みわよしこのなんでもブログ : ジェンダー

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


ジェンダー

台所の脱腐海化作戦(0) ヘルパー派遣を受けている「からこそ」出来ないこと

ヘルパーさんが来ていてもできない、むしろ、来ているからこそ出来ない家事があります。「片付け」です。
片付けは「これは捨てるか、捨てないか」「これをどこに置くか」という細かな判断の連続です。
ヘルパーさんと一緒に片付けを行うということは、異なる判断基準の確認の連続です。
「この人はこの人だから」で済めばいいんですが、たいていは、さまざまな感情的な問題を引き起こします。
ヘルパーさんに「捨てましょう」「これはまだイケますよね」と言われた時に「No」をいうのは、私にとっては非常にストレスフルなことです。でも意に沿わない「Yes」は言いたくありません。とすれば、「ヘルパーさんと片付けはやらない」が正解、ということになります。
片付けのヘルプをお願いしても軋轢が発生しない、あるいは私が泣き寝入りを強いられて悲しまないヘルパーさんは、過去7年のヘルパー派遣経験の中で2人しかいません。

私は入浴に介助を必要とするため、ヘルパーさんは必然的に女性となります。長年、異性介護は人権侵害のシンボルのようなものでしたから。
私にとって
「家事のやり方をめぐって女性どうしがぶつかる」 
ほどイヤなことはありません。それはしばしば「だから女は」「だから女同士は」という冷笑の対象になります。もちろん
「家事のやり方をめぐって男性と女性がぶつかる」
もあるわけですし、それは女性に対して「男性がせっかくやってくれているのに」「感謝の心が足りない」などという説教の対象になりますが、それは男性の家族がいなければ解決できることです。そして、介護業界で長続きするタイプの男性のヘルパーさんは、概して、そういう愚かな「ぶつかる」を引き起こさない感じがします。
とにかく私は、ヘルパーさんとぶつかったり感情を損ねたりするのが本当にイヤなので、「それをされたら暮らせなくなる」レベルのこと以外では何も言いません。
しかし、細かな判断の異なりが細かくぶつかり合う「片付け」という場面では、私は少なくとも「(女の)闘い」を引き起こしてしまうヘルパーさんと一緒にいたくありません。「闘い」が起こらないにしても、「ヘルパーさんと片付けをする」は大変ストレスフルです。しかし片付けないと、自分が快適に過ごせない。
私はこのようなジレンマの中で日常を送っています。

「(女の)闘い」は私の取り越し苦労ではなく、実際に発生します。

ある介護事業所の所長(50代・女性)からは
「台所の布巾で床を拭かれて、それを台所に戻された」
というようなことをされました(雑巾は別の場所にちゃんとあります)。
この介護事業所の別のヘルパー(50代・女性)から暴言・暴行などを受け続けたので対処を要望したところ、所長がある日突然、
「明日から支援できません」
と打ち切りを通告してきました。
「それは困ります、明日まではお願いします」
と言ったところ、所長がやってきて、若干のヘルパー業務とともに暴行・暴言、さらに「台所の布巾で床を拭く」をやられたのでした。

別の介護事業所のサービス責任者(当時・30代女性)は、
「雑巾がなくなったのでタオルを一枚雑巾におろしていいですか?」
と私に言いました。私が
「はい、お願いします」
と答えると、新品に近かった戴き物のジャガード織りのタオルが雑巾にされていました。雑巾にするにふさわしいタオルは、他にもたくさんありました。でも私は何も言いませんでした。何か言ったら、「嫌がらせをされている」という惨めな事実を認めることになるし、愚かな「女の闘い」に巻き込まれることにもなります。
私はそのサービス責任者が帰った後、その雑巾にされたタオルを、泣きながら捨てました。その、嫌がらせの象徴を見続けたくなかったのです。
それから、古いベッドパッドを切り刻み、数年分の「雑巾」を作りました。

このような問題が起こってしまう背景には、さまざまな問題があるでしょう。
介護労働者の労働条件が良くはならず悪くなる一方であることも、その一つかと思われます。
ともあれ、ほとんどのヘルパーさんに、私は片付けのヘルプを頼むことができないという現状があります。

