みわよしこのなんでもブログ : 合理的配慮

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


合理的配慮

[雑感]病気で体調の悪い首相は、退陣しなくてはならないのか?

本日2020年8月28日、安倍晋三首相が辞意を表明したとのことです。理由は、病気による体調不良とのこと。自民党内部でも世の中でも、特段の疑問は示されていません。当然と受け止められています。
 でも私、「あれっ?」と思ったんです。それって当然?
 (本記事はnote記事の下書きを兼ねています)

  • 「わけあり」職業人を排除しない流れ
 まだまだ不十分ですけど、日本は「わけあり」職業人を排除しない方向に進んできました。
 職業人の前提が「男性・健康・18歳~65歳くらい・独身または専業主婦の妻あり」というものであったことは、日本社会からじわじわとパワーを奪ってきました。
 報酬は、仕事そのものに対するだけではなく、その人に扶養されている家族の分まで支払うことになります。社会保険料も。本人が中高年になるころ、家を購入したり子どもが高校や大学に進学したり、そこに親の介護が発生したりします。やたらとお金が出ていく時期を支えるためには、年功序列の高給を支払うしかありません。長期安定雇用が「定年まで会社のモデルに沿って勤め上げれば、家も買えるし、子どもを大学に行かせられるし、老後は年金があるし(これは怪しくなってますが)」という暗黙の約束だった以上、簡単に「今のあなたは、仕事に対して高給すぎるから、出ていけ」と言うわけにはいきません。
 専業主婦の妻を前提にしていると、「妻が働いていて2馬力だから、夫が失職してもなんとかなるだろう」というわけにはいかないし、妻の収入や納税を当てにするわけにもいかないし。
 自公政権と雇用サイドの都合だけを考えても、「男性ではない」「健康ではない」「健常ではない」「出産したり育児したり介護したりする」「高齢」「家庭や家族に対する責任を負っている」といった”わけあり”の人々を職業人の世界から排除することは、メリットが全然なくデメリットだけです。
 どちらかといえば自公政権のもとで不利な扱いを受け、雇用される弱い立場にある人々にとっては、なおさらそうです。
  • 障害のある国会議員もいる
 現在の参議院には、重度障害を持つ2人の議員がいます。「れいわ新選組」の木村英子氏と舩後靖彦氏です。2人は、リクライニング車椅子に乗って介助を受けながら国会議員の役割を果たしています。木村氏の障害は固定したものですが、舩後氏は進行性疾患であるALSを患っています。2人は、「健康かつ健常」というわけではない”わけあり”議員ですが、そうであることが議員としての存在意義の一部をなしています。障害や病気を持つ人々を当事者が代表しているわけですから。
 地方議会でも国会でも、障害や病気を持っている議員が当然の存在になり増加していくこと自体は、問題にできないはずです。もしも問題なら、「妻が働いていて家事育児を担わなきゃ」「出産と育児をしながら仕事はやめない」という議員だってアウトですよね? いずれは「閣僚の1人か2人は障害者または病人」という状態が当然になるのではないかと思います。

  • 「病気だから辞めなくてはならない」ということはないはず
 私自身は、安倍首相を全然支持していません。そもそも、辞める辞めないは本人が決めることです。しかし、「病気で体調が悪いから辞めるのは当然」だとは思いません。
 治療を受けながら、苦痛を緩和しながら、首相の仕事を続ける選択肢はあったはずです。立って歩行したり椅子に座ったりするのが苦痛なのなら、苦痛を緩和できる車椅子で仕事すればいいじゃないですか。国会にはちょうど、木村英子さんや舩後さんという大先輩当事者がいます。相談したら、大喜びで器具選びのアドバイスを提供するのではないでしょうか。
 一国の首相が、車椅子のような補装具をフル活用して介助を受けながら職務を遂行する姿は、決してネガティブなものではなく、むしろ「日本の多様性尊重はタテマエではなく本気です!!」というポジティブなアピールになることでしょう。問題は職務の内容ですけど。

 安倍首相には、「病気と体調から辞めるのが当然」と言うメッセージを発してほしくなかったと思います。2014年、第二次安倍政権下で、日本は国連障害者権利条約の締結国となりました。病気があって体調が悪くても職務を継続しようとすることは、この条約のコンセプトにも適っています。実のところ、実行する気はなく、仕方なく締結した条約なのでしょうけど。

