わりと身近で
「論文のイントロダクションの部分って、剽窃だの盗用だのというつもりがなくても、過去の関連論文のどれかと似てきちゃうよね」
という会話がありました。
「沸いてる」分野であればあるほど、時期の近い先行研究がたくさんあって、そうなりやすいでしょうね。
今日は、文章のオリジナリティに関して自分がどうしてきたかについて書いてみます。

1998年~2000年ごろの私は、ライターとしては、テクニカルライティング専業に近かったです。
当時の仕事のほとんどはLinux関連の技術記事でした。それもインストールとか基本操作とか、初歩的なサーバ構築とか、最低限のセキュリティ設定とか。ちょっと油断すれば、誰が書いても似たようなものになりそうな内容です。
技術文書の目的はさまざまです。たとえば機器のマニュアルであれば「操作ミスを引き起こしてPL法訴訟につながる」は絶対に避ける必要があります。部品のテスト報告書であれば「このテストを通過した部品を、我が社(わが部門)は受け入れてよいのかどうか」の判断が行える内容である必要があります。他者の知的財産権を侵害することがあってはなりません。しかし、オリジナルな表現にこだわるあまり、本来の目的を達しないようでは困ります。
このような数多くの制約のもとで、なるべくオリジナルな、どこかが過去の先例より少しでも良くなっている技術文書を作成するという作業は、大変エキサイティングな知的冒険なのです。今でも、「向こう30年程度の自分自身の人生設計と折り合いがつくようだったら、時にはやってみたい」と思うくらいです。
ちなみに1990年代、マニュアルのページ単価は概して有り難いもので、雑誌原稿の3~5倍程度になることもありました。雑誌原稿をサンプルにして非署名のマニュアルの仕事を時々いただき、その報酬を雑誌原稿の準備その他に使う……というサイクルを回すことができていました。2000年代に入るとマニュアルのページ単価が安くなりはじめ、とても生計を託すことはできない状況になってきました。そこで、マニュアルの代わりに広告の仕事を非署名で行うようになりました。半導体デバイスだの半導体製造装置だのといったコアな分野で、中身が分かって広告コピー書けるライター、現在でもそれほど多くはいないと思われます。その「超ニッチ」というべき分野で自分と二匹の猫たちの生活を支えてきた時期もありましたが、2000年代後半になると厳しくなり……時代の流れというものです。

Linux関連のテクニカルライティングにほぼ専業していた時代の私、実は非常に、オリジナルな表現にこだわっていました。文言も図式も。既存の何かと似たようなものを「生み出す」行為には挟持が持てません。それに、ライターとして「私が書いたものは、ここが違います」とも言えないわけです。挟持が持てない上に自分の市場価値アップにもつながらない仕事は、誰もが「なるべくなら、したくない」と思うものではないでしょうか。私もそうだったというだけです。
もちろん現在も「オリジナルな表現」は重視しています。「よりよい表現を」と日々心がけています。でも現在は「こだわる」ではなくなっています。ノンフィクションの書き手として重視しなくてはならないポイントは、表現そのもの以外にも数多く存在しますので。

私、当時存在したLinux技術書籍の30~40%は購入していたんじゃないと思います。もちろん雑誌も。本棚は入門書だけで7冊、メールサーバ構築だけで4冊、Webサーバ構築だけで5冊、セキュリティだけで10冊……というような感じでした。
自分が記事を書くたびに、持っている書籍・雑誌の該当箇所は全部読んでいました。そして、図式も文言も、自分の(より良い)オリジナルといえるものを生み出すようにしていました。もちろん、技術的な記述は全部、自宅にあったテスト機でテストしていましたし、編集者の方々にも「この記述どおりで成功するかどうか」のチェックはお願いしていました。そういう努力をしても原稿料は上がりませんが、次の仕事に結びつく確率を上げることくらいはできました。図式に関する工夫は、のちに技術教育の講師業に従事するようになってから、非常に役に立ちました。

この本には、当時の「自己ベスト」 を余すところなく注入しました。技術書籍としては、現在ではほとんど役に立たないと思われますが。

同じ内容について、同じようなバックグラウンドを持った人が書いていれば、表現が似てくるのは仕方ないと思います。似たようなものになったとしても「これは自分が考えて生み出した(より良い)表現」と言えるように日々努力しているのであれば、「剽窃だ」「盗用だ」という話にはならないでしょう。
でも、個人が持っている時間やエネルギーその他の資源は有限です。
ここで述べたような努力をしていた時、私は既にライターになっていました。私の生み出していた直接の最終製品は、記事・書籍・その他の技術文書類でした。
私は文書を納入して、報酬をいただきます。その文書が後にどれだけの価値を新規に生み出しても、私がそれ以上の報酬をいただくことはありません。書籍だったら「増刷かかったら増刷分の印税が」ということはありますが、それにしても印税以上の報酬をいただくことはありません。文書そのものが私の最終的なアウトプットです。だから、文書そのものに持てる資源の多くを注入することは、自分にとっての最適解です。
研究機関の一員として研究をしている方の場合、その方の論文は最終的なアウトプットでしょうか? 論文は研究の重要なアウトプットの一つではありますが、研究者の仕事は論文を書くことそのものではありません。研究活動です。論文を書かないけれども重要視されている研究員は、企業の研究部門を中心に数多く存在します。
特許など知的財産権に関わる文書だったらどうでしょうか? 他者の知的財産権を侵害して自分の知的財産権を主張することは許されませんが、特許文書もまた、研究者や技術者の最終的なアウトプットではありません。その人自身の仕事の範囲はそこまでかもしれませんが、製品その他に適用され、評価され、利益を得ることが最終的なアウトプットなのではないでしょうか?

最終的なアウトプットは何でしょうか? そのために効果あると考えられることは何なのでしょうか? 効果を上げるために、「オリジナルな表現」はどれほど有効なのでしょうか? 有効でなくても必要であるということを認めたうえで、なお「オリジナルな表現」のために割くことのできる資源は、どれだけあるのでしょうか?
1998年以後の私は、ライターだったから「オリジナルな表現」にこだわりましたし、こだわることができました。1997年以前の私は、「40歳を過ぎたら著述業に転身しよう」 と考えていました。ライターになった後ほどではありませんが、ある程度は「オリジナルな表現」にこだわっていました。
でも、文章そのものが最終的なアウトプットであるわけでもなければ、文章を書くこと自体がお仕事でもなく、将来そうなる可能性も考えていない方の場合には、ちょっと話が違うんじゃないかと思うのです。
今、必要なのは、「オリジナルな表現」のために多くの資源を割くことができない方々でも、そのことによって大きな踏み外しをしない安全装置のようなものではないでしょうか。

少なくとも、すべての研究者・技術者は、
「どこかで見たことあるような記述ではあるけれども、盗用・剽窃とまで言えるかどうか微妙」
といったことで足をすくわれる可能性からは、自由であるべきだと思います。
「バレない範囲でなら真似ていい」と言いたいわけではないです。
さまざまな制約や優先順位を無視すべきではないと言いたいのです。
研究者や技術者が、業務がら考慮しなくてはならない制約や優先順位を無視してまで「オリジナルな表現」を求められるとすれば、何かがおかしいと言いたいのです。