簡単に入手できる料理レシピから腕前をなるべく速く向上させる、超簡単な方法

4月から、進学や就職をきっかけに一人暮らしと自炊を始めた方も多いかと思われます。
自炊を始めて一ヶ月足らずの時期にできることは、その方の生活スタイル・それまでに蓄積した生活スキルなどに大きく左右されることでしょう。
本エントリーでは、 「クックパッド」をはじめとするインターネット上のレシピ・一般的で比較的安価な料理書からスタートして、自炊初心者が料理の腕前を短期間で向上させる方法について書いてみたいと思います。
  • 腕前向上のための超簡単な方法:味見回数を5~10倍(自分比)にする
どれか一つ、スタート地点とする料理とレシピを決めます。自分の好物料理を選んでください。
スタート地点とするレシピは、「クックパッド」でも書籍でも、誰かに教えてもらったものでも何でもかまいません。自分が無理なく「面倒くさい」と思わずに作れそうなものを、定評あるレシピの中から選びます。
「クックパッド」には「玉石混交すぎる」という難点はあるのですが、一定数の「つくレポ」があって何人かに「リピします」と書かれているレシピならば、大きな問題はないでしょう。
道具は、今、必要最低限と思われるものが揃っているのであれば、何かを新しく揃える必要はありません。「包丁を研ぐ」などの手入れを改めて行う必要もありません。 ただ、箸5膳・スプーン5本くらいが余分にあると便利です。ごく安価だったりタダでもらえたりする割り箸・スプーンでかまいません。スプーンはなるべく金属製がよいのではありますが、樹脂のスプーンでかまいません(耐熱温度は確認しておいたほうがよいかも)。

まずは、レシピ通りに作ってみます。
ここで私が提案したいのは、
「一行程ごとに、ちょっとだけ口に入れてみる」
ということです。 
つまり「味見をする」ということですが、私がお勧めしたいのは、味見を通常考えられる数倍の頻度で行うことです。
たとえば、
「濃縮めんつゆを3倍に薄めて調味液を作る」
とレシピに書いてあるのなら、濃縮めんつゆ段階・3倍に薄めた段階のそれぞれで口に入れてみます。その濃縮めんつゆの味の特性を把握し、この場合の塩分濃度やダシの濃さの「ほどよい」とはどういうことであるかを考え、最終的に出来上がった料理への影響をモニタリングするためです。一回ごとに水を飲んで口の中を「リセット」することをお忘れなく。
カレーを作るために
「タマネギを刻んで炒める」
というのであれば、刻んだ生タマネギ・1分炒めたタマネギ・2分炒めたタマネギ……炒め上がりと考えられるタマネギを少しだけ口に入れてみます。すると、刻み方や火の通し方による影響が分かります。
この「段階的味見」を、その料理の最終工程まで行います。
「弱火で煮込むこと30分」
を含むレシピだったら、煮込む前と後の味を見ておきます。ついでに、煮込まれる肉なり魚なり卵なりの表面を、煮込み前・煮込み後のそれぞれ、割り箸で軽くつっついてみましょう。すると、表面の固さや弾力がどう変化するのかに関する情報を得ることもできます。ちなみに私、焼き魚の振り塩やステーキの塩コショウも、焼く前に魚や肉の表面をちらっと舐めますよ。自分が作って自分だけが食べる場合に限定ですけど。
ただ、味見一回あたりの量が一般的な味見の場合の量だったら、独り者の一食分のおかずは、完成する前に簡単に消滅してしまいます。だから、一回あたりの味見は「お箸の先で野菜みじん切り1切れ」「スプーンの先で調味液や汁を1cc以下」という感じで行う必要があります。少量を確実に取るためには、箸やスプーンが必要です。味見のたびに箸やスプーンを洗っていたのでは面倒くさいし、乾燥しきってない箸やスプーンの水気が加わると味見にならなくなったりしますので、「箸とスプーンは余分にあったほうがよい」というわけです。

