最初は、小学館の『小学◯年生』だったと思う。私は、1学年上のものを買い与えられていた。母親は、学習ページを全部終わらせないと、他のページは読めないし付録も触れないというルールを作っていた(弟妹はそんなことはされていない)。そんなに困難な課題というわけではなかったから、こなしていた。マンガや女児向けのアニメなど、クラスメートとの共通の話題になるようなものから遠ざけられていた私にとっては、クラスのみんなが面白がっているものに接するための概ね唯一の機会だった。1学年ずれてたけど。
なお小学4年を最後に、学年なりの『小学◯年生』に変えてもらった。年度末は、2学年上の学習ページに取り組むことになる。小4の私にとって、さすがに小6算数はキツかった。
母親は、『小学◯年生』の保護者向けのページも、私に読むように求めていた。そして、そのとおりにせよと。確か、私が小学2年くらいの時から。当時の私は既に、大人向けの書籍や雑誌や新聞が読めた。文章として「読める」という意味では、そう現実離れした要求ではなかった。そこにはしばしば、きょうだい差別やきょうだいを比較することの弊害に関する記述があった。世の中には、読んでハッとして自省する親がいるのかもしれない。「ウチではそんなことしてないけど、それで正解なんだ」とホッとする親がいるのかもしれない。でも、どこにいるのだろうか? 少なくとも、私に対する両親にそんなことは全く期待できない。どこにそんな世界があるのか。きっと、実在することはするのだろう。でも、どこに? その世界の住人であるということは、どんな生き心地なのだろうか。想像がつかなかった。今も想像できない。
当時流行した育児書の多くは、同じような成り行きで、両親のどちらかから読むように求められて読んだ。たとえば、浜尾実『女の子の躾け方』とか。当時、この本のせいで白いパンティがトラウマになった女性、相当数いたんじゃないかな。
ところが、母親が徹夜でむさぼり読んだにもかかわらず、私には見せなかった教育書がある。井上隆基『100を求めて0 にしないで : よい習慣をつくる勉強のしかたとは』という本(CiNiiページ)。CiNiiの書誌情報では1983年刊行とあるけれど、所蔵している大学図書館の目録には発行年が異なるものもある。もともとは、付録のような扱いで無料配布されていたパンフレットだったようである。母親がこの本を読んでいたのは、私が中学2年の時、1977年だった。
中学2年の1学期の期末試験のとき、特段の準備はしていなかったのに、学年で2番になった。
次に母親がしたことは、『ポピー』という自宅学習用教材の購読だった。私に意向を尋ねることもなにもなく。ある日、学校から帰ってくると、その教材が1ヶ月分、机の上にドカンと積んであった。そして母親が、目を血走らせていた。
母親は、「アンタのために買ってやったんだから、今すぐ全部やりなさい」という。1ヶ月分を今日中にやれと。いくらなんでも無理だ。母親の方針に表立って逆らったことはほとんどなかった私だが、このときの『ポピー』に関しては、「言うことを聞いたら後が恐ろしい」と直感した。私が取り組まなかったら、そのことの罰を受けるだろう。しかし、もしも私がこなしてしまったら、さらなる無理ゲーが重ねられ、最終的に潰されるだろう。どっちがマシか。
結局、私は教材をほとんど開かず手も触れなかった。その教材をめぐる一触即発状態は3ヶ月ぐらい続いたが、母親はだんだんトーンを下げていった。ついには、諦めて購読をやめた。
決め手になったのは、母親の兄の妻がいるところで、私がその教材について口にしたことであった。母親は、自分自身の兄夫妻が子どもたちの知育や学業成績アップに熱心であることに、激しい対抗心を燃やしていた。実体はともあれ、母親はご近所さんや親類から「教育ママ」と見られることを非常に嫌がっていた。私の前に母親以外の大人がいなくなったとき、私は覚悟をきめた。母親の想定外のことを親類に語った罪の罰として、いつものようにぶっ叩かれるのだろうか。しかし、その時は何も起こらなかった。
『ポピー』とともに、『100を求めて0にしないで』という本が実家にやってきた。保護者向けにセットになっていたのだと記憶している。母親はその晩、ほぼ徹夜で食い入るように読んでいた。そして、この本は私に見せなかった。書棚に並べず、裁縫道具の中かどこか、簡単に私にアクセスされないようなところにしまい込んであった。
私は今年になって、「!」と思い当たった。タイトルから見て、その本には、子どもの学習意欲を維持して喚起するにあたって有効な考え方や方法が書いてあったのだろう。