 ともあれ、安倍首相にはゆっくり休養していただきたいものです。
 そして今後の閣僚や国会議員には、「病気だから辞める」「障害者になったから辞める」という選択は本来はしなくて良いものであり、ご自分がそのような”わけあり”議員になったからこそ、日本のあちらこちらにいる”わけあり”の人々を代表できるのだと考えていただきたいものです。

[エッセイ]「違う、そんなの美談じゃない!」 ~ 障害者差別に怒らない「寝たきり社長」のエッセイと感想への応答

本ブログは、note記事の下書きを兼ねています。

 「寝たきり社長」こと佐藤仙務さんの連載エッセイ『寝たきり社長の突破力』、2020年8月13日に公開された「差別されても 障害者の私がネガティブ投稿しないわけ」を読んで、私は正直なところ、頭を抱えてしまいました。記事の内容は、タイトルのとおりです。

 もちろん、佐藤さんご自身がそういう選択や表現をすることについて、外野がとやかく言う筋合いはありません。しかし、そのエッセイを読まれた健常者の方々がどう考えるか。それは障害者に対してどういう風当たりとなるか。リアルに想像できるだけに、どうにも落ち着かないのです。

 そして本日、Yahoo!ニュースでも公開されていることに気づきました(新聞社との契約により数日後には消えるのですが、一応URL)。コメント欄を見ると案の定。想定範囲内のコメントが並びます。私よりも立場の弱い人々のことを考えると、とても黙っているわけにはいきません。

 以下、典型的なコメントの分類と、それぞれへの応答です(太字は筆者による)。

  • 「権利の主張ばかりではダメ」論
権利を主張することも時には大事だけれど、そればかりだと現実社会では人は離れていってしまうからバランスが大切ですよね。
特にSNSでは意図していない方向に話が転がっていってしまったり、むやみに炎上してしまう可能性があり、ネガティブなことは発信しないに限ると思います。

 日本の教育が、「人権」を理解とともに腹落ちさせることに失敗しているということでしょうね。人間としての権利を主張し、差別に対して異議申し立て(実質的に怒りの表明や告訴になります)を行うことは、現実社会で処世術を駆使しながら生きていくための基盤になるものです。「人が離れないようにバランスよく権利の主張を」では権利主張にならないし、「ネガティブ発信は避けたほうがいい」というのは一般的な処世術。本人の人権あっての話です。

  • 「良い障害者なら支援に値する」論
支援してもらうのが当たり前、自分の思い通りにならないとやれ、差別だと騒ぎ出す。そんな障害者(と周囲の人間)が増えている。そんな状況だから、支援を求められれば応じてもあえて自分からすすんで支援の手を差し伸べようとする気持ちは私にはない。でも、自分の権利だけを主張することなく支援する側の事情や気持ちを考える、記事のような人には最大限の支援をしたいと素直に思う。

