みわよしこのなんでもブログ : きょうだい差別

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


きょうだい差別

[死なずに生きててよかった]私が、弟と同等あるいはそれ以上に価値ある自分になれる方法

私は、3人きょうだい(自分・弟・妹)として、福岡市近郊で育ちました。
1933年生まれの父親は中学から、1939年生まれの母親は小学低学年から、戦後民主主義教育を受けて育っています。しかし両親の脳内は、戦前の「イエ」主義や、もしかすると法でも制度でもない江戸時代か何かの農村的封建思想で出来上がっていました。
「長男」である弟は、両親にとって何より尊重されるべきものでした。そこで私は壮絶なきょうだい差別を受けて育ちました。その内容について詳しくは書きませんが、幼少児の私の切実な希望は
「後ろから、弟にいきなり蹴られたり殴られたりしたくない」
「弟に痛い思いをさせられたとき、痛いと言いたい」
 「弟妹と母親が食事している同じ場所・同じ時間に、同じように、温かい食事をTVを見たり談笑したりしながら食べたい、床に正座させられ、食卓の裏や母親と弟妹の脚を見ながら食事時を過ごさせられ、何時間か後に冷えきった食事を食べるのではなく」
でした。

大きくなっていった私は、両親に理由を尋ねるようになりました。不公平だ、イヤだとは言えませんでした。
父親は、あいまいに言葉を濁して話題を変えたり、「そんなことを気にするのはおかしい」と言うばかりでした。
母親は、
「H(弟)は跡取り。女でナマイキなアンタなんか努力しても何にもなれない価値のない人間。Hは男だから立派な大人になって、たくさん稼いで、結婚して自分たちの老後を見てくれる価値ある人間」
と言うばかりでした。
それならば、客観的な「弟より価値ある自分」の証拠を作らなくては。
私は、そのように考え、さまざまな努力をしました。
しかし、学業成績は「女のくせに」「勉強だけできても」というdisりにつながるので、私の両親に対しては、あまり意味がありません。それに、あまり勉強向きでなかった弟の不機嫌や鬱屈の原因にもなり、まわり回って自分にどういう禍いがやってくるか。「成績が良かったために恐ろしいことが起こった」を、原家族の中で、私は数えきれないほど経験しています。なので、両親に対して「ヨシコはH(弟)と同じくらいには価値がある」と認めさせる目的に対しては、有効ではありません。
運動は、弟の運動能力があまりにも優れていたため、勝負にならず。
ピアノや書道にも熱心に取り組み、それなりの結果は出していましたが、弟の運動での「県大会入賞」などの成果に比べると、自分でも「価値あり」とは思えない程度でした。
では学歴か。親が認めたくなくても、周囲の人に「認めさせられる」はありうるかも。
就職して仕事を手放さずにいれば、自分の収入が弟の収入以上になるかも。そうすると、死んだり殺されたりしたときの「逸失利益」という形で、弟以上になれる。それは今の日本で誰もが納得する、命の値段。
自分だって
「自分の命が弟の命よりも高額だったら、自分の方が弟より価値がある」
は思っていません。でも、せめてそこで、「自分にも価値がある」と思いたかった。
障害者になっても、仕事は手放しませんでした。稼いでいれば「障害者だから逸失利益が低い」とはなりませんから。
でも、いろんなことがあって、仕事がほとんどできない数年間がありました。そこに原家族も関係があるのですが、それはさておきます。
2010年から2012年にかけ、父親は私に電話で、
「つつましく生きていければ、それで良かろうもん」
と繰り返し言いました。血縁からの実質的な縁切りは、それ以前、2007年に私が障害者手帳を取得したときに行われていました。
おそらく、父親は
 「生活保護で生きていけばいいだろう」
と言いたかったんだと思います。不要・有害と判断して縁を切った娘が、どこかで生活保護を受けても、「イエの恥」にはなりませんからね。

その間に、弟はキャリアを展開させ、安定した高収入の立場となり、皆さんが羨むようなステータスある女性との結婚をし、両親の深い理解と協力のもと共働きを継続し、子どもたちにも恵まれました。
「私の逸失利益が弟のそれを上回ることは、もう無理だろう」
と認めたのは、2011年末、私が47歳のときのことでした。
弟は子どもたちに恵まれたため、保険金の計算に子どもの育成・教育に必要な費用が加算されることになりました。それも含めて、私が抜き返すことは不可能でしょう。もちろん、子どものための費用の加算それ自体は、必要不可欠、当然すぎるのですけれど。
私は雨の中、外で声をあげて、手放しで泣きました。
私のそれまでの生涯をかけての闘いは、完璧な敗北に終わった。それは認めざるを得ませんでした。
人生詰んだ。
それが、偽らざる実感でした。
そして私は「余生」を生き始め、社会保障や社会福祉についての執筆活動を始めたのです。
物理やコンピュータに比べると「女っぽい」それらは、男である弟に勝つためには使えないので、関心はあっても仕事にしないできたのです。
でも、もう弟には負けが確定したのだから、最後、余生に後悔を残さないために、書いてみようと思いました。
そして現在に至ります。

つい最近、2016年6月のこと。 
私は、逸失利益を弟以上にする方法を発見しました。
あと15年くらいで、弟の子どもたちは成人し、扶養を必要としなくなります。
そのころ、弟は60歳を過ぎています。
弟が厚生年金との2階建ての年金を受給するのは何歳でのことかわかりませんが、 いずれは年金+就労収入、あるいは年金オンリー、になるでしょう。 
年金の金額でも、私は弟を抜くことができません。まず、弟の妻自身の年金もあります。
厚生年金加入者だった年数が通算で11年しかない私は、老齢年金を2階建てで満額ゲットしたって生活保護基準以下。だから、働き続けるしかないでしょう。
私がまだ働き続けているうちに、弟が働くことをやめたら?
その日以後、私の逸失利益は、弟を上回ることになります。

私は、なんと下らないことを考え続けてきて、今も考えているのでしょう?
別に、弟をぶちのめすために生まれてきたわけではなかったはずだし、そんなことがしたかったわけでもないんです。今も、したくてやっているわけではありません。
でも、私は、「自分が、少なくとも弟と同等の価値を持っている」と思いたかったんです。
生き、育ち、学び、働き、人と交流したりするにあたって、その前提条件として、「私の価値は、少なくとも弟と同等」と思いたかったんです。

4歳下の弟より一日でも長く働くことが、今の私の目標です。
そのためには、障害はあっても健康である必要があります。これは、なんとかなりそうです。弟はヘビースモーカーですけど、私は過去に一本もタバコは吸っていませんから。
「弟より一日でも長く働く」を実現するには、少なくとも向こう20年、ヘタすると25年・30年といった時間が必要です。その日まで、どうあがいても、私の逸失利益は弟を上回りません。
父親の「所詮は予定、所詮はつもり(どうせ実現しないだろう)」と嘲笑する声、何百回もぶつけられた声が聞こえる気がします。
でも、この目標に向かって努力しつつ、私は「すでに実現した」と思うことにしました。 
実現する前に、私が死んでしまうかもしれません。
でもその瞬間まで「実現した」ということにしておけば、少しでも多く希望を持って、明るい気分で過ごすことができます。それだけでも、私にとっての価値は「プライスレス」です。

52年かかりましたが、原家族トラウマを乗り越えてゆく糸口が、やっと見えてきました。
今日こう思っているだけでも、今日、生きててよかった。 

妹は本当に「そんなことはない」と思い込んでいただけだったのか?

