みわよしこのなんでもブログ : ジェンダー

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


ジェンダー

[雑感]まだ脳内に残っている両親のシナリオを壊したい

 私の母親は、今年81歳になるはずだ。専業主婦になることを疑わずに育ち、専業主婦になった。そのまま生涯を全うするであろう。

 母親は私に対しても、専業主婦になることを求めた。私の56歳までの生涯はほとんど全部、母親のその不当な要求およびそのバリエーションとの闘いだった。

 私は結局のところ結婚しなかった。人間の子どもも持たなかった。若い時期に結婚につながりうる出会いはあったし、子どもは持ちたかった。しかし結婚が現実化しそうになると、自分が「家庭」「家族」に対する具体的かつポジティブなイメージを持てないことに気づくのだった。家庭があり家族がいるのなら、そこは自分にとっても「ホーム」といえる家庭であってほしい。家族は「大切にしなくてはならない家族」「大切だと自発的に思わなくてはならない家族」ではなく「大切で、いっしょにいたい家族」であってほしい。しかし、人間の家族がそういうものであるイメージを、私は抱くことができなかった。見よう見真似で作る自分の家庭は、自分の原家族と同様かそれ以上に壊れた家庭にしかなりようがない気がした。

 結婚が現実化し、相手方の血縁者との接触が増えたりすると、「壊れた家庭しか作れないだろう」という感じ方は、「壊れた家庭になる」という確信に変わった。同じ相手、同じ相手方血縁者と、そう悪くない家庭を作れる女性はいたのかもしれない。しかし少なくとも、その女性は私ではなかった。

 結婚しなかった私は、専業主婦にはなりようがなかった。私が30代後半となり、専業主婦にならせることが実質的に意味をもたない年齢になると、「専業主婦にならないと許さない」という要求は変形され、さらに私にとって悲惨なものとなった。しかしながら、なんとか職業を手放さずに、56歳の今日も生きている。

 そして、今週になって気づいたことがある。私は、親の思惑に沿わなかった罰、専業主婦にならなかった罰から、自分を解放したいのだ。私には、そんな罰を受けなくてはならない理由はないのだから。

 両親の思惑は、直接語ったり行動したりするのは主に母親だったのだが、「従わないと罰を受ける」というメッセージとセットであった。罰とは、「親の反対する結婚をして勘当された遠縁の女性が、母親が入って食事したレストランでウエイトレスをしていた」といったものである。母親の中では、女性が中高年になって何らかの形で働かなくてはならない状況にあること自体が何かの罰なのであった。しかし母親の身近には、罰でもスティグマでもなく働く女性が常にいた。母親が「女性が働く」ということとセットにする罰やスティグマには、何らかの除外条件があるらしい。ただし、その条件は未だによくわからない。少なくとも、私は除外されていないと思う。「除外されている」と確信することは全くできない。

 両親の考え方や言動や過去の「私がこうしたら、両親がああした」「私がそうしたら、両親が関わっているかどうかは直接には不明だが、ああなった」の蓄積は、「私もまた、親の思惑に沿わなかった罪により罰されなくてはならない」と問わず語りに語る。「これは両親が与えたい罰なのではないか」と思われる出来事は、この数年間も立て続けに起こっている。両親が何らかの形で関係しているのかどうかはともかく、もう「ああ、ここに来たか」「今度はそこか」と対処するのみ。来るに決まっている天災のようなもの。実際には人災だ。予防も防御もできるはずだ。しかし、現在までの私の予防や防御の試みは、何一つ成功しなかった。パワーバランスが私に対して不利すぎる。
 
 私自身は、もちろん、両親が私を罰することに成功されたくない。両親は、私が「充分に惨めではない」と判断している限り、私をさらに惨めにしようとするだろう。しかし両親が満足するほど充分に私が惨めになっても、それで罰されなくなるわけではない。「私が何もかもを失わされて充分に惨めになった後」という状況は、事実として過去(2009年~2011年)に一度起こった。惨めで攻撃されやすい立場になったら、私が自分の命を自発的になくすか、それとも生きていないのと同じことになるか。そこまで攻撃が続いたのだ。両親との間で私が経験してきたことがらの記憶と事実の集積は、私の心の中で、今も「もう攻撃されないと判断するのは早計すぎる」と大声で叫び続けている。

 では、何があれば両親の「罰」が成功しなかったことになるか。簡単だ。両親の行動の裏付けは、主に父親の資金力と政治力である。対抗するためには、私が資金力や政治力を充分に持てばいいのである。大昔の浜田省吾のヒット曲「MONEY」ではないが、私が純白のメルセデスやプール付きのマンション、最高の男とベッドでドン・ペリニョンといったモノや場面の持ち主になり、その状況が長期に継続しそうになったら、両親の「罰」は成功しないことになる。もっとも、私がそれらを欲しているわけではない。「純白のメルセデス」と書きながら「メルセデスの車ってどんなのだっけ」という調子だ。ベッドでは爆睡したい。男もドンペリもいらない。政治力も、自分の身を守れる程度で充分だ。

