みわよしこのなんでもブログ : 科学

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


科学

知っていることからのアナロジーは危険

先日、発生生物学を専攻していた時期のある知人と会って昼食を共にしました。 
その知人は研究者そのものではありませんでしたが、数年前まで、とある国立大学の発生生物学の研究室に籍を置いて仕事をしていました。 
STAP細胞の一件が、まず研究の中身そのものからして全く理解できない私に、知人は自分のお古の教科書類をくれ たのでした。

知人は、

・STAP細胞研究の背景
・実際には何かが「出来ていた」可能性があり、
 その「出来ていた」背景に何らかの新規性があった可能性もあること
・渦中の研究者O氏は実際には何をした、あるいは何をしなかった可能性があるのか
・一連の騒動の背景には、どこの誰がどういう形で関与している可能性があるのか
・大学院重点化以後、特に「ゆとり」以後の、発生生物学分野での研究者教育の実情
・国立研究機関・国立大学法人での、特許など知的財産権に関する扱い 

などについて、2時間近くにもわたり、丁寧にレクチャーしてくれました。

あまりにも世界が違いすぎて「聞いてびっくり」な多数の話のインパクトを、私は未だ整理できていません。
私は少なくとも、研究といえば半導体しか経験がなく、しかも経験した研究の場が産学官共同プロジェクト・民営化以後のNTT・産学共同研究を積極的に行っていた大学教員の研究室・民間企業。つまり、ほぼ、よくも悪くも「企業文化」しか知らないわけです。
そのアナロジーでSTAP細胞問題を理解しようとして、私は大変な誤解をしてしまいかけていたのだということが良く分かりました。

一番腑に落ちた話は、
「今、研究室で指導らしい指導なんか行われていないし、指導が行える状況にもないから、若い人たちが勝手にオレオレルールを作ってしまう」
という話でした。その「オレオレルール」の延長上に、さまざまな研究上のルール違反を「悪いこととは思っていなかった」という渦中の研究者の発言があるのではないか、とも。 
その話を聞いて、驚き、かつ、ここ5年間くらいで若い人との間にあった不愉快な出来事を理解できる気がしました。不愉快であったり危険を被ったりしたこと自体は変わりません。相手がそのようなことを、まったく悪気なく行ってしまうことの背景が、おぼろげながら理解できてきたというだけの話です。しかしその理解は、若年層に対する不気味感や恐怖を少しだけ和らげてくれるように思えました。

「最近の若いものは」と言い出したら年寄りの証かもしれません。40代に入ったばかりの知人と、50代に入ったばかりの私が、そんなふうに若年層の生育・教育環境を話題にしていたということ自体が、知人も私も年寄りになったということなのかもしれません。
自分の知っている「若い時」「若い人」からのアナロジーで現在の若年層を考えること自体が、すでに多大な危険性を含んでいるようです。 知人の話を聞いて、そのことだけは良く分かりました。
私は幸いにして、子どもがいません。教育職についているわけでもありません。若年層の行動に対し、自分自身が責任を問われる立場にはありません。
当分は、若年層に対して「なるべく近寄らない」「なるべく接触しない」「慎重に観察する」という態度でいようと思います。
そのうちに、互いに安全な付き合い方を見つけることくらいなら、可能かもしれません。
 

研究について:「実験ノートを書く」という訓練

大学の理科系学部に進むと、必ず「学生実験」というものがあります。
目的は実験そのもの+実験内容の理解だけではなく、実験にまつわる数多くのスキルを身に付けることです。
私は大学時代に勤労学生で、職場は研究所でしたから、「大学で身につけた」という意識はなく、かえって「あ、大学ではこういうこと教えるのね」と新鮮に感じるくらいでしたけど。