この「細かく味見」を習慣づけると、たいていは自動的に料理の腕前が上がるでしょう。
最初に選んだ大好物を、繰り返し作ってみたくなります。前回「これでいいのかな?」と思ったポイントを改良して試してみたいと自然に思うでしょうから。それを繰り返していれば、最初から大好物であったものが、さらに美味しく作れるようになります。時間もかからなくなっていきます。「これは省いてもいい」「これに関しては包丁でのみじん切りではなく、ミキサーでガーッとやっても仕上がりには響かない」「加熱に入ったら◯分間は大きな変化はないので、タイマーかけて他のことやっていようっと」「材料の一部を取り分けておいて、弱火煮込み段階でポリ袋に入れて参加させて別の料理を」などの工夫が、半自動的に行われるようにもなるでしょうから。
平たく言えば、「PDCAサイクルを回す」ということです。義務だから回させられるのでも、良い社畜であることのアピールのために速く回したいと思っているふりをするのでもありません。ただ楽しいから、面白いから、美味しいから、回せるときに回したいように回す。この繰り返しは当然のことながら、その料理を作る手際や出来上がりを向上させます。
その向上のプロセスに、数多くの「おまけ」がついてきます。自分自身に料理の地力がつくということ。
まず、料理書から得られる情報量が多くなります。同じ文章・同じ写真を見たときに「何をどうすればそうなるのか」が理解しやすくなります。
「食べたことのない料理を、文字と完成写真だけを手がかりにして作ってみる」
という場面でも、少なくとも食べられるもの・極度に不味くはないものが作れるようになります。
たとえば柴田書店のプロ向け料理書(買ったら高いけど図書館で読めます)のレシピを、ひとり暮らしや数人での「家飲み」向けのレシピに読み替えることも容易になります。10人前のレシピを1人前に置き換えるとき、単に量を1/10にしただけでは似て非なるものしかできないわけです。どこをどうすれば本質を変えずに仕上がり量だけ変え、肝心なポイントは外さず、自分の事情に合わせてアレンジできるのか。そのための「道具」は、
「アレをコレしたらソレになる」
という細かな因果関係の組み合わせ・重ねあわせが数多く「保存」されており「この場合の組み合わせ最適」を見つけ出すことのできる自分の脳と、可能な範囲で再現できる自分の手(または、他人に行ってもらうための自分の口)しかないと思います。

  • 「細かく味見」法にたどりついた経緯
進学で東京に出てきたときに住んでいた大学近くのアパート(6畳+半畳のキッチン、風呂なしトイレ共同)のすぐ近くに、新宿区立中町図書館がありました。そこに、津村喬「ひとり暮らし料理の技術」があったんです。偶然手にとり、あまりにも面白いので借りて読み、のちに購入しました。名著ですが絶版。

 この本は、料理の「食文化」という側面が「ひとり暮らしの自炊」というテーマを通じて幅広く解説されているのですが、「何を何グラム」といった分量の解説は皆無に近いんです。著者のポリシーとして記載しないということでした。
私は掲載されている料理の数々を読んで「なんと魅力的な」と思い、実際に作ってみようとしたんですが、失敗したり「食べられるものは出来たけど、これはその料理そのものなのか?」という疑念が湧いたり、でした。
そうこうするうちに、「ひとり暮らし料理の技術」で紹介されていた、辰巳浜子「料理歳時記」を読んでみる機会がありました。この本は現在も新刊で入手できますし、Kindle版もあります。
辰巳浜子さんは、昭和30年代~40年代に活躍された料理研究家で、料理研究家の辰巳芳子さんの母上です。

