「庶民感覚」「主婦感覚」「当事者感覚」は、私がどうにも違和感を感じてならない言葉です。
それはいったい何なのでしょうか? そんなに大切なものなのでしょうか? 

そもそも、「庶民」「主婦」「当事者」の範囲を定めるのは至難の業です。
たとえば、「庶民」の年収の上限はどの程度なのでしょうか? 
世帯年収が1000万円あっても
「家のローンと子どもの教育費で生活が厳しく、交通不便な地域に住んでいるため自動車を手放すわけにもいかず、スーパーで見切り品の食材ばかり購入している」
というケースは考えられます。
この一家は「庶民」なのでしょうか? そうではないのでしょうか?

「主婦」もそういう言葉ではないでしょうか。
「主婦」が意味すると誰もが考える内容は、「女性である」「家計を預かる」「家事・育児を担う」であろうかと思います。しかし、家計に対する責任範囲や権限も、家事・育児に関して行っているものごとの範囲も、各人各様でしょう。

「当事者」はさらに危ういものを含んでいると思います。
「障害当事者」でも「生活保護当事者」でもなんでも、すべての「当事者」は、「当事者にならないと分からないこと」を大小なりとも経験していると思います。
それでも、「自分は当事者だから言える」「当事者ではないあなたには分からない」と主張することは、自ら伝えることを放棄しているも同然だと思います。
もう一つ問題があります。
たとえば「障害当事者」には、難聴であることは確かだった佐村河内守氏は含まれるのでしょうか?
「生活保護当事者」には、漏給層(生活保護基準以下で生活している方々)は含まれるのでしょうか?
「当事者だから」「当事者ならでは」という主張は、同様の困難を抱えている人々を排除する可能性もあります。

もう一つ。
これらの「……感覚」は、包摂の文脈ではまず使用されません。排除や非難の文脈で使用されます。
例としては
「◯◯議員が6泊7日の海外出張に200万円を使用した、庶民感覚からして許しがたい」
という主張をあげることができます。
確かに、出張・滞在費としては高くついていることは否めないでしょう。私は14日程度の米国滞在を毎年行っていますが、総経費は多くても20万円以下に抑えています。
しかし、公務での出張であれば、旅費を安く抑えることよりも効果を求めるべきではないでしょうか。
20万円で100万円の効果しかあげられないのと、200万円で1000万円の効果があがるのは、どちらがよいでしょうか?
エコノミークラスでロクに眠れず時差ボケに苦しんでいる状態で現地での公務に向かってもらうのと、ビジネスクラスでじっくり眠って爽やかに目覚めて現地で公務に向かってもらうのと、どちらがよいでしょうか? 多額の費用をかけて選出し、一般サラリーマンの感覚に照らせば多額の報酬を支払っている議員です。報酬以上にしっかり働いて結果を出して貰ったほうがよいのではないでしょうか? 
そして、社会にどれだけの結果がもたらされたか評価して、次の選挙で投票したりしなかったりすれば良いだけの話ではないでしょうか? (現在の小選挙区制度は、その評価を妨げているのですが)
そこに「庶民感覚」を持ち出す必要は、全くないと思います。

「庶民感覚」「主婦感覚」「当事者感覚」とも、私は使わない用語です。
自分の経験に基づく「感覚」に依拠して、その「感覚」を持ち得ない誰かに対して何かを主張することは、伝わらない・受け入れられないという結果を自ら選択しているも同然です。
もちろん、収入面では紛れもなく「庶民」に属し、家計家事をマネジメントしているという意味で「主婦」でもあり、障害「当事者」でもある自分は、それらの経験や、経験に基づく感覚を持ちあわせています。
しかし、その感覚をもって自分の正当性を主張したり、相手に仲間と認識することを求めたり、その感覚を持ち得ない人を排除するようなことはしたくありません。
「消費税が5%から8%になることの打撃は、富裕層出身の政治家である貴方には分からない」
と声を荒らげるのは、
「障害基礎年金の他に若干の就労収入があり、生活保護基準に比べれば相当の余裕のある生活をしているけれども経済的に充分な余裕があるというわけではないという状況にある自分にとっては、消費税が5%から8%になることの経済的インパクトは、たとえば野菜の購入を……だけ控えるという形で現れている」
と説明して、「それでも全く伝わらなかった」という結果が出た後で充分だと思うのです。