 コメントを書かれた方が「差別」を理解しているのかどうか疑問です。ともあれ、典型的な「良い障害者と悪い障害者を分断してよい」「悪い障害者なら支援されなくてもしかたない」論。それ自体が差別なんです。
 障害があろうがなかろうが、ヤな奴はヤな奴、迷惑をかけられたら迷惑ですよね。そこに障害をからめる必要はないはず。
 しかし相手が障害者などマイノリティである場合、ヤな奴だから「あっちに行け」と言い、迷惑だから「その振る舞いをやめてほしい」と言っただけなのに、「差別だ」と言われる可能性を気にしなくてはならない現実は、確かにあります。それは私の現在進行形の問題ですから(ただし、差別する側として)。面倒くさいっすよね。
 たとえば、単に「男性からボディタッチされたくない」というだけなのに、相手が生活保護で暮らす障害者だったりすると、あとで「生活保護差別」「障害者差別」と言われる可能性を覚悟しなくてはならない現実は、私にもあります。数カ月後に「生活保護について記事書いてる障害者なのに差別した、あいつ酷い」という噂話が派手な尾ひれつきで流布されていると知るといったことは、数え切れないくらい経験してますよ。でも、私が「この人と性的な関係になりたい」と思っているわけでもなんでもない男性にボディタッチされて我慢しなきゃいけない理由は何もありません。だったら「その場で肉体的に反撃してやめてもらう」というのが正解であるようにも思えますが、相手の身体のコンディションをよく知らないと、躊躇してしまいます。指や腕を捻ったら骨折するような身体(たとえば糖尿病による下肢不自由だと、大いに考えられます)だと、物理的な手出しは、ちょっとね……。
 この面倒くささを無くす方法は、日常から差別をなくすことしかありません。障害者差別が事実として全くない社会なら、障害者に対して「お前はヤな奴だ」「その振る舞いやめろ」ということは、単にその人が「イヤだ」と思う相手に「イヤだ」と言い、やめてほしいと思った振る舞いを「やめろ」と言っただけになります。もちろん、犯罪レベルで”やりすぎ”になってしまったら、相手が健常者である場合も障害者である場合も、同様に問題になるだけです。
 障害者差別に対して言挙げする障害者たちの多くは、そういう社会を目指したいと考えているのではないかと思います。国連や国際人権団体が考える「障害者差別が解消された状態」はそのようなものですし、私自身もそう考えています。
 日本政府も一応、そのように考えたので、障害者差別解消法を制定しました。それらの国内法整備があったから、国連障害者権利条約を2014年に締結できたわけです。しかし、次のコメントを読むと、まったく効果ないようですね。

  • 「合理的配慮をしないことが許されないのは苦しい」論
障がい者差別解消法が施行されてから、
本音と建前、この人までは対応できるがここからは無理が許されなくなり、ややこしくなった。
大家さんも人間だし、不都合があったとき全部被るのが自分だから、
あまりにも手に余るケースは尻込みするだろうに。
入居時は大丈夫大丈夫、傷もつけない、自分でやると言い切るが、
実際にぼやでもおきれば、やれ避難経路が確保できないからこれじゃ死ぬとか、
この状態で契約してるんだから整備するのが合理的配慮だとか、
そんなことになるんだよ。
映画館でも、介助が一人いるとして、ストレッチャーなら緊急避難時には後二人は必要だ。
平日でキリキリで回してる映画館だと、厳しい時もある。
両者の合意がなければ結べないのが契約のはずなのに、
断る自由が許されない。
この人は引いてくれたけど、引かないと思えばどこまでも闘ってくるから…。
定員割れ高校の件みたいに、何年も。
きついよ。

 この方は映画館にご勤務のようですが、民間事業者に求められている合理的配慮義務の範囲を全くご存知ないようです。愚痴る前に、担当省庁に問い合わせてみられてはどうでしょうか。建物が古くて対応が難しい商業施設や小規模事業者にまで、ゴリゴリに要求されているわけじゃないんですよ。無理だもん。特に、日本は超絶ユルユルです。
 合理的配慮を「建前」として掲げ、本音では「提供しません」というのは、どうしようもなく差別です。しかし「この人までは対応できるがここからは無理」の限界を超えた合理的配慮の提供は、その企業や施設の規模等によりますが、通常は要求されていません。
 ご自分の無知を障害者のせいにされては困ります。さらに職業の場においては、雇用者や施設責任者には周知させる義務があります。結果として、この方のご勤務先のしょうもなさまで明らかになっています。
 「引かないと思えばどこまでも闘ってくるから…。」という「定員割れ高校の件」は、コミュニケーション障害や知的障害を持つ重度障害者が、定員割れしている高校を受験しても合格しないという事例です。今、高校までの教育は事実上義務教育のようなものになっています。そして、障害者差別をしないことを国際社会に約束した日本(国連障害者権利条約を締結するとは、そういうこと)は、障害児を特別支援学校に分離して教育するスタイルを減らしたりなくしたりする義務を負っています。その方々が特別支援学校の高等部ではなく、あくまで高校受験と高校在学にこだわっている背景は、そういうことです。「Yahoo!ニュースの読者さんには伝わっていない」ということでしょうか。


