私の母親は、今年81歳になるはずだ。専業主婦になることを疑わずに育ち、専業主婦になった。そのまま生涯を全うするであろう。
母親は私に対しても、専業主婦になることを求めた。私の56歳までの生涯はほとんど全部、母親のその不当な要求およびそのバリエーションとの闘いだった。
私は結局のところ結婚しなかった。人間の子どもも持たなかった。若い時期に結婚につながりうる出会いはあったし、子どもは持ちたかった。しかし結婚が現実化しそうになると、自分が「家庭」「家族」に対する具体的かつポジティブなイメージを持てないことに気づくのだった。家庭があり家族がいるのなら、そこは自分にとっても「ホーム」といえる家庭であってほしい。家族は「大切にしなくてはならない家族」「大切だと自発的に思わなくてはならない家族」ではなく「大切で、いっしょにいたい家族」であってほしい。しかし、人間の家族がそういうものであるイメージを、私は抱くことができなかった。見よう見真似で作る自分の家庭は、自分の原家族と同様かそれ以上に壊れた家庭にしかなりようがない気がした。
結婚が現実化し、相手方の血縁者との接触が増えたりすると、「壊れた家庭しか作れないだろう」という感じ方は、「壊れた家庭になる」という確信に変わった。同じ相手、同じ相手方血縁者と、そう悪くない家庭を作れる女性はいたのかもしれない。しかし少なくとも、その女性は私ではなかった。
結婚しなかった私は、専業主婦にはなりようがなかった。私が30代後半となり、専業主婦にならせることが実質的に意味をもたない年齢になると、「専業主婦にならないと許さない」という要求は変形され、さらに私にとって悲惨なものとなった。しかしながら、なんとか職業を手放さずに、56歳の今日も生きている。
そして、今週になって気づいたことがある。私は、親の思惑に沿わなかった罰、専業主婦にならなかった罰から、自分を解放したいのだ。私には、そんな罰を受けなくてはならない理由はないのだから。
両親の思惑は、直接語ったり行動したりするのは主に母親だったのだが、「従わないと罰を受ける」というメッセージとセットであった。罰とは、「親の反対する結婚をして勘当された遠縁の女性が、母親が入って食事したレストランでウエイトレスをしていた」といったものである。母親の中では、女性が中高年になって何らかの形で働かなくてはならない状況にあること自体が何かの罰なのであった。しかし母親の身近には、罰でもスティグマでもなく働く女性が常にいた。母親が「女性が働く」ということとセットにする罰やスティグマには、何らかの除外条件があるらしい。ただし、その条件は未だによくわからない。少なくとも、私は除外されていないと思う。「除外されている」と確信することは全くできない。
両親の考え方や言動や過去の「私がこうしたら、両親がああした」「私がそうしたら、両親が関わっているかどうかは直接には不明だが、ああなった」の蓄積は、「私もまた、親の思惑に沿わなかった罪により罰されなくてはならない」と問わず語りに語る。「これは両親が与えたい罰なのではないか」と思われる出来事は、この数年間も立て続けに起こっている。両親が何らかの形で関係しているのかどうかはともかく、もう「ああ、ここに来たか」「今度はそこか」と対処するのみ。来るに決まっている天災のようなもの。実際には人災だ。予防も防御もできるはずだ。しかし、現在までの私の予防や防御の試みは、何一つ成功しなかった。パワーバランスが私に対して不利すぎる。
私自身は、もちろん、両親が私を罰することに成功されたくない。両親は、私が「充分に惨めではない」と判断している限り、私をさらに惨めにしようとするだろう。しかし両親が満足するほど充分に私が惨めになっても、それで罰されなくなるわけではない。「私が何もかもを失わされて充分に惨めになった後」という状況は、事実として過去(2009年~2011年)に一度起こった。惨めで攻撃されやすい立場になったら、私が自分の命を自発的になくすか、それとも生きていないのと同じことになるか。そこまで攻撃が続いたのだ。両親との間で私が経験してきたことがらの記憶と事実の集積は、私の心の中で、今も「もう攻撃されないと判断するのは早計すぎる」と大声で叫び続けている。
では、何があれば両親の「罰」が成功しなかったことになるか。簡単だ。両親の行動の裏付けは、主に父親の資金力と政治力である。対抗するためには、私が資金力や政治力を充分に持てばいいのである。大昔の浜田省吾のヒット曲「MONEY」ではないが、私が純白のメルセデスやプール付きのマンション、最高の男とベッドでドン・ペリニョンといったモノや場面の持ち主になり、その状況が長期に継続しそうになったら、両親の「罰」は成功しないことになる。もっとも、私がそれらを欲しているわけではない。「純白のメルセデス」と書きながら「メルセデスの車ってどんなのだっけ」という調子だ。ベッドでは爆睡したい。男もドンペリもいらない。政治力も、自分の身を守れる程度で充分だ。