以下、どういうことを教えられるかについて書いておきます。どこまで徹底するかは大学によるかと思いますが。

-実験ノートを用意する
必ず綴込み式ノートのこと。ルーズリーフ禁止。
ページの抜き取りや改ざん、悪意がなくても紛失を防止するためです。

-その回の学生実験でやることの予定と、実際にやったことを書く
やることの予定を書くことまでは指導してない大学の方が多いかも。これ書かせておくと「レポートが書けない」という悩みが減るんです。レポートの構成や内容を意識して実験することになりますから。

-事実を書く
やってないことを「やった」と書いてはいけません。

-あとから再現できるように書く
「何をどうしてどうなった」を、成功するにせよ失敗するにせよ、後から可能な限り再現できるように書きます。
学生実験で、実験が失敗したからといってやり直させることはほとんどありませんが、失敗したときにこそ記録がモノを言います。

-具体的に書く
起こった現象・観察された結果などを具体的に書きます。定性実験(現象そのものを問題にし、数量をあまり問題にしない実験)であれば、「色はどうなった」「形はこうなった」「こういう刺激を加えたときの反応の傾向はああなった」などを具体的に書きます。

-思い・感想・妄想を書いてもいいけれど、事実と紛れないように 
もしかすると、それは後に「ひらめき」と呼ばれるかもしれません。思いついたら書いといていいんです。でも、実験で行ったことやその結果と、後に自分で混同しないように。 

この訓練は、「他人の知的財産権を守って、新しい知的生産を行う人を育成する」という観点から重要視されています。

参考:
実験ノートの書き方(野島高彦氏)
現役の大学教員による、大学1年生向けの「実験ノートの書き方」 。たいへんわかりやすいです。

研究を職業にするようになると、このような研究専用のノートを使用する場合があります。
ページの抜き取りや改ざんが困難なように作られています。
全ページに通し番号が打ってあり、上司等がチェックを行うための欄も設けてあります。
知的生産を「確かに自分が行いました」と、参考にした他者の知的生産ともども明らかにできるようにしておく目的のノートです。

通し番号が便利だし、紙質もよいので、私はふだんの取材に愛用しています。

こちらは、研究室に配属された段階の大学4年生以上(?)が対象と思われる、ラボノートの書き方です。 
ラボノートの書き方 
「なんのためにここまで細かく、糊の種類までうるさく言うんだ?」と思われるかもしれませんが、一つ一つ妥当なことばかりですよ。
こういうことを積み上げていった先に、大学院修士課程・博士課程・その後の研究生活があるわけです。 

早稲田大学理工学部に関する2つの強烈な経験

私が学部と修士でお世話になった東京理科大(神楽坂キャンパス)と、早稲田大学理工学部は、まあ距離的には近いといえば近い距離にありました。
ちなみに、東京理科大野田キャンパスでささやかれていた冗談に
「飯田橋駅前の交番で『理科大どこですか』と聞いて、指差された方向に進んでいった。進めども進めども大学らしいものは見えてこない。そのうちに早稲田大学に着いた」
というものがありました。雑居ビルの集まりに見えてしまう理科大神楽坂キャンパスをからかっていたわけです。
もちろん逆襲もありました。
「野田キャンパスのトイレには水とお湯ともう一つ蛇口があって、ひねったら醤油が出てくる」
とか
「そこの古利根川を醤油が流れてる」
とか。

さて。私には、早稲田大学理工学部に関する、2つの強烈な経験があります。
特に、早稲田理工の出身者に親しくしている人がいるわけでもない私は、この2つの経験から、私は「子どもが早稲田理工に行ってます」という親を警戒するようになりました。

その一
1985年ごろのことです。
仕事帰りの私が、飯田橋の蕎麦屋「翁」で夕食に蕎麦を食べていたところ、サラリーマン二人連れと相席になりました。
二人連れは晩酌をはじめました。そして、一人が私にからみはじめました。
「理科大の女の子は乱れてるんでしょ? 男選び放題で」
とか。
そのオヤジの息子は早稲田大学理工学部に入学したところなのだそうでした。その自慢話をさんざん聞かされた後、私はビールを勧められました。でも、私はそれから大学で授業を受けるのです。
「これから授業ですから」
と断ると、
「そんなことでは世間で許されない」
と説教されました。
私は、からむオヤジをふりほどき、やっとのことで席を立ちました。お店の人が恐縮して、蕎麦代を無料にしてくれました。