 ならば、私は若干の資金力や、自分にとって充分な程度の政治力を追求すればよいことになる。しかし、それを実行してしまうと、障害者の世界で生きていけなくなる可能性がある。障害者として生きていけないということは、生き物として生きていけないということである。生き物として生きておらず、したがって人間として生きていないのなら、職業生活を含めて社会生活どころではなく、資金力や政治力の追及もできない。

 障害者の世界には、障害者に対して「障害者として被差別の惨めな社会的弱者の立場にいること以外は許さない」文化がある(注1)(注2)。健常者社会にある同様の文化を、さらに強烈にしたようなものだ。それは、障害者の世界の全部ではない。それどころか、主流ですらない。しかし、一部に確実に残っている。一部のそのまた一部からターゲットとされるだけで、私の息の根は止まりかねない。

 私は障害者であり、女性でもある。しかも、健常者時代に大学院修士課程を修了しており、大企業総合職の経験もある。何らかの意味で被差別の立場にある人々の反感をかきたて、障害者運動や連携している他の市民運動のどこでも私を生きていけなくすることなんて、簡単だ。私について、「名誉男性」「名誉男性になりたがっている」という評判を流布させれば、それだけで済む。女性がそういう評判を流布させるのであれば、さらに効率的だ。それは、ここ数年間で実際にやられたことである。

 私は、「ああこのあたりに、みわよしこ名誉男性志望説が流布されてる。またか」と感づくたびに、「私が子どもだった唱和40年代、グリコのキャラメルのおまけには女の子向けと男の子向けがありましたけど、私は男の子向けのほうが好きだったので、女の子向けがほしい男の子と交換してました。その延長で今まで生きてきているのですが、それを『名誉男性』と言われましても」といったことを語る。だいたい、それで済む。それで済まなかったら、その相手を遠ざければいい。

 自分にとって何が必要で、どこまで追求したいのか。自分自身にもよくわからない。ただ、両親はじめ原家族と障害者社会の両方から縛られるのはおかしい。まずは数え切れない束縛を、ほどけるものからほどいていきたい。

(注1)
障害者に対して「障害者として被差別の惨めな社会的弱者の立場にいること以外は許さない」文化は、ヤンキーグループの文化と似ているかもしれない。ヤンキーグループから「カタギになるために抜けよう」とする人には、通過儀礼のリンチとかあるわけで。ただ、ヤンキーをやめてカタギになることはできても、障害者が障害者をやめることは通常はない。このため、「障害者らしさ」に欠けた人間を障害者の社会から追い出すことは、「あいつは本当は障害者ではない」という噂の流布などを伴う。ほんっとに生きていけなくなりかねない。障害を偽装したり重く見せたりするメリットはない。障害がない状態を偽装するメリットなら、いくらでも思いつく。もしも可能なら既にやってるよ。望んでも不可能なのが障害者。でも、他人の悪口や噂話を疑わずに楽しめる人たちが、世の中にはたくさんいる。だから、この手の噂が流布されるたびに、「もう死のうか」と思うほどのダメージと苦痛を味わうことになる。最も辛いことは、噂の主や同調者や噂を疑わなかった人々が口にする「人権尊重」「生命は大事」といった言葉を、それ以後は信じられなくなることだ。「私以外の人権を尊重」「私の生命以外の生命は大事」と脳内で翻訳しながら、反対の余地のない「人権尊重」「生命は大事」それ自体に賛成するときの苦痛は、言い表しようがない。
ただし、この不思議な文化は、障害者が置かれてきて、現在もそこにいる障害者がいる状況そのものの反映でもある。
1975年まで、日本の障害児は義務教育が受けられるとは限らなかった(養護学校義務化は1976年から)。小学校にも中学校にも行っていないのに就労なんて無理ゲーすぎた。だから生活保護は利用しやすい。この状況を逆手にとって、障害者たちは生活保護をはじめとする給付や公共サービスを生存の基盤として活用し、たとえば「介助者に公共から給料が出る」といった制度(たとえば現在も生活保護の中に残る他人介護料加算。1970年代)を一つ一つ整備してきた。今もその蓄積の上に参議院議員の木村英子さんがおられたりする。
その人々の主張を一言で無理やりまとめると、「社会的に不利な状況に置かれやすく、したがって差別されやすい人々は、まず、そのままで生きていくことを保障される必要がある」ということ。私はこの点には全面的に賛成だ。反対したことない。
この主張の一部は、「社会的に不利な状況に置かれやすく差別されやすい人々は、より有利な状況や差別されない立場を望んだり目指したりしてはならない」というふうに化けて、現在に至っている。なぜそうなるのか、私には全く理解できない。選択肢が増えるのは、良いことではないのか? 選択肢があって、なお選ばない自由と選ばなくても快適で幸せでいられる権利が保障されるのであれば、何も言うことないと思うし、私が目指しているのはそちらなんだけど。
この手の、理解できないなりに身を守る必要がある障害者運動の主張を、ときどき障害者運動の国際的なつながりのなかでボヤくことがある。たとえば2013年以来、日本の障害者の社会は2020年(予定だった)五輪のせいでグッチャグチャに分断されている。その中で「五輪どころか競争的な競技自体が悪だ」といった主張が出てくる。健常者時代に若干の競技歴があり、今も可能ならやりたい私は、そんなことを口にできない。そんなことをボヤくと、たいてい笑われる。あまりに重なると、「誰がそんなこと言ってるの?」と聞かれる。しかし言えない。「そんな陰口めいたことは言いたくない」ということもある。それ以上に、本人が国際社会で見せてる顔と国内の女性障害者を相手に見せてる顔の違いに、私自身が打ちのめされてしまっている。

