「アスレチックランドゲーム」という、昭和のテーブルゲームがある。現在もけっこう人気。中古が3000円台で売買されているようだ。発売は1979年。
この年のクリスマス、実家の「サンタさん」も、このゲームをおねだりされていたようである。クリスマスの朝、当時12歳で小6の弟の枕元に、このゲームがあった。妹は妹で、何かサンタさんにおねだりしたものを貰っていた気がする。
ちなみに私へのクリスマスプレゼントは、クリスマスと無関係に必要なデスクランプだったり防寒衣料だったりした。もう、そんなものであることに慣らされてしまっていた。私が中学以後になると、母親は私に弟のクリスマスプレゼントを預けて寝てしまい、寝ている弟の枕元に置くのは私の仕事になった。
弟は、当時7歳の妹とともに、このゲームを楽しんだ。両親が参加しているのを見た記憶がある。私も少しくらいは触らせてもらった気がする。
一週間ほどで、お正月がやってきた。そしてお年玉。実家は父方母方とも子どもが多く、申し合わせをしてお年玉を比較的低く抑えていたが、それでも子どもにとっては数千円以上の現金は大金だった。
すると弟は、もらったばかりの「アスレチックランドゲーム」を、妹に売ってしまったのだ。
「あんなにほしくて、喜んでたのに。どうして?」
と聞くと、弟は
「ウチにあるから、これからも遊べる。僕は何も損しない」
と答えた。妹は数千円を損したわけだが、特に不満は持っていなかったようである。
私は文句を言わなかった。弟のこのような「賢さ」には、その何年も前から繰り返し痛めつけられていた。抵抗感や不満を表情に示そうものなら、母親に「倍返し」ではきかない仕打ちを受けることになった。
博多弁の「こすか(ずるい)」という言葉を、弟と無関係に口にしただけで、「たった一人の弟を非難した罪」によぅて母親に折檻されたこともある。その時の「こすか」の対象は弟ではなかった。いずれにしても、物心ついたら既に、私が弟に対して不満を持つ状況と、私が不満や怒りを示したらそれを口実にさらなる責め苦が注がれる構造が、母親によってガッチリと築かれていた。
私は、両親によって作り上げられたアリ地獄から、逃げようとしてもがき続けてきた。いつになったら投げ切れるのか、分からない。
2019年、はじめて和歌山県に足を踏み入れたとき、和歌山県出身者から負わされたトラウマと、この「アスレチックランドゲーム」に関するトラウマが同時に氷解する出来事があったのだが、その話はまた改めて。