2020年8月26日の東京新聞(紙フォーマットの電子版)朝刊から、独断と偏見で4記事をピックアップ。なお、本記事はnote記事の下書きを兼ねています。
私見:制度自体には好感です。しかし、利用できる男性(+その妻子)と利用できない男性(+その妻子)が、くっきり分かれそうです。中小企業で職場や現場にいないと話にならない職種の場合、実質的に利用できないでしょう。間違っても「家庭を持ち子育て出来る階級」「それ以外の階級」の分断につながらないようにしてほしいと思うのですが……日本に期待するのが間違い?
障害者の状況に詳しい慶大教授の中島隆信氏は、特例子会社に清掃や単純作業をさせる事例をあげて問題視し、障害者が理解あるスタッフに見守られてマイペースで働ける「みなし雇用」のメリットを挙げる。厚労省は「福祉的雇用から一般雇用への意向が進まなくなる可能性がある」という理由で消極的。
私見: そもそも「なぜ社会面でも経済面でもなく、暮らし面?」という疑問があります。これが日本の現実だと突きつけられて涙が出そうです。いいかげんに、障害者雇用だけを切り出して議論するのではなく、あらゆる雇用や働き方の中に、「障害」という背景のある人の働き方も位置づけて議論しなきゃ。
新型コロナと緊急事態宣言のもとでは、テレワークしたくても出来ない職種の人々が子どものケアを含めて困惑したわけです。想定外の働き方が文字通り想定外だから、対応できなかったわけですよね。障害者雇用がの想定している内実があまりにも貧弱であることの問題は、その「想定」のメニューを増やすことで解決できる部分もあるかもしれませんが、結局、どのメニューにも当てはまらない人が取りこぼされるだけです。解決されるべき社会課題を見出すとすれば、そこでしょう。
東京パラリンピック開会日だったはずの8月25日、義足の女性たち12人がファッションショー(無観客)に出演。義足を隠さないファッションショーは、「切断ヴィーナスショー」と呼ばれ、5年前から全国各地で開催されている。12歳で片足を切断して以来、18歳になってこのショーではじめて義足を隠さずに人前に出た女性も。
私見: これまた、個人的にはゲンナリする記事でした。
メガネも杖も車椅子も義足も補聴器も、その人が生きて暮らすために必要だから、その人とともにある道具ですよね。特別視したりしなかったり、好奇の視線を向けたり向けなかったり、差別の対象にしたりしなかったりするのは、周囲の人々の行為。その人やその道具ではありません。
私がゲンナリしたのは、記事の見せ方が典型的な「障害の個人モデル」になっている点です。あくまでも「義足を見せるか見せないか」という本人の問題に注目されています。「なぜそれが、イマドキまだ問題になりうるのか」という社会の問題、障害の社会モデル的な問題意識は、少なくとも私から見て「十分に触れられている」とは感じられません。
障害の社会モデルは世界に出現してから30年以上経過しており、国連障害者権利条約の形になってから10年以上、日本が障害者権利条約を締結してから5年以上経過しています。「いやまだ、紙の新聞の読者さんに読ませるには、こうでなくちゃ」と言われそうですが、2020年現在の日本で、最も人権問題に鋭敏と考えられている全国紙が、なぜこうなんでしょうか。新聞や雑誌、図書館などの社会教育施設、学校教育を含めて、ありとあらゆる教育の怠慢だと思います。
義足と女性たちについて? サイボーグやロボットが出てくる特撮やアニメに馴染んで育った私にとっては、人間の身体が一部機械であることには特段の感慨はないです。本人がスタイリッシュで高機能なものを選択したければ無条件に可能になってほしいです。日本の公的福祉で交付される範囲だと、もう、ほんっとに貧乏くさいですから。そして、ご本人が見せたいように(見せないことを含めて)見せればいい。その阻害要因となっているのは、「公費なんだから、ダサくて最低限の補装具で我慢しなさい」という論理がまかり通ってしまいがちなことであったり、好奇の視線を含めて差別がまったく容認されている日本人と日本の制度であったり、そもそも日本の法律に差別の定義が存在しないことです。
