みわよしこのなんでもブログ : 倫理

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ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


倫理

「外の人」として研究機関をどう見るか

STAP細胞問題について、理化学研究所が調査結果を発表したようです。典型的な「トカゲの尻尾切り」に見えます。個人が問題多い行為をしたということは事実です。では、体制は? 上司たちは? 何も問題がなかったというのでしょうか?
これで「科学コミュニティはきちんと対応しました、信頼してください」と言われても? というのが正直なところです。

今日は、「外の人」としての自分が研究機関をどのように見るかについて書いてみます。
「外の人」としての研究機関との接点のうち最大のものは、「中の人」との対人的接触です。
以下は、私が「中の人」の言動を通じて研究機関を見ようとするときに、気にしているポイントです。

1. どのような人が、どのように採用されているか 

現在の自分はライターなので、科学コミュニケーション・広報といった部門の方と接する機会が自然と多くなります。
科学を何らかの形で対象としている方は、フリーランスも含めて多くはなく、たいへん狭い世界です。
人となり・実績・仕事ぶりといったものは、良くも悪くも互いによく知っています。
とはいえ、人間ですから、能力・評判・実績に凸凹があるのは当然のことです。
長所を評価されての納得できる人事もあれば、どういう基準でその人がそこに採用されたのか良く分からない人事もあります。

2.採用された人が、どのような待遇を受けているか 

「待遇」は、肩書や給料も含みますが、それだけではありません。
採用時の労働条件その他の約束は守られているでしょうか? 有期雇用で身分が不安定なうえに、「すぐにいなくなるんだから」ということで厄介事や本来ないはずの責任まで押し付けられていないでしょうか? その人が採用された理由にふさわしい職務を割り当てられているでしょうか?

3.採用された人が、採用の前後で言動を極度に変えていないか

2つの意味があります。
個人としての活動に対して、「組織人でもある」ということを考慮したときに当然である以上の制約が加えられていないでしょうか?
また、その人は、採用されたあと、組織の「威を借りる」というような言動が目立つようにはなっていないでしょうか? それは「その人個人の本性が現れた」 である可能性もありますが、組織の体制を無意識に反映している可能性の方が高いです。

4.採用された人が、組織とどのように付き合っているか

無関係な場所でまで、組織や自分の上司の威光を振り回すような人の存在が目立つ研究機関では、
「不正行為が問題視されることなく積み重ねられていって、ある日大騒ぎに……」
という確率がいくらか高い気がします。
そんなことのために組織の身分や名刺が与えられているわけではないことを理解できない個人の問題である以上に、そういう勘違いをただせない組織の問題というべきでしょう。

5.採用された人は、「外の人」「身分が下の人」に対してどう付き合っているか

「中の人」「身分が上と考えられる人」に対する態度と、「外の人」「身分が下と考えられる人」に対する態度が、同じ人間に対するものと思えないほど違う方、ときどきいます。そして、そういう方が数多く目立つ組織に対しては、人というよりは組織に対して疑問を感じます。
女性の障害者、しかもフリーランスのライターという私の立場は、そういう方の存在を「あぶりだす」ようなところがあります。つまり自分が差別や疎外に遭うということで、それはそれで辛いものはありますが、最近「そういう立場であることは利用できる」と考えるようになりました。その気にならなくても、ご本人たちが隠しておきたいホンネの部分を見せていただけるのだ、と。

結局は、妥当な人事・妥当な待遇といったものを積み上げていくことが基本でしょうか。

知っていることからのアナロジーは危険

先日、発生生物学を専攻していた時期のある知人と会って昼食を共にしました。 
その知人は研究者そのものではありませんでしたが、数年前まで、とある国立大学の発生生物学の研究室に籍を置いて仕事をしていました。 
STAP細胞の一件が、まず研究の中身そのものからして全く理解できない私に、知人は自分のお古の教科書類をくれ たのでした。