(注2)
「だったら乙武洋匡さんはどうなのか」という意見がありそうだけど、障害者として生まれたときから、両親の理解、恵まれた環境、充分な教育、キャリア構築の初期に比較的順調であったことなどの偶然が重なると、「物心ついてからずっと名誉健常者」という存在になってしまうのですよ。私の直接知る範囲にも何人か、乙武さんほどではないけれども「名誉健常者」になれた障害者がいる。
ただし、そういう「名誉健常者」の方々は、世の中で思われているほど他の障害者の社会と分断されているわけではない。関係はめっちゃ複雑。「あの良い障害者に比べ、あなたはなんとダメな障害者なの」といったことを言いたいのなら、口にする前に、その良い障害者とダメな障害者の間につながりがあったり関係が良好であったりする可能性を考えたほうがいい。

[ニュースクリップ]2020年8月8日 東京新聞より

前回は2020年8月3日。5日も空いてしまいました。週イチでいいから習慣化したいと思っているニュースクリップです。note記事の下書きを兼ねています。

 本日の東京新聞朝刊(Web配信される紙の紙面データ)は、紙だからこそのレイアウトの妙が光ります。

  • 「ワクチン開発 焦り禁物 免疫学の第一人者 警鐘」と「検証・コロナ対策(第12回) 専門家押しのけ 宣言解除」(一面)

 日本政府の専門家軽視は、今に始まった話ではなく、新型コロナ限定の話でもありません。生活保護政策は、戦後ずっと、その時期の第一人者である研究者たちを集めて委員会や検討会を設置し、その意見をテキトーにつまみ食いして決定されてきています。
 それにしても、新型コロナに必要とされる対策の励行や経済活動への制約、そして直接間接の打撃の数々には、多くの方々が「疲れたよ、パトラッシュ」と言いたくなっていることでしょう。ワクチンには期待がかかります。特に政府は、大きな期待を寄せているようです。来年の東京五輪がかかってますからね。
 しかしコロナウイルスのワクチンに対しては、今年2月や3月あたりには、私の汁専門家たちから「本当に有効なワクチンは作れないのではないか」「有効なワクチンが出来たとして、コロナウイルスワクチンとインフルエンザワクチンの食い合わせになり、インフルエンザがワクチン接種で発症するとかいう救いのない事態にならないか」といった懸念がありました。そういう懸念を払拭すべく、医薬品の承認には然るべき手順が定められています。その手順をごまかしなく最短で踏むと、最短で2年かかります。ということを、免疫学の専門家中の専門家である宮坂昌之氏が語っています。
 その記事の真下に、連載「検証・コロナ対策」第12回があります。この連載は、毎日リード部分が第一面に掲載されており、今日が例外だったわけではありません。しかし、今日の内容は、安倍首相が緊急事態宣言を全面解除する可能性を5月21日に示したことに関するものです。専門家会議(当時)には「28日に判断する」と伝えられていましたが、専門家たちの意見を求めることもなく、経済面への考慮から前倒しして判断したわけです。その後、専門家会議は廃止され、経済の専門家を含む分科会が発足しています。

私見
 新しい分科会が政府協賛しかしないであろうという懸念は、どうも、そのとおりになりつつあるような。ため息をついて視線を上に動かすと、ワクチンへの期待に関する専門家の懸念がドドーンと目に入るわけです。関連づけて表示して読ませることは、Web媒体のほうが得意だと考えられていますし、実際にそうでしょう。しかし「これだけは、頭のどこかに必ず入れておいてほしい」という重要なメッセージを伝える場面では、いまだ紙の優位性が目立っているのではないでしょうか。パピルス以来、人間が手にとって持って目にすることのできる平面上の文字や図表や絵には、生き物としての人間に適するように鍛えられてきたアドバンテージがあります。


