みわよしこのなんでもブログ : 差別

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


差別

私、安愚楽牧場の出資者に同情しません

安愚楽牧場の出資者の方々が、国を提訴したようです。


安愚楽牧場出資者、国を提訴…「監督怠った」

 破綻した安愚楽あぐら牧場(栃木県)に和牛オーナーとして出資した1676人が30日、被害が拡大したのは消費者庁などが監督を怠ったためだとして、総額約83億円の国家賠償を求める訴訟を東京、宇都宮、名古屋の3地裁に起こした。

(略)「国が速やかに対応していれば、被害を防げた」と主張している。

同牧場の元社長三ヶ尻久美子被告(69)ら2人は特定商品預託法違反(不実の告知)に問われ、今年1月に実刑判決を受けて控訴中。
(後略)



私、「人のせいにするな」と言いたい気持ちになりました。安愚楽牧場の問題や国の落ち度はそれはそれとして。
安愚楽牧場問題被害者の一人であるオヤジにされたことを許せないから。

2013年秋か冬の午後遅くのことでした。
私は日比谷公園内のカフェテリア「日比谷グリーンサロン」で食事をした後、パソコンを広げて作業していました。
お客さんはほとんどいませんでした。
たぶん、厚労省内での記者会見か社保審の部会傍聴かの後だったと思います。忘れないうちにノートの整理を、とかしていたんじゃないかと。
そこに、60代以上と思われる男女数名がやってきました「ドヤドヤ」という感じでした。
コーヒーか何かを頼みながら、大声で話をしていました。あまりにも大声で話すものだから、その人々が安愚楽牧場の被害者であることがわかりました。すぐ近くの日弁連ビルで、弁護士と打ち合わせをしていたようです。
この人々の話しぶりは、「口さがない」という言い回しそのものでした。下品で、言いたい放題で。尽力してくださっているはずの弁護士さんたちについても、「自分たちの思い通りにしてくれない」とか「若いくせに生意気」とか、言いたい放題。
そのうち一人、60代と思われる野卑なオヤジが、こちらをチラチラ見ていました。私は相手にせず作業を続けていました。
1時間ほどして、一行は立ち上がりました。するとオヤジが私の背後に回りこみ、
「このパソコンみたいなのを使ってさ」
と言いながら、私のPCの画面を指で強く突いたのです。
私はオヤジの顔を見上げ、
「何をするんですか」
と言いました。
オヤジは
「あなたではなく、これを指さしただけだよ」
と言いました。
「何が悪いのか」
と言いたげでした。
オヤジの妻と思われる女性が、
「ごめんなさいね」
と私に言いながら、オヤジの腕を引っ張って立ち去りました。
私はこの女性にも怒りを覚えました。あなたが代わりに謝ることじゃない。夫のしたことを悪いと思うのならば、あなたのすべきことは、夫に謝らせることだ。それなのに!

この一件ゆえに、私は安愚楽牧場被害者に同情しません。
あんな怪しい利殖に突っ込むだけのお金を持っていたのに。
もっとまともな利殖を選ぶ自由だってあったのに。
ちょっとでも農業を知っていたら、利殖の対象になどなるわけないと分かりそうなものなのに。
あなた方の選択は、貧困層が無理やり選ばざるを得なくて選んだものに対する「自己責任」という非難とは違って、本物の「自己責任」だ。
国のせいにするな。
……そんな言葉が次から次に沸いてきます。

そして、同じような言葉が、ワーキングプアや生活保護利用者にぶつけられて、怪しい利殖の被害者にぶつけられることが少ないということに、さらにムカつくのです。

最後の「母の日」

1983年5月8日、その年の母の日のことです。
私は19歳でした。特待生として学費無料で福岡市長浜にあった予備校・水城学園に通いながらアルバイトしていました。
水城学園は、土曜日・日曜日も授業を行っており、木曜日が休みでした。
日曜日だったその日も、私は朝から予備校に行き、授業を受けて帰りました。その日はアルバイトはなかったような気がします。
帰りがけ、天神地下街に寄り、小豆味のカステラ巻き4個詰めを買いました。母親の好物でしたから。