  • 妊娠経験からの「感謝すると優しくされやすくなる」というご意見
この記事を読んで、すごく勉強になりました。
妊婦の頃は席を譲ってくれない、
乳児を抱えて電車に乗れば舌打ちされる、
子連れで店に入れば何もしてないのに睨まれる、
こんな理不尽なことを経験するたびに、自分も含め、怒りに震えてきた人多いと思う。
でもそれって、心のどこかに、妊婦は席を譲って当たり前、妊婦は優しくされるのが当たり前、という思いがあったから、
それがどことなく伝わってしまっていたのかな、なんて思います。
すべてに対して感謝しまくっていると、
だんだん周囲の対応も変わってくるような気がします。
周囲にペコペコ頭下げながら感謝しながら、泣き喚く赤ちゃんを汗だくであやしてるママさんを見たら、
誰だって席を譲ってあげたい、って思うだろうし。
障害者も妊婦も子持ちママも同じですよね。
全員が謙虚と感謝を持てば、社会はすごく良くなっていくと思う。

 私には妊娠・出産・育児の経験はありません。そして、電車やバスの中で赤ちゃんが泣きわめいていたり幼児が聞き分けない様子であったりすると、別の意味でムカつきます。親御さんが恐縮していると、さらにムカつきます。泣く赤ちゃん、暴れる子どもに対して不快をあらわにし、親に責任を問おうとする周囲の人たちにムカつくのです。
 親御さん(たいていは母親←これも問題)は恐縮して、赤ちゃんを早く泣き止ませようとしたり、幼児を静かにさせようとしていることが多いです。しかし、特に親御さんが母親である場合、非難がましい視線や声がお母さんに向けられます。父親である場合はそうでもないのは、なぜでしょうね? 
 親御さんが、赤ちゃんや幼児を放置しているように見える場合もあります。疲れ切っていたり、「どうすればよいのかわからない」という様子であったりします。周囲からの非難の視線や声は、さらに非難がましくなります。
 私はそういう時、先手を打ちます。「赤ちゃんは泣くのが仕事ですよねえ、元気でいいですねえ」「子どもは暴れるのが仕事(以下同文)」と親御さんに話しかけ、その赤ちゃんや幼児の月齢年齢や性別や名前を聞いたりします。親御さんと私が和やかに話していると、赤ちゃんの泣き声のトーンは下がり、幼児は話に割り込んでこようとします。自分のことが話されているわけですからね。そうなればしめたもの。どの駅で降りるのかを聞き、その駅で無事に降りられそうか周囲を見ながら、赤ちゃんや幼児と遊ばせてもらいます。生育にかかわる責任を一切負っていない通りすがりのオバサンがそのくらいしたって、バチは当たらないでしょう。
 生涯ただ1回きり、あるいは、せいぜい2回目の子育てで経験を蓄積するところまで至れないイマドキの親の事情を理解してアクションすることは、子育て世代よりも年長の世代の務めではないでしょうか。母親に「必死で恐縮して席を譲ってもらう」というライフハックを編み出させてしまうことは、日本社会の、特に年長世代の失敗。「みんなが協力して配慮してくれるから、子育ては楽しい♪」と思われるくらいで、ちょうどいいんです。少子化って、日本の課題でしょ?
  • 「精神的成長」論
〉人は、人を批判することで一時的にすっきりするかもしれないが、本当の心の豊かさは得られないと知った。

自分は辿りつけていない境地だと思った。
反論したり、批判したりしなければならない場面はたくさんある。でも、時にはこう考えることも必要なのだろう。
すぐには変えられないかもしれないけれど、少しずつ意識していこうと思った。

 佐藤仙務さんが重度障害者であることを度外視すれば、特になんということはない、ありがちなコメントです。逆境を精神的修養の機会に置き換えることは、よくある合理化機制の一つであり、社会的弱者がエージェンシー(せめてもの主体性)を発揮する手段の一つでもあります。
 しかしながら、言挙げする障害者や言挙げするマイノリティの多くは、すっきりするために批判しているわけではないはず。そこへの眼差しが全く感じられないのは、なぜでしょうか?