  • 連載「雪が落とした災い(第10回・最終回) 仮設暮らし 6年耐えた」と「除染土 覆土せず利用」(二面)
 連載「雪が落とした災い」は、福島第一原発事故で全村避難を強いられた福島県飯舘村の農家を中心とした苦難をつづってきました。2011年5月に避難が始まり、まずは福島市の公共施設に。専業農家の男性(現在76歳)は「やることがないのがつらかった」といい、その施設の草刈りを「やらせてもらった」ということです。放射性物質に汚染された畑で食糧生産を継続するわけにはいかず、メガソーラー用地として貸すことに。福島市と川俣町で畑を有償で借り、営農を再開。そのことで気力を取り戻せたといいます。仮設暮らしは2017年3月末で終わり、飯舘村に戻ってきています。しかし現在も「目の前に自分の畑あんのに、お金出して畑借りてんだ」。
 その下に、飯舘村の除染で出た汚染土の利活用に関する記事。これまでは、汚染されていない土で覆って、食用ではない作物(園芸用・燃料用など)限定で使用するという方針でしたが、環境省が方針を転換し、食用作物に使用するための実験を既に始めているということです。汚染土を覆わず直接、というパターンも試されているとのこと。環境省の未公開文書から明らかに。文書は、龍谷大教授の大島堅一氏が行政文書開示請求で入手。

私見
 福島第一原発事故の直後から、「放射性物質は薄めて流して広げて、福島第一原発の周辺だけが特別というわけではないということにするってか?」と懸念していました。「そういう意図がなければ、やらんでしょ」という対処のオンパレードでしたから。除染も、「あれは除染ではなく移染だ」と言われていました。今度はそこで、食糧生産ですか。作物から放射能が検出されたとき、苦しむのは農家の方々なんですが、補償は考えられているんでしょうか? 福島第一原発事故は、まだ全然「終わった」といえる状態ではありません。引き続き、関心が必要です。2面の上下に並んだ2つの記事に、そう思わせられます。


  • 「売却圧力 TikTok苦境 取引禁止へ 米大統領令」と「バイデン氏も『核なき世界へ』 オバマ氏の目標継承」(三面)
 こちらも紙ならではのレイアウトの妙。バイデン氏の記事は小さめであるにもかかわらず、11月の米大統領選が迫る中での米国の状況がよく伝わってきます。

私見
 個人的には、かなり要注意の「レイアウトの妙」。トランプ大統領が再選される可能性は、かなり低くなってきているとはいえ、米国内の白人を中心に「中国のせいで(アジアンのせいで)自分たちがワリを食っている」「オバマのせいで損をさせられた」という感覚は根強いです。その感覚が刺激される出来事が何かあれば、大統領選は本当にどう転ぶかわかりません。東京新聞の読者層の多くは、どちらかといえば「トランプ大統領に再選されてほしくない」と思っていることでしょう。「だからこそ、情勢判断を誤らないための情報がほしい」と私は思います。元・半導体屋としては、ICT技術の弱点が際立ってきた感もあります。情報産業は、半導体のような巨額の設備投資やランニングコストとは無縁です。そこが急成長や寡占のカギでもありました。しかし実体のあるモノやデバイスのような囲い込みは出来ないわけですよね。「なーに、必要なら結局は買われるよ」という成り行きにはなりにくい分だけ、政治力に弱いのかもしれません。

  • 酒井順子の3冊の本棚(読書面)
今回の3冊は、日本の歴史的「女帝」たちに関する1冊、有吉佐和子『開幕ベルは華やかに』、そしてミステリーの女王こと山村美紗に関する1冊。

私見
 酒井順子さんの視野の広さと深さに唸りました。数々の作品が、いかに表層的に見えても広い背景と深い奥行きを含んでいることの秘密の一端かもしれません。有吉佐和子さんは晩年、タモリ「笑っていいとも」にゲスト出演したとき番組ジャックに近い状況となり、「サワコル」と皮肉られる中で亡くなりました。その事実を書籍等に残している橋本治さんも、既に亡くなられています。日本では結局、女性は日の当たるところに居続けられない現実があることを認めざるを得ないように思われます。酒井さんは、このコラムでジェンダー問題について声高く述べているわけではないのですが、日本で女として産まれて生きることの苦しさ、日の当たるところには所詮居続けられない運命に逆らうことの困難さは、抑えた筆致から浮かび上がってくるように思われました。


おまけ。


  • ひもとき時事ワード「安楽死」(みんなのニュース)
すべての漢字にふりがながあるキーワード解説。7月に明らかになった、2019年11月に発生したALS女性への嘱託殺人容疑を取り上げ、安楽死を「助かる見込みのない病人を、本人の希望に従って、人の手を加えて苦しみの少ない方法で死なせること。日本では認められていません」と解説しています。