その二
私が会社員だったころ、結婚を考えて付き合っていた同僚がいました。
1997年、相手のご両親に挨拶しました。
ご両親はどちらも中卒で、大変な苦労をして同僚と妹さんを育てられ、同僚を福岡県立の進学校から早稲田理工へと進学させたのでした。
最初の一回や二回、お父様の
「息子はT高校から早稲田大学理工学部に」
という話は、
「ああ、本当に嬉しかったんだなあ」
と共感しながら聞くことが出来ました。しかしその後何百回聞くことになったかわかりません。壊れたレコードみたいに。苦痛でしかありませんでした。
だいたい、早稲田大学理工学部キャンパスに行って若い人に石を投げれば、ほぼ100%が早稲田理工の学生さんたちにに当たるでしょう。
ご両親にとっては特別なできごとでも、研究職であった同僚や私にとっては、ありふれた学歴の一つです。
しかし、そのことをご両親にご理解いただくことは可能とは思えませんでした。
そのうちにご両親の態度には、
「自分たちは中卒であるが、早稲田大学理工学部を卒業した息子の両親として、息子より上の学歴を持つこの女をヨメとして虐げることができる」
という喜びが感じられるようになりました。私は露骨にヨメ扱いされ、職業継続に関する協力は何一つ受けませんでした。妨害ならされましたけど。
同僚と私、それから二匹の猫で作っていた当時の家庭は、いつも人間同士の争いが耐えませんでした。ときに仲裁を試み、ときに弟猫の悠(1998生-2013歿)を安全な場所に連れて行ってなだめてくれていた姉猫の摩耶(1997生)に、今でも感謝しています。摩耶、ありがとう。
1999年、同僚の方から「終わりにしよう」と切りだされました。望むところでした。私は別れる手続きを嬉々として始めました。すると同僚は顔色を変えました。間もなく、周囲の人々多数から、私は「離婚しないように」という圧力をかけられるようになりました。同僚が依頼したようです。この時に私に圧力をかけた人々を、私は未だに許していません。なかには、未だに西荻窪地域コミュニティで顔を合わせる機会のある人もいます。顔を合わせれば挨拶くらいはします。でも許していません。それから、「この人、男より猫の方がいいんだよ」と言った酒屋店主。ヒモ男より猫のほうがいいに決まってるじゃないですか。
当時の同僚は会社に出勤できず引きこもっていました。文筆業で収入を得て一家の家計を支えていたのは私でした。同僚は、仕事があって活躍できている私に嫉妬をぶつけました。周囲の人々は、「夫を立てないから夫がダメになる」「夫に優しくしないから夫がダメになる」と私に説教しました。ヒモを立てろと言われてもねえ。
そのうちに同僚は、酒と薬でラリって刃物を振り回したりするようにまでなりました。猫たちも私も傷つかなかったのは不幸中の幸いでした。そんな状況でも、私の父親は「食事を作って食べさせてやらないからいけない」とか私に言っていましたよ。刃物まで出てきているというのを知ってはいただろうと思うのですが。
私は苦心の末、2001年に同僚と別れることに成功しました。

