昨年(2013年)7月、書籍「生活保護リアル」を出版しました。
本書は幸いにも、多くの方々の積極的な関心を頂戴し、いくつものメディアで紹介していただきました。
生みの親である私も、昨年夏から今年初春ごろにかけて、いくつかのメディアにインタビューを受けました。
掲載されたインタビューのいくつかを拝見して、たいへん気になったことがあります。 
私の身体障害について、「全く」に近く触れられていないということです。
インタビューで聞かれなかったわけではありません。かなりの時間を割いて質問されています。こちらも隠すことなく、お答えしています。
しかし、結果として公表されるインタビュー記事には、身体障害の話は全く触れられていないことが多いのです。診断の経緯も、身体障害者手帳(2級)を取得していることもお話しているのですが、それは全く触れられず「車椅子に乗っている」とだけ書かれていたりとか。
「不確実なことを書いて、あとで誤報と言われたくない」
という判断なのでしょうか(身体障害者手帳を取得していることは、不確実なことでもなんでもないのですが)?
それとも
「これは詐病を疑ったほうがいいかも」
と判断されたのでしょうか?
どちらの判断の可能性も、私をたいへん傷つけるものです。
記事に記載しないことは、記事を書かれる方や組織のご判断の範囲です。でも私は、身体障害の話が記載されていないインタビュー記事を見るたびに、
「自分の障害は触れてはいけないタブーなのか?」
と悩むのです。

バレエやスポーツに熱心に取り組んでいた私に運動障害が発生し始めたのは、2005年のことでした。しかし検査しても、障害の説明となるような原因は判明しませんでした。疑われた疾患は、脳腫瘍からヒステリーまで多岐にわたります。
私が身体障害者手帳を取得できたのは、2007年のことでした。2005年から2007年までの約2年間、私は障害がありながら、どういう障害者福祉の対象にもなっていなかったわけです。
職業機会・収入機会が減少する一方で、障害者雇用の対象にもなりません。さらに当時の障害者雇用は、現在よりもずっと、質量ともに貧弱でした。外出するには車椅子などの補装具が必要ですが、その費用は自弁せざるを得ません。
こんな生活を長期にわたって続けることは、誰にとっても不可能でしょう。そこに「障害者になったんだから、猫を処分しろ」といった中傷まで加わりました。
2007年、ある神経内科医が、身体障害者手帳申請のための診断書を作成してくれました。とはいえ、そこに記載されていたのは原因疾患ではなく、症状です。例えれば、「咳が出ている」という状態をもって、原因が風邪なのか結核なのか肺ガンなのか、あるいは何らかの未知の病気であるのかは不明のまま「咳症」とし、その「咳が出て生活上の困難が発生している」に対する(広義の)生活環境への配慮を受けられるようにした、といったところです。
私は当時のこの医師の対応に、心から感謝しています。身体障害に関して、症状があり、身体的な障害が発生しており、さらに症状や障害の継続によって社会生活上の「障害」が発生しているという現実を無視しない対応をしてくれた最初の医師でした。
東京都と医師の間で、かなり面倒なやりとりがあったと聞きましたが、とにもかくにも私は身体障害者手帳(2級)を取得することができました。
このような適用は、かつては広く行われており、多くの人々を救ってきました。
おそらくは、「認められぬ病―現代医療への根源的問い (中公文庫)」の柳澤桂子さんもそうだったと思われます。柳澤さんが原因疾患不明のままで障害者手帳(1級)を取得された経緯、数多くの著書のどれかには書かれているのかもしれませんが、少なくとも私は知りません。ただ、おそらく症状・経緯などに対して、医師としての総合的な判断によって手帳取得を可能にした医師がいたのでしょう。そうでなければ、手帳取得は不可能なはずですから。
「障害がまったくない」と「誰から見ても明白な障害がある」の間は、それほど明確に区切られているわけではありません。もちろん、明確に区切ることの可能なケースもあります。「全盲」「全ろう」「肢体の切断または欠損」といった事例です。しかし機能障害の場合、デジタルに区切ることは困難です。もしかすると、デジタルに区切ること自体が問題なのかもしれません。
とにもかくにも、障害者福祉が適用されたために柳澤桂子さんは生き延びることができました。その後、疾患名と治療法が発見され、寝たきり生活から再び歩き出すことができました(その後、また別の難病を抱えられたようですが)。生き延びていなければ、治ることも、生きてその後の仕事を成し遂げられることもありませんでした。
慢性疲労症候群でも、医師としての総合的判断による身体障害者手帳取得によって障害者福祉の対象となり、生き延びることのできた患者さんたちが数多く存在します。「怠け」「気のせい」「病気のふり」、良くて「ヒステリー」と片付けられがちだった慢性疲労症候群は、つい先日、脳の炎症である可能性が指摘されたばかりです。