ならば、私は若干の資金力や、自分にとって充分な程度の政治力を追求すればよいことになる。しかし、それを実行してしまうと、障害者の世界で生きていけなくなる可能性がある。障害者として生きていけないということは、生き物として生きていけないということである。生き物として生きておらず、したがって人間として生きていないのなら、職業生活を含めて社会生活どころではなく、資金力や政治力の追及もできない。
障害者の世界には、障害者に対して「障害者として被差別の惨めな社会的弱者の立場にいること以外は許さない」文化がある(注1)(注2)。健常者社会にある同様の文化を、さらに強烈にしたようなものだ。それは、障害者の世界の全部ではない。それどころか、主流ですらない。しかし、一部に確実に残っている。一部のそのまた一部からターゲットとされるだけで、私の息の根は止まりかねない。
私は障害者であり、女性でもある。しかも、健常者時代に大学院修士課程を修了しており、大企業総合職の経験もある。何らかの意味で被差別の立場にある人々の反感をかきたて、障害者運動や連携している他の市民運動のどこでも私を生きていけなくすることなんて、簡単だ。私について、「名誉男性」「名誉男性になりたがっている」という評判を流布させれば、それだけで済む。女性がそういう評判を流布させるのであれば、さらに効率的だ。それは、ここ数年間で実際にやられたことである。
私は、「ああこのあたりに、みわよしこ名誉男性志望説が流布されてる。またか」と感づくたびに、「私が子どもだった唱和40年代、グリコのキャラメルのおまけには女の子向けと男の子向けがありましたけど、私は男の子向けのほうが好きだったので、女の子向けがほしい男の子と交換してました。その延長で今まで生きてきているのですが、それを『名誉男性』と言われましても」といったことを語る。だいたい、それで済む。それで済まなかったら、その相手を遠ざければいい。
自分にとって何が必要で、どこまで追求したいのか。自分自身にもよくわからない。ただ、両親はじめ原家族と障害者社会の両方から縛られるのはおかしい。まずは数え切れない束縛を、ほどけるものからほどいていきたい。
(注1)
障害者に対して「障害者として被差別の惨めな社会的弱者の立場にいること以外は許さない」文化は、ヤンキーグループの文化と似ているかもしれない。ヤンキーグループから「カタギになるために抜けよう」とする人には、通過儀礼のリンチとかあるわけで。ただ、ヤンキーをやめてカタギになることはできても、障害者が障害者をやめることは通常はない。このため、「障害者らしさ」に欠けた人間を障害者の社会から追い出すことは、「あいつは本当は障害者ではない」という噂の流布などを伴う。ほんっとに生きていけなくなりかねない。障害を偽装したり重く見せたりするメリットはない。障害がない状態を偽装するメリットなら、いくらでも思いつく。もしも可能なら既にやってるよ。望んでも不可能なのが障害者。でも、他人の悪口や噂話を疑わずに楽しめる人たちが、世の中にはたくさんいる。だから、この手の噂が流布されるたびに、「もう死のうか」と思うほどのダメージと苦痛を味わうことになる。最も辛いことは、噂の主や同調者や噂を疑わなかった人々が口にする「人権尊重」「生命は大事」といった言葉を、それ以後は信じられなくなることだ。「私以外の人権を尊重」「私の生命以外の生命は大事」と脳内で翻訳しながら、反対の余地のない「人権尊重」「生命は大事」それ自体に賛成するときの苦痛は、言い表しようがない。
ただし、この不思議な文化は、障害者が置かれてきて、現在もそこにいる障害者がいる状況そのものの反映でもある。
1975年まで、日本の障害児は義務教育が受けられるとは限らなかった(養護学校義務化は1976年から)。小学校にも中学校にも行っていないのに就労なんて無理ゲーすぎた。だから生活保護は利用しやすい。この状況を逆手にとって、障害者たちは生活保護をはじめとする給付や公共サービスを生存の基盤として活用し、たとえば「介助者に公共から給料が出る」といった制度(たとえば現在も生活保護の中に残る他人介護料加算。1970年代)を一つ一つ整備してきた。今もその蓄積の上に参議院議員の木村英子さんがおられたりする。