そして2013年のことです。
企業時代に9年間、私の一次上司(現・産総研)だった人物の息子さんが、日比谷高校から早稲田理工に進学していた事を知りました。
私はこの息子さんに、いつか、「あなたのお父さんが私や他の何人かの人に何をしていたか」を聞いて欲しいと思っていました。この人物は、いわゆる「クラッシャー上司」でした。何人もの人が潰され、会社を追われました。真面目で優秀な中堅だった20代男性が精神を病まされ、その後定職にもつけないままであったり。30代で妻子との生活のために家を買ったばかりの時期を狙って集団イジメを仕掛けられ、遠隔地への転勤を強いられた男性もいました。そして私も凄まじいパワハラに遭いました。
私はいつか、この息子さんに、私が、同僚たちが、お父さんに何をされたかを話したかったのです。お父さんが会社で話していた子煩悩ぶりがどのようなものであったかとともに。
しかし、そう思っているうちに、今回のSTAP細胞騒動が起こりました。早稲田理工では当たり前なのかどうかまでは分かりませんが、かなり大規模に、論文等でのコピペが行われていたという話に接して呆れました。大学で特別な倫理教育を施さなければ防止できないことであるとも思えませんが。
私は、この息子さんに対して、
「ああ、早稲田理工だったら、言ってもきっと何も通じない。倫理的であることなんか求めてもムダ、ましてやあのお父さんの息子なんだし」
と考えることにしました。そして、この息子さんに将来「あなたのお父さんは……」と話す計画は、実行しないことにしました。本気で、早稲田理工に倫理を求めてはならないと考えているわけではありません。ただ、
「30年近く前の、ご本人には責任のとりようのないお父さんの行状を息子に話す」
という生産性ゼロの行為の準備をやめるきっかけと理由を、私はどこかで探していました。今回のSTAP細胞騒動は、その格好の理由を提供してくれた、というわけです。そして、「特別な倫理教育が必要なわけでもないはずのことを早稲田理工では博士課程の院生までやらかしてしまう」ということの理由を「早稲田理工に子どもを行かせる親にそもそも問題が」に求めておけば、ひと通りのツジツマは合います。まあ、私自身、本気で「早稲田理工に子どもを行かせる親に問題が」と思っているわけではないのですけれども。

現在、早稲田理工にはあまり良いイメージを持っていない私ですが、私には早稲田大学(元)教職員の友人知人が何人もいます。 でも、その方々は、たまたま(元)勤務先が早稲田大学というだけ。勤務先が早稲田大学だからお付き合いしているわけではありません。みんな優秀で良心的な方々です。
STAP細胞騒動は、いい機会だったと思います。
「ますます、大学のハクなどに惑わされずに人物を見なくちゃね」
と肝に銘じる機会になりました。
とりあえず、子どもが早稲田理工に行っているという親御さんに対しては、引き続き警戒を続ける必要を感じています。たった2例・3人ではありますけれども、子どもの通っている大学のハクの使い道を思いっきり勘違いした親御さんを見ていますから。そういう親御さんでないことが明確になるまで距離を縮めないようにしないとね。

広報部門のさまざまな形

STAP細胞の一件で、理化学研究所の広報体制に疑問が集まっているようです。
企業だったら、確かに広報部門を通さない広報っていうのはありえません。
でも研究機関は企業ではありません。さらに、研究機関ごとに体制が異なります。一つの研究機関の中に、性格の異なる組織が数多く存在する場合もあります。

研究機関の広報が外から見て非常にわかりにくい存在であることは間違いないかと思います。
といいますか、「研究機関の広報」とくくることのできる存在は、あるのでしょうか? 
同じ独立行政法人の研究機関でも、広報の位置づけや役割や体制は、まちまちなのではないかと思います。
理研の今回のSTAP細胞騒動については、広報がどういう役割をふだん担っており、位置づけがどうなっていたのかを最初に知りたいです。

STAP細胞の一件に関しては、私はあの特許だけは、体制がどうなっているのかと関係なく「なんなんだ?」と思いますよ。一言でいえば
「弁理士さん、中身読んだ?」
という疑問を感じています。他者の知財権を侵害していないかどうかって、弁理士さんは非常に気にするところだと思いますが、今はそうではないんでしょうか?
特許として審査を通過して登録されてしまったことに関しては、登録時チェックって基本的には形式審査だけ(これは日本でもそう)、明らかにおかしな内容だったらはじく、程度のものなのですから、ありうることではないかと思います。