私見
 その上には、食糧危機への対応策としての昆虫食に関する詳説があります。たぶん、食糧危機と安楽死を結びつける意図はないのでしょう。でも、ギクっとします。「食糧危機なので高齢者や障害者を死なせて食い扶持を浮かせる、あるいはその人々を食糧などの資源にする」というテーマは、フィクションで繰り返し取り上げられています。また、過去の現実であったりもします。ALSを「助かる見込みのない」病気とすることには、私は抵抗があります。ALS自体は現在のところ治りませんが、快適に長く生きて活動を続けることはできます。日本は、それについては世界のトップレベルの実績を持つ国でもあります。「安楽死はあってあたりまえだ」という安易な誤解を日本に定着させないように、ぜひ、別記事でフォローしていただければと思います。


[死なずに生きててよかった]私が、弟と同等あるいはそれ以上に価値ある自分になれる方法

私は、3人きょうだい(自分・弟・妹)として、福岡市近郊で育ちました。
1933年生まれの父親は中学から、1939年生まれの母親は小学低学年から、戦後民主主義教育を受けて育っています。しかし両親の脳内は、戦前の「イエ」主義や、もしかすると法でも制度でもない江戸時代か何かの農村的封建思想で出来上がっていました。
「長男」である弟は、両親にとって何より尊重されるべきものでした。そこで私は壮絶なきょうだい差別を受けて育ちました。その内容について詳しくは書きませんが、幼少児の私の切実な希望は
「後ろから、弟にいきなり蹴られたり殴られたりしたくない」
「弟に痛い思いをさせられたとき、痛いと言いたい」
 「弟妹と母親が食事している同じ場所・同じ時間に、同じように、温かい食事をTVを見たり談笑したりしながら食べたい、床に正座させられ、食卓の裏や母親と弟妹の脚を見ながら食事時を過ごさせられ、何時間か後に冷えきった食事を食べるのではなく」
でした。

大きくなっていった私は、両親に理由を尋ねるようになりました。不公平だ、イヤだとは言えませんでした。
父親は、あいまいに言葉を濁して話題を変えたり、「そんなことを気にするのはおかしい」と言うばかりでした。
母親は、
「H(弟)は跡取り。女でナマイキなアンタなんか努力しても何にもなれない価値のない人間。Hは男だから立派な大人になって、たくさん稼いで、結婚して自分たちの老後を見てくれる価値ある人間」
と言うばかりでした。
それならば、客観的な「弟より価値ある自分」の証拠を作らなくては。
私は、そのように考え、さまざまな努力をしました。
しかし、学業成績は「女のくせに」「勉強だけできても」というdisりにつながるので、私の両親に対しては、あまり意味がありません。それに、あまり勉強向きでなかった弟の不機嫌や鬱屈の原因にもなり、まわり回って自分にどういう禍いがやってくるか。「成績が良かったために恐ろしいことが起こった」を、原家族の中で、私は数えきれないほど経験しています。なので、両親に対して「ヨシコはH(弟)と同じくらいには価値がある」と認めさせる目的に対しては、有効ではありません。
運動は、弟の運動能力があまりにも優れていたため、勝負にならず。
ピアノや書道にも熱心に取り組み、それなりの結果は出していましたが、弟の運動での「県大会入賞」などの成果に比べると、自分でも「価値あり」とは思えない程度でした。
では学歴か。親が認めたくなくても、周囲の人に「認めさせられる」はありうるかも。
就職して仕事を手放さずにいれば、自分の収入が弟の収入以上になるかも。そうすると、死んだり殺されたりしたときの「逸失利益」という形で、弟以上になれる。それは今の日本で誰もが納得する、命の値段。
自分だって
「自分の命が弟の命よりも高額だったら、自分の方が弟より価値がある」
は思っていません。でも、せめてそこで、「自分にも価値がある」と思いたかった。
障害者になっても、仕事は手放しませんでした。稼いでいれば「障害者だから逸失利益が低い」とはなりませんから。
でも、いろんなことがあって、仕事がほとんどできない数年間がありました。そこに原家族も関係があるのですが、それはさておきます。
2010年から2012年にかけ、父親は私に電話で、
「つつましく生きていければ、それで良かろうもん」
と繰り返し言いました。血縁からの実質的な縁切りは、それ以前、2007年に私が障害者手帳を取得したときに行われていました。
おそらく、父親は
 「生活保護で生きていけばいいだろう」
と言いたかったんだと思います。不要・有害と判断して縁を切った娘が、どこかで生活保護を受けても、「イエの恥」にはなりませんからね。