「100を求めて0にしないで」というタイトルは、「100を求めるならば、0になる可能性がある」と同じ意味であるが、「0にするには、100を求めればいい」と同じ意味にはならない。しかし、子どものモチベーションを阻害する可能性がある親の言動の数々は、子どものモチベーションをなくしたい親にとっての有効なヒントになりうる。
この本は、2020年現在、中古市場で入手できるようである。買ってまで読みたいとは思えないけれど、国立国会図書館など所蔵している図書館に行く機会に、ついでに見てみようと思う。
この本が実家にやってきた後、中学2年の夏休みから後は、学習や勉強を口実にして打ちのめされることの連続になった。成績が良ければ、母親が自分の勉強法や自分の勧める教材を押し付けて、私の学びを妨害する。成績が悪くなれば私のせいである。母親の「ためを思って」名目の妨害から逃げ切った結果として成績が良好だったら、母親は何か私の性格上の欠点や見た目や表情の問題を口実にして「勉強ができても何もならん」と言ったりする。有効な隙がないと、「アンタなんか努力しても何もならん」という予言を繰り返す。現在形で書いているのは、形態を変えつつも現在進行中、少なくとも終わってはいないからだ(念のため。私は自分が酷い目に遭ったり遭う可能性があったりすることを終わらせたいのであり、母親自身の生命健康に何かが起こってほしいというわけではない。わざわざこう書いているのは、「親を痛めつけようとしている」「親を亡き者にしようとしている」とか言われないために。10代まで実際に何回も何回も言われたけど、そんな欲求は持ってなかった。4つ下の弟は、年齢1桁のころは母親にかなり激しい暴力で向かっていたけれど、それは私の暴力にすり替えられた。私、やってません!)。
そして私は、「乱数表を使って学業成績をランダムに乱高下させる」という対応で日々をしのぎながら自分と自分の人生を守ろうとしたり、ソロバンと計算尺でマルコフ連鎖モデルを計算してその日の母親のブチ切れ確率を出す「母親シミュレータ」を作ったりする高校生になっていく。母親が私の勉強ぶりから学業成績の成り行きを予測したり、自分の言動が与えるインパクトを学習されてしまうと、そこが母親の願望や口実の入り込む隙に使われてしまうからだ。もっとも、私の学業成績が母親の便利な道具にならなくなったら、母親は「美容院に行ったら、たまたま来てた占い師」といった、実在するのかどうか不明の何かを動員するようになった。また、私がいないときに弟妹が私について語ったことも利用され、捏造ではなく事実だった可能性が高い。弟妹には利得だけあって損失はなかったから、その行動は強化されていった。どっちみち、私に対する仕打ちの総量は変えられないのかもしれない。
その時期、1975年から1980年ごろは、一般市民向けの心理学書がちょっとしたブームになりつつあった時期でもある。父親は企業に勤務する労務屋だった。通常の会社員以上に心理テクニックの駆使が期待される職種だ。世の中でブームになるのよりも少し早く、心理学書が実家の本棚に並んでいた。中高生の私は、「なんだろう?」と思って、手にとって読んでみた。エロ本でもなければ、爆弾の作り方の本でもない。読んで悪い理由があるだろうか?
数週間遅れで、母親は、私が父親の心理学書を読んでいることに気付いた。そして「他人の心の中を知るやら、好かーん(他人の心の中を知るなんて嫌いだ)」と繰り返した。そういう母親自身は、近所のお宅のありもしない嫁姑戦争やきょうだい差別を作り上げては、背景をとくとくと私に解説し、私が耳を塞ごうとすると「お母さんがせっかく話してやりようとに、聞きぃ!(お母さんがせっかく話してやっているのに。聞け)」というのだった。
中高生の私は、「母親がそう言っている」という事実に対して、反抗したいとは思わなかった。母親に変わってほしいとも思わなかった。ただ、トラブルや軋轢の種を減らしたいだけだった。母親が「好かん」というのなら、家で読まなければいい。それだけの話。手段はあった。
母親がとくとくと語る近隣のお宅の(おそらく70%くらいは非実在の)嫁姑戦争等に対しては、肯定しなければ自分が酷い目に遭わされる。しかし肯定すれば、「私がそう言っていた」という話として当該の近隣に吹き込まれる。小学生のころから、そんなことが繰り返され、私はつくづく懲りていた。表情を変えずに、軽く頷いているのか頷いていないのか分からないような顔の動かし方をしていた。母親は、思い通りの反応が得られないためキレる。肉体的な暴力に及ぶことも多々ある。しかし、それだけで済む。ともあれ、私が心理学書を読むことを母親が嫌がったのは、「母親が、自分自身の心の中を知られたくなかった」という理由だったと結論づけてよいだろう。
さて。『100を求めて0にしないで』には、何が書いてあるのだろうか。そこにあるノウハウそのものや、その裏、その逆を、母親が誰にどのように使用したのだろうか。
読めば、きっと分かるだろう。