帰宅して母親に「今日は母の日だから」と差し出したところ、母親は
「そう? 別に欲しくないんだけど」
という返事をしました。これは予想されたことでした。

幼稚園時代から、私は母の日に母親に何かを贈ってきました。最初は
「母の日だから、持って行ってお母さんにありがとうと言って渡すように」
と幼稚園で言われて持ち帰ったカーネーションの造花だったと思います。母親の反応は、
「そんな心のこもっていないものを貰っても嬉しくない」
でした。周囲に誰かいれば
「あら、ありがとう」
と言うこともありましたが、その誰かがいなくなったら
「あんなもので感謝したつもり?」
と母親は怒りを示し始めたりしました。

小学校に入り、小遣いを貰うようになると、その小遣いの中から何かを買って贈ることもありましたが、母親の反応は
「こんなものを貰うより、学校の成績がオール5になる方が嬉しいのに」
「心がないのをお金でごまかそうとして」
といったものでした。
手作りの何かだったら
「別に欲しくないのに」
と、すぐに捨てられました。
4歳下の弟は、幼稚園でもらって帰った造花や小学校の工作を
「まあ、ありがとう」
と満面の笑みで母親に受け取られていました。
私は長い間、自分の何が悪くてその差が生まれるのかを理解できず、しかし差を埋めなくてはと苦しみました。母親に問題があったのだと確信できたのは、ついこの1~2年ほどでのことです。

そして1983年の母の日は、プレゼントが喜んで受け取られなかっただけではなく、その続きがありました。
私が入浴して身体を拭いていると、母親が近寄ってきてニヤニヤしながら
「仏壇を見てごらん」
と言いました。
仏壇の扉は閉まっていましたので開けてみると、そこには私が送ったカステラ巻きがありました。
あまりにものショックで、私はすぐに扉を閉めました。勢い余って、線香立ての灰が飛びました。
私は泣きながら、飛び散った灰を掃除しました。私の泣き声を聞きつけて、父親がやってきました。
母親は父親に
「母の日だといって貰ったから、感謝の気持ちを示そうと思ってお仏壇にあげといたら、ヨシコが怒った」
と説明しました。父親は私に
「そんなことをしたらいかんよ」
と説教しました。
この日、私は、自分の中で「母の日」を永久になくす決心をしました。少なくとも、この母親に対しては。

この出来事を、母親は数多くの人に話しました。親類、ご近所さんなど。
そこでは
「ヨシコからのプレゼントを『まあ、ありがとう』と受け取り、嬉しかったので仏壇にあげておいたところ、ヨシコが怒った」
というストーリーにされていました。
私は「まあ、ありがとう」などと言われていません。もし「嬉しかったので」仏壇にあげたのであれば、ニヤニヤしながら知らせに来る必要はないはずです。
でも、この件で私の味方になってくれた人はいません。「まあ、ひどい」と私を攻撃した人ばかりでした。私はその人々を次々に、「母親側の人」リストに入れ、可能な限り距離を置くことにしました。そうしなくては自分を守れないからです。結果として、私は親類縁者のほとんどから孤立することになりました。

母親はきっと今日、遠くない距離に住む弟の妻やドイツに住む妹に、母の日のメッセージや贈りものを貰って喜んでいることでしょう。
でもそれは、私とは関係ないことです。
この母親に対する「母の日」は、1983年の母の日に消滅しました。
消滅させたのは母親自身です。

 

行方をくらまそうとした大学2年の私

私は20歳で実家を離れ、東京理科大の理学部第二部(夜間)に入学しました。
両親も私も昼間部の第一部への転部を望んでいたので、最初の一年は仕送りと時々のバイトで生活していました。
もっとも私の方は、転部よりも再受験で国立大学に行くことを望み、途中から勉強をそちらに切り替えていました。そして共通一次を受験。自己採点では900点を越えていました。東工大を受験しようとしましたが、出身高校元担任教師の妨害に遭いました。すったもんだの末、出願だけはできました。しかし元担任教師と母親に揉みくちゃにされた挙句、私は二次試験の受験にも行けないほど体調を崩してしまいました。

