みわよしこのなんでもブログ : 介護

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


介護

[メモ]ALS嘱託殺人に関して報道されていないけれど気になることがら

いつものように、note記事の下書きを兼ねています。

 2020年7月に報道が開始されたALS嘱託殺人(発生は2019年11月)に関して、報道は概ね、以下の5点に集中しているように思われます。
  1. 容疑者の医師たちが異常
  2. 呼吸器をつけて明るく楽しく生きている人たちがたくさんいる
  3. 安楽死の是非、安楽死の議論を行うことに関する是非
  4. 周辺の人々(介助者や支援者など)の記憶や思い
  5. 亡くなった林優里さん(当時51)の人となり
 どうも、私には違和感があります。

1. 容疑者の医師たちは異常なのか?

 「死にたいなら殺してあげますよ」という人なら、恐らくいつでもいます。2017年の座間9遺体事件もそうだったし。1998年には、「ドクター・キリコ」を名乗る人物が青酸カリ入りのカプセルを通販し、実際に飲んで自殺した女性がいました。当時、SNSはまだ出現していませんでしたが、「自殺系サイト」は珍しくありませんでした。



2. 呼吸器をつけて明るく楽しく生きている人は確かにいるけど?

 呼吸器をつけて、大変ながらも楽しい毎日を送っている方々は、私の直接知る範囲に多数います。
 そのお一人である練馬区の橋本みさお(日本ALS協会相談役)さんは、身体の状況は亡くなった林優里さんと同様ですが、人工呼吸器を装着して大活躍。ヘルパーが痰の吸引をできるように制度を創設するなど、最重度の障害者が生きて暮らせるように社会を変えてきたお一人です。
 それだけではなく、派手で可愛い服に身を包んでアイドルグループの追っかけを楽しみ、時には高級レストランで胃ろうから美食とワインを楽しみ、犬のポンちゃんのしつけに苦労していました(ポンちゃんは高齢のため既に他界)。
 私の身体障害が発生したとき、ALSも疑われていました。どういう病気か知らなかったのでネット検索してみると、最初に見つかったのが橋本みさおさんの暮らしぶりでした。こんな楽しそうな暮らしが最悪の可能性なら、何を恐れる必要があるでしょうか。私はヘラヘラ楽観的になってしまいました。楽観的なので、障害や難病に嘆き悲しむ私を期待する周辺の人々との間に軋轢が引き起こされることになり、むしろ私はその軋轢に困惑したものです。
 しかし、橋本さんのような暮らしは、全身の運動能力を奪われた難病患者や障害者の全員に対して「当然の権利」として与えられるものではありません。自ら支援者や介助者を組織し、行政に立ち向かうことの出来る人々だけが獲得できるものです。まだまだ、例外的な少数の人々が道を切り開いて「既成事実」を作っていかなくては、現在は生きられている人々まで生きられなくなるのが実情です。日本の障害者の間では、「障害者は、生きるために障害者運動家にならざるを得ない」と言い伝えられてきました。程度の大小はともあれ、それは2020年現在も事実です。
 問題は、障害者運動家として生きる道を切り開いていく「例外的な少数」に入れない人々、あるいは、障害者になったために否応なく押し付けられる運命や宿命の数々が存在することを受け入れられず、したがって「生きることを諦める」ということになる可能性の高い方々です。「障害者になったら特別な何かをしなくては生きていけない」という現実は、私自身にとっても未だに受け入れがたいものです。適応しなくてはならない現実だし、適応してきたから今があるわけです。でも、それで良いとは思っていません。



3. 安楽死の是非、安楽死の議論を行うことに関する是非

 生の選択肢の一つとしての「安楽死」は、私は「アリ」だと思っています。だから、実質的に選ぶことも選ばないこともできるようにしてほしいと思います。「安楽生」は選べないけど「安楽死」なら選べるというのでは、消極的に自殺を奨励しているようなものです。
 ところが現在は、闘う障害者、せめて道を切り開くリーダー的障害者にならないと、「安楽生」どころか「生きる」ことが実質的に選べないわけです。この状況を変え、障害者になったら誰もが安楽に必要な支援と資源を得て楽しく生きられるように、そういう障害者たちが頑張っているわけです。現状がこのようである以上、多くの障害者にとっては、生きて暮らしながら享受する「安楽生」の数々の選択肢の端っこに「安楽死」という選択肢があるわけではなく、生きて暮らすだけで消耗する日常から降りたいと思ったら死ぬしかなくなるわけです。
 私から見れば、安楽死を議論する以前の問題です。現状も現実も充分に知られていません。安楽死を希望する障害者たちのSNSでの発言を見ると、確かに苦痛や不安に満ちています。最初にすべきことは、何がその苦痛をもたらしているのかを見極め、苦痛や不安を減らしたりなくしたりするために必要なもろもろを提供することではないでしょうか。生きることを容易に可能にするための議論は、安楽死の議論に比べて、あまりにも不足しています。