私は3人きょうだいの一番上で、4歳下の弟と9歳下の妹がいます。
確か2002年に妹が、2003年に弟が結婚しました。
弟は、立派な学歴と職業を持つ女性と結婚しました。最後に噂を聞いた2013年秋時点では、二人の子どもの世話を私の両親に依頼したりしながら、共働きを続けているようでした。

2003年、弟が結婚した直後から、母親は
「アンタ、福岡に帰ってこれんとね?」
と私に言うようになりました。また、
「老後は嫁ではなく娘と暮らすのがいいと、(母親の高校の同級生は)みんな言っている」
と言うようになりました。
それは私にとって大変なプレッシャでした。
私は結婚はしないかもしれませんが、自分の仕事や自分の人生を組み立てて展開していきたいのです。
妹と弟が結婚したとたんに母親がそういうことを言い出したことに、私は激しい恐怖を感じました。母親に人生を奪い取られてしまう、乗っ取られてしまう、と。
親の老後については、10代のころから意識していました。自然に「ある程度は介護をするものであろう」と考えていました。きょうだい3人いるのだから、協力すればどうにかなるだろうと思っていました。でも、母親がこういうことを言い出したとき、私の中で何かが切れる気がしました。そんなふうに介護を押し付けられることに対しては、絶対にイヤだという気持ちが大きく湧き上がってきました。

妹とは現在は絶縁状態ですが(参考:妹との最後の会話)、2003年~2004年ごろは、まだ普通に会話のできる関係でした。
そのころ私は、「母親が自分の老後を私に頼ろうとしている」と妹に話しました。
妹は
「そんなことはない、お兄ちゃん(弟)のところに行くはずだ」
と言いました。
私は、
「お母さんは私に実際にそういうことを言っている」
と懸命に話しましたが、妹は相手にせず
「お兄ちゃんのところに行くはず」
と繰り返しました。
でも、当時の母親は実際に、私に対して執拗に「自分たちの老後を」という意味にしか取れないことを繰り返していたのです。母親が実際に言っていたから、私は妹に「お母さんがそう言っている」と言ったのです。それを妹が全否定するという図式でした。
繰り返しますが、母親が実際に「近くに住んで自分たちを介護してほしい」としか取れない内容のことがらを言っていたから、私は「お母さんがそう言っている」と言ったのです。妹の発言が事実をいくらかでも反映しているのであれば、母親が私にそんなことを言うこともなかったはずです。
私は何回も、妹に対して、
「お母さんはそう言っている」
と繰り返したのですが、妹は一度もそれを真に受けず
「お兄ちゃんのところに行くはず」
の一点張りでした。私は確かに、母親に何度も何度も、介護を求められていたのに。妹はなぜ、母親がそう言ったということも、私がそう聞いたということも、繰り返し否定したのでしょうか? 否定できたのでしょうか? 
そして2005年、私に運動障害が発生すると、翌年の2006年、父親が「ウチはもう関係ない」と私に言い渡したのでした。「自分たちの老後の介護力にならなくなった娘なんか要らない」ということでしょう。

最近の私は、この時期の妹との会話を思い返して、
「妹は、母親が実際に私に老後の介護を求めていることに気づいており、それは大変好ましいことだと思っていたので、『そんなことはない』と繰り返したのかもしれない」
という可能性に、やっと気づくようになりました。
当時も現在も、妹夫妻は弟夫妻と円満な関係にあるようです。妹の3人の子どもたちは、弟の2人の子どもたちと仲良く遊べる従兄弟であるようです。その円満な関係を壊さないためには、妹夫妻と弟夫妻が両親の介護をめぐって綱引きを繰り広げるような状況は望ましくないでしょう。
両親の介護が主に私に振りかかるという状況は、妹にとっても望ましい状況であるはずです。私を虐待した母親・その虐待を黙認していた父親を私が介護するとして、私の内心がどれほど辛く苦しい思いでいっぱいになろうが、妹は私に対して
「お母さんがどれほどお姉ちゃんのことを思っていたか」
を説教し、私が納得しなかったら平手打ちの一発二発を浴びせれば済むことです。高校生だった妹は、実際に25歳の私にそうしたことがあります。

原家族の中で孤立無援だった私の悲しみや苦しみを、妹が理解することは、永久にないでしょう。
遅すぎたかもしれませんが、私は、妹が私を痛めつけることなど何とも思っていなかったという可能性に気づくことができて、よかったと思っています。
 

「子どもが悪意なくしたこと」?

私は主に母親によって、4歳下の弟との間で、非常なきょうだい差別を受けました。
最初は母親が行い、弟が母親に言われたり促されたりするままに同調し……という感じでした。
参考:弟との間にあったこと

私はその一部始終を目の前にしていましたが、止めることはできず、ただ、弟にさまざまな種類の暴力を振るわれ続けているしかありませんでした。
私は弟が16歳のときに実家を離れましたが、そのような状況は、弟が20歳まで続きました(大学再受験で私のアパートに滞在した際)。その後も、両親はあくまでも弟の側に立ち続けました。

長年、私には疑問がありました。
当初、弟が母親によって、私を痛めつける者となるように仕向けられたのは事実です。それは、弟がまだ物心つかない幼少のころでした。1歳とか2歳とか。
でも弟も、いつまでも小さな子どもではありません。判断力がないまま、親が許しているという理由で私を痛めつけ続けていたとも思えないのです。
弟の方は、どういうつもりだったのでしょうか?
弟は私に対して、イジメや虐待を行っているという意識はあったのでしょうか?