理科大で二年次に進んだ私は、仕事を探しました。親に翻弄される人生を終わらせるためには、まず経済力だと思ったのです。幸い、研究所が実験テクニカルスタッフを探しているという情報に接し、そこに常勤アルバイトの職を得ることができました。仕送りの減額を申し出たところ、母親はすぐ応じてくれました。私の方は仕送りをゼロにしたかったのですが、すぐに実行するのは無理な状況でした。大学の学費も両親が払っていました。学費の請求書は実家に送付されていたからです。
両親は、むしろ「私のために」という名目で、お金を出したがっていました。私の出身高校(母親の出身校でもあります)から寄付の依頼があると、母親は自分と私の名前で、それぞれ多額の寄付をしました。私は事後に知らされていました。私は出身高校のことを「黒歴史」だと思っているので、寄付などとんでもない話だったのですが、母親は
「お母さんがせっかくしてやったのに、感謝しない」
と怒っていました。
両親には、私を東京に進学させることが大きな負担にならないほどの経済力がありました。ただ、経済力があるということと、それを(少なくとも母親にとって)疎ましい長女のために使うことを良しとできるかどうかは、話がまったく別です。

そんなこんながありつつも、仕事と学業の両立にも慣れてきた大学2年の冬、福岡で会社員をやっていた父親に東京への転勤話が持ちあがりました。私が母親に聞いていた話では、父親が東京に転勤希望を出して、それが通りそうになったということです。なぜ父親が東京に転勤したかったのかは全くの謎です。当時の父親のキャリアにとって、どういうメリットがあるのか全く意味不明でした。母親が、父親の転勤を希望したのでしょうか? しかし当時の実家には、高校不登校の弟と、中学受験を控えた妹がいました。そんな時期に、転勤を希望するということがあるでしょうか? 

母親はしばしば私に電話をかけてきては、父親の転勤が実現した後の私の生活について話しました。私は父親と同居し、身の回りの世話や家事一切をするのだそうです。大学にだけは行かせてやるそうです。母親は
「アンタはお父さんのことをしてやらんといかんから、自分のしたいことやら、もう全然できんごとなるとよ、ふふふ」
と言っていました。
私は、大変だけど仕事と学業が両立できようとしている当時の生活を手放したくありませんでした。大学を卒業して、自分の希望に近い仕事に就きたいと思っていました。友人たちとの交流を大切にしたいと思っていました。しかしそれを、母親はすべて根こそぎにしたかったようでした。

私は、退学して仕事も辞めて、行方をくらまさなければならないと思いました。大学に籍があると、両親が私に接触する機会が発生してしまいます。だから退学しなくてはなりません。理科大の学生だからということで得た仕事も、継続は困難になるでしょう。
それにしても問題は、生計です。
「何かやって食っていけるだろう、一応プログラムも書けるし」
とは思いましたが、学業と仕事を両立しながらの就職活動は容易ではありませんでした。しかも大学中退、高卒の学歴での就職活動です。私は、自分の生計を支えられるだけの定職を見つけることができませんでした。

そうこうするうちに、父親の転勤話は立ち消えました。もしかすると、母親が希望していたというだけで、転勤話そのものが存在しなかったのかもしれませんが。
大学3年になった私は、学業と仕事に加えて音楽活動も始めました。早く経済的に自立しなくては、と焦ったのです。キーボードが弾けたので、スタジオミュージシャンになれるように日々練習し、セッションの機会があれば飛び込んで腕を磨き、オーディションにも応募していました。オーディションの成績は振るわなかったものの、応募を繰り返すうちに、だんだん可能性は大きくなっていきました。いつか届くだろう、という希望を持つことができました。
でも、研究所に勤務していた私は、研究者になりたいと考えるようになっていました。大学院進学を考えていました。時間があれば勉強したかったのです。そのためにも、大学院進学を可能にする経済力、ストレート進学でなくても将来のいつか進学することを可能にする経済力を身に付けることの方が先でした。