「料理歳時記」を読んだ大学1年の私、「ひえええええええええええ!」とぶったまげました。ご飯や味噌汁やお浸しや焼き魚といったものに、一つ一つ深い情熱を傾ける人がいたという事実。その情熱の目的は、料理研究家として世に出ることでもなんでもなく、動機は「家族(+お客さん)に美味しいものを食べさせたい、家庭を喜びで満ち溢れさせたい」ということであったらしい、ということ(結果として世に出たのではありますが)。伝統を大事にしつつもハイテク(冷凍庫←昭和20年代の話です)は積極的に導入する超合理性。アウトプットを最良最高にするために大切にされるプロセス。辰巳さんは決して「手段の目的化」をしません。真似する気にもなれない手間暇をかけ、これ以上はないほどの真心は込めていますけど、「手間暇」「心を込める」が目的なのでもなければ、そこを評価されたいというわけでもなく……。どの一つにも驚嘆しました。家事、料理、主婦業といったものを、才能と志ある人は、そこまで高めてしまうわけです。さらに「高める」が本人の心がけや家族の幸福感で終わったというわけではなく、夫君の生産活動を支え、社会で何らかの生産を行うことのできる子どもたちを育てたうえに、後には自らの料理も評価されているわけです。「おいしいね」という言葉や家族の笑顔だけではなく、経済的に、金銭という形で。なにしろ死後40年近くにもなる現在、まだ売れ続けているご著書が何冊もあるという事実。
こんなことを書かれたら辰巳さんご自身は不快になられるかもしれませんが、この方は生涯に、いったいどれだけの経済的生産を行われたのでしょうか。ご著書のセールスだけでも大変な金額になっているでしょう。その達成の前提となったのは「恵まれたご家庭に育ち、適切な教育を受け、良家に嫁いだ」という幸運ではありますが、「費用対効果」が非常に大きい方だったことは間違いないかと思われます。どういう偶然が重なったら、ここまで費用対効果が大きくなるのかは分かりません。才能と志が素晴らしいものであったことは感じますけれども、それだけではないように思われます。最も重要だったのは、原家族での育てられ方、生育環境、受けた教育でしょうか。私立の高等女学校に通っていたこと以外は、特別にお金のかかるものではなさそうに思えますが、「生まれてから18歳まで」というタイミングに大きな意味があったのは間違いないでしょう。そのタイミングをのがした場合、あとで補いがつく可能性はあるでしょうか? あるとすれば、どうやって……? 本当に、いろんなことを考え始めるきっかけになる本でした。
この本は、「職業って何だろう? キャリアって何だろう?」と考え始めるきっかけにもなりました。私が職業を手放さずにきたこと、職業を継続できていることの根には、「料理歳時記」に学んだ職業観・キャリア観があるようにも思えます(ただし、昭和の高度成長期の専業主婦のほとんどを、私は職業人とは考えていません。彼女たちの家事を「キャリア」とも考えていません。「主婦業も立派な仕事」という言い回しには警戒を怠っていません。念のため)。
この本には一つだけ、大きな問題点がありました。読んでも「実際にやってみよう」というモチベーションが沸かず、むしろ萎えることが多いのです。心がけも考え方も手順の一つ一つも、あまりにもハイレベルというか面倒くさすぎて。料理好きな専業主婦・主夫の多くにとっても、おそらくはそうなのではないかと思います。まして、昼も夜も職場や大学で過ごしている勤労学生だった私に実行可能そうなことは、片手で足りるほどしか見いだせませんでした。
私は大学のすぐそばに住んでいましたから、「職場帰りに買い物をして、いったんアパートに帰って軽い夕食を食べ、明日の朝食の下拵えをしてから大学で授業に出る」が可能な日もありました。勤労学生としては恵まれた条件にあったと思いますが、それでも「料理歳時記」は「こんなこと、実際に出来るわけがあるもんか!」の連続でした。私は幼少時から料理を自然に覚え、習慣的に行って(というかやらされて)育っています。漬物・梅干し・味噌といったものは家で作ったり、作った方に分けてもらったりするのが当たり前という環境でした(お店で買えると知って驚いたのは10歳くらいの時)。20歳時点での料理スキルは、同世代の中では、偏差値でいえば確実に75以上だったでしょう。それでも、「料理歳時記」の記述のほとんどは「出来るわけがあるもんか!」だったんです。
最も驚かされたのは、数え年17歳の辰巳浜子さんが白和えを作り始めたときのエピソードです。「白和え」という料理一つをものにするために、少女といってよい年齢の辰巳さんが何をなさったか。ぜひ、「料理歳時記」でお読みください。

