東日本大震災発災の数時間後、福岡県に住む叔母(母の妹)から電話がかかってきました。
この叔母は子どもがなく、長年、私を我が子同様に心配し、愛してくれていました。
「発災直後から何回も電話していたがつながらず、やっとつながった」
ということでした。
「被災地へ電話をかける」は、災害時に行ってはいけないことの一つですが、そうせずにいられなかった叔母の気持ちは分かります。そして有り難く感じました。

この翌日、同じく福岡県に住む父親から電話がありました。
「壊れたりしているものはないか、こちらでも何か考えるから」
ということでした。
震度5強、かなり激しく揺れた築60年の我が住まいでは、門柱が折れ、部屋の中では本棚3本が倒れていました。二匹の猫たちを含めて誰も負傷しなかったのは、不幸中の幸いでした。
固定してあった本棚からは、段ボール箱に入ったままの「中井久夫著作集」が箱ごと飛び出し、私が仕事のときに座っていた椅子の上に落ちていました。もしそこに私が座っていたら、直撃を受けたわけです。
いずれにしても、生活ができるように屋内を片付けることが目先の課題でした(結局は、友人たちが2~3週間かけて行ってくれました)。
私は父親に、さっそく、明らかに補修等の手当が必要と思われるものの一覧表を送りました。Excelで、優先順位・重要度・対処の必要な時期などの情報を付して。それは特に多額の出費を要するものでもなんでもありませんでした。
父親からは電話があり
「受け取った、見た」
ということでした。この件について、父親はその後何も言っていません。3年後の現在に至るも、何も言っていません。何のために、父親はその情報を欲しがったのだろうかと思います。

次に父親と電話で会話したのは、2011年3月下旬か4月上旬だったでしょうか。父親は
「自分の意志で東京に住んでいるんだから、被災は自己責任」
と私に言ったのです。私に夫などの家族がおらず、子どもがおらず、一人で何もかもに対処しなくてはならないのは、父親によれば自己責任なのだそうです。私は人間の家族を持ちたいと長年望んでいました。そのことを話しても、父親は
「自己責任たい」
と繰り返すばかりでした。私は身体障害者なのですが、それも父親によれば
「自己責任たい」
でした。
私は
「つまり、父親は、私のために出費したくないということなのかな?」
と推測はしました。あくまでも推測です。
とにかくはっきりしているのは、父親が私に対して「自己責任」と言ったことです。それも、とてもとても嬉しそうな声で、軽い調子で。当時の博多では、居酒屋談義レベルでは、
「東北は気の毒だけど、東京はいい気味だ」
というような会話も、当然のようになされていたと聞いています。父親は、私に「自己責任」と言っても福岡の地域コミュニティでは許される、と確信していたのかもしれません。
どのような背景があろうが、言われた私は深く傷つきました。この悲しみ、この悔しさ、この情けなさは、未だに表現する言葉が見つかりません。

2011年4月ごろ、私の住まいでは屋根の雨漏りが発生し始めました。貯金を崩し、20万円ほどかけて補修し、他に損傷箇所がないかどうかを点検してもらいました。それは、住み続けるために、せざるを得ないことでしたから。父親には、補修についても費用についても話していません。大したことはなかったとはいえ、天災の被災を「自己責任」と言う人には、何も話したくありませんでした。
もし、父親の「自己責任」発言の真意が、
「どういう被害を受けていても、その被害状況について知りたくない、知ったら何らかの援助をせざるを得なくなるかもしれないから」
というところにあったのであれば、父親の希望は見事に叶ったということになります。父親とは、真意をきちんと質すような会話どころか、その後ほとんど会話といえる会話をしていませんが。
叔母は、その建物に住む私を心配し、「耐震補強をしては」と経済的援助の意志とともに申し出てくれました。いかし着工のタイミングを計っているうちに、昨年秋、着工どころではない問題が私の両親の方から持ち上がってきてしまいました。この込み入った事情について説明するのは容易ではありませんが、未だに着工できていません。
昨年秋以後、叔母との連絡も、ほとんど途絶えてしまいました。電話で会話したことが一度だけあります。私の方は、それまでと変わることなく話そうとしたのですが、叔母の方はそうではなくなっており、なんともギクシャクした会話となりました。その、最後の叔母とのギクシャクした会話も、何度も電話して出てもらえず、やっと出てもらえた時のことでした。
「ギクシャク」の原因として思い当たることは、私の方にはありません。その数日前に両親と接触して私が脅威を感じる出来事があったこと、私がその脅威感を正直にその場で表明したことくらいです。それ以外に思い当たることはありません。叔母と私が平穏に会話できなくなった理由の本当のところは分かりません。ただ、叔母が自分自身の平和な日常のために、遠く離れた東京に住む私よりも、身近で密接な関係のある私の両親との関係を重視するということは、むしろ自然なことかと思われます。
「電話しても出てもらえないのでは」「あの時みたいな会話になるのでは」と思うと、現在の私は、怖くて叔母に電話をかけることができません。それまでは月に一度は電話していました。近くに私の両親など近親者がいるとはいえ、一人暮らしの叔母が心配だったからです。でも、どうしているだろうかという気がかりを表明することも、できなくなりました。

さて、私の従妹の一人は、東日本大震災当時、福島県相馬市に住んでいました。従妹も福岡県出身なのですが、ご縁があって相馬の方と結婚したのです。
相馬は地震の揺れそのものが東京より激しく、その上、福島第一原発の問題もありました。従妹の一家は幸い、誰も負傷したり亡くなったりしなかったのですが、かなりの期間、避難生活を強いられたということです。従妹は、一時期は福岡の実家に身を寄せていたとも聞いています。
私は、従妹の被災について、「自己責任」とは思っていません。「大変だったんだろうなあ」と推察しています。
しかし、自分の意志で東京の大学に進学し、その後も東京に住み続けている私が東日本大震災に遭ったことを「自己責任」とした父親の論理によれば、自分の意志で相馬の方と結婚した従妹だって「自己責任」となるはずです。その父親は、従妹に対しては「自己責任」とは言いませんでした。ごく普通に、大変な目に遭った身内に対する同情や共感を示していました。 

なぜ相馬の従妹が「自己責任」でなく、東京の私が「自己責任」なのか。
未だに、私はこの違いを納得することができません。
東日本大震災以後、私は何度も何度も、父親の「自己責任」という発言を思い出して涙しました。
3年が経過して、私はやっと、
「もし私が相馬で同じような目に遭ったとしても、父親は私を『自己責任』とし、従妹は『被災者』にしたんだろう」
ということを納得することができました。
私が生まれてから50年、つまり父親との関係も50年ということになりますが、50年かけても、父親と私はそういう人間関係しか作ってこれなかったということです。ここまで破壊的な関係になっている以上、もはや改善の見込みはないでしょう。
今の私は、その身も蓋もない現実を認識することができるようになっています。その現実を認識できるようになって、よかったと思っています。
父親が不用意に、嬉しそうに「自己責任」と語ったからこそ、その認識に至ることができました。

今は、東日本大震災がきっかけで父親に本音をぶつけられた巡りあわせに、感謝しています。