佐藤優さんの「サバイバル宗教論」を読みました。


私にとっては、大変「役に立つ」知見がいっぱいでした。

私はキリスト教の幼稚園に通っていました。母親が強く希望したからです。小学校時代は、母親の強い意向で日曜日は教会の日曜学校へ。中学・高校時代も日曜日は礼拝に行っていました。母親に事実上強制されたからです。母親は、「教会に行かないとバチがあたる」とか「ヨシコは心のネジ曲がった人間なんだから教会に行って直してもらわないと」と言うのでした。母親のいう「神様」「教会」は、いつも母親の味方であり、私を母親の思い通りに改造してくれたり、母親の思い通りにならない私に罰を与えたりする存在でした。これはキリスト教、とくにプロテスタントの教義からいって、非常におかしな解釈です。
もっとも高校時代の私にとっての「教会に行く」は、共学だったり男子校(当時)だったりする別の高校に通う同世代の人たちと接触して会話するための貴重な機会でもありました。とりあえず教会に行っていれば母親は文句を言いませんでしたから、原家族からの貴重な息抜きの時間として、母親に支配された世界ではない世界を見る機会として、私は教会を利用させてもらっていました。ここで「利用」と書きながら、私は母親が
「利用だなんて、そんなことを言う心の汚れた人間は、悪魔の子だから……」
と目を吊り上げて怒りの言葉を発する姿を思い浮かべています。実際にそんなことが何回も何回もありましたから。

長年の間、なぜ母親が自分にだけ都合のよい、妙に土俗的で呪術的なキリスト教解釈をできるのかは、私にとって大きな疑問でした。キリスト教の中学校・高校に通い、高校時代に受洗し、その後も母校である中学校・高校や系列の教会と深く関わり続けてきた母親は、そろそろ60年以上もキリスト教と接しているわけです。礼拝や集会にも顔を出しています。であれば、そんなキリスト教解釈が「ただされる」機会は数多くあったはずです。なぜ、ただされないまま、母親は70歳過ぎまで、そういうキリスト教解釈を持ち続けてしまったのでしょうか?

私は「サバイバル宗教論」を読んで、自分の宗教観の方を「ただされる」思いでした。「◯派キリスト教」という揺るぎない存在があるわけではなく、人々は自分の救済のために、その地域が背負ってきた背景や歴史と折り合いの付く形で、「その地域のキリスト教」を作ってきたのです。であれば、母親が「自分のキリスト教」というべきものを作りあげてしまったとしても、不思議ではないでしょう。
礼拝や集会の場では、ひと通りの礼儀作法をわきまえて若干の貢献をしていれば、おそらく、周囲の人々に非難されることはありません。そこで語られたはずの話が母親の中に届かなかったり、母親にとって都合のよい内容だけが文脈や背景と切り離されて取り込まれたりしたとしても、不自然ではないと思われます。母親が、絶対服従を強いることの可能だった私に対して話し聞かせ、というより浴びせ続けたのは、教会の牧師さんや集会に集う人々が何を意図していたのかとは全く異なっているのかもしれませんが、母親の「自分のキリスト教」だった……。
私は、そう考えることで、とても気がラクになりました。

母親は長年、「自分の言っていることは自分の信仰ゆえに正しい」と主張していました。もしかすると、私に対して直接は言わなくなっただけで、現在もそうなのかもしれません。
「信仰ゆえに」「正しい」という母親の主張の内容は、メチャクチャで、私にとっては非常に破壊的でした。だから私は、母親の「信仰」「正しい」を突き崩さなくてはならない、と思っていました。中学生くらいで「この人の言っているキリスト教はなんだかおかしい」と思い始めたときから、母親の「信仰」が正しくなく、母親の「信仰ゆえに正しい」も誤りであるという根拠を探しつづけていました。
そのキリスト教の教団で「正しい」とされていることがらに対して誤っていると言うしかない点は、わざわざ探さなくても、母親が何か言い始めれば次から次に出てきました。
でも、私は母親に対して、ほとんど何も言い返しませんでした。会話が成立しないどころか、「親がせっかく言ってやっているのに反抗するから」という理由で、さらなる罰を加えられる可能性がありましたから。私は高校時代、3日にあけず、「高校を辞めさせて工場で働かせる」と母親に言われていました。母親によれば、そうすれば私は母親のありがたみを理解するのだそうでした(その高校に進学することを強く希望したのは母親だったのですが)。そのような時にも「自分は信仰を持っているから、自分の言っていることは神様が言っているのも同じ」というような言葉が、母親の口から発され続けていました。

母親は、母親自身が主張し続けたほど「正しい」人間ではないのだと思います。母親の属する宗派のキリスト教的価値観からも、母親の誤りを指摘することは容易です。でも、母親の「正しい」を否定し、「誤り」を示すことには意味はないでしょう。母親は、母親自身の「自分のキリスト教」の世界に住んでおり、その中で「自分は常に正しい」「自分は家族(少なくとも私)に対しては全知全能の神にも等しい存在であり、そうであるべき」と自己完結しています。その世界を壊されることに対して、母親が全力で抵抗するのは当然といえば当然の話かもしれません。

とにもかくにも、「サバイバル宗教論」を読んだ私は
「母親は、私には良くわからない宗教である『母親のキリスト教』の人」
と考え、母親の不思議な考え方の数々を
「『母親のキリスト教』の教義は、そのようなものであるらしい」
と捉えることが出来るようになりました。
宗教学という大きな枠組が可能にしてくれた新しい解釈は、私をとても気楽にしてくれました。
母親が何を考え、何を言い、何を行っても、
「『あの人のキリスト教』はそういうものだから」
と考えることができれば、私は個人として母親と対決したり闘ったりする必要がなくなります。
問題ある言動に困らされたときにも、
「『あの人のキリスト教』にはカルト宗教っぽいところがあるから、ええと、カルト宗教や信者に対する対策は」
と、対処を考えることが可能になります。
「たいへん困った人ではあるけれども、他ならぬ実の母親なのだから」
と考えると、
「その実の母親に対して、こんなふうに『苦しい』『辛い』『しんどい』と思っていいんだろうか?」
という自責につながりますが、
「なんだかちょっとヘンな、カルトっぽい宗教の信者」
と考えれば、自分を責めることなく、相手を逆上させる可能性もいくらか少ない対処を行うことができます。
このことは、私にとっては大いなる救いです。

「母親が宗教を根拠にして自分を困らせる」
という長年続いた事態に対し、
「母親が自分を困らせる」
に注目するのではなく、
「(母親の)宗教が自分を困らせる」
に注目することが、もっと早い時期に出来ていれば。
宗教学に接してみるという選択が自分に出来ていれば。
母親との間の不毛な争いごとと、それによって苦しめられることを、私はどれだけ減らすことができたでしょうか。
「学問によって解決できるかもしれない」
という発想を持たなかったことを、今、ちょっと後悔しています。