父親が「一生懸命」書いた奨学金申請書

私は20歳のとき(1984年)、福岡の実家を離れて東京の大学に進学し、日本育英会(当時)の奨学金を申請しようとしました。
とはいえ、私の実家は、経済的に困窮しているわけでもなんでもありませんでした。
当時、世帯収入には上限があり、 実家にはその上限以上の世帯収入がありました。

しかし私は、「うちにはお金がないんだから」というプレッシャに晒されつづけていました。
下に二人のきょうだいがいる上、私が大学進学する前年には父方祖母が83歳で亡くなっていました。
父方祖母は半年ほどのガン闘病の後に亡くなったのですが、「出来るだけのことをしたい」という父親の意思で、広い個室に入院していました。 そこは、父親の姉・父親の弟たちの妻・母親の間で、いわゆる「女の闘い」が繰り広げられる場でもありました(母親が私に語った)。広い病室でギスギスした人間関係に晒されていた父方祖母は、どれだけ居心地悪かったことだろうかと想像します。

父方祖母が最後に残したメッセージは、紙に書いた「早く眠り度い」というものでした。病気そのものの痛苦もあったでしょうけれども、自分の目の前で繰り広げられる自分の死後の話や争いごとの辛さもあったものと思われます。
少なくとも私の母親は、死期の近い人の前で本人の死後についての話をすることに対して、まったく抵抗のない人です。「葬式をどうしてほしいか」といったことを本人と率直に話し合うわけでも、死後の天国あるいは浄土での生活について本人に語りかけるわけでもありません。言葉を発することのできなくなった本人の前で、ああでもないこうでもないと、死後の儀式や自分の服装などについて話すのです。そこにいるのは、たいていは他の親類です。「ちょっと!」というような表情を浮かべたり、それとなく牽制したりはしますけれども、母親には通じません。その現場に、私は何回か居合わせました。私には、とても大きな抵抗の感じられる場面でした。ちなみに母親は、父親がそこにいると、そのような不謹慎というか無神経というか、な行為には及びませんでした。

また、父方祖母が亡くなるしばらく前、父親の意思で実家には大改装が行われました。
「広い玄関から棺を出してあげたい」
ということでした。父方祖母の使っていた部屋は存命中に片付けられてしまい、広い廊下と立派な玄関が作られました。そしてその玄関から、父方祖母の棺が出て行くことになりました。
私には
「これのどこが、おばあちゃんを大切にするということなんだろうか?」
という疑問が残りましたが、旧弊な福岡の家で長女に発言権はありません。何も言いませんでした。 
いずれにしても、父方祖母の闘病と実家の改築で、数百万円単位、もしかすると一千万円以上の費用は吹っ飛んでいたと思われます。 
実家は、困窮しているわけではなかったとはいえ、経済的に「充分なゆとりがある」という状態ではなかったことは事実でしょう。
だから私は、奨学金を申請することにしたのです。
自分が記入すべきところに記入した書類を、実家に返信用封筒とともに送りました。 

数日後の朝、母親が電話してきました。その電話はアパート共同のピンク電話で、母親からの頻繁な電話はご近所さんの大迷惑となっていたのですが、今回は、その話はさておきます。 
母親は
「今朝、お父さんが7時に起きて、一生懸命書いてやりんしゃったから。それを送ったから。ありがたく思わんと」
と言いました。そして
「ふふふふふ」
と含み笑いをしました。
私は理解に苦しみました。「一生懸命書く」が必要な欄はありません。奨学金を私が取得したら、実家からは私の大学進学にかかわる経済的不安が軽減されるはずです。「ありがたい」のは実家の側であるはずです。
届いた封筒を開けてみた私は、絶句しました。