その間に、弟はキャリアを展開させ、安定した高収入の立場となり、皆さんが羨むようなステータスある女性との結婚をし、両親の深い理解と協力のもと共働きを継続し、子どもたちにも恵まれました。
「私の逸失利益が弟のそれを上回ることは、もう無理だろう」
と認めたのは、2011年末、私が47歳のときのことでした。
弟は子どもたちに恵まれたため、保険金の計算に子どもの育成・教育に必要な費用が加算されることになりました。それも含めて、私が抜き返すことは不可能でしょう。もちろん、子どものための費用の加算それ自体は、必要不可欠、当然すぎるのですけれど。
私は雨の中、外で声をあげて、手放しで泣きました。
私のそれまでの生涯をかけての闘いは、完璧な敗北に終わった。それは認めざるを得ませんでした。
人生詰んだ。
それが、偽らざる実感でした。
そして私は「余生」を生き始め、社会保障や社会福祉についての執筆活動を始めたのです。
物理やコンピュータに比べると「女っぽい」それらは、男である弟に勝つためには使えないので、関心はあっても仕事にしないできたのです。
でも、もう弟には負けが確定したのだから、最後、余生に後悔を残さないために、書いてみようと思いました。
そして現在に至ります。

つい最近、2016年6月のこと。 
私は、逸失利益を弟以上にする方法を発見しました。
あと15年くらいで、弟の子どもたちは成人し、扶養を必要としなくなります。
そのころ、弟は60歳を過ぎています。
弟が厚生年金との2階建ての年金を受給するのは何歳でのことかわかりませんが、 いずれは年金+就労収入、あるいは年金オンリー、になるでしょう。 
年金の金額でも、私は弟を抜くことができません。まず、弟の妻自身の年金もあります。
厚生年金加入者だった年数が通算で11年しかない私は、老齢年金を2階建てで満額ゲットしたって生活保護基準以下。だから、働き続けるしかないでしょう。
私がまだ働き続けているうちに、弟が働くことをやめたら?
その日以後、私の逸失利益は、弟を上回ることになります。

私は、なんと下らないことを考え続けてきて、今も考えているのでしょう?
別に、弟をぶちのめすために生まれてきたわけではなかったはずだし、そんなことがしたかったわけでもないんです。今も、したくてやっているわけではありません。
でも、私は、「自分が、少なくとも弟と同等の価値を持っている」と思いたかったんです。
生き、育ち、学び、働き、人と交流したりするにあたって、その前提条件として、「私の価値は、少なくとも弟と同等」と思いたかったんです。

4歳下の弟より一日でも長く働くことが、今の私の目標です。
そのためには、障害はあっても健康である必要があります。これは、なんとかなりそうです。弟はヘビースモーカーですけど、私は過去に一本もタバコは吸っていませんから。
「弟より一日でも長く働く」を実現するには、少なくとも向こう20年、ヘタすると25年・30年といった時間が必要です。その日まで、どうあがいても、私の逸失利益は弟を上回りません。
父親の「所詮は予定、所詮はつもり(どうせ実現しないだろう)」と嘲笑する声、何百回もぶつけられた声が聞こえる気がします。
でも、この目標に向かって努力しつつ、私は「すでに実現した」と思うことにしました。 
実現する前に、私が死んでしまうかもしれません。
でもその瞬間まで「実現した」ということにしておけば、少しでも多く希望を持って、明るい気分で過ごすことができます。それだけでも、私にとっての価値は「プライスレス」です。

52年かかりましたが、原家族トラウマを乗り越えてゆく糸口が、やっと見えてきました。
今日こう思っているだけでも、今日、生きててよかった。 

[しんどい記憶]2002年ごろ渋谷で、夫のいるパート女性(娘あり)と

2002年ごろだったと思う。
ピアノ愛好家のサークルを立ち上げた女性の知人がいた。当時、30代前半くらいだったと思う。
彼女は、幼少期からの憧れだったピアノを入手して習い始めたところだった。


彼女は、大学を卒業して就職したものの(確か保険会社の総合職)、男尊女卑に痛めつけられる毎日を送っていたとのこと。
嫌気がさしていた彼女は、社内結婚とともに退職。
まもなく妊娠し、女の子が生まれた。女の子は、私が彼女とともに会ったときは4歳か5歳くらいだった。今はそろそろ成人に迫る年頃かもしれない。
女の子がまだ0歳か1歳のころ、夫君が、うつ病のため休職。
うつ状態の夫君が家にいること、収入が減ったことに耐えられなくなった彼女は、ヤ◯ルトの販売員として働きはじめたそうだ。
「すぐに子どもを預けて働けるところは、そこしかなかった」
とのことだった。
このとき、茨城県の実家の父親に経済援助を相談したところ、お金の代償に性行為の相手をすることを求められた由であった。こういう父親を持っているという娘は、現在の45歳以上だと結構な頻度でいる。私の世代の父親たちだと、特に珍しい話でもない。
 

