みわよしこのなんでもブログ : 2020年10月

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。



2020年10月

[雑感]まだ脳内に残っている両親のシナリオを壊したい

 私の母親は、今年81歳になるはずだ。専業主婦になることを疑わずに育ち、専業主婦になった。そのまま生涯を全うするであろう。

 母親は私に対しても、専業主婦になることを求めた。私の56歳までの生涯はほとんど全部、母親のその不当な要求およびそのバリエーションとの闘いだった。

 私は結局のところ結婚しなかった。人間の子どもも持たなかった。若い時期に結婚につながりうる出会いはあったし、子どもは持ちたかった。しかし結婚が現実化しそうになると、自分が「家庭」「家族」に対する具体的かつポジティブなイメージを持てないことに気づくのだった。家庭があり家族がいるのなら、そこは自分にとっても「ホーム」といえる家庭であってほしい。家族は「大切にしなくてはならない家族」「大切だと自発的に思わなくてはならない家族」ではなく「大切で、いっしょにいたい家族」であってほしい。しかし、人間の家族がそういうものであるイメージを、私は抱くことができなかった。見よう見真似で作る自分の家庭は、自分の原家族と同様かそれ以上に壊れた家庭にしかなりようがない気がした。

 結婚が現実化し、相手方の血縁者との接触が増えたりすると、「壊れた家庭しか作れないだろう」という感じ方は、「壊れた家庭になる」という確信に変わった。同じ相手、同じ相手方血縁者と、そう悪くない家庭を作れる女性はいたのかもしれない。しかし少なくとも、その女性は私ではなかった。

 結婚しなかった私は、専業主婦にはなりようがなかった。私が30代後半となり、専業主婦にならせることが実質的に意味をもたない年齢になると、「専業主婦にならないと許さない」という要求は変形され、さらに私にとって悲惨なものとなった。しかしながら、なんとか職業を手放さずに、56歳の今日も生きている。

 そして、今週になって気づいたことがある。私は、親の思惑に沿わなかった罰、専業主婦にならなかった罰から、自分を解放したいのだ。私には、そんな罰を受けなくてはならない理由はないのだから。

 両親の思惑は、直接語ったり行動したりするのは主に母親だったのだが、「従わないと罰を受ける」というメッセージとセットであった。罰とは、「親の反対する結婚をして勘当された遠縁の女性が、母親が入って食事したレストランでウエイトレスをしていた」といったものである。母親の中では、女性が中高年になって何らかの形で働かなくてはならない状況にあること自体が何かの罰なのであった。しかし母親の身近には、罰でもスティグマでもなく働く女性が常にいた。母親が「女性が働く」ということとセットにする罰やスティグマには、何らかの除外条件があるらしい。ただし、その条件は未だによくわからない。少なくとも、私は除外されていないと思う。「除外されている」と確信することは全くできない。

 両親の考え方や言動や過去の「私がこうしたら、両親がああした」「私がそうしたら、両親が関わっているかどうかは直接には不明だが、ああなった」の蓄積は、「私もまた、親の思惑に沿わなかった罪により罰されなくてはならない」と問わず語りに語る。「これは両親が与えたい罰なのではないか」と思われる出来事は、この数年間も立て続けに起こっている。両親が何らかの形で関係しているのかどうかはともかく、もう「ああ、ここに来たか」「今度はそこか」と対処するのみ。来るに決まっている天災のようなもの。実際には人災だ。予防も防御もできるはずだ。しかし、現在までの私の予防や防御の試みは、何一つ成功しなかった。パワーバランスが私に対して不利すぎる。
 
 私自身は、もちろん、両親が私を罰することに成功されたくない。両親は、私が「充分に惨めではない」と判断している限り、私をさらに惨めにしようとするだろう。しかし両親が満足するほど充分に私が惨めになっても、それで罰されなくなるわけではない。「私が何もかもを失わされて充分に惨めになった後」という状況は、事実として過去(2009年~2011年)に一度起こった。惨めで攻撃されやすい立場になったら、私が自分の命を自発的になくすか、それとも生きていないのと同じことになるか。そこまで攻撃が続いたのだ。両親との間で私が経験してきたことがらの記憶と事実の集積は、私の心の中で、今も「もう攻撃されないと判断するのは早計すぎる」と大声で叫び続けている。