その人々の主張を一言で無理やりまとめると、「社会的に不利な状況に置かれやすく、したがって差別されやすい人々は、まず、そのままで生きていくことを保障される必要がある」ということ。私はこの点には全面的に賛成だ。反対したことない。
この主張の一部は、「社会的に不利な状況に置かれやすく差別されやすい人々は、より有利な状況や差別されない立場を望んだり目指したりしてはならない」というふうに化けて、現在に至っている。なぜそうなるのか、私には全く理解できない。選択肢が増えるのは、良いことではないのか? 選択肢があって、なお選ばない自由と選ばなくても快適で幸せでいられる権利が保障されるのであれば、何も言うことないと思うし、私が目指しているのはそちらなんだけど。
この手の、理解できないなりに身を守る必要がある障害者運動の主張を、ときどき障害者運動の国際的なつながりのなかでボヤくことがある。たとえば2013年以来、日本の障害者の社会は2020年(予定だった)五輪のせいでグッチャグチャに分断されている。その中で「五輪どころか競争的な競技自体が悪だ」といった主張が出てくる。健常者時代に若干の競技歴があり、今も可能ならやりたい私は、そんなことを口にできない。そんなことをボヤくと、たいてい笑われる。あまりに重なると、「誰がそんなこと言ってるの?」と聞かれる。しかし言えない。「そんな陰口めいたことは言いたくない」ということもある。それ以上に、本人が国際社会で見せてる顔と国内の女性障害者を相手に見せてる顔の違いに、私自身が打ちのめされてしまっている。
(注2)
「だったら乙武洋匡さんはどうなのか」という意見がありそうだけど、障害者として生まれたときから、両親の理解、恵まれた環境、充分な教育、キャリア構築の初期に比較的順調であったことなどの偶然が重なると、「物心ついてからずっと名誉健常者」という存在になってしまうのですよ。私の直接知る範囲にも何人か、乙武さんほどではないけれども「名誉健常者」になれた障害者がいる。
ただし、そういう「名誉健常者」の方々は、世の中で思われているほど他の障害者の社会と分断されているわけではない。関係はめっちゃ複雑。「あの良い障害者に比べ、あなたはなんとダメな障害者なの」といったことを言いたいのなら、口にする前に、その良い障害者とダメな障害者の間につながりがあったり関係が良好であったりする可能性を考えたほうがいい。
母親は私に対しても、専業主婦になることを求めた。私の56歳までの生涯はほとんど全部、母親のその不当な要求およびそのバリエーションとの闘いだった。
私は結局のところ結婚しなかった。人間の子どもも持たなかった。若い時期に結婚につながりうる出会いはあったし、子どもは持ちたかった。しかし結婚が現実化しそうになると、自分が「家庭」「家族」に対する具体的かつポジティブなイメージを持てないことに気づくのだった。家庭があり家族がいるのなら、そこは自分にとっても「ホーム」といえる家庭であってほしい。家族は「大切にしなくてはならない家族」「大切だと自発的に思わなくてはならない家族」ではなく「大切で、いっしょにいたい家族」であってほしい。しかし、人間の家族がそういうものであるイメージを、私は抱くことができなかった。見よう見真似で作る自分の家庭は、自分の原家族と同様かそれ以上に壊れた家庭にしかなりようがない気がした。
結婚が現実化し、相手方の血縁者との接触が増えたりすると、「壊れた家庭しか作れないだろう」という感じ方は、「壊れた家庭になる」という確信に変わった。同じ相手、同じ相手方血縁者と、そう悪くない家庭を作れる女性はいたのかもしれない。しかし少なくとも、その女性は私ではなかった。
結婚しなかった私は、専業主婦にはなりようがなかった。私が30代後半となり、専業主婦にならせることが実質的に意味をもたない年齢になると、「専業主婦にならないと許さない」という要求は変形され、さらに私にとって悲惨なものとなった。しかしながら、なんとか職業を手放さずに、56歳の今日も生きている。
そして、今週になって気づいたことがある。私は、親の思惑に沿わなかった罰、専業主婦にならなかった罰から、自分を解放したいのだ。私には、そんな罰を受けなくてはならない理由はないのだから。
両親の思惑は、直接語ったり行動したりするのは主に母親だったのだが、「従わないと罰を受ける」というメッセージとセットであった。罰とは、「親の反対する結婚をして勘当された遠縁の女性が、母親が入って食事したレストランでウエイトレスをしていた」といったものである。母親の中では、女性が中高年になって何らかの形で働かなくてはならない状況にあること自体が何かの罰なのであった。しかし母親の身近には、罰でもスティグマでもなく働く女性が常にいた。母親が「女性が働く」ということとセットにする罰やスティグマには、何らかの除外条件があるらしい。ただし、その条件は未だによくわからない。少なくとも、私は除外されていないと思う。「除外されている」と確信することは全くできない。