4. 周辺の人々の記憶や思い

 林さんが嘱託殺人によって亡くなった以上、周辺の介助者や支援者が林さんに「この楽しい人生を明日も生きたい」と思えるようなケアや支援を提供できていなかったことは、事実として認めるべきでしょう。
 何がどのように欠落していたのか。あるいは、どのように、あってはならない虐待などの出来事があったのか。その視点からの検証が、少なくとも現在までの報道には見当たりません。
 とはいえ、報道機関がコメントや参考情報を求める対象は、生きて道を切り開くALS患者さんや介助者や支援者や家族にならざるを得ないでしょう。ALSの介助に対応できる介護事業所やヘルパーさんは、非常に少ないという現実があります。これ以上減ると「現在は地域で生きて暮らせているALS患者さんが、施設にはいらざるを得なくなる」といった成り行きも想定されます。コメントや参考情報が、辛うじて支え合っている介助者や支援者や家族の小さなコミュニティからしか出てこないことは、どうしようもありません。せめて「そういうものである」と理解し、「実はどうなのか?」を照らし出せる別の誰かの視点からのコメントを添えるのが、現状では精一杯でしょう。



5. 亡くなった林優里さん(当時51)の人となり

 ご本人は既に亡くなっており、深堀りしても新事実が出てくるわけではありません。
 私から見ると、林さんにとっての障害者福祉の使い心地が大変気になるところです。日本の福祉制度の多くは、社会的弱者に対する「これだけは、してあげる」という恩恵的な発想から脱しておらず、「基本的人権を無条件に保障する」というものにはなっていません。林さんのような高学歴キャリア女性は、想定範囲に入っていません。制度の「あなたのような障害者は想定していない」という言外のメッセージは、林さんにとってどのように感じられていたのでしょうか。高学歴で留学歴もある専門職、しかも今はALS患者ということで、あまりにもマイノリティになりすぎてしまったゆえの苦痛はなかったでしょうか。
 周囲の方々は、林さんに気遣いをされていたけれども気づいていなかった可能性が高いと思われます。その方々から聞き取っても、おそらく何も出てこないでしょう。



障害者コミュニティの「外」の方々に期待しています

 「このまま、林さんご本人の声はヴェールに隠されたままになってしまうのか」と思っていた8月4日、江川紹子さんのご記事に、「おおっ」と思いました。Yahoo!ニュースじゃないから安心して読めて、助かります。

【ALS患者・嘱託殺人】亡くなった林優里さんの発信が投げかける、社会への重い課題

 私の「おおっ」を抜き書きします。

 難病に限らず、「死にたい」という言葉は、「生きたいのに生きられない」というメッセージでもある。今回のケースについても、「どうすれば彼女は生きられたのか」との議論が必要だろう。

 死への願望がある種のタブーにされ、亡くなった林優里さん(当時51)の声がメディアであまり伝わっていないのは、それはそれで気になる。彼女のSNSなどを読むと、同じ難病の患者などと対話をしながら、患者自身の“命の権利”を訴え続けていたことがわかる。今回は、その発信から、彼女が社会に投げかけた重い課題を考えたい。

 死への願望をタブーとし、困難ななかでも前を向いて懸命に生きる人ばかりが登場するメディアの報じ方には、いささかの疑問を感じている。それで私たちは、本当に課題の重さを感じ取ることができるのだろうか。

 林さんは最後まで精神的に自立した日々を送っていた。「安楽死」を望んではいたが、それは自分の生を主体的に生きることの延長線にあり、背景には「心の安堵と今日を生きる希望」を切望する思いもあった。

 抜き書きした部分からは、「障害者と介助者と支援者のコミュニティの中で障害者が生きざるを得ないことについて、江川さんは実は詳細を相当ご存知であったり、解き明かさなくてはならない謎だと思っていたりされるのかも」と期待したくなってしまいます。ブログとツイッターに残された林さんの言葉も、丁寧に読み込まれています。難病や障害の当事者の方々から、江川さんは早くも期待されているようで、「安楽死の法制化 江川紹子さんとつながる」というmixi日記に一端が示されています。

 障害者のコミュニティの外からの視線が、「前向きに生きれば道は開ける」と「安楽死は認められるべき」ばかりでは困ります。まったく外の立場から、障害者が生きて暮らすことの現状を明らかにし、「死にたい」を増幅する要因は何なのか明らかにする記事がもっと増えることを願っています。

妹は本当に「そんなことはない」と思い込んでいただけだったのか?