原因疾患がわからないまま身体に障害を抱えている誰かがいるとき、「怠け」「気のせい」「詐病」「ヒステリー」と片付けるのは早計にすぎるでしょう。柳澤桂子さんも慢性疲労症候群の方々も、時間はかかりましたが、「怠け」「気のせい」「ヒステリー」のいずれでもないことが明らかになったり、明らかになりつつある途上です。
「怠け」「気のせい」「詐病」「ヒステリー」の類の判断は、このような方々から生存の機会を奪います。障害者福祉の対象とすべきと判断した医師がいても、もしそれが世間によって圧殺されるようであれば、その方々は生きていくことができなくなります。死んでしまったら、将来のいつか原因が判明したり治ったりする機会は永久に失われます。
私自身、
「いつ、生きていけなくなるだろうか」
と怯え続けています。「疑いを持って見られている」と感じることが多いからです。喘息でかかった病院で酸素吸入を受けている真っ最中に、どう考えても無関係な腱反射を医師にテストされたり。爪の炎症で整形外科に行ったら、レントゲン撮影のどさくさに紛れて、医師が膝をハンマーで叩いていったり! もちろん、日常生活において疑問・疑念をぶつけられることは、しょっちゅうです。「直接、言葉にしてくれれば、まだしも」と思うくらいです。

話を自分自身に戻します。
症状、障害の程度に関しては、幸いなことに、2007年当時も今もそれほど大きな変化はありません。肉体的な状況は変化し続けてはいるのですが、
「できないことが増える→対処を決める→落ち着く→その間に残存能力で出来ることを増やす(レベルを上げる)」
の繰り返しが延々と続くことに、私自身が慣れてしまいました。繰り返されるうちに、対処も容易になってきましたし。
日常生活上の障害については現状維持できており、職業上の障害については軽減してこれた……と思っています。

ただ、社会生活上の障害に関しては、むしろ増大していると感じています。
2008年、北海道で聴覚障害や視覚障害を偽装している数多くの人々の存在が報道されました。その背後には医師やブローカーの存在があり、さらに
「稼働年齢層だけど地域に仕事がなく、福祉事務所に行って生活保護を申請しようとしたら『稼働年齢層だからダメ』と追い返され、ブローカーに話を持ちかけられて障害者になったら生活保護を申請できた」
という背景があります。しかし、この報道に接した多くの人々の反応は
「障害を偽装して障害者福祉を詐取するなんてひどい」
というものでした。背景が注目されることはありませんでした。そして、2007年の私のように、原因疾患不明の状態で現存する症状と障害に対して障害者手帳を取得することは、事実上不可能になりました。もし私の発症が1年遅れていたら、私は今まで生き延びてこれなかったかもしれません。
2014年には、佐村河内守氏の事件が報道され、障害者手帳の継続認定のあり方が見直される事態に発展しています。聴覚に障害を持つ方々は、現在の手帳制度の問題点や聴覚障害に関する世の中の誤解について積極的な発信を行いましたが、どれほど世の中に浸透したでしょうか。疑問です。
おそらくは、原因を突き止めることのできない症状によって障害が生じていても、手帳の交付を受けて「障害者」と公認されることができず、したがって障害者福祉の対象とならず、結果として生きることを諦めさせられる人々が、現在の日本には数多くいるのでしょう。私も、諦めさせられようとしました。過去形で書くのはまだ早すぎるのかもしれません。これから、生きることを諦めさせられるのかもしれません。

はっきりしているのは、たぶん非常に稀少と思われる障害偽装に関する報道が広く行われるたびに、それを利用した障害者福祉の事実上削減が起こるということです。その動きは近未来に、私自身の生存を不可能にするかもしれません。
障害を偽装するメリットは、「ない!」の一言に尽きるにもかかわらず、私はその可能性に怯えています。原因疾患、今に至るも不明なままですから。疑いをもって詮索する人に「◯病です」と言えればどんなに良いかと、私自身が思っているのに。
2008年の北海道のケースは、
「そうしないと生活保護を申請出来ない」
という、どちらかといえば障害者福祉以外の制度の問題が引き起こした事件です。
また、佐村河内氏のケースは
「そうしないと作曲家として売り出せない、ただでさえ自分は曲が書けなくて、作曲家として全く市場価値を持たないんだから」
という奇妙な個人のモチベーションによるものです。そういう特殊かつ稀少な事例によって、なぜ障害者一般、公認の障害者とされていないけれども障害を抱えている人々一般が、巻き添えを食わされるのでしょうか?

また、障害者手帳の継続認定の見直し、今のところは聴覚障害だけが対象ですけれど、全障害に発展する可能性があります。もし障害者手帳がすべて有期認定になったら、障害者福祉費用の「総量規制」、あるいは「都合の悪い障害者の息の根を止める」といったことに便利に使われたりするかもしれません。精神障害では、現在すでに、それに近いことが起こっています。

メディアの皆さん。
影響力の大きなブロガーの皆さん、大手メディアの皆さん。
どうか、「判断の難しい障害」の話を、タブー扱いしないでください。
その判断の難しい障害を、どう判断するかで、人の生き死にが決まることも多々あるのです。

今、「障害サバイバル」という書籍の準備を進めています。秋ごろ、山吹書店から刊行予定です。
この書籍には、私がどのように、どのような経緯を経て生き延びてきたかを、詳細に記してあります。障害者手帳取得のいきさつも含めて。

私は、自分でも良くわからないので気にすることを止めている私の障害ごと、タブーではなくなりたい。
良くわからないところがあることによって社会から「タブー」として排除されるのではなく、良くわからないところもあるけれど包摂される存在でありたい。
心からそう望みます。望んではならないことではないと思います。
そして、佐村河内事件から約半年後という(もしかすると最悪の)タイミングで、書籍「障害サバイバル」を送り出すことにしました。