2003年だったか、弟が35歳くらいで結婚したとき、疑問のごく一部が解けました。
実家の台所で、弟と私はほんの1分足らずの会話をしました。
弟は
「Kくんと、こないだ会って。お姉ちゃんの話が出たよ。Kくんは『ボクたちが仲間外れにしてイジメて、ヨシコちゃん、傷ついたやろうねえ』と言ってたよ」
と語りました。笑いながら。軽い調子で。
「Kくん」とは、母の兄の双子の息子の一人で、私の一歳下です。私は幼少時、その家にしばしば預けられていたので、双子のK・Mと良く遊んでいました。しかし弟が3歳、私が7歳になるころから、K・Mは弟を仲間とし、同時に、露骨に私を仲間はずれにするようになりました。
「男の仲間に女が一人」
と囃し立てられたり、2対2に別れて何かのゲームをしていたところ、目配せとともに3対1にされてボコボコにされたりといったことがしょっちゅうでした。それでも、泣くこともできませんでした。ガマンできずに泣くと、母親に私が「問題を起こした」と責められるからです。K・Mは、弟からそのことを聞いており、私のことを「安心してイジメられる」と考えている節がありました。
私は弟に
「ああ、とても傷ついたよ。今でも傷ついているよ」
と言いました。真顔でした。
弟は顔をこわばらせました。
その時、弟の携帯電話が鳴りました。弟は弾かれたように立ち上がり、離れた場所で電話に応答しました。

私は、どこか気持ちが落ち着くのを感じました。
それまでの私は、
「悪意ない子どもが、何気なくしたことなんだから、傷ついてはいけない」
と思い込んでいました。両親は私に
「大切な長男に何をされても黙ってガマンする姉」
を期待していました。
長年、私は「それはおかしい」と思い、腸の煮えくり返るような思いを抱えていましたが、辛さや悲しさを誰にどうぶつけてよいか分かりませんでした。その辛さや悲しさを、誰がもたらしているのかも良く分かりませんでした。
でもこの時、
「きっかけを作ったのは母親で、父親がそれを黙認あるいは暗黙のうちに奨励し、弟もそれに乗ったけれども、幼少時のあるとき、弟は自分の意志で姉である私を痛めつけることを選びとった」
という一つのストーリーが明確に見えた気がしたのでした。
それまでの私は、
「誰も悪くはなく、私の対応が下手くそなので、私は辛い立場に置かれ続けていた」
と思い込まされていました。父親がそれに近い言葉を私に語ったことは何回かあります。
でも事実はそうではなく、おそらく、
「家庭内で実権を持っている人々によって、子どもたちの序列と役割が決められ、子どもたちはそのように振る舞うように仕向けられ、あるいはイヤでもそうすることを事実上強制され、有利な立ち位置にいて暴力的であることを許される子どもたちは、それは自分自身にとって有利な状況なので、いつかその立ち位置を主体的に選びとった。不利な立ち位置に置かれた子どもは泣き寝入りを強いられるしかなく、その場ではそうするしかなかった(でも私は『面従腹背』『臥薪嘗胆』だった)」
ということなのです。

従弟のKとM、弟、自分の4人で最後に「遊んだ」のは、私が中学1年、KとMが小学6年、弟がたぶん小学3年のときのことでした。
鹿児島に赴任していた母親の弟が、母方祖母・母親・K・M・私・弟を、鹿児島での一泊か二泊の旅行に招待してくれたのでした。
母方祖母がいたので、母親もふだん私に対して行っているような差別を堂々とは行えませんでした。私はKやMと相撲を取り、気持よく投げ飛ばしたりしました。
これ以後、4人で遊んだことはありません。
4人で遊んでいた、弟が3歳~小学3年の期間のどこかで、弟には「姉をイジメよう」という主体的な意識が芽生えていたようです。
無垢な子どもが、悪意なく、ただ子どもらしく振る舞っただけで私を傷めつけたのであったら、私には救いがありません。
でも、弟は、自分の置かれている立場を自覚し、したたかに振る舞える子どもでした。私の目には、悪意をもって、子どもらしさを演出しながら私を巧妙に痛めつけているように見え続けていました。
大人になった弟自身の口から、それに近い内容の言葉を聞いて、私はほっとしたのです。
私の見方や感じ方は、おかしくはなかったのだ、と。


 

弟との間にあったこと

4歳下の弟との間にあったことを、時系列で書き記しておきたいと思います。

1963年 
・私が誕生。 

1967年
・弟が誕生。
 何人かの人に
 「母親を弟に取られて虐待と感じたのではないか」
 と言われたことはあるが、そういう感覚はほとんどなかった。
 母方祖母、叔母(母の妹)などとの交流が日常的にあった。
 それまでもしばしば、私は母方実家に預けられていた。
 弟が生まれた後は、預けられる頻度が若干増えた程度かな?
 それは私自身にとっては楽しいことだった。
 よく母方祖母に手を引かれ、池にカメや鯉を見に行ったという記憶がある。
 弟の出生で、大きく環境が変わったわけではない。
 その前後で日常の幸福感が極端に減少したという記憶もない。
 ただ母親と弟が産科から退院した後、母親は私に対し、弟に触ることを禁じていた。
 「お母さんの見てない間に触った」とか言われないよう、
 なるべく弟に近寄らないようにした記憶ならある。
 ちなみに妹の時も、妹が2ヶ月くらいまでは触ることを禁じられた。
 自分の実のきょうだいでは、
 生まれたての赤ちゃんのプニプニした肌の感触は、ほとんど経験していない。

1968年
・弟が歩行などの運動を行うようになる。
 私の髪を後ろから引っ張って泣くので喜び、繰り返すなど。
 母親は私に「お姉ちゃんだからガマンしなくては」「痛いと思ってはいけない」などと言うようになった。

1969年
・両親・弟ともども、それまで住んでいた福岡市長浜から、現在の春日市に引っ越す。
 父方祖母と同居しはじめる。
・同じ幼稚園に通っている近所の子どもが、幼稚園で習う歌「つくしのように」を暗唱していた。
 私はその歌を覚えていなかった。
 幼稚園では、覚えることは要求されていなかった。歌詞が掲示され、見ながら歌っていた。
 母親は、すぐに全部を暗記するように命じ、私がその歌の歌詞を唱えるのを後ろで監視していた。
 その私の尻を、弟が蹴ったりつついたりし続けていた。
・私、ピアノを習い始める。