佐藤仙務さんご自身は、何をどう書いたのか

 当該のコラム「差別されても 障害者の私がネガティブ投稿しないわけ」に書かれている内容は、以下のとおりです。
  1. オフィス探しで障害者差別に遭った。幼少のころから、差別される経験は重ねてきている。しかし今は、差別や世の中の理不尽とは決して真正面から戦わないスタンス。
  2. 映画館で障害者差別に遭い入館を断られたとき、SNSにその事実と怒りを示すと、顧客の一人に窓口の人に事情があった可能性を考えるよう示唆された。
  3. 批判をあからさまにすると、権利を盾に相手を傷つけることになる。
  4. 自分のせいで、他の障害者が色眼鏡で見られたり、親切にしようと思っている人への善意を踏みにじりたくはない。
  5. そこで自分のルールを変えた。理不尽なことや差別をされても、私はお陰様と感謝の気持ちを持つことにした。
  6. すると、周囲にたくさんの仲間ができた。普段親切にしてくれる周りの人間をより大切にしたくなった。
  7. 人を批判することで一時的にすっきりするかもしれないが、本当の心の豊かさは得られないと知った。
 エッセイには、幼少時からの経験、障害者団体の関係者からの意見なども記されています。狭い障害者の世界の「誰かが自分の苦痛を訴えただけなのに他の誰かを殴ったことになる」という複雑なアヤ、それを健常者中心の日本社会がどう見るかという問題は、おそらく意識された上での本エッセイだと見ています。なによりも冒頭で書いたとおり、佐藤さんには、思ったり考えたり書いたりすることすべての自由があります。

 ただ、上記「7」の「人を批判することで一時的にすっきりするかもしれないが、本当の心の豊かさは得られない」については、私自身の言論の自由を行使して、異議を申し上げます。
 障害者差別が行われた事実、怒り、悲しみといったものを表明する行為は、多くの障害者にとって、「批判することで一時的にすっきり」という性格のものではありません。誰かが表明しなくては、「そのような現実がある」「そのような苦しみが生み出されている」ということが知られないから、勇気をもって、極めて面倒な反応の数々や炎上を覚悟しつつ表明しているのです。
 少なくとも、私自身はそうです。イヤなことは、さっさと忘れたいですから。でも、私よりも声をあげにくい女性障害者たちは、もっと黙らされている可能性があります。だから可能な限り、黙らないようにしています。
 私は生まれながらの障害者ではなく、中年になってからの中途障害であり、現在は佐藤仙務さんの親であってもおかしくない年代です。そして、女性でもあります。このことが、佐藤さんと異なる認識と異なる判断をもたらすのは、当然でしょう。

 どうか佐藤仙務さんの本エッセイが、立場が弱く差別されやすい人々を抑圧するツールとして、健常者中心の日本社会で独り歩きさせられませんように。

障害者席にメリットはあるのか? → たいていは、ない!

サッカー・ワールドカップの会場で、車椅子に乗っていた男性が立ち上がっていたことがネットの話題となっています。
 車椅子から立つ…健常者が障害者チケ購入か

「立てる」「若干なら歩ける」は、「車椅子は不要なはず」「障害者ではないはず」の根拠にはなりません。日本の厳しすぎる障害認定基準においてさえ。そんなことをしたら、
「実際には車椅子が必要な障害者であるにもかかわらず車椅子など必要な補装具などの交付対象にならず、したがって生きていけない」
という人が多数困惑し、社会参加・生活・場合によっては生存までも断念しなくてはならなくなります。
まあ、「あれは障害を偽装しているのではないか」と言い立てたがる方々は、そういうことを問題にしているわけではなく、
「障害者席いいなあ、障害者席を利用しているのに障害者でなさそうに見える、けしからん」 
なのでしょう。自分たちの嫉妬が誰をどんなふうに困らせようが、知ったことではないのでしょう。

結論からいうと、障害者席は羨ましがられるようなものではありません。もし、件の立ち上がっていた男性が障害を偽装していたのであるとしたら、たぶん動機は「障害者席しか残ってなかった」あたりではないかなあと思いますよ。たいていは特に安くもなければ良い場所でもないので、もし他の選択肢があるのならば、積極的に買いたいものではないのですよね。
いくつか例をあげます。
  • 球場 
私は野球観戦の趣味がないのですけれども、友人の一人が野球狂です。神宮球場での試合観戦に誘われて、その気になって調べてみました。
 内野席・外野席とも、「障害者だから非常に安く良い席が使える」というようなことはないですよ。
神宮球場:車椅子席 

