2014年4月2日、米国人の女性の友人と、京都で時間を共にしました。
京都市立美術館に行き、疎水沿いにお花見を楽しみながら散歩して、タイ料理でランチ。
彼女は、日本在住かれこれ20年ほどになるでしょうか。アイビーリーグの大学院を修了したライターです。日本のいくつかの大学で、米国文化や英語ライティングなどを教えています。 他にも、海外の学会で発表したり、コンテストに応募して受賞したり。大活躍をつづけています。

4年ほど前、彼女の肺に末期ガンが発見されました。ガンは少しずつ進行しており、彼女は昨年から何度か入院し、余命宣告も数度受けています。しかし、余命宣告のもととなった診断が誤診であったり、新しい化学療法が功を奏したり。彼女は今年度も前半までは大学で教えるとのこと。「後期の予定は立てられる状態にないし」ということですが、嬉しいかぎりです。

京都市立美術館では、2時間ほど美術作品を鑑賞したでしょうか。
彼女が見たかったのは
だったのですが、スタートは4月5日から。ということで、常設展示を見ました。
彼女の美術作品の見方は、たいへん興味深いものでした。
一般的な日本人のように作品から作品へとセカセカと動き回るのではなく、一つひとつの絵をしっかり見るのです。
箇条書きにすると、こんな感じです。
  1.  好きか嫌いか判断する。嫌いだったら終わり。
  2. 全体を見る。作品全体の形状、構成、技法を見る。素材や作者の意図を推測したり。
  3. 近くに寄って、ディテールやテキスチャがどのように描き込まれ・作りこまれているかを見る。
  4. 再び全体を見る。ここで「好き」という第一印象に、近くを見て得た知見が根拠と奥行きを広げる。
彼女とおしゃべりしながら美術作品を見るのは、大変楽しい時間でした。
私は今まで、そんなふうに誰かと楽しくおしゃべりしながら美術作品を見たことがありませんでした。誰かと一緒に美術作品を見たこと自体は何度もあるのですが、その多くは、心のヒリヒリする、疲れる時間でした。 同行している誰かの意見や感じ方と異なることを言わないように、自分の感じたことを言うことで誰かを傷つけないように。たとえば、画材は何であるかについての話も、場合によっては誰かを傷つけることがあるのです。
しかし彼女と私は、互いに自分の思いや感じ方や気づいたことを語り、美術に関する知識をシェアし、大いに楽しんだのでした。

彼女が特別というわけではなく、米国では、美術を鑑賞するということについて、学童期からきちんと教育しているようですね。
佐々木芽生監督の映画「ハーブ&ドロシー」シリーズの二作目「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの」には、コレクター・ヴォーゲル夫妻が全米の美術館に寄付した作品を、地域の子どもたちが鑑賞する場面があります。美術館のスタッフは、子どもたちの多様な感じ方を尊重し、さまざまな見方を促す美術作品の意味を子どもたちに伝えるのです。
誰かと美術作品を鑑賞するときに、「正しい」鑑賞・「正しい」感想といったものを心のどこかで探してしまうのは、私にかぎらず日本人の一般的な傾向ではないかと思います。
でも、たぶん私自身は、自分の心のなかに根付いてしまっている、それらの日本人的メンタリティを、少しずつでもほどいていくことができるのではないかと、楽観的に考えています。
昨日、時間を共にしてくれた米国人の友人のように、「さまざまな物の見方があってよいのだ」と気づかせてくれる友人知人が、 私には世界中に何人もいますから。