知人は、

・STAP細胞研究の背景
・実際には何かが「出来ていた」可能性があり、
 その「出来ていた」背景に何らかの新規性があった可能性もあること
・渦中の研究者O氏は実際には何をした、あるいは何をしなかった可能性があるのか
・一連の騒動の背景には、どこの誰がどういう形で関与している可能性があるのか
・大学院重点化以後、特に「ゆとり」以後の、発生生物学分野での研究者教育の実情
・国立研究機関・国立大学法人での、特許など知的財産権に関する扱い 

などについて、2時間近くにもわたり、丁寧にレクチャーしてくれました。

あまりにも世界が違いすぎて「聞いてびっくり」な多数の話のインパクトを、私は未だ整理できていません。
私は少なくとも、研究といえば半導体しか経験がなく、しかも経験した研究の場が産学官共同プロジェクト・民営化以後のNTT・産学共同研究を積極的に行っていた大学教員の研究室・民間企業。つまり、ほぼ、よくも悪くも「企業文化」しか知らないわけです。
そのアナロジーでSTAP細胞問題を理解しようとして、私は大変な誤解をしてしまいかけていたのだということが良く分かりました。

一番腑に落ちた話は、
「今、研究室で指導らしい指導なんか行われていないし、指導が行える状況にもないから、若い人たちが勝手にオレオレルールを作ってしまう」
という話でした。その「オレオレルール」の延長上に、さまざまな研究上のルール違反を「悪いこととは思っていなかった」という渦中の研究者の発言があるのではないか、とも。 
その話を聞いて、驚き、かつ、ここ5年間くらいで若い人との間にあった不愉快な出来事を理解できる気がしました。不愉快であったり危険を被ったりしたこと自体は変わりません。相手がそのようなことを、まったく悪気なく行ってしまうことの背景が、おぼろげながら理解できてきたというだけの話です。しかしその理解は、若年層に対する不気味感や恐怖を少しだけ和らげてくれるように思えました。

「最近の若いものは」と言い出したら年寄りの証かもしれません。40代に入ったばかりの知人と、50代に入ったばかりの私が、そんなふうに若年層の生育・教育環境を話題にしていたということ自体が、知人も私も年寄りになったということなのかもしれません。
自分の知っている「若い時」「若い人」からのアナロジーで現在の若年層を考えること自体が、すでに多大な危険性を含んでいるようです。 知人の話を聞いて、そのことだけは良く分かりました。
私は幸いにして、子どもがいません。教育職についているわけでもありません。若年層の行動に対し、自分自身が責任を問われる立場にはありません。
当分は、若年層に対して「なるべく近寄らない」「なるべく接触しない」「慎重に観察する」という態度でいようと思います。
そのうちに、互いに安全な付き合い方を見つけることくらいなら、可能かもしれません。
 

研究について:「実験ノートを書く」という訓練

大学の理科系学部に進むと、必ず「学生実験」というものがあります。
目的は実験そのもの+実験内容の理解だけではなく、実験にまつわる数多くのスキルを身に付けることです。
私は大学時代に勤労学生で、職場は研究所でしたから、「大学で身につけた」という意識はなく、かえって「あ、大学ではこういうこと教えるのね」と新鮮に感じるくらいでしたけど。

以下、どういうことを教えられるかについて書いておきます。どこまで徹底するかは大学によるかと思いますが。

-実験ノートを用意する
必ず綴込み式ノートのこと。ルーズリーフ禁止。
ページの抜き取りや改ざん、悪意がなくても紛失を防止するためです。

-その回の学生実験でやることの予定と、実際にやったことを書く
やることの予定を書くことまでは指導してない大学の方が多いかも。これ書かせておくと「レポートが書けない」という悩みが減るんです。レポートの構成や内容を意識して実験することになりますから。

-事実を書く
やってないことを「やった」と書いてはいけません。

-あとから再現できるように書く
「何をどうしてどうなった」を、成功するにせよ失敗するにせよ、後から可能な限り再現できるように書きます。
学生実験で、実験が失敗したからといってやり直させることはほとんどありませんが、失敗したときにこそ記録がモノを言います。