私は3人きょうだいの一番上で、4歳下の弟と9歳下の妹がいます。
確か2002年に妹が、2003年に弟が結婚しました。
弟は、立派な学歴と職業を持つ女性と結婚しました。最後に噂を聞いた2013年秋時点では、二人の子どもの世話を私の両親に依頼したりしながら、共働きを続けているようでした。

2003年、弟が結婚した直後から、母親は
「アンタ、福岡に帰ってこれんとね?」
と私に言うようになりました。また、
「老後は嫁ではなく娘と暮らすのがいいと、(母親の高校の同級生は)みんな言っている」
と言うようになりました。
それは私にとって大変なプレッシャでした。
私は結婚はしないかもしれませんが、自分の仕事や自分の人生を組み立てて展開していきたいのです。
妹と弟が結婚したとたんに母親がそういうことを言い出したことに、私は激しい恐怖を感じました。母親に人生を奪い取られてしまう、乗っ取られてしまう、と。
親の老後については、10代のころから意識していました。自然に「ある程度は介護をするものであろう」と考えていました。きょうだい3人いるのだから、協力すればどうにかなるだろうと思っていました。でも、母親がこういうことを言い出したとき、私の中で何かが切れる気がしました。そんなふうに介護を押し付けられることに対しては、絶対にイヤだという気持ちが大きく湧き上がってきました。

妹とは現在は絶縁状態ですが(参考:妹との最後の会話)、2003年~2004年ごろは、まだ普通に会話のできる関係でした。
そのころ私は、「母親が自分の老後を私に頼ろうとしている」と妹に話しました。
妹は
「そんなことはない、お兄ちゃん(弟)のところに行くはずだ」
と言いました。
私は、
「お母さんは私に実際にそういうことを言っている」
と懸命に話しましたが、妹は相手にせず
「お兄ちゃんのところに行くはず」
と繰り返しました。
でも、当時の母親は実際に、私に対して執拗に「自分たちの老後を」という意味にしか取れないことを繰り返していたのです。母親が実際に言っていたから、私は妹に「お母さんがそう言っている」と言ったのです。それを妹が全否定するという図式でした。
繰り返しますが、母親が実際に「近くに住んで自分たちを介護してほしい」としか取れない内容のことがらを言っていたから、私は「お母さんがそう言っている」と言ったのです。妹の発言が事実をいくらかでも反映しているのであれば、母親が私にそんなことを言うこともなかったはずです。
私は何回も、妹に対して、
「お母さんはそう言っている」
と繰り返したのですが、妹は一度もそれを真に受けず
「お兄ちゃんのところに行くはず」
の一点張りでした。私は確かに、母親に何度も何度も、介護を求められていたのに。妹はなぜ、母親がそう言ったということも、私がそう聞いたということも、繰り返し否定したのでしょうか? 否定できたのでしょうか? 
そして2005年、私に運動障害が発生すると、翌年の2006年、父親が「ウチはもう関係ない」と私に言い渡したのでした。「自分たちの老後の介護力にならなくなった娘なんか要らない」ということでしょう。

最近の私は、この時期の妹との会話を思い返して、
「妹は、母親が実際に私に老後の介護を求めていることに気づいており、それは大変好ましいことだと思っていたので、『そんなことはない』と繰り返したのかもしれない」
という可能性に、やっと気づくようになりました。
当時も現在も、妹夫妻は弟夫妻と円満な関係にあるようです。妹の3人の子どもたちは、弟の2人の子どもたちと仲良く遊べる従兄弟であるようです。その円満な関係を壊さないためには、妹夫妻と弟夫妻が両親の介護をめぐって綱引きを繰り広げるような状況は望ましくないでしょう。
両親の介護が主に私に振りかかるという状況は、妹にとっても望ましい状況であるはずです。私を虐待した母親・その虐待を黙認していた父親を私が介護するとして、私の内心がどれほど辛く苦しい思いでいっぱいになろうが、妹は私に対して
「お母さんがどれほどお姉ちゃんのことを思っていたか」
を説教し、私が納得しなかったら平手打ちの一発二発を浴びせれば済むことです。高校生だった妹は、実際に25歳の私にそうしたことがあります。