まずは、理化学研究所の広報が、全体の中で、どういう位置づけにあったのか。
ふだんの業務の中心はどのようなことがらだったのか。
スタッフは何人いるのか。
そんなことから、少しずつ理解を及ぼしていければと考えています。 

「オリジナルな表現」にどこまでこだわるべきなのか

わりと身近で
「論文のイントロダクションの部分って、剽窃だの盗用だのというつもりがなくても、過去の関連論文のどれかと似てきちゃうよね」
という会話がありました。
「沸いてる」分野であればあるほど、時期の近い先行研究がたくさんあって、そうなりやすいでしょうね。
今日は、文章のオリジナリティに関して自分がどうしてきたかについて書いてみます。

1998年~2000年ごろの私は、ライターとしては、テクニカルライティング専業に近かったです。
当時の仕事のほとんどはLinux関連の技術記事でした。それもインストールとか基本操作とか、初歩的なサーバ構築とか、最低限のセキュリティ設定とか。ちょっと油断すれば、誰が書いても似たようなものになりそうな内容です。
技術文書の目的はさまざまです。たとえば機器のマニュアルであれば「操作ミスを引き起こしてPL法訴訟につながる」は絶対に避ける必要があります。部品のテスト報告書であれば「このテストを通過した部品を、我が社(わが部門)は受け入れてよいのかどうか」の判断が行える内容である必要があります。他者の知的財産権を侵害することがあってはなりません。しかし、オリジナルな表現にこだわるあまり、本来の目的を達しないようでは困ります。
このような数多くの制約のもとで、なるべくオリジナルな、どこかが過去の先例より少しでも良くなっている技術文書を作成するという作業は、大変エキサイティングな知的冒険なのです。今でも、「向こう30年程度の自分自身の人生設計と折り合いがつくようだったら、時にはやってみたい」と思うくらいです。
ちなみに1990年代、マニュアルのページ単価は概して有り難いもので、雑誌原稿の3~5倍程度になることもありました。雑誌原稿をサンプルにして非署名のマニュアルの仕事を時々いただき、その報酬を雑誌原稿の準備その他に使う……というサイクルを回すことができていました。2000年代に入るとマニュアルのページ単価が安くなりはじめ、とても生計を託すことはできない状況になってきました。そこで、マニュアルの代わりに広告の仕事を非署名で行うようになりました。半導体デバイスだの半導体製造装置だのといったコアな分野で、中身が分かって広告コピー書けるライター、現在でもそれほど多くはいないと思われます。その「超ニッチ」というべき分野で自分と二匹の猫たちの生活を支えてきた時期もありましたが、2000年代後半になると厳しくなり……時代の流れというものです。

Linux関連のテクニカルライティングにほぼ専業していた時代の私、実は非常に、オリジナルな表現にこだわっていました。文言も図式も。既存の何かと似たようなものを「生み出す」行為には挟持が持てません。それに、ライターとして「私が書いたものは、ここが違います」とも言えないわけです。挟持が持てない上に自分の市場価値アップにもつながらない仕事は、誰もが「なるべくなら、したくない」と思うものではないでしょうか。私もそうだったというだけです。
もちろん現在も「オリジナルな表現」は重視しています。「よりよい表現を」と日々心がけています。でも現在は「こだわる」ではなくなっています。ノンフィクションの書き手として重視しなくてはならないポイントは、表現そのもの以外にも数多く存在しますので。