東京ドームの場合、内野席にしか車椅子席がありません。「安くていいから」というニーズを持つ車椅子族は考慮されていないことになります。
東京ドーム:巨人公式戦 チケット料金

障害者の多くは充分な経済力を持っていません。「障害者ゆえに、健常者同等に安い店や安い座席を利用できない」という問題は切実です。
日本では、ファストフード店や牛丼チェーン店の多くが車椅子でのアクセスを事実上阻んでいます。狭いスペースに座席を押し込み、しかもその座席が固定式であったりしますから。同じチェーンが米国内の店舗では、ちゃんと車椅子でアクセスできる環境を整えていたりします。入り口にスロープを設け、店内には通常のテーブルと椅子を設け(椅子を外してもらえば車椅子で食事できるように)。ADA(米国障害者法)で、そうすることが義務付けられているからです。日本には該当する法律がありませんので、スペースを食う車椅子族は事実上排除されるわけです。ダブルスタンダード。

  • 映画館 
車椅子席は、一番後ろであることが多いです。あるいは最前列の右端か左端。首が疲れるので、最前列の車いす席は車椅子族に結構不評です。

  • コンサートホール 
車いす席は、アリーナ該当部分の最後列の右端か左端であることが多いです。音が偏って聴こえるし、「自分は今回のコンサートでこれ(たとえばピアニストのペダリング)が見たい」といった固有のニーズが考慮されるわけでもありません。健常者だったら、お金払えば(そして空席があれば)自分のニーズに適した場所を選べるのに!

以上、正直なところ、
「なんで、こんなものが羨ましがられるかねえ?」
といったものばかりなのです。 
私は「もう少しマシになってほしい」と思う一方で、「今の日本では、この程度にしておかないと」とも思います。
「障害者が安くて(本人にとって)良い席を選べる」
という状況が用意され、その事実が広く知られると、今まで以上に健常者の嫉妬を恐れなくてはならなくなりそうですから。嫉妬によって悪意を正当化する健常者の暴走は、冷静な議論で止められるものではありません。その暴走で障害者や障害を抱えた人がどんなに困惑しようが、暴走する健常者の知ったことではありません。そして現在の日本では、政府もそのような健常者の暴走を政治利用します。私はそれを、佐村河内守氏の事件でイヤというほど見ました。恐ろしい。

怖くてコンサートにも映画にも行けなくなるより、ちょっとだけ料金を割り引かれて、条件の悪い席で、それでも「見る(聴く)ことくらいはできる」 に満足させられる方が、いくらかはマシな気がします。

人それぞれの「精神障害者らしさ」

私は2000年に統合失調症と診断され、2007年に精神障害者保健福祉手帳を取得しました。
当初は3級、2009年の更新で1級。これは正直「なんで?」と思いましたよ。開店休業に近いとはいえ著述業を営んでおり、研究が全然進んでいないとはいえ大学院にも通っていましたから。1級じゃ重すぎるんじゃないかと。
その後、失効に気づかないでいた時期がありましたけれども、2012年の更新で2級。2014年の更新で2級。まあこのあたりが妥当なところじゃないかなあと私も思います。
精神障害の級の定義は、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律施行令により、このように定められています。 

一級 日常生活の用を弁ずることを不能ならしめる程度のもの
二級 日常生活が著しい制限を受けるか、
       又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの
三級 日常生活若しくは社会生活が制限を受けるか、
       又は日常生活若しくは社会生活に制限を加えることを必要とする程度のもの