原家族の中で孤立無援だった私の悲しみや苦しみを、妹が理解することは、永久にないでしょう。
遅すぎたかもしれませんが、私は、妹が私を痛めつけることなど何とも思っていなかったという可能性に気づくことができて、よかったと思っています。
 

「焼け跡闇市」世代の親たちのエピソード

私の父親は1933年(昭和8年)生まれ、母親は1939年(昭和14年)生まれです。
父親は「焼け跡闇市」世代、母親は小学校以後、戦後教育を受けている世代ということになります。 

この数年で、「焼け跡闇市」世代の親たちに対して疑問を感じるエピソードを、いくつか耳にしました。
そして「戦後日本を支えてきた高齢者への社会保障は手厚く」という論理に対して、Yesと言えなくなりました。 
下記のエピソードは、全部実話をベースにしています。ただし個人を特定されないように、細部は変えてあります。

エピソード1 

一流企業のサラリーマンであった父親(故人)、終戦時に19歳、従軍経験あり。専業主婦であった母親(故人)、終戦時に15歳。一人娘、現在47歳。
両親は一人娘を大切に育て、短大を卒業させた。一人娘は短大卒業後、短期の就職経験を経て、一流企業のエリートサラリーマンと結婚。夫婦仲は非常に円満。子どもが三人。子どもたちは既に就職。
父親は定年後、自営業を開始。一人娘の夫は、借り入れ等の保証人となっていた。
両親は年金・自営業の収入などで、老後の生活を謳歌していた。
両親の死後、父親の莫大な借金が判明。一人娘夫妻は家屋などの財産すべてを失うことになった。しかし、そのことで一人娘夫妻の協力関係は壊れなかった。不幸中の幸い。

エピソード2

公務員であった父親、終戦時に20歳。大学生であったため従軍経験はなし。専業主婦であった母親(故人)、終戦時に12歳。55歳・52歳・48歳の3人の娘がいる。
母親は55歳のときに脳疾患で倒れ、19年間、娘たちの介護を受け続けた後で亡くなった。3人の娘たちはいずれも大学教育を受け、専門性の高い職業についていた。伴侶や子どもがいる者もいた。娘たちは自分自身の家庭や職業をかなり犠牲にして、母親を介護した。父親は、働き続けることによって妻の闘病を支えた。
母親の死後、父親は親類の男子を養子に迎え、その養子に全財産を残すという遺言を作成した。父親によれば、家の跡取りは男子でなくてはならず、娘たちはもう不要なのだそうである。

安易な世代論に走るべきではないとは思います。
「焼け跡闇市世代は」で同世代の方々をくくってもいけないと思います。
この世代の、人として尊敬できる方を何人も知っています。

でも、高齢者や政治家たちから「家族の支えあい」「家族の絆」「共助」という言葉が出てくるとき、私はこれらの エピソードを思い浮かべてしまいます。
家族や支えあいや助け合いを破壊したのは若年世代ではなく、現在、高齢者となっている世代なのではないかと思うのです。

「母親の介護はできない」と判断した瞬間

母親は50歳半ばに達した頃から、自分が将来、介護を受けられるかどうかを心配し始めました。私が30歳に達しようとするころです。それまでの「結婚! 結婚!」というプレッシャが「孫! 介護! 孫! 介護!」となったのでした。
三世代同居環境で育った私は、高齢者を家族で介護することそのものには、特に抵抗は持っていませんでした。

東京で就職していた30歳前後の私は、数ヶ月に一度、母親からの電話で困らされていました。
「ヨシコぉ? お母さんやけど」
で始まるその電話は、何時間後に終わるか分からないのです。用事があるので切ろうとすると、
「お母さんがせっかく話してやっているのに!」
とか
「親をないがしろにする!」
などと母親が荒れるのです。
そして2時間後か3時間後、電話の向こうでドアの開く音がします。そうすると、母親は
「あ、お父さんが(弟が)帰ってきたから」
といって電話を切るのでした。 