1970年
・私、小学校に進学。家にいる時間が短くなったせいか、弟との間のエピソードはあまり記憶にない。
・3月か4月ごろ、私が知らない間に母親と弟が出かけており、夜になって帰ってきた。
 ふつうに「おかえりなさい、お腹すいた」と言った私の顔に、母親が平手打ちを浴びせた。
 母親と弟は、親戚のおじいさん(母方祖母の実家の誰か)が亡くなったので、
 そのお宅に行ってきたそうであった。
 (母親と弟が帰ってくるまで、その人が亡くなったことを私は知らなかった)
 弟は母親の悲しみを共有している良い子なのに、
 私は母親の気持ちが分からない心のない子なのだそうだった。
 母親にはかなり長い間「アンタには心がない」と言われ続けた。
 この時が最初だったと記憶。
・母親の留守中、私(6歳)と弟(2歳)が二人で家にいたことがある。
 弟は寝ていたが目覚め、母親がいないことに気づいてギャン泣きを始めた。
 私はあやそうと試みたが、私がちょっと触ると弟は「おかあさーん!」と激しく絶叫するという感じ。
 私は、弟をいじめて泣かせたと誤解されないようにしなくてはと思った。
 弟から数メートル離れた場所で、本を読んでいるふりをした。
 弟はギャン泣きを続けた。
 そこに隣のK家の奥さんが様子を見に来て弟をあやした。
 弟は泣き止んだ。
 そこに母親が帰ってきた。
 K家の奥さんは、私が本を読んでいて弟を放ったらかしにしていたと母親に話した。
 私はその後、母親にメッタ打ちされ、「心がない」と非難された。
 この時、弟が「お姉ちゃんにいじめられた」と虚偽の報告をしなかったことは不幸中の幸いであった。
 (そういうことも何回かあった)

1971年
・弟、幼稚園に入る。
 幼稚園から帰ってくると、私に暴力をふるうようになった。
 人間に対する暴力というよりは、布団やサンドバッグに力を加えているような感じだった。
 母親が「幼稚園ではいい子にして、代わりに家でお姉ちゃんにぶつけていいから」と言っていた。
 私は、痛がることも泣くことも禁じられていた。
・母親による陰湿な虐待が増える。
 食事直前に大量の漢字の書き取りを命じ、母親・弟と同時に食事することを許さなかったり。
 NHK教育(当時)のピアノ教育番組の時刻に夕食とし(ふだんはもう少し遅い時刻だった)、
 私にだけ視聴に専念することを命じ、母親・弟が私の目の前で食事していたり。
・弟が茶碗などを壊した時「お姉ちゃんが壊した」と母親に密告、
 母親がそれを全く疑わずに私を罰したこと数回。
・私が雑誌の付録などの工作をしていたとき、完成したところで弟がそれを破壊したこと数回。
 母親は、私に泣くことも悲しむことも許さず、
 「男の子はそのくらい暴力的でなくてはいけない、お姉ちゃんは弟が立派に育つためにガマンしなくては」
 というようなことを言っていた。
 私は、家の中で紙など簡単に壊される素材を用いた工作を行うことを避けるようになった。

1972年
・妹出生。
 母親は私に対して、妹に触ったり抱いたりすることを禁じた。
 妹が生後3ヶ月くらいまでだったと思う。
 母親によれば、理由は、私には心がなく悪魔の子だから何をするか分からないということであった。
 弟は妹を触らせてもらっていたし、抱かせてもらってもいた。
 なんともいえない悲しみを抱えて、妹を抱いて二人で笑い合う弟を見ていた記憶がある。
 妹が生後1ヶ月・2ヶ月ごろの時期も、
 沐浴用のお湯を汲むなどの戦力としては使われていた記憶がある。
 沐浴の準備を手伝ったことは小学校で作文に書き、よい評価を受けた。
 その作文がもし今でもどこかにあるのであれば、注意深く読めば、
 私が妹に触らせてもらえていなかったことが分かるかもしれない。
 私は、まさか学校に提出する作文に
 「弟は妹に触らせてもらえてるし、抱かせてももらっているのに、私は違う」
 とは書けなかった(*)ので、悲しみをこらえて、妹の沐浴風景を描写したのだ。
 妹の沐浴に関する作文は何本かあったはず。
 妹が大きくなった後のものだと、私自身が沐浴させていたりする描写もあるかもしれないが。
 妹がある程度大きくなると(生後4ヶ月以後くらい?)触らせてもらえるようになった。
 その後、妹の入浴は主に私の仕事となった。
 浴槽の中で、膝の上の妹に大便をされたことも。
 それは現在でも笑える、数少ない楽しい記憶である。

(*)
 学校で作文の時間に書くのであれば、書くこと自体は可能。
 でも母親は、学校での私の行動を逐一、近所に住むクラスメートに監視・報告させていた。
 私が小3~高3くらいまで続いた(中学・高校は実家すぐそばだった)。
 文具店で何を買ったか、私が帰宅する前に母親の知るところであったりした。
 小遣いの範囲でジャポニカ学習帳を購入したところ、
 帰宅したとたんに「普通のノートではないものを買った」と怒り狂う母親にぶちのめされたことも。
 (母親はふだん、私にジャポニカ学習帳を禁じていたわけでもなかった)
 ましてや作文に、母親に関するネガティブな描写をすることは不可能だった。
 長年、「侵入的な母親」という言葉でも説明がつかず、
 なぜ母親がそんなことをしたのか理解できずにいた。
 もしかすると、母親には自分が問題多い行為をしているという自覚があり、
 その問題多い行為がバレないように必死だったのかもしれない。

1973年
・クリスマスか何かの機会に、弟と私が同じお菓子をもらった。
 弟は自分の分を食べてしまい、私の分を欲しがった。
 私が拒むと、弟は母親に言いつけた。
 私は母親にお菓子を全部取り上げられ、それは弟に与えられた。
・夕食時、配膳などの準備が終わったところで、母親が何か理由をつけて私に罰を与えることにした。
 私はダイニングキッチンの床に正座させられ、数十分そのまま「反省」していることを要求された。
 目の前のダイニングテーブルに、母親・弟・妹が座り、
 TVを見ながら楽しそうに談笑しながら食事していた。
 同居していた父方祖母がいない時に限定ではあるが、特に1973年を中心に50回くらいはあった。
 私の食事は、母親と弟妹が食事を終えた後で許されたり、時には許されないままであったりした。