 では、何があれば両親の「罰」が成功しなかったことになるか。簡単だ。両親の行動の裏付けは、主に父親の資金力と政治力である。対抗するためには、私が資金力や政治力を充分に持てばいいのである。大昔の浜田省吾のヒット曲「MONEY」ではないが、私が純白のメルセデスやプール付きのマンション、最高の男とベッドでドン・ペリニョンといったモノや場面の持ち主になり、その状況が長期に継続しそうになったら、両親の「罰」は成功しないことになる。もっとも、私がそれらを欲しているわけではない。「純白のメルセデス」と書きながら「メルセデスの車ってどんなのだっけ」という調子だ。ベッドでは爆睡したい。男もドンペリもいらない。政治力も、自分の身を守れる程度で充分だ。

 ならば、私は若干の資金力や、自分にとって充分な程度の政治力を追求すればよいことになる。しかし、それを実行してしまうと、障害者の世界で生きていけなくなる可能性がある。障害者として生きていけないということは、生き物として生きていけないということである。生き物として生きておらず、したがって人間として生きていないのなら、職業生活を含めて社会生活どころではなく、資金力や政治力の追及もできない。

 障害者の世界には、障害者に対して「障害者として被差別の惨めな社会的弱者の立場にいること以外は許さない」文化がある(注1)(注2)。健常者社会にある同様の文化を、さらに強烈にしたようなものだ。それは、障害者の世界の全部ではない。それどころか、主流ですらない。しかし、一部に確実に残っている。一部のそのまた一部からターゲットとされるだけで、私の息の根は止まりかねない。

 私は障害者であり、女性でもある。しかも、健常者時代に大学院修士課程を修了しており、大企業総合職の経験もある。何らかの意味で被差別の立場にある人々の反感をかきたて、障害者運動や連携している他の市民運動のどこでも私を生きていけなくすることなんて、簡単だ。私について、「名誉男性」「名誉男性になりたがっている」という評判を流布させれば、それだけで済む。女性がそういう評判を流布させるのであれば、さらに効率的だ。それは、ここ数年間で実際にやられたことである。

 私は、「ああこのあたりに、みわよしこ名誉男性志望説が流布されてる。またか」と感づくたびに、「私が子どもだった唱和40年代、グリコのキャラメルのおまけには女の子向けと男の子向けがありましたけど、私は男の子向けのほうが好きだったので、女の子向けがほしい男の子と交換してました。その延長で今まで生きてきているのですが、それを『名誉男性』と言われましても」といったことを語る。だいたい、それで済む。それで済まなかったら、その相手を遠ざければいい。

 自分にとって何が必要で、どこまで追求したいのか。自分自身にもよくわからない。ただ、両親はじめ原家族と障害者社会の両方から縛られるのはおかしい。まずは数え切れない束縛を、ほどけるものからほどいていきたい。