その数時間の電話は、ほぼ一方的に母親が話し続けるだけでした。内容は、ご近所や親類の噂話がほとんどだったかと思います。誰がどこの高校に行ったとか、誰がどこに就職したとか、誰が結婚して相手はどういう人だとか。私が生返事していると、母親は
「大事なことなのに!」
と荒れるのでした。
30歳を過ぎた頃からの私は、興味のない話を延々と聞かされることだけではなく、話がいつ私への攻撃となるかビクビクしていました。たとえば
「高校の同級生の◯さんに孫ができた」
という話は
「アンタはなんで、親に孫を見せてやりたいと思わないんだ」
という攻撃に発展するんです。
こちらの方は、仕事が大変でそれどころじゃなかったのに。子どもは欲しかったけれども、子どもを持つことが可能な仕事の状況を整えることに悪戦苦闘していたのに。それは伝えようと努力しました。しかし、私が仕事の話をはじめると
「それは分からないから」
と言われ、「孫!」というプレッシャへと続くのでした。

母親が55歳ごろになると、さらに母親自身の将来の介護の確保の話が加わりました。当時、母親が言っていたのは
「娘と同居するのが一番だとみんな言っているけど、ウチは長女が家を出て好き勝手していて同居などできそうにない。自分は姥捨てされようとしている」
というようなことでした。
私は前述のとおり、親世代の介護に特に抵抗感はなかったのですが、自分自身の意志や考えを無視して介護を強制されることはイヤでした。なんといっても私は3人きょうだいです。3人もきょうだいがいて、なぜ「長女だから」とか、ましてや「姥捨て」とかいう話になるのか、理解できません。
私は
「きょうだいで話し合いをして、どうすれば親世代を支えられるかを相談すれば、3人もいるんだから何とかなると思う」
というようなことを言いました。それは本音でした。母親を安心させるためのトークではなくて。すると母親は、
「いや、H(弟)が中心になるべきだ。Hは長男なんだから、ヨシコはHのいうことを聞いて自分の介護をしなくては」
というのでした。
私はこの瞬間に、「両親を介護することは私にはできない」と判断しました。なぜ私が、弟の手足にされなくてはならないのでしょうか。弟は「長男だから」という理由で、幼少時からさまざまな特別扱いを受けています。家事の免除とか。そのことは介護に当たっては考慮されないのでしょうか? 
いずれにしても、
「母親がそういう心づもりでいるのであれば、きょうだいで話しあったり相談したりすることは無理だろう」
と私は判断しました。「話し合い」という名の結論の伝達ならば、行われるかもしれませんが、伝達されるのは私が「自分にとって不利である」と感じない結論ではないでしょう。きょうだい間の公平な負担を目指した冷静な話し合いや相談など、まったく期待できないと思われます。そもそも当時すでに、4歳下の弟とも9歳下の妹とも、会話ができる関係ではなくなっていました。平和な会話とか剣呑な会話とかいう以前に、会話そのものが出来ない感じです。弟と1分以上の会話をした最後は、たぶん私が19歳で弟が高校生くらいの時。妹との最後の会話は、2005年ごろです。

私はこの時に、自分に両親の介護はできないと判断しました。1995年ごろのことであったと記憶しています。続きを読む

なぜ、自殺はいけないのか(母親の場合)

私を虐待していた母親は、同時に、私に対して「自殺はいけない」と言っていました。
肉体的にも精神的にも追い詰られ続けることが何日も続くと、私は「死にたい」と考えました。まったく自然な反応だと思います。 それは母親から見ても「死にたいと思っているのでは?」と感じられるものであったようでした。そういう時、母親は私に
「自殺はしてはいけない」
と言い始めるのでした。
最初は私が小学4年くらいだったでしょうか。最後は18歳くらいの頃だと思います。
高校卒業後の私は、もう原家族での自分の立場を少しでもマシなものにする可能性を考えていませんでした。なるべく早く、そこを離れることに注力していました。離れられたら、生き延びられるかもしれない。自殺や発狂に追い込まれずに済むかもしれない。その可能性に希望を託していました。 少なくともその期間は、「死にたい」と思う必要はありませんでした。「原家族を離れることに対する母親(+ときには父親)の妨害にどう影響されないか」は重大な課題でしたが。

母親によれば、私が自殺してはいけない理由は、以下のとおりでした。

・自分たち家族が、この家に住んでいられなくなる。家族に迷惑がかかる。
・弟妹が結婚できなくなる。弟妹の将来がメチャクチャになる。

 
確か1990年代後半、両親はセカンドハウスを手に入れました。つまり、どうしても私が育った家に住んでいなくてはならない理由はなくなったわけです。
2000年を過ぎた頃、9歳下の妹が、翌年に4歳下の弟が結婚しました。
弟の結婚式の後、私は
「ああ、これで私はもう自殺してもいいんだな、母親的には」
と思いました。 