-具体的に書く
起こった現象・観察された結果などを具体的に書きます。定性実験(現象そのものを問題にし、数量をあまり問題にしない実験)であれば、「色はどうなった」「形はこうなった」「こういう刺激を加えたときの反応の傾向はああなった」などを具体的に書きます。

-思い・感想・妄想を書いてもいいけれど、事実と紛れないように 
もしかすると、それは後に「ひらめき」と呼ばれるかもしれません。思いついたら書いといていいんです。でも、実験で行ったことやその結果と、後に自分で混同しないように。 

この訓練は、「他人の知的財産権を守って、新しい知的生産を行う人を育成する」という観点から重要視されています。

参考:
実験ノートの書き方(野島高彦氏)
現役の大学教員による、大学1年生向けの「実験ノートの書き方」 。たいへんわかりやすいです。

研究を職業にするようになると、このような研究専用のノートを使用する場合があります。
ページの抜き取りや改ざんが困難なように作られています。
全ページに通し番号が打ってあり、上司等がチェックを行うための欄も設けてあります。
知的生産を「確かに自分が行いました」と、参考にした他者の知的生産ともども明らかにできるようにしておく目的のノートです。

通し番号が便利だし、紙質もよいので、私はふだんの取材に愛用しています。

こちらは、研究室に配属された段階の大学4年生以上(?)が対象と思われる、ラボノートの書き方です。 
ラボノートの書き方 
「なんのためにここまで細かく、糊の種類までうるさく言うんだ?」と思われるかもしれませんが、一つ一つ妥当なことばかりですよ。
こういうことを積み上げていった先に、大学院修士課程・博士課程・その後の研究生活があるわけです。 

広報部門のさまざまな形

STAP細胞の一件で、理化学研究所の広報体制に疑問が集まっているようです。
企業だったら、確かに広報部門を通さない広報っていうのはありえません。
でも研究機関は企業ではありません。さらに、研究機関ごとに体制が異なります。一つの研究機関の中に、性格の異なる組織が数多く存在する場合もあります。

研究機関の広報が外から見て非常にわかりにくい存在であることは間違いないかと思います。
といいますか、「研究機関の広報」とくくることのできる存在は、あるのでしょうか? 
同じ独立行政法人の研究機関でも、広報の位置づけや役割や体制は、まちまちなのではないかと思います。
理研の今回のSTAP細胞騒動については、広報がどういう役割をふだん担っており、位置づけがどうなっていたのかを最初に知りたいです。

STAP細胞の一件に関しては、私はあの特許だけは、体制がどうなっているのかと関係なく「なんなんだ?」と思いますよ。一言でいえば
「弁理士さん、中身読んだ?」
という疑問を感じています。他者の知財権を侵害していないかどうかって、弁理士さんは非常に気にするところだと思いますが、今はそうではないんでしょうか?
特許として審査を通過して登録されてしまったことに関しては、登録時チェックって基本的には形式審査だけ(これは日本でもそう)、明らかにおかしな内容だったらはじく、程度のものなのですから、ありうることではないかと思います。

まずは、理化学研究所の広報が、全体の中で、どういう位置づけにあったのか。
ふだんの業務の中心はどのようなことがらだったのか。
スタッフは何人いるのか。
そんなことから、少しずつ理解を及ぼしていければと考えています。 

なぜ、自殺はいけないのか(母親の場合)

私を虐待していた母親は、同時に、私に対して「自殺はいけない」と言っていました。
肉体的にも精神的にも追い詰られ続けることが何日も続くと、私は「死にたい」と考えました。まったく自然な反応だと思います。 それは母親から見ても「死にたいと思っているのでは?」と感じられるものであったようでした。そういう時、母親は私に
「自殺はしてはいけない」
と言い始めるのでした。
最初は私が小学4年くらいだったでしょうか。最後は18歳くらいの頃だと思います。
高校卒業後の私は、もう原家族での自分の立場を少しでもマシなものにする可能性を考えていませんでした。なるべく早く、そこを離れることに注力していました。離れられたら、生き延びられるかもしれない。自殺や発狂に追い込まれずに済むかもしれない。その可能性に希望を託していました。 少なくともその期間は、「死にたい」と思う必要はありませんでした。「原家族を離れることに対する母親(+ときには父親)の妨害にどう影響されないか」は重大な課題でしたが。