両親の考え方や言動や過去の「私がこうしたら、両親がああした」「私がそうしたら、両親が関わっているかどうかは直接には不明だが、ああなった」の蓄積は、「私もまた、親の思惑に沿わなかった罪により罰されなくてはならない」と問わず語りに語る。「これは両親が与えたい罰なのではないか」と思われる出来事は、この数年間も立て続けに起こっている。両親が何らかの形で関係しているのかどうかはともかく、もう「ああ、ここに来たか」「今度はそこか」と対処するのみ。来るに決まっている天災のようなもの。実際には人災だ。予防も防御もできるはずだ。しかし、現在までの私の予防や防御の試みは、何一つ成功しなかった。パワーバランスが私に対して不利すぎる。
私自身は、もちろん、両親が私を罰することに成功されたくない。両親は、私が「充分に惨めではない」と判断している限り、私をさらに惨めにしようとするだろう。しかし両親が満足するほど充分に私が惨めになっても、それで罰されなくなるわけではない。「私が何もかもを失わされて充分に惨めになった後」という状況は、事実として過去(2009年~2011年)に一度起こった。惨めで攻撃されやすい立場になったら、私が自分の命を自発的になくすか、それとも生きていないのと同じことになるか。そこまで攻撃が続いたのだ。両親との間で私が経験してきたことがらの記憶と事実の集積は、私の心の中で、今も「もう攻撃されないと判断するのは早計すぎる」と大声で叫び続けている。
では、何があれば両親の「罰」が成功しなかったことになるか。簡単だ。両親の行動の裏付けは、主に父親の資金力と政治力である。対抗するためには、私が資金力や政治力を充分に持てばいいのである。大昔の浜田省吾のヒット曲「MONEY」ではないが、私が純白のメルセデスやプール付きのマンション、最高の男とベッドでドン・ペリニョンといったモノや場面の持ち主になり、その状況が長期に継続しそうになったら、両親の「罰」は成功しないことになる。もっとも、私がそれらを欲しているわけではない。「純白のメルセデス」と書きながら「メルセデスの車ってどんなのだっけ」という調子だ。ベッドでは爆睡したい。男もドンペリもいらない。政治力も、自分の身を守れる程度で充分だ。
ならば、私は若干の資金力や、自分にとって充分な程度の政治力を追求すればよいことになる。しかし、それを実行してしまうと、障害者の世界で生きていけなくなる可能性がある。障害者として生きていけないということは、生き物として生きていけないということである。生き物として生きておらず、したがって人間として生きていないのなら、職業生活を含めて社会生活どころではなく、資金力や政治力の追及もできない。
障害者の世界には、障害者に対して「障害者として被差別の惨めな社会的弱者の立場にいること以外は許さない」文化がある(注1)(注2)。健常者社会にある同様の文化を、さらに強烈にしたようなものだ。それは、障害者の世界の全部ではない。それどころか、主流ですらない。しかし、一部に確実に残っている。一部のそのまた一部からターゲットとされるだけで、私の息の根は止まりかねない。
私は障害者であり、女性でもある。しかも、健常者時代に大学院修士課程を修了しており、大企業総合職の経験もある。何らかの意味で被差別の立場にある人々の反感をかきたて、障害者運動や連携している他の市民運動のどこでも私を生きていけなくすることなんて、簡単だ。私について、「名誉男性」「名誉男性になりたがっている」という評判を流布させれば、それだけで済む。女性がそういう評判を流布させるのであれば、さらに効率的だ。それは、ここ数年間で実際にやられたことである。
私は、「ああこのあたりに、みわよしこ名誉男性志望説が流布されてる。またか」と感づくたびに、「私が子どもだった唱和40年代、グリコのキャラメルのおまけには女の子向けと男の子向けがありましたけど、私は男の子向けのほうが好きだったので、女の子向けがほしい男の子と交換してました。その延長で今まで生きてきているのですが、それを『名誉男性』と言われましても」といったことを語る。だいたい、それで済む。それで済まなかったら、その相手を遠ざければいい。
