


2007年11月21日のmixi日記より。
夕方、調剤薬局で調剤を待っていた時、偶然見た民放の番組についてのメモ。
2007年11月21日21:08
(略)
さて、今日はたまたまちらっと見たお店のTVで、某地方の交通違反の取りしまりの様子を放映していました(民放)。ぶつけて逃走したり、酔っ払い運転したりしたら、そりゃあいけませんがな。 
だけど、 
「仕事がなくて(その地方はホントに深刻に仕事がない)、家賃が払えなくなって、子ども二人を車に乗せて車上生活している」 
という男性が、他の車にぶつけて(正面じゃないけど)逃走して警察に見つかって起訴される……という様子を追っておいて、その親子三人の生活に何の関心も向けずに「はい次」というのは、なんだかなぁ。 
私がどちらかというとTV嫌いになってから、もう20年以上の時間が経ってるけど、なんか最近、見ると呆然とすることが多いっす。もはや、好き嫌いの対象にすらなりませんわ……。
現に、住まいがなく学校にも通えていない子どもたちがいるというのに。その子どもたちの父親は深刻な困窮状態にあるのに。だから、逃走しなくてはという強いモチベーションが働いたのでしょうに(逃走してしまえばいいと言いたいわけではありません)。そんなことには、全く触れられなかったのです。
カメラは、子どもたちの姿まで捉えていたのに。

いまどきのTVメディアの苦しい事情は理解しているつもりです。
でも未だに、思い返してみて「これはないだろう」と思っています。 

「考える人間」に育つには? (3)再び、我が子へ:自分の立場に対して

「考える人間」に育つには?

(1) 我が子へ:日本の学校教育というものに対して
(2) 学校教員たちへ

の続編です。

「我が子」として想定しているのは、
「もし、我が家の猫の摩耶(16)が、人間の高1女子だったら」
です。
収入の不安定なシングルマザーである私の娘、摩耶は、
「本当は行きたい高校が、公立にも私立にもあったんだけど、
 私立は受かったけど行けず、
 公立は安全圏を狙って、ちょっと不本意なところに」
という感じで高校受験。
学区ナンバー3かナンバー4くらいの、
進学実績をあげようと教員たちがやや必死になっている
都立高校の全日制普通科に通っている。
一応、大学進学希望。まだ文系か理系かも決めていない。
おかーさんからは、つねづね、
「うち、大学だったら国公立か夜間しか行かせてやれないからね」
と言われているけれど、
「進学はさせてやれないから、就職して、家にお金入れて」
とは言われていない。
……そういう設定とします。
我が家の文化的バックグラウンドや、
私自身が勉強をかなり見てやれることを考えれば、
学習・知能に特にハンディキャップがなければ、
摩耶は、それが可能な程度の発達は自然に遂げていそうだからです。

私の住む学区には、
制服がなく自由な校風で知られる都立高校もありますが、
不本意にもそこを受験できなかった摩耶は、
ちょっと気に入らない制服や、結構ヘンな校則のある高校に進学。
一年が過ぎかけています。

本エントリーのお題は、制服と校則についてです。

制服と校則に対して、
親・子それぞれ、または親子ともが、
どう考え、どう対応できるか。
親と子どもがどの程度話をできているか、
親を子どもがどの程度信頼しているか、
そういったことを試す良い機会になりそうです。
 
私は福岡県の女子中・女子高に通っていました。
福岡では、名門女子校として知られている学校の一つです。
制服で学校の外にいると、
その制服を性的な記号としてしか見ないオヤジが多くて
つくづく困惑しました。
高校3年の1学期まで芸術系への進学を考えていた私は、
制服のまま、音楽のレッスンなどに通う機会が多く、
しばしば22時台の終バスを、バス停で待つことになりました。
すると、ちょっと一杯ひっかけたらしいオヤジが
「◯校の生徒って、本当は乱れてるんでしょう?
 飲みに行こうよ、タクシーに乗ってラブホ行こうよ」
などと、しつこいのです。
そこまでのことがなかったとしても、
「躾に厳しいはずの名門女子校の制服に身を包んだ中学生・高校生女子」
という性的記号としてしか見られていないな……という場面は
かなりの頻度でありました。


そして原家族とその周辺には、
そういう相談が出来る大人は全然いませんでした。
むしろ、進んで性的な記号にならないことを
責めるような大人が圧倒的に多かったのです。
そうじゃない大人も少しだけいましたが、
発言力は、いないのと同程度に少なかったです。
でも、一番辛かったのは、そのことではありません。

その女子中・高が
「お金持ちの子どもの行く学校」
とされていたということは、
私をかなり長い間苦しめました。
制服で福岡市中心街に出ると、
「あしなが育英会」の高校生が募金に立って、
「よろしくお願いしまーす!」
と声を張り上げていたりします。
たいていは、市立や県立の、あまり偏差値の高くない高校の制服です。
名門女子校の制服を着た私は、
どんな顔をして、何と言って募金に応じれば、
あるいは応じなければ良いのでしょうか?
たいていは、黙って頭を下げて、
小遣いの中から一番大きいお金を渡しました。
「ありがとうございます!」
という声が返ってきます。
それは辛い時間でした。
なぜ、目の前の同世代の高校生が、
同じ高校生に献金されて感謝しなくてはならないのか。
理不尽極まりない話です。
でも、この問題を、一人の高校生が解決できるでしょうか?
はっきり言って、無理です。
問題意識を抱えたまま、少しでも解決できる大人になること。
それ以外に解決の道はありません。
だから、私は自分を責めずに、
高校生活を充実させ、勉強し、進学すべきだったのです。
……当時の私に、そう言ってくれる大人がいれば。
今でも、ときどきそう思います。