母親によれば、私が自殺してはいけない理由は、以下のとおりでした。

・自分たち家族が、この家に住んでいられなくなる。家族に迷惑がかかる。
・弟妹が結婚できなくなる。弟妹の将来がメチャクチャになる。

 
確か1990年代後半、両親はセカンドハウスを手に入れました。つまり、どうしても私が育った家に住んでいなくてはならない理由はなくなったわけです。
2000年を過ぎた頃、9歳下の妹が、翌年に4歳下の弟が結婚しました。
弟の結婚式の後、私は
「ああ、これで私はもう自殺してもいいんだな、母親的には」
と思いました。 

弟が結婚した相手の女性は、立派な学歴と立派な職業を持っていました。2児を設けた現在も、職業はセーブしつつも継続していると漏れ聞いています。「漏れ聞いている」というのは、辛いのでお付き合いしていないからです。弟の妻に何かされたわけではないんですが、両親の弟の妻への態度と私への態度の違いが、あまりにも辛いので。
「イエ」「ヨメ」「長男」「長女」といった意識が強い両親ですが、「長男のヨメ」である弟の妻から職業を奪い取ろうとは考えなかったようです。それどころか、弟の妻の職業継続に対し、両親は充分以上の理解を示し、具体的な協力を提供し続けています。私の職業キャリア構築や職業継続、職業キャリアにつながる教育に対しては、まったくそうではなかったのに! 母親は私に対して全力で、専業主婦以外の何にもなれないように抑えこもうとしつづけていたのに! 
私は、弟の妻が結婚相手の両親から充分な理解を得ていることに対して、職業を持つ女性として喜びたいのです。「長男のヨメだから」といって職業や達成から遠ざけられるような目に遭っていないことを喜びたいのです。しかし喜べば喜ぶほど、自分の首が締まるという構造になってしまっています。その構造を作ったのは私ではありませんが。
では、弟の妻を憎むべきなのでしょうか。悲しむべきなのでしょうか。怒るべきなのでしょうか。「女の敵は女」と喜んで囃し立てるオヤジたちの姿を思い浮かべるまでもなく、そんな悲しいことはしたくありません。
だから、弟一家とは付き合わないことにしています。

弟が結婚した直後、母親は私に
「福岡に帰ってこれないのか」
と言うようになりました。つまり「ヨメ」に要求したいことがらを長男の嫁に要求したくないので、私にさせられるようにしたいということでしょう。長男の妻に対しては介護を要求しないが、介護の戦力が誰か必要なので、だったら長女に、ということでしょう。
私は再び、死にたいと考えるようになりました。両親から逃げ切るためには、他に方法がなさそうだからです。
両親の介護については、いつか持ち上がる問題であろうと十代の時期から考えていました。きょうだいが3人もいるのですから、もし話し合いが可能であれば、なんとかなるであろうとも考えていました(話し合いどころか付き合いもないのが現在の現実ですが)。
しかし、この時点での母親の要求に応じることは、とてもできないと思いました。具体的な介護をどうするか以前の問題として、母親のご都合主義とは付き合えないと思ったのです。

数年後、私に運動障害が発生しました。私は肉体的に、両親の介護の戦力にはなれなくなりました。
すると両親は、
「うちはもう(お前には)関係ないから」
と言い始めました。
また、2008年のことと記憶していますが、父親に
「いつまで生きるつもりだ」
と言われたこともありました。私は脳内で即座に「早く死んでくれたらいいのに」と翻訳しました。でも言われた言葉に言葉通りに反応しているふりをして
「寿命までは生きるつもりだけど」
と答えました。

今でも、母親がたびたび私に言い聞かせた自殺してはいけない理由と、父親の「いつまで生きるつもりだ」発言は、トラウマになっています。思い出して何度も泣きました。
いつまでも泣いていたいとは思わないし、これ以上、同じような目に遭いたくありません。
そこで、ここに記録しておくことにしました。
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 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
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「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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