(注1)
障害者に対して「障害者として被差別の惨めな社会的弱者の立場にいること以外は許さない」文化は、ヤンキーグループの文化と似ているかもしれない。ヤンキーグループから「カタギになるために抜けよう」とする人には、通過儀礼のリンチとかあるわけで。ただ、ヤンキーをやめてカタギになることはできても、障害者が障害者をやめることは通常はない。このため、「障害者らしさ」に欠けた人間を障害者の社会から追い出すことは、「あいつは本当は障害者ではない」という噂の流布などを伴う。ほんっとに生きていけなくなりかねない。障害を偽装したり重く見せたりするメリットはない。障害がない状態を偽装するメリットなら、いくらでも思いつく。もしも可能なら既にやってるよ。望んでも不可能なのが障害者。でも、他人の悪口や噂話を疑わずに楽しめる人たちが、世の中にはたくさんいる。だから、この手の噂が流布されるたびに、「もう死のうか」と思うほどのダメージと苦痛を味わうことになる。最も辛いことは、噂の主や同調者や噂を疑わなかった人々が口にする「人権尊重」「生命は大事」といった言葉を、それ以後は信じられなくなることだ。「私以外の人権を尊重」「私の生命以外の生命は大事」と脳内で翻訳しながら、反対の余地のない「人権尊重」「生命は大事」それ自体に賛成するときの苦痛は、言い表しようがない。
ただし、この不思議な文化は、障害者が置かれてきて、現在もそこにいる障害者がいる状況そのものの反映でもある。
1975年まで、日本の障害児は義務教育が受けられるとは限らなかった(養護学校義務化は1976年から)。小学校にも中学校にも行っていないのに就労なんて無理ゲーすぎた。だから生活保護は利用しやすい。この状況を逆手にとって、障害者たちは生活保護をはじめとする給付や公共サービスを生存の基盤として活用し、たとえば「介助者に公共から給料が出る」といった制度(たとえば現在も生活保護の中に残る他人介護料加算。1970年代)を一つ一つ整備してきた。今もその蓄積の上に参議院議員の木村英子さんがおられたりする。
その人々の主張を一言で無理やりまとめると、「社会的に不利な状況に置かれやすく、したがって差別されやすい人々は、まず、そのままで生きていくことを保障される必要がある」ということ。私はこの点には全面的に賛成だ。反対したことない。
この主張の一部は、「社会的に不利な状況に置かれやすく差別されやすい人々は、より有利な状況や差別されない立場を望んだり目指したりしてはならない」というふうに化けて、現在に至っている。なぜそうなるのか、私には全く理解できない。選択肢が増えるのは、良いことではないのか? 選択肢があって、なお選ばない自由と選ばなくても快適で幸せでいられる権利が保障されるのであれば、何も言うことないと思うし、私が目指しているのはそちらなんだけど。
この手の、理解できないなりに身を守る必要がある障害者運動の主張を、ときどき障害者運動の国際的なつながりのなかでボヤくことがある。たとえば2013年以来、日本の障害者の社会は2020年(予定だった)五輪のせいでグッチャグチャに分断されている。その中で「五輪どころか競争的な競技自体が悪だ」といった主張が出てくる。健常者時代に若干の競技歴があり、今も可能ならやりたい私は、そんなことを口にできない。そんなことをボヤくと、たいてい笑われる。あまりに重なると、「誰がそんなこと言ってるの?」と聞かれる。しかし言えない。「そんな陰口めいたことは言いたくない」ということもある。それ以上に、本人が国際社会で見せてる顔と国内の女性障害者を相手に見せてる顔の違いに、私自身が打ちのめされてしまっている。

(注2)
「だったら乙武洋匡さんはどうなのか」という意見がありそうだけど、障害者として生まれたときから、両親の理解、恵まれた環境、充分な教育、キャリア構築の初期に比較的順調であったことなどの偶然が重なると、「物心ついてからずっと名誉健常者」という存在になってしまうのですよ。私の直接知る範囲にも何人か、乙武さんほどではないけれども「名誉健常者」になれた障害者がいる。
ただし、そういう「名誉健常者」の方々は、世の中で思われているほど他の障害者の社会と分断されているわけではない。関係はめっちゃ複雑。「あの良い障害者に比べ、あなたはなんとダメな障害者なの」といったことを言いたいのなら、口にする前に、その良い障害者とダメな障害者の間につながりがあったり関係が良好であったりする可能性を考えたほうがいい。

[雑感]私が「Go To イート」「Go To トラベル」に乗れない理由

 7月から始まった「Go To トラベル」、その後始まった「Go To イート」に乗れずにいます。

 まず「Go To イート」については、もともとグルメ食べ歩き系の趣味がないのです。美味しいものは素敵だし、食べたいと思います。しかし、そのために遠くに出かけたいとは思いません。「たまたま、その地域に用事があったら、ついでに」で充分。近場で使えばいいんですが、行きたくて「Go To イート」の対象になるお店が、近隣にないのです。