私は「この人の真似はできない」と思いました。「私は物理屋になろうとしているんだから、この人のようになれなくても別にかまわないんだし」とも思いました。人生の最初に見た白和えのレシピが、辰巳浜子さんの「究極」といってよいレシピだったことは、私から「白和えを作ろう」というモチベーションを失わせてしまいました。半端に作ったって「まがいもの」しか出来ないんだから、とモチベーションが萎えてしまったのです。「料理歳時記」を読んで以後、一度も白和えは作っていません。それどころか、「料理歳時記」に書いてあるとおりに何かを作ったことは、ほとんどありません。ちょっとしたコツのいくつかを取り入れるのが精一杯でした。
でも、この本は深いところで、私の何かを変えてしまったようです。

いつの間にか私は、味見を細かく行うようになっていました。
当時も今も、料理には時間はかけられません。体力気力がないときには、時間がない上に、やることが雑になります。しかし、時間も体力も気力もない中で「今できるベスト」「今できる『ちょっとだけマシ』」を追求することならできるだろう、と思ったんです。
そのために必要なことは、「今、何が起こっているのか」を知っておくことでしょう。味見を細かく行うことは、特に面倒くさくも苦痛でもなく、疲れることでもありません。辰巳さんの「白和え」の取り組みを爪の垢ほどでも取り入れてみるかと始めてみたら、面白くて楽しいので、ごく自然に習慣になりました。
それを積み重ねて、30年経ちました。
「中間データを可能な限り細かく取る」は、実験でも重要です。大学2年から実験を職業にしていた私は、そのノウハウも自炊料理に惜しみなく投入しました。キッチンサイエンスの成書・科学的知見を盛り込んだ料理書に接する機会があったら、自分が日々やっていること・舌や指先で得た「データ」の数々と頭のなかで突き合わせてみました。結果は、次回に自然にフィードバック。
この繰り返しは、基本的には楽しいことでした。そして余裕のあるときに「楽しんで」おく積み重ねで、疲れているとき・本当に時間のないとき・ロクな道具がないときに出来ることのレベルが上がっていきました。これもまた楽しく快適なことでした。なにしろ食べて旨く、身体にも悪くないわけですから。
残念ながら、料理に関しては記録をほとんど残していません。あまりにも日常的なことなので、わざわざ記録してみようという気にもならなかった……という理由もあります。専攻が同じ男性の先輩・同じ仕事をしている同僚と付き合っていたり半同棲していたり事実婚していた時期が、通算15年ありました。料理という「女性的」なことに取り組んでいる姿を男性に見せたら、「やっぱり女性だから」と軽蔑される……という危惧もありました(相手の選択を間違えていたのかもしれませんが)。読んだ論文・やった研究については、同居男性がそこにいても、神経質なくらいノートつけてました(ただし相手のプライドが傷つかない程度に配慮しつつ)。それは「私はこの仕事を手放さないからね、あなたには『手放せ』という権利はないからね」という無言の主張でもありました。
料理について書籍を読んだりノートをつけたりすることは、少なくとも「男性の前でやる」はやりたくありませんでした。料理の記録を若干とも残せるようになったのは、パソコンを所有するようになって以後の話です。電子データだったら、紙のノートよりは安全ですから。
それでも、漬物や梅干しはノート作ってました。年に1回~数回しかやれないわけですから、繰り返して「前回よりマシ」にしたいと思ったら記録が頼りです。それなりの手間暇をかけて、不味いもの・食べられないものが出来たら悲しいです。それに、限られた手間暇でも少しでも旨いものを作りたいですからね。
ああ、毎日の料理での試行錯誤の数々をノートに記録していたら、もっと大きな発展があったかもしれなかったのに。残念。

今の私は自分の自炊に対して、「料理の食味そのものについては100点満点の85点くらい、総合点では100点満点の65点かな」と考えています。食味については、自己ベストからの減点。総合点の減点ポイントは、台所や用具・道具のマネジメント、盛り付け・見た目などについてです。
「私は、辰巳浜子には絶対になれない」
と諦めた20歳大学生女子、30年後にも大した高みには上れていませんが、小高い丘の上には到達できたかなあ? と思っています。