1974年
・実家に2階が増築され、子ども部屋となった。
 弟と私は、協同で清潔さを保とうと珍しく意見が一致し、掃除ローテーションを立てていた。
 そこに母親がやってきて、弟に掃除をさせることを私に禁じた。
 母親によれば、弟は長男なのであるから、将来、従順で家事をよくやる女性と結婚しなくてはならない。
 弟の妻は、両親の老後の面倒を見てくれる女性でなくてはならない。
 そのためには、弟自身が家事が出来るようになっていてはならないということであった。
 (現在の弟は、共働き家庭の夫として、かなり家事を分担していると聞く。
  母親がそれについて不満であるという話は聞いたことがない。
  また、私以外のきょうだいやその配偶者が、強く介護を求められたということも聞いていない)
・母親が家計のために医療事務の仕事を始めた。
 本来、カルテを持ち出さずに医院内で行うべきものであるはずだが、
 なぜか自宅で仕事することが許されていた。
 私が1mくらい離れたところから「そのカルテは何?」と聞くと、
 母親は「勝手に大人の書類の中身を見た」と怒り狂った。
 母親によれば、私がじっと見たからカルテであることが判明したのだそうだった。
 その直後、母親の横に座った弟が、目の前のカルテを「カルテ」という言葉を使って話題にした。
 母親は平和に弟と会話していた。

1975年
・町内の子ども会の委員だった私は、夏休み、毎日「ラジオ体操」の世話をしていた。
 皆勤したため200円相当くらいの文具をもらった。
 3回くらいしか来なかった弟は、消しゴム1個か何かしかもらえなかった。
 弟は私に「自分も欲しい」といった。
 私は「これは私が毎日行ったのでもらえたんだから」と拒んだ。
 私がトイレに行っている間に、弟が私のもらった文具を全部破壊していた。
 泣いて怒った私を、母親がぶちのめした。
 母親によれば、私が喜んで「はい」と与えないからいけないのだそうだった。
・ 私が何か工作していて手にカッターナイフ(刃は入っていなかった)が握られていたときに、
 弟が空中を飛んできた。そこまでは覚えている。
 次に覚えているのは、カッターナイフの先端が弟のまぶたにあたり、相当量の出血をしたこと。
 母親は、私が悪意をもって弟の目を攻撃したが幸いに外れたものと断定し、父親にそのように伝えた。
 夜中に帰ってきた父親に起こされて、私は何回も殴られた。
 もしそんな攻撃の意図があったら、刃を入れておかないということがありうるだろうか?
 私はこの大変な出来事に動転してしまい、前後の記憶が定かでない。
 なぜ刃の入っていないカッターナイフを手に持っていて、それが弟のまぶたに当たったのか分からない。
 刃の入っていないカッターナイフを持っていたのは、刃を交換していたから?
 で、何らかの理由(弟が私の顔を叩くか何かしようとしたとか)で、
 それを手に持ったまま自分の顔をかばおうとしたとか?
 自分自身さえ覚えていないので、母親の
 「悪意を持って目を攻撃したが外れた」
 説に、未だに反論できていない。
 でも、断じて、意図したことではなかった。
 私は、弟を傷つけたいとは思っていなかった。
 自分が傷つけられつづける状況からは、切実に逃げ出したかったけれど。

1976-1982年
・私は私立中学・高校に在学。
 弟との関係は
 「弟が私の何かを非常な悪事であるかのように母親に告げ口し、母親はそれを疑わずに私を責める」
 といったことが中心。
 その「非常な悪事」であるかのようなことは、
 私が勉強中に髪をいじっていたとか、すね毛を剃っていたとか、服装のセンスが悪いといったこと。
・弟の学業成績はあまりふるわなかった。
 母親はそれを私のせいにした。「アンタのせいで家中迷惑する」と。
・弟が中学生のとき、同じクラスの女子がバレンタインチョコを持って実家を訪れた。
 母親はけんもほろろに追い返し、その女子の手紙を読んで「不潔!」「気持ち悪い!」と私に言っていた。
 (本人は追い返したけれどもチョコレートや手紙は受け取っており、手紙を勝手に開封していたということ)
 そのチョコレートや手紙を弟が受け取ったかどうか、弟が母親の反応を知っていたかどうかは知らない。
 ちなみに私も遠隔地の同年齢の男子高校生との文通を行っていた時期があったけれども、
 (音楽雑誌を通じて知り合った)
 相手からの手紙は全部母親に読まれていた。
 まず、母親が私の前に封筒を持ってきてニヤニヤする。
 私が「あ、ありがとう」と封筒をカバンに入れようとしたりすると、母親が血相を変えて、
 「自分がいかに理解のある母親であり、寛容にも文通を許しているか、
  親に見せられない秘密があるなら文通は禁止する」
 という内容の主張を行う。
 私はしかたなく、母親の目の前で開封した。
 母親は手紙を私の目の前で読み、さんざん笑いものにした後で、私に手紙を返した。

1983年
・弟、私立高校に進学。県立高校は不合格。母親によれば、私のせいだった。
・弟、高校進学後すぐバイクの免許を取得。父親が中古バイクを買ってやった。
 当時の福岡県でも「三ない運動」はあったのだが、父親によれば
 「男の子にはこういう時期が必要」
 ということ。
・確かこの年に、弟と最後の会話をした。
 何がきっかけだったか忘れたが、弟が
 「なんだよ、浪人のくせに」
 と私に言い、私が
 「なんだよ、私立中学落ちたくせに」
 と言い返したところ、弟が大荒れし、母親はいつもどおりに私を悪者にした。
・父方祖母、他界。
 現在、弟一家が住んでいるのは、この祖母の残した土地に建てた家。
 父親は何を警戒していたのか知らないが、当時から私に対して、
 「まだ中学生のH(弟)が土地を相続できるわけはない」
 と繰り返していた(2000年ごろまで)。
 弟一家には関心はないが、いつか、この相続時期は確認したい。
 父親が私にウソをついていたのかどうか、いつまでウソをついていたのかを確認したい。
・母親によれば、私が浪人しているせいで、
 弟妹が学校で「お前の姉ちゃん浪人」とからかわれたりなどしたそうであり、
 「アンタのせいで家中が迷惑する」のだそうだった。
 相手が誰だったのかは不明。
 もしかすると、事実でなかった可能性もある。
 もし事実であり相手がはっきりしているのなら、母親は
 「●さんにH(弟妹のイニシャル)が……と言われたと言っていた」
 と言ったはずなので。
・夏、私がピアノの前にいたら、弟と母親がやってきてニヤニヤしながら、
 「今、お姉ちゃん(私)が使っている部屋にエアコンをつけることになったから、明け渡すように」
 と言った。
 弟の部屋は西日が当たるためエアコンをつけるのに不適切であるという理由であった。
 真の理由はたぶんそうではなく、私の使っていた部屋の方が広かったからであろう。
 その部屋は、妹と私が二人で使うことが想定されていたので幾分広かった。
 私は、あと半年で出て行くんだから、このままにしておいてほしいと懇願。
 弟と母親は不承不承ながら承諾した。
 ちなみにエアコンは窓枠に設置するタイプで、設置に工事は特に必要なかった。
・この時期、
 「弟と母親が私のそばにやってきてニヤニヤしながら私の何かをどうにかしようとする」
 は他にも何回かあった気がするけれども、内容は思い出せない。思い出したら書く。