 コロナ禍と4月から5月にかけての「緊急事態宣言」で、飲食店がほとんどテイクアウトのみ営業だった時期、ほとんど外食せずにいました。できないから。
 緊急事態宣言が解除されてみると、私にとっての外食は「そこまでして、する?」というものになっていました。お店にくる他のお客さんは選べません。「障害者のくせに」という態度を示されるかもしれない。障害をあてこすられるかもしれない。
 そもそも、行ったことのないお店の新規開拓をしてみようという気は、とっくの昔に萎えています。店主さんが障害者差別をしない人であるかどうか、入ってみないとわかりません。その一か八かのカケに出てみる意欲がなくなったのです。少なくとも、日本では。
 緊急事態宣言は私に、かりそめの「障害者と他の者との平等(国連障害者権利条約)」をもたらしてくれました。飲食店の多くは、障害があろうがなかろうが入れない場所になっていました。しかし、緊急事態宣言が解除されてみると、「ちょっとやそっとのリスクがあっても、時には外食してみる」という習慣が、意欲ごと消滅していました。いったん失った習慣を取り戻すのは大変です。
 それでも、「ときには、そのお店とお味を味わいたい」という感情は残っています。特に、わが地元の西荻窪は、個性的で体力はない小規模飲食店が多い地域です。行って飲食することが最大の支援です。多くの場合、私が時には行くお店には「Go To イート」に参加する体力の余裕がありません。もし参加していても、「お店により効率よい日銭を」と思ったら「Go To イート」は使わずに飲食することを選ぶでしょうね。

 「Go To トラベル」に乗れない最大の理由は、ウツ気分です。いわゆる「コロナ鬱」に加え、貧困に関する取材報道を行っていることから、深刻なウツ状態がずっと続いています。そんなにメンタルが強いわけではないので、「自分のメンタルが持ちこたえられる範囲での取材や情報収集にとどめて、細く長く書き続けるのが最良の選択だろう」と思います。しかしそれでも、現実そのものが充分に残酷です。さらに、直接支援に一切タッチしていない罪悪感もあります。

 素敵なホテル、素敵なリゾートは、そりゃあ「素敵だなあ」と思いますよ。「Go To トラベル」を利用して旅行を楽しまれた方々のSNS投稿を見ていると、私も「行ってみたいなあ」と思います。ところが、旅行サイトを見ていると、1分か2分で涙がボロボロ出てきてしまうのです。「ウツの時に旅行や気分転換はよくない」というセオリーそのまんまです。出張ならできるのですが、それは「仕事モードだから出来る」というだけの話。

 ま、せっかく東京に住んでいるんです。ときどき、各県のアンテナショップで各地の美味しいものを買って味わえば、私には充分です。見出し画像は、沖縄の泡盛ゼリーです。

[雑感]私は原家族トラウマから解放されつつあるのか

 私はここ数ヶ月、原家族トラウマから急速に解放されつつある実感がある。
 それを実感したのは、昨日のことだ。

 いつものように、突然、妹の3人の息子たちのことが思い浮かんだ。

 妹の3人の息子たちは、全員が10代。1人は理工系分野で、2人はスポーツ分野で、早くも頭角を現したり活躍したりつつある。

 思い出したくも考えたくもないのだが、我が身を守るために最低限、今どうしているかの情報は収集してきた。

 両親(直接言葉を発するのは主に母親)が、私の弟妹、結婚したらその配偶者の言動や活躍ぶりを、私に対してどのように活用してきたか。それを考えると、弟妹の子どもたちが今どうであるかは、充分に警戒の必要のある情報だった。

 たとえば母親が、弟妹やその配偶者について、仕事の内容や過去にしてきたことを私に語るとき、そこには「アンタも似たようなことをしている(していた)のかもしれないけど、それには価値がない」というニュアンスがつきまとった。私はせめて、母親が私をsageる目的でそれを口にしていることを、母親自身の言葉で語ってほしかった。しかし私がはっきりさせようとすると、母親はキレたり、あるいは他の誰か(父親とか妹とか)を連れてきて私の異常さをアピールしはじめたりするのだった。

 弟妹の子どもたちとは、2008年を最後に会っていない。父親が2006年ごろから少しずつ、2007年から明確に、私を段階的に血縁から排除していったからだ。父親はその後も、さまざまな口実で、排除をどんどん激化させていった。

 弟妹の子どもたちの中には、生まれたのは知っているけれども一度も会っていない子どももいる。会わないこと自体は、別にかまわない。幼少の子どもたちが単独で私と会うわけはなく、そこには子どもたちの両親や祖父母がセットでいるはずだ。そこに私がいたら、必ず傷つけられるだろう。そうなることが最初から分かっているのに「近寄りたい」とは思えない。