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行方をくらまそうとした大学2年の私

私は20歳で実家を離れ、東京理科大の理学部第二部(夜間)に入学しました。
両親も私も昼間部の第一部への転部を望んでいたので、最初の一年は仕送りと時々のバイトで生活していました。
もっとも私の方は、転部よりも再受験で国立大学に行くことを望み、途中から勉強をそちらに切り替えていました。そして共通一次を受験。自己採点では900点を越えていました。東工大を受験しようとしましたが、出身高校元担任教師の妨害に遭いました。すったもんだの末、出願だけはできました。しかし元担任教師と母親に揉みくちゃにされた挙句、私は二次試験の受験にも行けないほど体調を崩してしまいました。

理科大で二年次に進んだ私は、仕事を探しました。親に翻弄される人生を終わらせるためには、まず経済力だと思ったのです。幸い、研究所が実験テクニカルスタッフを探しているという情報に接し、そこに常勤アルバイトの職を得ることができました。仕送りの減額を申し出たところ、母親はすぐ応じてくれました。私の方は仕送りをゼロにしたかったのですが、すぐに実行するのは無理な状況でした。大学の学費も両親が払っていました。学費の請求書は実家に送付されていたからです。
両親は、むしろ「私のために」という名目で、お金を出したがっていました。私の出身高校(母親の出身校でもあります)から寄付の依頼があると、母親は自分と私の名前で、それぞれ多額の寄付をしました。私は事後に知らされていました。私は出身高校のことを「黒歴史」だと思っているので、寄付などとんでもない話だったのですが、母親は
「お母さんがせっかくしてやったのに、感謝しない」
と怒っていました。
両親には、私を東京に進学させることが大きな負担にならないほどの経済力がありました。ただ、経済力があるということと、それを(少なくとも母親にとって)疎ましい長女のために使うことを良しとできるかどうかは、話がまったく別です。

そんなこんながありつつも、仕事と学業の両立にも慣れてきた大学2年の冬、福岡で会社員をやっていた父親に東京への転勤話が持ちあがりました。私が母親に聞いていた話では、父親が東京に転勤希望を出して、それが通りそうになったということです。なぜ父親が東京に転勤したかったのかは全くの謎です。当時の父親のキャリアにとって、どういうメリットがあるのか全く意味不明でした。母親が、父親の転勤を希望したのでしょうか? しかし当時の実家には、高校不登校の弟と、中学受験を控えた妹がいました。そんな時期に、転勤を希望するということがあるでしょうか? 

母親はしばしば私に電話をかけてきては、父親の転勤が実現した後の私の生活について話しました。私は父親と同居し、身の回りの世話や家事一切をするのだそうです。大学にだけは行かせてやるそうです。母親は
「アンタはお父さんのことをしてやらんといかんから、自分のしたいことやら、もう全然できんごとなるとよ、ふふふ」
と言っていました。
私は、大変だけど仕事と学業が両立できようとしている当時の生活を手放したくありませんでした。大学を卒業して、自分の希望に近い仕事に就きたいと思っていました。友人たちとの交流を大切にしたいと思っていました。しかしそれを、母親はすべて根こそぎにしたかったようでした。

私は、退学して仕事も辞めて、行方をくらまさなければならないと思いました。大学に籍があると、両親が私に接触する機会が発生してしまいます。だから退学しなくてはなりません。理科大の学生だからということで得た仕事も、継続は困難になるでしょう。
それにしても問題は、生計です。
「何かやって食っていけるだろう、一応プログラムも書けるし」
とは思いましたが、学業と仕事を両立しながらの就職活動は容易ではありませんでした。しかも大学中退、高卒の学歴での就職活動です。私は、自分の生計を支えられるだけの定職を見つけることができませんでした。

そうこうするうちに、父親の転勤話は立ち消えました。もしかすると、母親が希望していたというだけで、転勤話そのものが存在しなかったのかもしれませんが。
大学3年になった私は、学業と仕事に加えて音楽活動も始めました。早く経済的に自立しなくては、と焦ったのです。キーボードが弾けたので、スタジオミュージシャンになれるように日々練習し、セッションの機会があれば飛び込んで腕を磨き、オーディションにも応募していました。オーディションの成績は振るわなかったものの、応募を繰り返すうちに、だんだん可能性は大きくなっていきました。いつか届くだろう、という希望を持つことができました。
でも、研究所に勤務していた私は、研究者になりたいと考えるようになっていました。大学院進学を考えていました。時間があれば勉強したかったのです。そのためにも、大学院進学を可能にする経済力、ストレート進学でなくても将来のいつか進学することを可能にする経済力を身に付けることの方が先でした。