私は2002年、渋谷のギャラリーで開催された「おっぱいプリン」展を、彼女と一緒に見に行った。
「おっぱいプリン」展は、実に面白いインスタレーションだった。
ミシェルさんという女子美出身のアーティストが、女性20人近くの乳房を型取り、プリンを作って展示していた。
それぞれのプリンには、風俗嬢紹介のような女性たちの写真とキャプションが一緒に展示されていた。
「コンプレックスの露出 性の安売り!」
というサブタイトルについて、ミシェルさんに尋ねたところ、
「コンプレックスが現れやすいところですよね、女性の乳房って。でも、コンプレックスって、個性じゃないですか」
というお言葉。ナットク。

その余韻を感じながら、彼女とカフェに入った。
開口一番、彼女はウズウズという感じで、

「あのね、子どもがいるって素晴らしいことで、育児は楽しいのよ」
と、目をキラキラさせて語り始めた。

当時39歳の私は、独身で子どもはいなかった。
子どもが嫌いとか持ちたくなかったとかではなく、むしろ欲しかった。
ただ、「どうしても」というほど自分の子どもが欲しいわけではなかった。
「子どもが欲しい」という淡い欲求は、自分が仕事を手放さず生きていくことに比べれば、優先順位はかなり低いものであった。
気がついたら、子どもを持つ機会を失いつつあった。
 

子どもを持つことや育児は、大きな負荷を伴いつつも、かけがえのない経験であるだろうと思う。
そう思っている私が、なぜ子どもや育児の素晴らしさを布教されなくてはならないのかと、内心、怒りを覚えた。 
しかし私は怒りを表さず、彼女に対して「どのように子どもを断念するに至ったのか」を話した。
さらに、「盆正月などに一時的里親になることも考えたけど独身じゃ無理だった」とも話した。


彼女はかなりの動揺と当惑を表情に浮かべ、話題を変えた。
子どもと育児の素晴らしさを教えてあげる彼女の心づもりを私がぶち壊したのは事実だっただろう。


彼女はエッセイストになりたがっていた。
文章を書くのが「ちょっと好き」という女性には、ありがちなことだ。
彼女は、私と共著で本を出したいという話をしてきた。
「出したきゃ単著で出せばいいでしょ?」と言いたかった。
彼女の書きたい内容は、子育て、きもの、料理、なんだか女性ジェンダーを前面に出すような素材ばかりだった。
それをさらに、
男性社会で挫折した女性の屈折した女性ジェンダーで「今は今で幸せ」と味付けするようなものであった。
それは私の、最も書きたくないものであった。
私は子ども嫌いじゃないし、和服も好きだったし、料理も好きだが、それをジェンダーと絡めて前面に出すのは、最もしたくないことだった。今もしたくないけど。
本の具体的内容について詰めるところまで行かないまま、話は立ち消えになった。
彼女がなぜ、そんな本を「私と」出したいと思ったのかは、わからない。
自分および自分の書きたいことの、格好の引き立て役と見込まれたあたりではないかと思う。
 

しかし最もムカついたのは、上記のどちらの件でもない。
渋谷でお茶した数カ月後、彼女は、私の作った曲のタイトルが気に入らないといって
「変えようよ(^^)」
とWeb掲示板に書いてきた。
それは他人に気楽に言ってよいことなのか? しかも顔文字つきで?
私は
「この世に彼女がいることが許しがたい」
というほどの怒りを覚えた。
タイトルも含めて私の作品だ。
なぜそこに、他人が口を挟む理由がある?
気に入らないなら、自分で曲を作れ。自分の作った曲に、自分のつけたいタイトルをつけろ。 
それが出来ないなら、他人にとやかく言うな。
その作品を売る立場にある人が、商売の都合として言うなら、まだわかる。
でも彼女は、ただの知り合いとして曲名を知っただけだ。
そこに、顔文字をつけて、お気楽に「変えようよ」とは!?


私は当たり障りなく答えながら、
「なぜ私は、ここで怒りを爆発させることができないんだ」
と情けなくなり、パソコンの前で泣いた。

さらに数ヶ月後、ピアノサークルは内紛から空中分解し、彼女との縁も切れた。
その後、彼女から私には連絡が一度もない。
今どうしているか、全く知らない。 

もしかすると。
彼女は、父親や夫から自分を守るために精一杯だったのかもしれない。
ただの娘、ただの嫁、ただの妻、ただの母、パート主婦としか見られない自分を、 必死で奮い立たせようとしていたのかもしれない。
国立大学から、就職氷河期に総合職として就職できた彼女は、それなりに優秀だったのだろうと思う。
しかしいったん「家に入る」を選んでしまったら、 そこまでの彼女に目を向けてくれる人は誰もいない。
保育園(娘さんは当時は公立保育園に通っていた)とのママ友とのお付き合いやパート勤務をつつがなく続けようと思ったら、出身大学も前職も言えない場面の方が多いだろう。
鬱屈した彼女の、低められてしまった自意識を、私は一人でぶつけられる巡りあわせになっていたのかもしれない。
私だって、そんなに羨ましがられるような経験や立ち位置にいたわけではないのだが、もしも彼女に「ちょっとだけ想像してみる」が可能だったら、彼女は最初から、そんな言動は取っていなかっただろう。