 たとえ、弟妹や配偶者や子どもたちの美点がことさらに「私sage」に使われないとしても、弟妹は結婚しており、子どもたちがいる。弟夫妻は共働きでもある。妹は通常の専業主婦生活以上のことをしている。どれも、私がしていないことだ。違う人が違う人生を歩んでいるだけのことなのだが、どんな小さなことも、両親がいれば比較と「私sage」の題材に使われるだろう。弟妹も、両親の作ったパワーバランスを崩さず、私を人間サンドバッグか何かのように扱ってきた。弟妹が「そうではなくなった」と信じられるような変化は何もない。弟妹にとっては、両親の作ったパワーバランスを変化させず強化することには利得があり、そうしないと損失だけだ。変えるメリットがない。だから変わらない。これまでの事実が、そう語っている。最初から惨めな負けが予定されていた私の人生は、さらに惨めになり、さらに大きく負けるだけだった。少なくとも、両親と弟妹との関係では。

 弟妹あわせて2人と私の比較ですら、私にとっては充分に痛いものだった。今や、弟妹とその配偶者と子どもたちの合計人数は、少なく見積もって9人に達する(私が知らない間に生まれた子どももいるかもしれない)。9以上対1。私が傷つけられたり負けさせられたりする可能性は、さらに大きくなった。せめて少なく傷つくようにしなくては。

 だから私は、比較され蔑まれる恐怖や苦痛と闘いながら、本当に最小限度に弟妹と子どもたちの情報を収集してきた。本当は、収集したいと思っていない。けれども私は、比較されて貶められたくない。蔑まれたくない。苦痛の上塗りをされたくない。最低限に情報を収集しておかないと、両親が次にどこから何を繰り出してくるか全く読めない。防御できるはずの攻撃を防御できずに傷つけられることは、避けたい。

 妹の子どもたちは、私によって「sage」られるようなことはない。なにしろ本人たちが好むと好まざるとにかかわらず、生まれた時から私の両親によって、私に対する攻撃兵器のように使われてきたり使われる可能性がある立場に置かれているのだ。私から見れば、その攻撃力を見積もるにあたって、過少に見積もることはあり得ない(たとえ、本人が攻撃するわけではないとしても)。ただし、過大に見積もることはありうる。なにしろ、小学校にも行っていない幼児や、ハイハイして喃語をしゃべる乳児だった時期から、既に私を両親がチクリチクリネチリネチリと攻撃するのに使われてきたのだ。今や、妹の子どもたちは10代になり、素晴らしい活躍をしている。私にとっては、恐怖でしかない。現実の蓄積に裏付けられたこの恐怖を現実化しない方法は、両親や弟妹ごと、弟妹の子どもたちと接触しないこと。それ以外に選択肢があるのならともかく、現実として選択できる方法は何もなさそうに思える。

 昨日も、妹の子どもたちのことが頭に浮かんだ。しかし、不思議なことに気づいた。生々しい恐怖感や苦痛がなかったのだ。

 私はただ、「どこかには、そういう10代もいるだろうねえ」という感慨をもって、妹の子どもたちのことを思い浮かべた。恐怖は湧かなかった。 

 もしかすると、物心ついた時以来ずっと私を苛んできた、両親が恣意的に作るモノサシで自分の何もかもが無価値にされてしまう恐怖から、私は解放されつつあるのかもしれない。「もう二度とそんなことはされない」「過去に両親がしてきたことを、なかったことにしないことができる」という非現実的すぎる夢を、現実にできるのかもしれない。

[雑感]小学生の私が、父親に「本当に俺の子か」と疑われた件

 小学生のころ、父親に「本当に俺の子か」と疑われたことがある。

 時期は、弟が絵を描くようになって私との比較が可能になっていたころであるはず。だから、4つ下の弟が6歳~8歳、私が10歳(小4)~12歳(小6)の時期だと思う。ただ、私は小学生だった記憶がある。また、4年生ではなかった記憶もある。だから小5か小6のころであろう。

 父親が私について「本当に俺の子か」と疑ったのは、正確にいうと、
  • 私が小学5年か6年だった1974年度か1975年度に
  • 家の中で
  • 父親ふくめ他の大人が家の中におらず、なおかつ弟や9歳下の妹が近くにいない時に
  • 母親が私に対して「お父さんがアンタの絵を見て、下手くそだから、『ヨシコは本当に俺の子か』とお母さんに言ったとよ」と言って、「ふふふ」と笑った
  • 母親はさらに、「アンタのせいでお母さんが疑われる」とキレて、「どうしてくれる」と言いながら、いつものように荒れ狂った
という成り行きだった。