母の解放の物語としての「少女は自転車にのって」

治部れんげさんが推薦しておられた映画「少女は自転車にのって」を見てきました。

「少女は自転車にのって」公式サイト

女性が抑圧されており参政権もないサウジアラビアで、10歳の女の子ワジダが自転車に乗りたいと望み(学校でも家庭でも、女の子が自転車に乗ることは禁止されています)、ついにその希望を叶える物語です。

私は、元気な女の子と母親(高校生のときに結婚したと言っていましたから、まだ30歳前後でしょう)が家の中で繰り広げる会話の一つ一つに、胸が締め付けられるような気がしました。社会の慣習や因習を背負っている母親と、それを打破しようとする娘の間に、人間どうしとしての交流が成り立つなんて。
私自身は、とにもかくにも娘を抑圧し、支配しようとする母親しか知りません。母親と娘の間に、時に対立がありつつも平和な交流がありうる状況を、自分自身のこととしては知りません。私の母親は、私に対して抑圧し支配する存在であったことについて、
「昔はそれが当たり前やったから」
と正当化しています。
私は映画の前半、とてもつらい思いで、会話するワジダと母親を見ていました。

ワジダの父親は、第二夫人を迎えようとしています。男の子が欲しいというワジダの父方祖母の希望を入れての話です。母親は、第二夫人がやってくることに抵抗し、イヤだとはっきり言い、怒ります。その姿は、
「抑圧されているイスラム圏の女性」
という感じではありません。
ワジダの母親は、働くことを勧める妹に当初は難色を示します。夫の好む長い髪、自らの美しさを際立たせる赤いドレスなどで、夫を引き留めようとします。しかし結局は、第二夫人を迎える夫と決別し、長い髪を切り、働いてワジダと二人で生きていくことを選択します(夫と別れることについては、「パパが決めたの」と言っていますが、「なんとか関係を維持しようとする父親と、その父親をもはや相手にしようともしない母親」とも取れる場面があります)。
そしてラストで、ワジダを抱きしめて「世界一幸せになって」と語りかける母親。母親には、
「自分の望むような娘になってくれたら、自分が傷つかない範囲で幸せになることを許してやってもいい」
というような、「条件付きの愛」は全く見受けられません。感動的な場面でした。

私には、母親の変化と解放をもたらす導きの糸として、ワジダと自転車のストーリーがあるかのようにも見えました。
慣習や因習の中で育てられ、その世界の中にいてさえ、変わることのできる賢明で柔軟な女性。その賢明さや柔軟さが家庭の中だけではなく、社会で役立つ可能性。娘が自分の夢に向かって歩いて行くことが、その可能性を母親に少しずつ気づかせていく。そして母親は、その可能性に向かって羽ばたき始める……。
優れた映画は、数多くの側面を持っているものです。社会や世界に存在する背景や構造までが描き込まれているからです。
私は、「少女は自転車にのって」を、母親の解放の物語として見ました。そして、この母娘の未来が輝かしいものであるようにと祈るような気持ちになって、 映画館を出ました。