摩耶が同じようなことで悩んでいたら、
おかーさんである私は、
自著「生活保護リアル」の「江戸川中3勉強会」の章にしおりを挟んで、
黙って渡すと思います。

「もう読んだし!」と言われちゃったら、こちら。


校則というものは、ある意味で
「これを守っていれば公的には罰されません」
という学校内ガイドラインです。
私は、校則を厳格に守っていました。
私の母親は、しばしば制服のスカート丈を勝手に長くしては
「短いとみっともないから、お母さんがしてやった、だから!」
と、嫌がる私を無理やりそのまま学校に行かせました。
その日が風紀検査だったら、
私は校則違反でとっちめられるわけです。
それ以外では、私は校則違反は一回もしていません。 
そのことは、私の学校内での居心地を、
良くもしましたし、悪くもしました。
校則を重視する教師たちのウケはいいのですが、
同級生からのウケが良いわけはありません。
校則より大事なことがあると考える教師たちからも、
強い風当たりを受けることになりました。

基本的には、制服や校則といった
「世の中の『理不尽』なルール」は、
そのようなものをめぐって、どう考え、どう行動するか。
親子で鍛えられ、親子で成長する良い機会だと思います。
そもそも「理不尽」という言葉は、
制服や下らない校則について使うものではないと思います。
お金はやや(かなり?)不足気味の、
シングルマザーの子どもとして育ったけれども、
ほどほど・そこそこ・まあまあの愛情と、
やや多すぎるかもしれない知的な刺激を受け、
そこそこの都立高校に行けて、
進学の道も閉ざされてはいない、
摩耶のような高1、世の中には少なくないでしょう。
 おかーさんに充分なお金はありませんが、知恵や経験はあります。
 おかーさんのたくさんの友人たちも、
 摩耶の進路相談や将来計画の実現に、
 知恵と力を貸してくれるでしょう。
 しかしそれは、おかーさん自身の
 大学院博士課程満期退学という学歴と
 大いに関係ある話です。
 おかーさんの友人に、
 博士号取得者はいったい何人いるんでしょうか。
 数えたことはありませんが、100人近そうです。 
 子どもが育つにあたっての、大変な無形資産です。 
一方で、お金も愛情も成長への刺激も不足し、
そこまでも到達できない子どもがいます。
「理不尽」という言葉は、そういうことに対して使うべきだと、
おかーさんである私は思うのです。

こんな時代ですから、
より良く、より深く考える存在に。
よりタフな存在に。
変化し、成長する機会は大切です。
親子とも、ね。

正しい「他人ごと」の態度とは? 子ども・子育て問題と私

私の周囲は、出産ラッシュです。「少子化」とは、どこの誰の話なのでしょうか。

共通していることは、30代以上、それも30代後半以上での出産が多いということです。
避妊に失敗した結果の妊娠もありました。
悩みに悩み、迷いに迷っての妊娠もありました。
子どもを失ったお母さんの、最後のチャンスに賭けての妊娠もありました。 
共通していることは、 
「悩んだり迷ったりしたけれど、お母さんが、または両親が、主体的に選びとっての出産」
ということです。

父親たちの育児への協力ぶりは、いろいろです。
積極的に 育児に関わる父親もいれば、妻が嫌がるので「イクメン」にはならないという父親もいます。

かくいう私は、
「仕事も家庭も子どもも」
と強く望んで、失敗した口です。
仕事と家庭・子どもの二者択一で、私は仕事を取りました。
家庭と子どもがなくても、生きて行けます。
でも、仕事がなかったら、 生きていけません。
そして、子どもを持つチャンスを逃したまま50歳になろうとしています。 

子育ての経験はありませんが、子育てが大変なことは理解できます。
3人きょうだいで、一番下とは9歳違い。
ただ、子育てそのものを親として体験したわけではありません。
自分が子どもだった時期も、遠い昔になりました。
子育てにまつわる問題も、いま現在子どもである人たちの問題も、 理解はできますが共感はできません。
そして最近、それでいいんだと思うようになりました。

困難に向き合っている母親たちは、父親たちは、子どもたちは、共感してほしいと思っているとは限りません。
共感はできないからこそのクールな関わりと、当事者ではないからこその問題解決思考が、困難に向き合う人々を救うかもしれません。

クールに関われて、当事者の感情を持たないからこその問題解決思考をまとった大人として、
子育てという難事業に関わる人々や、
これから育っていくという難事業を成し遂げようとしている子どもたちの近くにいること。
無理をせずに支えられるときに支えること。

当事者じゃないからこそ、所詮は「他人ごと」だからこそ、できることがあるのでは。
最近、そんなふうに思うようになりました。



以下、アフィリエイトです。

私が「子どもをほしい」と思っていた時に読んでいた本です。


子どもの貧困は、ただ、その子どもが現在貧困であるということではありません。
数多くの機会を、将来にわたって奪うということです。

中学生と小学生の子どもがいる家族が困窮し、生活保護で周囲の人々ともども再生していく物語です。


拙著です。一章を子どもの貧困の問題に宛てています。
ソフトカバー版

Kindle版


12月4日発売の「フライデー スペシャル」に、インタビューを掲載していただきました。
貧困の中で子ども時代を送った生活保護当事者の方を、お一人紹介しています。
 
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「おしゃべりなコンピュータ
 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


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 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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