 父親は、若い頃から画家になる可能性を認められていたほど、絵が上手だった。母親も、世の中一般との比較では充分に絵が巧かった。家のなかに画材がゴロゴロしており、絵を描く習慣を持つ大人がいた。福岡市近郊の実家から、休日にたまに一家で出かける先は久留米市にある美術館だったりした。そこで、子どもも含めて全員で「ベン・シャーン展」を見たりするのだった。とはいえ、小学校低学年だった私には、その展覧会で展示されていた絵の記憶はまったくない。両親に怒られないように、後で怒られる種を作らないように必死だったんだろうと思う。

 そんな環境で育つ子どもは、自然のなりゆきとして、世の中一般よりは絵が巧くなりがちなのではないかと思う。私ときょうだいもそうだった。ただ私は、絵に限らず、課題やモティーフの内容による合う合わないの差が激しかった。

 小5小6のころは、担任教諭主導のクラス概ね全員からのイジメに遭っていた。何をどうしようが、担任教諭に悪く言われた。満点であるはずのテストは、どこかにツッコミどころを見つけて減点された。その担任教諭が無理やり減点したポイントのうちいくつかは、その後の学びで、担任教諭のほうが誤っていたことが分かった。そのたびにスカッとした。

 音楽は「伴奏など目立つことはさせない」程度の嫌がらせだった。それ以上にやりようがなかったのだろう。体育は、小5小6の時期は同じ学年の全クラス合同授業だったから比較的安全だったが、私が比較的得意な種目では、担任教諭が難癖をつけて「参加させない」という嫌がらせパターンもあった。担任教諭は女性で、専門は家庭科だった。家庭科はもう、何をしてもしなくても、そこにいるだけで難癖のオンパレード。何を言われたかいちいち覚えていない。

 そして図工も、なんとでも難癖のつけようがある科目だった。しかし私が小5のとき、図工専任の若い女性教諭がやってきた。それが救いだった。ただし、その女性教諭は、私の担任教諭にイジメられていた(注)。

 もともとの得意不得意の差が激しい傾向は、小5小6の時期、この担任教諭のもとで激しくなっていた。私は、比較的得意だった写生に注力することにした。学校が無関係なコンテストに積極的に応募し、下書きや仕上げの段階で図工専任教諭に指導してもらった。銅賞または佳作にはコンスタントに入っていたし、商品として絵の具が得られていた。私にとっての絵の具は、白以外は「残り少なくなったらコンテストでゲットしよう」というものになっていた。

 図工の中でも苦手な分野、たとえば読書感想画は、担任教諭にクラス全員の前で「この学年相当の絵ではない」とまで言われたこともある。

 話を父親に戻すと、父親がたとえば私の読書感想画を見て下手くそさに呆れたのであれば、それは大いにありうる話だ。

 私は、このエピソードを、その後も繰り返し繰り返し思い返した。わざわざ思い出そうとしているのではなく、記憶の方から勝手に出てくるのだ。

 しかし今年になって、思い出し方が変わってきた。

 昨年まで、客観的には下手くそではなかったはずの絵画について、たまたま見た一枚を「下手くそ」とされたことへの悔しさとともに思い出していた。

 そして、父親が悪く言っていたのは私だけではないことを思い返し、自分をなだめていた。実家で父親が誰かを悪く言いはじめると、母親がビールを次々と飲ませた。まるで「わんこそば」の給仕のように。あっという間に酔っ払った父親は、べろんべろんになりながら、思いつく限りの誰かの悪口を「どいつもこいつも」と言い続けるのだった。父親に悪口を言われている人々の中には、母親が大切にしており関係が円満だったはずの母親自身の弟もいた。母親は相槌を打ちながら、さらに父親に飲ませるだけだった。父親の語る内容があまりにもひどいので、私は録音や文字での記録を試みた。すると、母親は全力で止めた。母親のしていたことは、絵に描いたような「イネイブリング」だった。私は今にして思う。

 私の絵の上手下手について父親が言ったことは、今となってはどうでもいい。私は90年代終わりごろ、武蔵野美大の短大通信教育部デザイン科に入って卒業した。絵画の授業で描いた人物像は、好ましい評価を受け、参考作品にしてもらった。なにも、父親に評価してもらわなくてもいい。