「少女は自転車にのって」、ほとんどの地域で上映終了となっていますが、 これから見ることのできる映画館も若干はあります。おすすめします。

2014年3月26日夕方・西荻窪駅「みどりの窓口」での出来事

・16:00ごろ 
JR西荻窪駅、みどりの改札へ。
8人ほどが列を作っていた。まあ時期が時期なのでしかたない。

・たぶん16:30ごろ
私の番までもう一人になる。
私の前にカウンターで中学進学するという息子(駅員との会話が聞こえた。ちなみに同じ区間、小学校も定期を使って通学していたとのこと)の定期券を買っていた40歳前後の女性が、私の方を見て「じゃま」と言った。
私には、自分に向けられたものにしか聞こえなかった。
私は何回か、女性に聞こえるように
「じゃま、って私がですか」
「キップ買ってもいけないんですか」
などとつぶやいたが、女性はこちらを向かなかった。聞こえていたとは思うのだが。
私は女性の顔をスマホで動画撮影した。10秒程度のこと。
それから「いのちの電話」や電話に出ることが可能そうな友人などに電話したが、つながらなかったり出なかったり。
この時点で期待していた成り行きは、女性の後ろで、相手が「いのちの電話」といえども起こっていること(「ジャマ」と言われた)を話すことで、女性が私を無視できない状況を作ること。可能であれば、その電話で「相手の動画撮ってあるんですけど、どうしましょうか? ええ、肖像権は侵害していますが、こちらの基本的人権と相殺出来る範囲ですよね?」というような会話をすること。動画そのものをネットに「晒す」気はなかった。問題行為そのものを撮ったというわけではなく、ただ単に横顔が映っているだけだし。
そのためにも、誰かと電話で話したかった。 私はFBアプリを開け、
「誰か私の電話番号知ってる方、至急、電話ください。」
という書き込みをしようとした(動画を添付するつもりはなかったし、していなかった)。
すると私の後ろから「やめたらどうですか」という男の声がした。
身長180cmくらい、20歳くらいと思われる、黒っぽいダウンコートの男だった。
男は、私の前で「ジャマ」といった女性に
「さっきこの人があなたを撮ってましたよ」
と言った。
私は
「この人が私にジャマと言ったからです」
と答えた。
女性は
「息子が脚を投げ出しているから『ジャマ』と言ったんです、気を悪くさせたんなら謝ります、動画はすぐ目の前で消してください、個人情報ですから」
と言った。女性の息子は、母親に
「あなたに言ったのよ、ねえ」
と言われても無反応だった。
私は
「本当に息子さんに言ったのかどうかは私には判断できませんが、消すのはいいですよ、胸糞悪い」
と動画を消した。
すると背後の男性が、その女性に
「写真も確認したほうがいいですよ、何枚も撮ってましたから」
と言った。それは事実無根で撮ってない。
私は
「写真は撮ってません。なんなら中全部確認しますか? それこそ個人情報ですけど」
と言った。
女性は
「そこまでしなくていいです」
と答えた。
私はそれから30分間くらい、その場で泣き続けた。
障害者は危ない目や嫌がらせに遭う可能性が高い。
自衛のために動画を撮りっぱなしにして電車に乗るという対処は、わりと一般的に行われている。
それがいけないというのか。
やられたときに、やられっぱなしでいろというのか。
男性は、「悔しい」「泣き寝入りしろというのか」と泣き続ける私に、まったくの無反応だった。私の顔をじっとみていたり、無視していたり。
駅員さんとの会話で、男性が理科大(神楽坂)の学生で、西荻窪-飯田橋間の定期を買うこと、これから合宿なので定期は合宿後から有効にして欲しいということがわかった。
私は、横に男性がいるときに、
「理科大はそんなに偉いのか、私だって出身なのに」
と泣いた。男性は私を無視したままだった。
そのうちに気持ちが落ち着いてきた。
FBに
「誰か私の電話番号知ってる方、至急、電話ください。」 
と書き込めた。 
何人かの友人が電話をくれた。
合計40分ほど話しているうちに、概ね落ち着いた。
そのうちに私の特急券が出来た(車椅子使用者への発券は混んでると1時間以上かかる)。

18:00過ぎ
西荻窪駅みどりの窓口を出て、友人夫妻たちが経営しているお店に行って、また一泣きした。その若い男に虫けらか何かのように扱われたことが、悔しくて悔しくて。友人たちからは
「『ジャマ』と言われた時に、大きな声で『それは私に向けてますか』と言ってよかったんだよ」
「理不尽! と怒鳴ってもいいんだよ、理不尽なんだから」
とアドバイスされた。 

今後
障害者団体等とも相談のうえ、 JR・東京理科大に何らかの申し入れを検討したい。
特に、男性が在学しているらしい東京理科大に対して。
この男性は、「善意から盗撮を注意した」と言い切れないことを行っている(「写真も撮っていた」と主張するなど)。障害者に対する、善意を装った巧妙なイジメである可能性が高いと考えている。
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「おしゃべりなコンピュータ
 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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東日本大震災後、
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