1984年
・3月、私が東京の大学に進学することが決定。
 私がまだいる間から、弟は自分の部屋になる予定の(元)私の部屋に、
 私がいないものであるかのように入り込んだり(私の不在時ではなく、在室中の話)、
 私の膝の上にいた実家の猫を、私に何も言わずに抱き上げて連れて行ったりした。
・私、大学進学のため実家を離れる。
 弟は高校不登校に。
 母親、私への電話で、
 「アンタが家を離れたせいで、家中迷惑する」
 と言う。
 私が実家にいたときは、弟の学業不振は「アンタがいるせい」。
 私が実家を離れると、弟の高校不登校が「アンタがいないせい」。
 母親がこういうことを言うので、なるべく実家に寄り付かないようになった。
 実家に寄り付くと、具体的な言動や「いる」ことそのものを理由にした何かが起こる。
 実家にいなければ、「いない」ことを理由にした何かで済む。
 だったら「いない」方がいいという当然の判断。
・夏休み、私は実家に10日ほど滞在した。
 台所の食器棚には、交通違反の赤キップ白キップがたくさん挟まっていた。
 50ccバイクに乗っていた弟のものであった。
 私の滞在中、両親が弟とともに家裁に出頭したことがあった。
 家裁の裁判官は「高校を退学になったらかわいそうだから」と配慮した措置を取ったとのこと。
 (後に両親は「そのような事実はなかった」と言うようになったので、
  私は自分がたしかに見たと記憶している違反切符や、その時に両親に聞いた家裁の話が、
  幻でも記憶違いでも妄想でも作話でもないことを確認したいと今でも思っている)
 弟は高校を退学にならずに卒業したようである。
・私が転居した後に(もちろん私宛に)届いた郵便物は、母親に開封されていた。
 理由は
 「弟(妹)が中身を見たいと言っているから」
 であった。
 そのいくつか、友人が送ってくれた女子好みのグッズなどは、帰省時に妹に使われていたりした。
 「お姉ちゃんだから」妹に喜んで与えなくてはならないのだそうだった。
 私の手元に届かなかった個人からの手紙は、いったい何通あるのか不明。
・弟とは直接の関係のないことであるが、
 予備校など母親の関知できない場で出来た私の友人たちが、実家に電話して私の転居先を聞いたところ、
 母親が
 「教えないでほしいとヨシコに言われています」
 と答えていたと聞いている(そんなことは全く言っていない)。
 その友人たちが、共通の友人を通じて私に連絡したため、私は母親のしていたことを知った。
 (このことを父親に訴えたところ
 「長女はそういう目に遭いやすいもので、それに不満を持ってはいけない」
 という返事だった)
 一方で、私がもう関係を断ち切りたいと望んでいる高校(母親も同じ高校の出身)の同級生には、
 母親は私が転居しても転居しても、転居先を教えていた。
 その同級生たちは、私から見ればイジメっ子であった。
 (’私が、当のその相手たちからイジメに遭っていた事実を、母親はよく知っていた)
 また、高校同窓会への出席も強要していた。
 行ってもイジメられるだけなので行きたくなかったが、行かないと母親が恐ろしい。
 1浪目と2浪目は行って、予想通りイジメられた記憶がある。
 私が福岡を離れた後は、母親は東京支部の同窓会への出席を強く求めつづけた。
 (平日日中に行われるので参加できないと言うと、会社を休んで参加するよう求められた。応じなかったが)
 1997年ごろ、私は高校同窓会に連絡し、
 「高校時代はクラスメートからの酷いイジメに遭っていて未だに思い出すと辛いので退会したい。
  今後は連絡しないで欲しい」
 と申し出た。その後、同窓会報は来なくなった。
 しかし私が転居するたびに、高校同窓会から同窓会報が届いた。
 私は転居のたびに、「もう送らないでください」と言わなくてはならなかった。
 母親が高校同窓会に依頼していたものと思われる。
 実家に知られないように転居したら、
 転居先にまで高校同窓会が追いかけてくることはなくなるかもしれない。

1985年
・弟、大学進学。4年在学して中退したらしい。
 父親は長年「ちゃんと卒業した」と私には言っていたが、結婚式の時に中退であることが判明した。
 それについては私は特に大きな思いはない。人それぞれでいいと思っている。
 でも両親に対しては「私の学業がまったく評価されないのに?」という怒りがある。
・この年の夏休み、私は実家に4日ほど滞在したかと思う。
 既にフルタイム就労していたので長居できなかった。
 実家に行ってみると、庭のほとんどがカーポートとなっており、スポーツタイプの車があった。
 弟のものであった。
 工事費用と車の費用、弟の免許取得費用を誰が出したのか、私は知らない。

1987年
・弟が大学再受験のため、私の住んでいたアパートに滞在した。
 母親が「お姉ちゃんだから面倒みてやらないといかんよ」と言うため、
 とにかく母親に何か告げ口されないように必死の数日間だった。
 弟が受験した大学は日東駒専クラス。
 しかし弟は、おそらくは受験勉強のつもりで、中学1年レベルの英語の書き取りをしていた。
 「これは合格しないだろう」と思った。
 とにかく私は、不合格を母親や弟が私のせいにしないようにヒリヒリしていた。
 必要最小限、何か具体的な用事についてしか言葉を発しないようにしていた。
 弟の方から何か聞かれたら答えていた。近隣のコンビニの場所とか交通情報とか。
 ちなみに当時、私は勤労学生だったので、昼間働いて夜大学に行っていた。
 そのことに対する考慮は、母親からも弟からも示されなかった。
 当時、バンドでキーボードを弾いていた私のアパートには、
 キーボードやドラムマシンがあった。
 受験を終えた弟は、それらに関心を示した。
 私は、
 「触ってもらうのは全然かまわないけれども、
  この操作をすると中のデータが飛ぶから、それはやめてほしい」 
 と言って、マニュアル等を置いて家を出た。
 弟が福岡に帰ったあと、母親から電話があった。母親は
 「H(弟)がお姉ちゃんの困ることをなんかしたと言っているけど、怒ったらいかんよ」
 と私に言った。
 すぐにキーボードとドラムマシンを確認すると、
 私が何日もかけて打ち込んでいた楽曲データが全部消されていた。
 この時の怒りが、私は未だに収まらない。
 私は両親に対して何度も怒りを表明しようと試みた。
 しかし父親は、「わだかまるのはおかしい」と私に言いつづけており、
 弟や母親の対応には全く問題がないとしている。
 ちなみに弟のこの時の再受験は不合格。
 現在に至るも、母親からも弟からも「お姉ちゃんのせいで落ちた」とは言われていない。
 それだけは救い。