私はカッコいい障害者イメージよりも、そういった基本的な社会課題をどうにかすることの方に関心があります。でも、新聞や新聞の読者さんたちは違うようですね。
ウンザリする日があるからといって購読を止めることはありません。余裕があれば、東京新聞に加えて日経新聞、さらに余裕があれば、朝日・毎日・読売のどれかを月替りで購読とかしてみたいものです。やはり紙フォーマットの強みってありますから。
私が生きてる間に、新聞にうんざりする日がなくなるか。それとも、新聞がなくなるか。
知ーらないっ、と。
- 「廃炉ビジネス」 地元企業 参入進まず(第4面)
東京新聞の特色の一つでもある「こちら原発取材班」面の記事です。
敦賀の「原発銀座」の原発が相次いで寿命を迎えたものの、廃炉ビジネスへの地元企業の参入が進まないということ。大きな理由は次の2点。
・長期(20~30年)にわたる作業であるわりに1年あたり10億円程度で儲かりにくい(原子炉回りは別途、高額の報酬で大手企業が受注とのこと)
・工事は細切れにされて発注され、発注時期は開始の1.5ヶ月前。地元企業ではやりくりが間に合わず対応しにくい
識者コメントとして、英国セラフィールド原子力施設で住民と企業が廃炉について話し合った事例が挙げられています。
私見:これだけ地元企業に不利な条件が揃っていれば、地元企業の参入は進まないでしょうね。意図的に「地元にお金を落とす」という方針のもとで制度を作っても良いのではないかという気がします。
英国の事例は、先進国のすぐれた事例なのでしょうか。日本で地元の原発に関する話し合いがされてこなかったのは、なぜでしょうか。原発の立地決定や建設にあたって、実質的な話し合いが徹底して排除されてきた経緯から振り返ってほぐす必要はないでしょうか。その地域のその原発の歴史を、あらゆる関係者が集まって検証する必要があるのでは。その時、住民こそ主役ではないでしょうか。
敦賀の「原発銀座」の原発が相次いで寿命を迎えたものの、廃炉ビジネスへの地元企業の参入が進まないということ。大きな理由は次の2点。
・長期(20~30年)にわたる作業であるわりに1年あたり10億円程度で儲かりにくい(原子炉回りは別途、高額の報酬で大手企業が受注とのこと)
・工事は細切れにされて発注され、発注時期は開始の1.5ヶ月前。地元企業ではやりくりが間に合わず対応しにくい
識者コメントとして、英国セラフィールド原子力施設で住民と企業が廃炉について話し合った事例が挙げられています。
私見:これだけ地元企業に不利な条件が揃っていれば、地元企業の参入は進まないでしょうね。意図的に「地元にお金を落とす」という方針のもとで制度を作っても良いのではないかという気がします。
英国の事例は、先進国のすぐれた事例なのでしょうか。日本で地元の原発に関する話し合いがされてこなかったのは、なぜでしょうか。原発の立地決定や建設にあたって、実質的な話し合いが徹底して排除されてきた経緯から振り返ってほぐす必要はないでしょうか。その地域のその原発の歴史を、あらゆる関係者が集まって検証する必要があるのでは。その時、住民こそ主役ではないでしょうか。
- 男性育休促進へ給付金増(総合面)
私見:制度自体には好感です。しかし、利用できる男性(+その妻子)と利用できない男性(+その妻子)が、くっきり分かれそうです。中小企業で職場や現場にいないと話にならない職種の場合、実質的に利用できないでしょう。間違っても「家庭を持ち子育て出来る階級」「それ以外の階級」の分断につながらないようにしてほしいと思うのですが……日本に期待するのが間違い?
