猟師・畠山千春さんのブログ「ちはるの森」のエントリー
うさぎはかわいい味がした
が炎上したということを今ごろ知り、たいへん遅ればせながら、問題のコメント欄を見てみました。
炎上とはいえ、良識的なご意見も多く見られて、少しばかりほっとしました。
今日はメモがわりに、私見を書き留めておくことにします。

●猫と暮らしている私は、猫を食べたいとは思わない

過去27年にわたり、延べ4匹、現在は2匹の猫と暮らしている私は、もし飢えて食べるものがなくなっても、自分の家族である猫を食べたいとは考えないでしょう。
「この非常時にペットなんて」
と地域社会から非難されまくったとしても、
「このコたちを殺すなら私を殺せ!」
と最後まで抵抗すると思います。
私にとって、この猫たちは「わが子」です。
私は母親として、娘たち・息子たちを最後まで守り通す気持ちでいます。
それは、私を母親と刷り込まれ信頼しきっている猫たちに対する、私の義務だと思っています。


●けれども、「ウサギを狩って食べる」を悪とは思わない


ペットとして愛玩されることも多いウサギを食べたことが、さまざまな感情的な反応を呼び起こしているようです。
しかし、「この動物を食べる/食べない」の境界は、そんなに明確なものでしょうか。
50歳になったばかりの私の親世代は、焼け跡闇市世代にあたります。
「終戦間際から戦後数年の間、山手線の内側には野良犬も野良猫もいなかった、なぜなら、人間の食べ物がないから、うろうろしていたら人間に捕まって食べられていた」
「終戦間際から戦後数年の間、太宰府天満宮の鯉が(以下同文)」
の類の話を、しばしば聞かされて育ちました。
その人々は、昭和40年代や50年代に入って生活にゆとりができはじめると、ペットとして犬や猫や鯉を愛玩するようになりました。そこにはもしかすると、かつて殺した動物たちに対する贖罪の気持ちもあったかもしれません。
「ペットだから食べない」「食べられるべき動物だから食べる」の境界は、極めて曖昧で相対的なものです。
生きるために他に方法がないとなれば、人間が人間の肉を食べざるを得ない場面だってあるのですから。


●そもそも、ペットと食材の境界は、そんなに明確なのか?


ペットとして、労働力として、生活を共にしている家族同様の動物を、ある日屠殺して食べる。
世界を広く見回すと、これは特に珍しくもないことです。
かつて、韓国の飼い犬はペットであり食材であり、という位置づけにあったと聞いています。ソウル・オリンピックの後で下火になったとも聞きますが。
韓国まで行かなくても、いまでも沖縄には、年に一度、祖先の墓の前で親類一同が集まって酒盛りをする習慣があります。さらに、そのときにヤギを一匹屠って食べる習わしを現在も守る一族もあるとか。子どものかわいがっているヤギが一緒に行くけれども、帰りはヤギはおらず子どもがしょんぼりしていたりすることもあるとか。
同じ動物、それも「同じ種類の動物」ではなく同一個体がペットでも労働力でも食材でもあるという状況に想像が及びにくいのは、日本の都市生活者の特徴といってよいようなものかもしれません。


●経済動物と自然界の動物の境界は、そんなに明確なのか?


スーパーで売られている牛肉・豚肉・鶏肉などを食べることに対して
「あれは最初から経済動物だから」
という理由で抵抗を感じないのだとしたら、それもまた不思議な話だと思います。
天然物の魚は、最初から経済動物だったわけではありません。
まったく同じ理由で、天然物の魚が店頭に並ぶことにも抵抗を感じるというのだったら、まだ理解できるのですが。

●漁師の狩猟は、「他者の命をいただいて生きる」という自然界の摂理の一部ではないのか?

ライオンがシマウマを狩って食べることを、誰が非難できるでしょうか。
そのライオンに、狩り成功の喜びや空腹が満たされた喜びがあったとして、それは非難されるべきことでしょうか。
漁師が生活または生存のために狩猟をおこなうことは、ライオンのシマウマ狩りと同質の行為ではないでしょうか?

●ペット化もまた、他者の命をいただくことの一部なのではないのか?

幼少のうちに人間と屋内で暮らすようになった猫は、生涯をペットとして過ごすしかなくなります。
外界で生き延びるためのスキルを持っているわけではない成猫は、ある日野良猫になったら、間もなく事故・病気・飢えなどによって死ぬことが多いと聞きます。
人間が、その猫から「発達」の機会を奪ってしまったからです。野良猫として生き延びるのに必要なスキルを身につけるための「発達」の機会を。
言い換えれば、人間の意志によって人間の勝手で動物をペット化してしまうということには、どんなに人間の家族の一員として終生大切にしたとしても、
「人間の都合で、他の動物の命と生涯と数多くの機会をいただく」
という一面があることを否定することはできないのではないでしょうか。
もちろん、だからこそ、私は猫たちに可能な限り最大限の幸福を願い、実現できるようにベストを尽くすのではありますが。

●「動物を食べなければ済む」という問題なのか?

「自分はベジタリアンだから」という方は、新井素子「グリーン・レクイエム」をご一読ください。
 

以上、あくまで私見です。

畠山千春さんを非難されること、不快感や違和感を表明されること自体は、その方の思想信条の自由・表現の自由の範囲にあることだと思います。
しかしながら、ご自分の非難したいというお考え・不快感や違和感といった感情が、いつでもどこでも誰にでも受け入れられるべき正義正論であるかどうかについては、ちょっと立ち止まって考えてみたほうがよいのではないでしょうか。