1988年-1990年
・私、大学院修士課程在学。 
 結婚を考えて付き合っていた男性がいたが、
 父親の強い希望でその男性を連れて福岡に行ったところ、 
 私に席を外させている間に、両親が壮絶な嫌がらせをしたらしい。
 (本人が口をつぐんで語らなかったので詳細不明。
  ただ、私がトイレに行って戻ってきたときに、
  母親が男性に近づいて「家柄が」とかなんとか文句を行っていたのは見た)
 母親が後に電話で私に語ったところによれば、弟が
 「お姉ちゃんのせいで、みんな迷惑する」
 と言っていたということ。

1990年
 私、企業に就職。
 実家方面からは、弟に彼女が出来たという話をときどき聞くようになる。
 両親が、弟の異性との交際について何か言っていたという話も、
 不快を表明していたという話も、家柄の釣り合いを気にしていたという話も、
 聞いたことがない。

1993年~1995年ごろ
 母親からの電話でしばしば
 「弟妹も含めて子どもたちが一人も結婚しておらず孫もいないのはアンタのせい」 
 と責められる。

1997年ごろ
 母親との電話で、私が「運転免許を取得しようと考えている」と話すと
 理由はよくわからないが母親が大反対、
 「H子(妹)にもまだ取らせていない」
 と言った(妹は2002年(?結婚した年)に運転免許を取得)。
 母親に、免許取得費用を出して欲しいと言ったわけでもなんでもなく、
 ただ私が「免許を取ろうとしている」と言っただけなのに?
 母親がいつも、
   弟>妹>>私
 という序列であることを非常に望んでいたことを考えれば、不思議ではない反応である。

1998年ごろ
 父親から電話。
 弟がアパートを借りて一人暮らしを始めるので、保証人になってほしいということ。
 (当時の原家族には、企業の正社員が私しかいなかった)
 私は弟に代わってもらい、協会保障という手段を教え、
 「ダメなら私が保証人になることを考えてもいいから、その時に連絡してほしい」
 と言った。
 その後、弟がどうしたかは知らない。

2000年
 私、企業を退職。フリーランスに。

2002年?
 妹、結婚。
 
2003年?
・弟、結婚。相手は立派な学歴と立派な職業を持つ女性(2014年現在も就労を継続)。
・父親が私に「ヨシコはもう良かろうもん」と言い始める。
・妹夫妻に長男誕生。

2005年?
・弟夫妻に長男出生(懐妊がこの年で、出生は翌年だったかも)。
・妹夫妻に次男・三男(双子)出生(懐妊がこの年で、出生は翌年だったかも)。
・父親がそれ以前よりも頻度多く「ヨシコはもう良かろうもん」と言い始める。
 弟の長男・妹の次男・三男の懐妊を満面の笑顔で私に告げた父親が、
 ついでその笑顔のまま
 「ヨシコはもう良かろうもん」
 と私に言った時の怒りと悲しみは、未だに忘れられない。
 2005年12月ごろのことであったと記憶。
 (だったら弟の長男・妹の次男三男の出生は2006年か?)
・秋、私に運動障害が発生。

2006年
・父親の「ヨシコはもう良かろうもん」の頻度がさらに増える。
 どういう意味なのか良くわからない。
 自分の人生を断念して親の介護をしろということ? 
 仕事をやめろということ?
 それとも「生きるのはもう良かろうもん」、つまり早く死ねということ?
 この時点では「もう良かろうもん」としか言わないので意味が分からなかった。

2007年
・私、筑波大の大学院博士後期課程に進学。
 父親は「もう良かろうもん」とは言わなくなったが、親戚づきあいなどからの切り離しが始まった(参照)。
・確か2007年12月、私が実家に行ったところ、弟の長男(当時2歳くらい)がやってきた。
 弟の長男は、布団の山に飛び上がったり飛び上がったり活発。
 母親は「男の子だからねえ」と目を細めて喜んでいた。
 私は、同じ場所で約40年前に、
 2歳くらいの弟に6歳の自分が受けていた暴力を思い出してしまった。
 「男の子だからねえ」と喜んでいる母親の声も口調も、40年前とまったく同じ。
 弟の長男は、顔が弟にそっくりだった。
 恐怖から、以後、弟一家との接触はなるべく避けるようになった。
・この2007年12月の時、母親が父親に奇妙な目配せをしながら、
 「揉め事に巻き込まれたくないので、お母さん(母方祖母)の相続を放棄した。
  弁護士さんからは
  『お孫さんたちにも行くのに、その分もなくなりますよ、いいんですか?』
  と言われたけれども、お父さん(私の父親)も『それでいい』と言うから、放棄した」
 と私に語った。
 私は、母親の目配せや言い方に不自然なものを感じた。
 それは過去、私を陥れるときに使われた目配せや言い方と非常に似ていたから。
 当時、母方祖母は存命(2012年他界)しており、同居していた叔母が懸命に介護をしていた。
 存命中の人物の相続は不可能であり、したがって相続を放棄することも不可能である。
 もしかすると母親は、母方祖母ではない誰かの相続放棄をしたのかもしれないが、であれば
 「お孫さんたちにも行くのに」
 という弁護士発言(事実かどうかは確認のしようがないが)と矛盾する。
 (父方祖母は1983年に他界)
 その「お孫さんたち」が母親の子どもたちを意味しているのでなかったら、母親の孫たち?
 でも、両親自身の相続放棄を母親がするということはありうるだろうか?
 だったら母親は間違いなく「母方祖母の相続放棄をした」と言ったのだろうか?
 認知症とはいえ身体は元気で楽しく毎日を過ごしている母方祖母(母親自身の母親)が存命中なのに?
 それとも、弁護士の話とか相続放棄の話自体が母親の虚言?
 母親が何のために私にその話をしたのかは、これ以上は推測も解釈もしない。怖すぎる。
・私、障害者手帳(身体・精神)を取得。
 2007年12月に実家に行ったとき、そのことを知った父親は、
 「良かったなあ」
 と言いつつも、あまり嬉しくなさそうであった。このときは、まだ「なぜ?」と思っていた。