弟が結婚した相手の女性は、立派な学歴と立派な職業を持っていました。2児を設けた現在も、職業はセーブしつつも継続していると漏れ聞いています。「漏れ聞いている」というのは、辛いのでお付き合いしていないからです。弟の妻に何かされたわけではないんですが、両親の弟の妻への態度と私への態度の違いが、あまりにも辛いので。
「イエ」「ヨメ」「長男」「長女」といった意識が強い両親ですが、「長男のヨメ」である弟の妻から職業を奪い取ろうとは考えなかったようです。それどころか、弟の妻の職業継続に対し、両親は充分以上の理解を示し、具体的な協力を提供し続けています。私の職業キャリア構築や職業継続、職業キャリアにつながる教育に対しては、まったくそうではなかったのに! 母親は私に対して全力で、専業主婦以外の何にもなれないように抑えこもうとしつづけていたのに! 
私は、弟の妻が結婚相手の両親から充分な理解を得ていることに対して、職業を持つ女性として喜びたいのです。「長男のヨメだから」といって職業や達成から遠ざけられるような目に遭っていないことを喜びたいのです。しかし喜べば喜ぶほど、自分の首が締まるという構造になってしまっています。その構造を作ったのは私ではありませんが。
では、弟の妻を憎むべきなのでしょうか。悲しむべきなのでしょうか。怒るべきなのでしょうか。「女の敵は女」と喜んで囃し立てるオヤジたちの姿を思い浮かべるまでもなく、そんな悲しいことはしたくありません。
だから、弟一家とは付き合わないことにしています。

弟が結婚した直後、母親は私に
「福岡に帰ってこれないのか」
と言うようになりました。つまり「ヨメ」に要求したいことがらを長男の嫁に要求したくないので、私にさせられるようにしたいということでしょう。長男の妻に対しては介護を要求しないが、介護の戦力が誰か必要なので、だったら長女に、ということでしょう。
私は再び、死にたいと考えるようになりました。両親から逃げ切るためには、他に方法がなさそうだからです。
両親の介護については、いつか持ち上がる問題であろうと十代の時期から考えていました。きょうだいが3人もいるのですから、もし話し合いが可能であれば、なんとかなるであろうとも考えていました(話し合いどころか付き合いもないのが現在の現実ですが)。
しかし、この時点での母親の要求に応じることは、とてもできないと思いました。具体的な介護をどうするか以前の問題として、母親のご都合主義とは付き合えないと思ったのです。

数年後、私に運動障害が発生しました。私は肉体的に、両親の介護の戦力にはなれなくなりました。
すると両親は、
「うちはもう(お前には)関係ないから」
と言い始めました。
また、2008年のことと記憶していますが、父親に
「いつまで生きるつもりだ」
と言われたこともありました。私は脳内で即座に「早く死んでくれたらいいのに」と翻訳しました。でも言われた言葉に言葉通りに反応しているふりをして
「寿命までは生きるつもりだけど」
と答えました。

今でも、母親がたびたび私に言い聞かせた自殺してはいけない理由と、父親の「いつまで生きるつもりだ」発言は、トラウマになっています。思い出して何度も泣きました。
いつまでも泣いていたいとは思わないし、これ以上、同じような目に遭いたくありません。
そこで、ここに記録しておくことにしました。
アフィリエイトにご注意
Amazonアソシエイト・楽天アフィリエイト・Google Adsense・バリューコマース に参加しています。アフィリエイトが嫌いな方は、ご注意を。
「みわちゃん・いんふぉ」内を検索
カテゴリー
連絡先
原稿等のご依頼・情報提供・ご意見・ご感想・ご相談などは
ライター・みわよしこ 連絡受付フォーム
よりお願いします。
カテゴリ別アーカイブ
著書です(2009年-)
「おしゃべりなコンピュータ
 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

Part5「測定器、使えてますか?」は、
東日本大震災後、
環境測定を始められる方々のために
gihyo.jpさんで無料公開
しております。
新聞を応援
現在は東京新聞電子版を購読中。
もう1紙なら日本経済新聞。
さらにもう1紙なら、朝日新聞・毎日新聞・読売新聞のいずれかを月替りで選びたい。
雑誌を応援
書籍を応援
本当は、出版社さんや街の本屋さんを直接応援したいのですが。
Amazon プロダクトウイジェット
楽天市場