自分にとって何が必要で、どこまで追求したいのか。自分自身にもよくわからない。ただ、両親はじめ原家族と障害者社会の両方から縛られるのはおかしい。まずは数え切れない束縛を、ほどけるものからほどいていきたい。
(注1)
障害者に対して「障害者として被差別の惨めな社会的弱者の立場にいること以外は許さない」文化は、ヤンキーグループの文化と似ているかもしれない。ヤンキーグループから「カタギになるために抜けよう」とする人には、通過儀礼のリンチとかあるわけで。ただ、ヤンキーをやめてカタギになることはできても、障害者が障害者をやめることは通常はない。このため、「障害者らしさ」に欠けた人間を障害者の社会から追い出すことは、「あいつは本当は障害者ではない」という噂の流布などを伴う。ほんっとに生きていけなくなりかねない。障害を偽装したり重く見せたりするメリットはない。障害がない状態を偽装するメリットなら、いくらでも思いつく。もしも可能なら既にやってるよ。望んでも不可能なのが障害者。でも、他人の悪口や噂話を疑わずに楽しめる人たちが、世の中にはたくさんいる。だから、この手の噂が流布されるたびに、「もう死のうか」と思うほどのダメージと苦痛を味わうことになる。最も辛いことは、噂の主や同調者や噂を疑わなかった人々が口にする「人権尊重」「生命は大事」といった言葉を、それ以後は信じられなくなることだ。「私以外の人権を尊重」「私の生命以外の生命は大事」と脳内で翻訳しながら、反対の余地のない「人権尊重」「生命は大事」それ自体に賛成するときの苦痛は、言い表しようがない。
ただし、この不思議な文化は、障害者が置かれてきて、現在もそこにいる障害者がいる状況そのものの反映でもある。
1975年まで、日本の障害児は義務教育が受けられるとは限らなかった(養護学校義務化は1976年から)。小学校にも中学校にも行っていないのに就労なんて無理ゲーすぎた。だから生活保護は利用しやすい。この状況を逆手にとって、障害者たちは生活保護をはじめとする給付や公共サービスを生存の基盤として活用し、たとえば「介助者に公共から給料が出る」といった制度(たとえば現在も生活保護の中に残る他人介護料加算。1970年代)を一つ一つ整備してきた。今もその蓄積の上に参議院議員の木村英子さんがおられたりする。
その人々の主張を一言で無理やりまとめると、「社会的に不利な状況に置かれやすく、したがって差別されやすい人々は、まず、そのままで生きていくことを保障される必要がある」ということ。私はこの点には全面的に賛成だ。反対したことない。
この主張の一部は、「社会的に不利な状況に置かれやすく差別されやすい人々は、より有利な状況や差別されない立場を望んだり目指したりしてはならない」というふうに化けて、現在に至っている。なぜそうなるのか、私には全く理解できない。選択肢が増えるのは、良いことではないのか? 選択肢があって、なお選ばない自由と選ばなくても快適で幸せでいられる権利が保障されるのであれば、何も言うことないと思うし、私が目指しているのはそちらなんだけど。
この手の、理解できないなりに身を守る必要がある障害者運動の主張を、ときどき障害者運動の国際的なつながりのなかでボヤくことがある。たとえば2013年以来、日本の障害者の社会は2020年(予定だった)五輪のせいでグッチャグチャに分断されている。その中で「五輪どころか競争的な競技自体が悪だ」といった主張が出てくる。健常者時代に若干の競技歴があり、今も可能ならやりたい私は、そんなことを口にできない。そんなことをボヤくと、たいてい笑われる。あまりに重なると、「誰がそんなこと言ってるの?」と聞かれる。しかし言えない。「そんな陰口めいたことは言いたくない」ということもある。それ以上に、本人が国際社会で見せてる顔と国内の女性障害者を相手に見せてる顔の違いに、私自身が打ちのめされてしまっている。
(注2)
「だったら乙武洋匡さんはどうなのか」という意見がありそうだけど、障害者として生まれたときから、両親の理解、恵まれた環境、充分な教育、キャリア構築の初期に比較的順調であったことなどの偶然が重なると、「物心ついてからずっと名誉健常者」という存在になってしまうのですよ。私の直接知る範囲にも何人か、乙武さんほどではないけれども「名誉健常者」になれた障害者がいる。
ただし、そういう「名誉健常者」の方々は、世の中で思われているほど他の障害者の社会と分断されているわけではない。関係はめっちゃ複雑。「あの良い障害者に比べ、あなたはなんとダメな障害者なの」といったことを言いたいのなら、口にする前に、その良い障害者とダメな障害者の間につながりがあったり関係が良好であったりする可能性を考えたほうがいい。