- 障害者の「みなし雇用」 導入求める声(暮らし面)
障害者の状況に詳しい慶大教授の中島隆信氏は、特例子会社に清掃や単純作業をさせる事例をあげて問題視し、障害者が理解あるスタッフに見守られてマイペースで働ける「みなし雇用」のメリットを挙げる。厚労省は「福祉的雇用から一般雇用への意向が進まなくなる可能性がある」という理由で消極的。
私見: そもそも「なぜ社会面でも経済面でもなく、暮らし面?」という疑問があります。これが日本の現実だと突きつけられて涙が出そうです。いいかげんに、障害者雇用だけを切り出して議論するのではなく、あらゆる雇用や働き方の中に、「障害」という背景のある人の働き方も位置づけて議論しなきゃ。
新型コロナと緊急事態宣言のもとでは、テレワークしたくても出来ない職種の人々が子どものケアを含めて困惑したわけです。想定外の働き方が文字通り想定外だから、対応できなかったわけですよね。障害者雇用がの想定している内実があまりにも貧弱であることの問題は、その「想定」のメニューを増やすことで解決できる部分もあるかもしれませんが、結局、どのメニューにも当てはまらない人が取りこぼされるだけです。解決されるべき社会課題を見出すとすれば、そこでしょう。
- 義足の私たち 輝く姿 12人ファッションショー(社会面)
東京パラリンピック開会日だったはずの8月25日、義足の女性たち12人がファッションショー(無観客)に出演。義足を隠さないファッションショーは、「切断ヴィーナスショー」と呼ばれ、5年前から全国各地で開催されている。12歳で片足を切断して以来、18歳になってこのショーではじめて義足を隠さずに人前に出た女性も。
私見: これまた、個人的にはゲンナリする記事でした。
メガネも杖も車椅子も義足も補聴器も、その人が生きて暮らすために必要だから、その人とともにある道具ですよね。特別視したりしなかったり、好奇の視線を向けたり向けなかったり、差別の対象にしたりしなかったりするのは、周囲の人々の行為。その人やその道具ではありません。
私がゲンナリしたのは、記事の見せ方が典型的な「障害の個人モデル」になっている点です。あくまでも「義足を見せるか見せないか」という本人の問題に注目されています。「なぜそれが、イマドキまだ問題になりうるのか」という社会の問題、障害の社会モデル的な問題意識は、少なくとも私から見て「十分に触れられている」とは感じられません。
障害の社会モデルは世界に出現してから30年以上経過しており、国連障害者権利条約の形になってから10年以上、日本が障害者権利条約を締結してから5年以上経過しています。「いやまだ、紙の新聞の読者さんに読ませるには、こうでなくちゃ」と言われそうですが、2020年現在の日本で、最も人権問題に鋭敏と考えられている全国紙が、なぜこうなんでしょうか。新聞や雑誌、図書館などの社会教育施設、学校教育を含めて、ありとあらゆる教育の怠慢だと思います。
義足と女性たちについて? サイボーグやロボットが出てくる特撮やアニメに馴染んで育った私にとっては、人間の身体が一部機械であることには特段の感慨はないです。本人がスタイリッシュで高機能なものを選択したければ無条件に可能になってほしいです。日本の公的福祉で交付される範囲だと、もう、ほんっとに貧乏くさいですから。そして、ご本人が見せたいように(見せないことを含めて)見せればいい。その阻害要因となっているのは、「公費なんだから、ダサくて最低限の補装具で我慢しなさい」という論理がまかり通ってしまいがちなことであったり、好奇の視線を含めて差別がまったく容認されている日本人と日本の制度であったり、そもそも日本の法律に差別の定義が存在しないことです。
私はカッコいい障害者イメージよりも、そういった基本的な社会課題をどうにかすることの方に関心があります。でも、新聞や新聞の読者さんたちは違うようですね。
- ウンザリしながらも
ウンザリする日があるからといって購読を止めることはありません。余裕があれば、東京新聞に加えて日経新聞、さらに余裕があれば、朝日・毎日・読売のどれかを月替りで購読とかしてみたいものです。やはり紙フォーマットの強みってありますから。
私が生きてる間に、新聞にうんざりする日がなくなるか。それとも、新聞がなくなるか。
知ーらないっ、と。