はっきりしているのは。
そういう人とお付き合いするのは、私には無理だったということだ。 
もちろん、今も無理。 

猫の摩耶、17歳になりました

わが家が2番目に迎えた猫の摩耶は、本日17歳になりました。
私が寝起き頭ですけど。
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1997年6月18日、元夫と私と9歳のお姉ちゃん猫のいた我が家は、ちょうど1ヶ月前の5月18日に生まれたという子猫を迎え、「賢くて心優しい子に」という願いを込めて「摩耶」と命名しました。
二匹の猫は、あっという間に仲良しになりました。

それから、本当にいろんなことがありました。
私は当時の勤務先で、いわゆる「血で血を洗うリストラ」に巻き込まれはじめました。
ある日突然、誰もが私に声をかけられたら逃げるようになってしまったのです。
心労から、私は胃炎を起こして入院しました。
その一部始終を見ていた長女猫も心労から胃炎になり、7月25日に他界しました。
摩耶は、せっかく仲良くなれた「お姉ちゃん」を亡くし、たいへん気を落としました。摩耶にやっと子猫らしさが戻ってきたのは、9月ごろのことでした。
翌年の1998年6月18日には、弟猫の故・悠(当時1ヶ月)も家族に加わりました。
そのころ、勤務先の同僚でもあった元夫は、自分の身分を守るため、先鋒に立って私を攻撃し、退職を迫るようになっていました。
私は退職を選択しました。同時に、元夫と別れたいと思いました。正確に言うと、なかなか退職の意志を表明いない私にガマンできなくなった元夫の方が「終わりにしよう」と言い出したのでした。私は、望むところでした。そこで別れるための具体的な話を進めようとすると、元夫は周囲の人々に「別れないように」と私に圧力をかけさせたのです。
元夫は私がどれだけ仕事を大切にしているか、職業を持ち続けることを大切にしているかを知っているのに、仕事を手放すことを求め、その後は「主婦」「嫁」となることを求めようとしたのです。ならば、仕事にそれほど重きを置かず、「妻として母として嫁として」という世界に収まることを自ら望む女性を選べばよい話。私はそうではないし、そうなることを強制される言われもありません。
しかし元夫は、私と一緒にいたがりました。苦闘の末、元夫に出て行ってもらうことに成功したのは、2001年5月のことでした。この時期、西荻窪には元夫の味方をした人々が何人かいました。その人々のことを、私は未だに許すことができません。
摩耶の「お父ちゃん」は、酒と薬でラリって刃物を振り回し、生活費や家賃は入れないような男になりました。もともとそういう男だったことが、勤務先の問題で露わになっただけかもしれませんが。
そんなゴタゴタの末、摩耶の「お父ちゃん」はいなくなりました。

私・摩耶・悠の平和な暮らしが続くかと思ったら、2005年には私に運動障害が発生しました。
2007年からは、ヘルパーさんや訪問医療の人々や仕事仲間が住まいを訪れては、私を痛めつけるような状況が続きました。摩耶はそういうとき、悠を連れて離れた場所に行くなどしていましたが、どんなに心を痛めていたことだろうかと思います。ときどきでもヘルパーさんに私が叩かれたり引っかかれたりする状況は、2011年はじめまで続きました。
2010年夏、摩耶は慢性腎不全に罹患していることが判明しました。ステージIIIでした。闘病生活が始まりました。2012年秋には、糖尿病との闘病も始まりました。
2013年3月、悠が他界しました。
摩耶は激しく寂しがり、落ち込み、食欲をなくし、一ヶ月経過しても立ち直る気配がありませんでした。
15歳だった摩耶が新しい猫の家族を迎えることにはリスクもありましたが、私は、摩耶にふたたび弟を迎える決心をしました。
そして、2013年4月、もうすぐ5歳という瑠がやってきました。面倒見のよい摩耶ねーちゃんを、瑠はすぐ大好きになりました。
今日の摩耶と瑠です。
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不安材料を数えれば、地球レベルから個人レベルまで限りありません。
しかし、とにもかくにも今日、17歳になった摩耶と瑠と私の平穏な暮らしが、私の大好きな地域の大好きな住まいにあることを心から喜び、支えてくださっている方々に感謝したいと思います。
願わくば、来年の今日も、18歳の摩耶と過ごせますように! 
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