「著しい制限」だったら、私の場合もバリバリ加わってますよ。
 
まず、精神障害に独特の疲れやすさがあります。
精神的に、私は健常者に比べると非常に疲れやすいのではないかと思います。特に、対人関係ストレスに非常に弱く、激しい「人疲れ」をします。「ヘルパーさんが来る」さえ、「生きるために仕方なく受け入れている、非常にしんどい時間」という感じです。
ましてや、通常の日本的オフィス環境でのオフィスワークは、私には無理でしょう。
一時期の私は、半導体の設計を業務とする外資系企業でパートタイムのドキュメントエンジニアもやっていました。私は、「そこの環境だったら長期に勤務できるのではないか」という感じがしましたが、残念なことに会社が倒産しました。その会社の職場環境の特徴は、業務分担が明確・業務内容が明文化されており明確・必要とされるスキルや評価も明確 というところです。仕事はそれなりに大変でしたし、悪い評価がされるときは厳しいものではありましたが、そこの風土は私には非常に合っていたと感じています。
でも、日本的職場環境を前提とする限り、私にオフィスワークは無理でしょう。「雇用されて働く」はまあ無理だろうと思っています。著述業で何とか生きて来れたから、「雇用されて働く」が難しいことは大きな問題にはなっていませんが、障害によって職業機会を大きく失っていることは事実だろうと思います。

妄想幻覚は、「ない」と言える時期がほとんどない、という感じです。程度に大きな波があり、
「幻聴さん、ああ、いるなあ」
程度の時期もあれば
「幻聴がうるさくて行動できない、もう帰って布団かぶって寝る」
という時期もあります。 
うつ、不安その他の精神症状も、ちょっとした引き金で簡単に表面化します。
妄想幻覚・うつ・不安が表面化した(自分にとっての)不穏な精神状態になると、仕事どころではなくなります。だから可能な限り、「そういう状態に陥らない」という努力をするしかありません。すると「無理はできない」ということになります。よく寝て、ちゃんと食べて、ちゃんと風呂入って、極度に折り合いの悪い人間が近くにいたり、攻撃されていたりというような状況ではなくて……といった日常生活と職業生活の維持が、最大の予防策になります。 
それでも何年かに一度、 不穏になることはあります。一度不穏になってしまうと、通常の生活を営める状態に戻すのに1~2ヶ月かかります。そのロスを防ぐために、やはり「不穏にならない」が最重要、ということになります。
不穏化は、2005年1月以後「なし」を更新してきましたが、2014年3月に起こしてしまいました。引き金は、佐村河内守氏の一件です。
不穏になると、私は引きこもります。「外に出ても大丈夫なんじゃないか」と思えるまで、可能な限り引きこもります。 家の中で幻聴妄想について何かを話しているわけでもなく、ただ、可能な限り、布団をかぶってボーっとしています。「する」というより、「それしかできない」という感じです。そして、可能であれば仕事をします。しないと余計に具合が悪くなります。といいますか、零細フリーランサーの私が「仕事をしない」 ということは、そのまま収入に関する問題です。それは貧困妄想につながるので、精神状態の悪化を避けるためにも仕事はしたほうがいい、ということになります。

私の周辺の精神障害者たちは概ね全員が、自分の障害と折り合い、それが一定のハンディキャップであることは認めつつも、一つの個性や適性として生かしていく道を探っています。不適切な治療・治療環境として不適切な家庭などによって「こじれる」ことがなければ、だいたい30歳で折り合い、40歳で生かせるようになる感じです。
妄想幻覚がいわゆる「自傷他害」につながるケースはなくもないのですが、圧倒的に多いのは自傷なので、
自傷他害
と書かれるべきでしょう。
そもそも、妄想として現れる内容が「他害」を必要とするものであり、さらに「他害」によって解決できると(本人が)考えてしまうようなものでない限り、本当に「他害」に結びつくことは、まずありません。少なくとも
「既知外だから突然何をするかわからない」
ということは、全くないとは言いませんが、非常に少ないというべきでしょう。私には数多くの精神障害者の知り合いがいますし、「キレて叫び始めて自傷を試み始める」といったことも何回かは近くで見ていますが、「突然」は一度も経験していません。背景があり、「自傷するしかない」と本人が思いつめてしまって解けない状況があり、煮詰まった表情や声や態度が数時間前にあり、行動化したのでした。しかも1ケースを除いて全ケースが、他害ではなく自傷です。他害の1ケースも、殺傷を目的として手足を動かすというよりは、当たらないように殴るふりをするという感じでした。そのくらい、他害は少ないんです。

少しずつでも、こういうことは訴えていったほうがいいと思うので、書きたい・書けると思った時に書いていくことにします。
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 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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