2008年
・父親、「ヨシコに財産を残す人間は誰もいない」と電話で宣告。
 私を廃除するという遺言でも書いたということであろうか?
弟とは直接は関係のない出来事だが、父親に
 「いつまで生きるつもりや」
 と言われた。
 マイルドに翻訳しても「早く死んでくれないかなあ」ということであろう。
 その場では、言葉通りに解釈したふりをして
 「寿命までは生きようと思ってるけど」
 と答えた気がする。
 この時点で、父親の
 「ヨシコはもう良かろうもん」
 の真意を
 「ヨシコはもう生きなくていい(親の介護などの労働力になっている期間を除く)」
 と判断。
 私は肉体的に親の介護などの労働力になれないので、
 「ヨシコはもう生きなくていい」
 ということになる。
・父親がこういう意向であったことを弟夫妻が知っているかどうかは全く不明。
 とにかくこれ以後、弟一家が私に対し
 「できれば付き合いたい」
 「できれば円満な関係を持ちたい」
 と希望していると仮定することはできなくなった。
 いくら両親が強く希望しても、廃除の申し立ては簡単に認められるものではない。
 でも私が死ねば、わざわざ廃除する必要もなくなる。
 弟夫妻がそれを本気で希望しているのかどうかまでは全く不明。
 しかしこの時期の父親の発言以後、
 自分の両親に対しては、そういう意向である可能性を捨てるわけにいかなくなった。
・この年末、障害年金受給開始。
 このことは、当時、父親には特に話していないと思う。
 私が生存できる・生存がより容易になる・活動しやすくなる方向性の情報は、
 両親には提供しないほうがよいと判断。
 1990年代後半から、
 私が苦境にあればあるほど父親は喜び、私が平穏に活躍していると父親は不機嫌になる。
 理由はわからない。

2011年?
・弟夫妻に次男出生。
・父親、再び私に
 「ヨシコはもうよかろうもん」「慎ましく生きていければそれでよかろうもん」
 などと言い出す。
 「慎ましく生きていければそれでよかろうもん」
 とは、
 「生活保護を使って原家族に迷惑をかけずに生きていってほしい」
 ということであろうか?
・6月、連載「生活保護のリアル」開始。

2012年
・弟の妻と妹に「もう年賀状を送らないで欲しい」というハガキを送る。
 その旨は、私の両親や叔母などにも伝わったようであるが、私が問題視されているようである。
 「ようである」というのは、その件について、はっきり話をしたことがないから。
・母方祖母、他界。
 父親より、通夜・葬儀の場所と日時が知らされた。
 冠婚葬祭の予定が私に具体的に知らされたのは、弟の結婚式以後は、この一度きり。
 しかし列席は強く拒まれた。
 理由は私の多忙への配慮ではなく、私が行くと、喪主である叔母に迷惑がかかるということであった。
 ちなみに通夜・葬儀の会場はバリアフリー。
 その時、叔母の住まいに寄ることは、私は全く考えていなかった。
 父親自身が、私に「来ないで欲しい」ということであったら、まったく矛盾のない話。
 ただ、その時に父親が理由としたのは、叔母の迷惑であった。
 叔母自身が「迷惑だから来てほしくない」と思ったのかどうかは不明。
 少なくとも2013年11月時点までは、
 叔母からは
 「あの時、迷惑だから来ないでほしいと思い、パパさん(私の父親)に伝えてもらった」
 に類することは言われていなかった(**)。
 葬儀のしばらく後、私が叔母から電話で聞いたのは
 「遠いので来れなかったんだね、心のこもった電報ありがとう」
 といった言葉であった。
 弟一家、妹一家(当時、京都在住)の一部は列席したと聞いている。
 妹一家の一部が列席した以上、
 父親には「私が遠隔地にいるから配慮した」という弁明の余地はないかと。

 (**)
 叔母が今後にわたってそういう発言をしないかどうかは、現時点では何とも予想しがたい。
 ただ、少なくとも2013年11月まではなかったことを記録しておく。

2013年
・弟一家との接触はないまま。
・7月、私、「生活保護リアル」を出版。7月~10月にかけ、両親が接近を計ってきた。
 父親、「もうよかろうもん」とは言わなくなっていた。
 口で言わなくなっていたというだけ。内心どうなのかは全く不明。
・11月、両親方面より、私の生活の根幹を揺るがす事態発生(詳細は記載しない)。
 きっかけについては、こちらを参照のこと。
 2014年3月現在、その事態は継続中。
・この11月の出来事の直前、父親が世間話のついでのように
 「ヨシコは障害年金は取っとうとや?」
 と聞いた。受給しているので「Yes」と答えた。
 私が障害者福祉を利用できているかどうかについて父親が自分から関心を示したのは、
 この時が初めて。
 なんのために父親が関心を示したのか、得た情報をどう利用したいのか、
 その後何らかの利用をしたのかしていないのかなどは全く不明。
 ただ、「私が自分の生存に必要なものを得ている」という情報を父親に与えたことについて、
 強く後悔している。
 今後、自分へのどういう悪影響につながるだろうかと、怯えている。

2014年現在
 弟一家との接触はないまま。

今後
 もうこのまま一生、弟一家からフェイドアウトできればいいと思っている。
 弟の二人の息子は、顔が弟にそっくりだと聞いている。
 弟と母親に受けた辛い仕打ちやその時の悲しみを思い出したくないから、
 弟の息子たちには会いたくない。
 今後、私が会いたくなることはないと確信できる。
 「会ってもガマンできる」くらいならあるかもしれないが。
 弟の息子たちには全く責任のないことではあるが、
 私は恐怖や悲しみを呼び起こす人の顔を見たくない。
 弟の息子たちが将来、この記録を読んで、私に会ってみたいと思うのであれば、
 会えないという事情の責任は、自分の父親や父方祖母に求めてほしい。

両親の態度
「そういう時代だったから」「長男だから」「長女だから」と繰り返すのみ。
また、私に対する
「わだかまるのはおかしい」「恨めしい」
などという非難も。
まだ接触があった時期には、
「甥だから可愛いと思わなくては」「甥だから可愛がらなくては」
という強制もあった。

時代背景、「長男」であること、「長女」であることを考慮してなおかつ、
この一連の出来事が虐待であるのかないのか、
私が未だに許しがたい感情を持っていることは「おかしい」「恨めしい」と断じられるべきなのか、
見た人に判断してもらいたいと考え、この記録を残すことにした。
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(共著 2015.4 丸善出版)


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 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
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「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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