私、当時存在したLinux技術書籍の30~40%は購入していたんじゃないと思います。もちろん雑誌も。本棚は入門書だけで7冊、メールサーバ構築だけで4冊、Webサーバ構築だけで5冊、セキュリティだけで10冊……というような感じでした。
自分が記事を書くたびに、持っている書籍・雑誌の該当箇所は全部読んでいました。そして、図式も文言も、自分の(より良い)オリジナルといえるものを生み出すようにしていました。もちろん、技術的な記述は全部、自宅にあったテスト機でテストしていましたし、編集者の方々にも「この記述どおりで成功するかどうか」のチェックはお願いしていました。そういう努力をしても原稿料は上がりませんが、次の仕事に結びつく確率を上げることくらいはできました。図式に関する工夫は、のちに技術教育の講師業に従事するようになってから、非常に役に立ちました。

この本には、当時の「自己ベスト」 を余すところなく注入しました。技術書籍としては、現在ではほとんど役に立たないと思われますが。

同じ内容について、同じようなバックグラウンドを持った人が書いていれば、表現が似てくるのは仕方ないと思います。似たようなものになったとしても「これは自分が考えて生み出した(より良い)表現」と言えるように日々努力しているのであれば、「剽窃だ」「盗用だ」という話にはならないでしょう。
でも、個人が持っている時間やエネルギーその他の資源は有限です。
ここで述べたような努力をしていた時、私は既にライターになっていました。私の生み出していた直接の最終製品は、記事・書籍・その他の技術文書類でした。
私は文書を納入して、報酬をいただきます。その文書が後にどれだけの価値を新規に生み出しても、私がそれ以上の報酬をいただくことはありません。書籍だったら「増刷かかったら増刷分の印税が」ということはありますが、それにしても印税以上の報酬をいただくことはありません。文書そのものが私の最終的なアウトプットです。だから、文書そのものに持てる資源の多くを注入することは、自分にとっての最適解です。
研究機関の一員として研究をしている方の場合、その方の論文は最終的なアウトプットでしょうか? 論文は研究の重要なアウトプットの一つではありますが、研究者の仕事は論文を書くことそのものではありません。研究活動です。論文を書かないけれども重要視されている研究員は、企業の研究部門を中心に数多く存在します。
特許など知的財産権に関わる文書だったらどうでしょうか? 他者の知的財産権を侵害して自分の知的財産権を主張することは許されませんが、特許文書もまた、研究者や技術者の最終的なアウトプットではありません。その人自身の仕事の範囲はそこまでかもしれませんが、製品その他に適用され、評価され、利益を得ることが最終的なアウトプットなのではないでしょうか?

最終的なアウトプットは何でしょうか? そのために効果あると考えられることは何なのでしょうか? 効果を上げるために、「オリジナルな表現」はどれほど有効なのでしょうか? 有効でなくても必要であるということを認めたうえで、なお「オリジナルな表現」のために割くことのできる資源は、どれだけあるのでしょうか?
1998年以後の私は、ライターだったから「オリジナルな表現」にこだわりましたし、こだわることができました。1997年以前の私は、「40歳を過ぎたら著述業に転身しよう」 と考えていました。ライターになった後ほどではありませんが、ある程度は「オリジナルな表現」にこだわっていました。
でも、文章そのものが最終的なアウトプットであるわけでもなければ、文章を書くこと自体がお仕事でもなく、将来そうなる可能性も考えていない方の場合には、ちょっと話が違うんじゃないかと思うのです。
今、必要なのは、「オリジナルな表現」のために多くの資源を割くことができない方々でも、そのことによって大きな踏み外しをしない安全装置のようなものではないでしょうか。

少なくとも、すべての研究者・技術者は、
「どこかで見たことあるような記述ではあるけれども、盗用・剽窃とまで言えるかどうか微妙」
といったことで足をすくわれる可能性からは、自由であるべきだと思います。
「バレない範囲でなら真似ていい」と言いたいわけではないです。
さまざまな制約や優先順位を無視すべきではないと言いたいのです。
研究者や技術者が、業務がら考慮しなくてはならない制約や優先順位を無視してまで「オリジナルな表現」を求められるとすれば、何かがおかしいと言いたいのです。 
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「おしゃべりなコンピュータ
 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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