申請書には、父親の達筆な文字で、実家のここ数年の経済的負担の大きかった事情と「なにとぞご配慮いただきたい」という内容が書かれていました。 本来の記入欄にも書かれていましたが、日本育英会や大学が利用するための欄まで、父親の記述で埋められていました。
父親は、80歳の現在も現役で産業カウンセラーなどの仕事をしています。自分の記入すべき欄がどこであるかも分からないような人ではありません。 私にはよくわからない理由で、父親は私に奨学金の利用をさせたくなく、その意志を申請書に示したものと思われます。
私は、大学の事務室に、その申請書を提出しました。父親に書き直しを依頼する時間はありませんでした。書類を確認した職員は、「え?」というような表情を浮かべていました。私は「すみません」と頭を下げました。一応は受理はしてもらえました。

私は大学生時代、日本育英会の奨学金を利用することはできませんでした。 実家の所得の状況が「良すぎた」ことに加え、申請書がそのような状態で提出されたら、まず見込みはないと考えざるをえませんでした。そして、私の予想したとおりになりました。

続・原家族とのことを書き始めてからの変化

2014年3月、突然、原家族とのことを書かずにいられなくなって、このブログに書き始めました。 その後、心身にさまざまな変化が起こりました。
4月上旬までは 原家族とのことを書き始めてからの変化 に記録しています。
本エントリーは、その続きです。

●気分がラクになった

両親、特に母親にしがみつかれ、心のなかまで縛られている感覚が消えていきました。
長年の間、特に母親によって、私は母親の好む感情・母親の好む意志だけを自発的に感じたり持ったりするように望まれていました。
その感覚が消えました。
母親が、私に対して感じることも考えることも表出することも禁じていた感情を、私がここに書いてしまった以上、当然のなりゆきでしょう。

●強烈な虚脱感とウツ気分

しかし、その「母親にしがみつかれ縛られている感覚が消えた」は、快い状態でもなんでもありませんでした。
私は激しい疲労感を覚えました。しばらくの間、虚脱状態になり、はげしいウツ気分に陥り、呆然と過ごしていました。他にどうすることもできませんでした。

●両親に関する幻視幻聴が消えた

私は、他に誰かがいる場所で笑ったり、楽しいと感じたり、学んだりするたびに、耳元で
「間違っとう!(間違ってる!)」
と電話口で叫んだり耳元でつぶやいたりする母親の声が聞こえつづけていました。20歳で実家を離れてから、ずっとです。
時には、母親が私に絡むのをニヤニヤ笑いながら「女どうしだから」と微笑ましそうに見ている父親の表情もセットになって見えることがありました。 それも実際によくあったパターンでした。でも、両親がそこにいないのに見えるんだから、幻視です。
それらの幻視幻聴が、すっかり消えてしまいました。
 
●恐れずに笑い、楽しみ、学ぶことができるようになった 

「え?」と思われるかもしれませんが、私は今まで、笑ったり楽しんだり学んだり、さらに何らかの達成をすることが怖かったのです。
そんなことをすると、母親がどんなに不機嫌になり、怒りを抱くでしょうか。どんなに、達成を妨げようとするでしょうか。
私がそれでも達成してしまったら、母親は、どれほど理由がなくても達成した何かに侵入して「自分のおかげ」ということにしようとします。それが叶わないならば、達成した何かを無意味にしようとします。
それは妄想でもなんでもなく、実際に母親が私に対して示した感情であり、実際に母親が私にしてきたことです。
これからも、そういうことは起こるかもしれません。母親が前面に出てこなくなることはあるかもしれませんが、母親が影響を及ぼした誰かによって同様のことがなされるのかもしれません。
明日、母親につながる人々によって、私は何もかもを奪われてしまうのかもしれません。
でも、
「今日は笑っていよう、楽しんでいよう、将来の何らかの達成につながることを信じて学ぼう」」
と思えるようになりました。
原家族とのことを書き始めるまでは、実のところ、
「笑ったり楽しんだり学んだり達成したりしたら、全部を潰されてしまうのだから」
という恐怖でいっぱいでした。
今は、
「明日何をされるかは分からないけど、笑おう、楽しもう、学ぼう、達成を目指そう。明日、原家族のメンバーが全力で私を潰そうとしたとしても、それ以上の力で抵抗するための力になるから」
と、気休めとしてではなく、本気で思えています。
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著書です(2009年-)
「おしゃべりなコンピュータ
 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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