 最大の問題は、両親の関係性ではないか。そのことに思い至ったのは、56歳になった今年だった。

 父親が「ヨシコは本当に俺の子か」と言ったのかどうかは分からない。私の記憶が正しいとしても、それは母親の「お父さんが『ヨシコは本当に俺の子か』と言っていた」という言葉の中のことだ。母親が、事実ありのままを私に言ったのかどうかは分からない。今、母親にただしても「覚えとらん」という答えしか返ってこないだろう。

 しかし父親と母親の関係の中には、「父親が母親に対して、自分の子どもではない子どもを産んだ疑惑を持つ」という可能性があった。少なくとも、母親が私にそう言った時、母親の中にはその可能性があった。母親は母親で、家の外での父親の行動に対する疑惑や不安を私にぶつけていたのだが、その話は長くなるので割愛。

 両親にそういう関係性しかない中で、私は育った。私の記憶の中にある、両親や弟妹や父方祖母(私が実家を離れる前年に他界)と同居していた実家の記憶の中で、両親の関係性は常にこのようなものだった。

(注)
20代だった図工専科の女性教諭は、確か私が小5になった1974年度はじめ、大学新卒・新任で私の出身小学校に赴任してきた。
私の小学5年・6年の頃の担任教諭は、当時40代の日教組活動家教員だった。終戦時に長崎の師範学校生だったということだった。「原爆投下当時は遠隔地に動員されていて助かった」と言っていた気が。ただし、ご家族やお友達を亡くした話を聞いた記憶はない。どこまで事実なのか不明だが、1945年に18歳なら、1975年に48歳だったことになる。今、生きていたら93歳。
日教組活動家教員は、教員としての技量を磨くことに熱心なタイプ(大多数。教員の研鑽の機会って教研集会くらいしかなかったから)と、労働者性の主張にだけ熱心なタイプ(少数)のどちらかだった。私の当時の担任は後者。授業は自習ばかりだった。クラスの児童に自習させておいて、担任教師は教卓や職員室で日教組の作業をしていることが多かった。したい指導は我流で、したくない指導は放棄。たとえば体育で自分のできない種目の指導とか。
こういう教員に担任されてしまう案件は、私の世代だと結構よくあったパターン。だけど、その前までの学年で勉強の習慣がついていたり、もともと学びやすい環境にあったりする子どもは、ろくでもない教員に指導されるより放置されて自習ばかりの方がマシな学びにつながった。「それにしても算数や理科は無理だろう」と、理科が専門の教頭先生がときどきクラスに教えに来てくれたし。自分が担任ぐるみのイジメターゲット(効率的なクラス経営の手段として)にされていなかったら、そう悪くはなかったと思う。
何が書きたいのかというと、私のクラス担任が、その新任の図工専科の教員をイジメたことである。職員室でそれはそれは壮絶なことがあった噂も聞いている。イジメられていたせいか、教員は放課後や昼休みは図工準備室にいることが多かった。おかげで私は個人的に指導を受けやすかった。
しかし図工専科教員が2年目になると、私のクラス担任は、周囲に誰かの目があっても図工専科教員をイジメるようになった。図工以外の授業中やホームルームの時に、その図工専科教員の指導内容をくさすのである。サイテー。

[雑感]原家族、ラスボスの恐怖

生まれてから56年間経った今、父親に対する恐怖心が、自分史上最大になっている。

離れて暮らし始めてから36年。その間、直接会って話した機会は、たぶん50回はないと思う。電話を含めても、会話をした時間は1年あたり平均では30分から1時間の間だと思う。「親類等がいる中に父親もいた」という場面を含めても、誤差の範囲だろう。それは36年間に20回もない数少ない機会だったから、いちいち数え上げられる。

客観的に見れば、たぶん力関係では、自分史上最大に自分が強くなっているはずだ。

父親は87歳。こちらは車椅子だが、肉体的な勝負なら勝てる自信がある。同居していたころみたいに、「眠っていたところ、深夜に帰ってきた父親が母親に何事かを吹き込まれ、階段を駆け上がってきて私を叩き起こしてビンタを浴びせる(ビンタ、ということにしておく)」というようなことは、今は起こらない。

父親の持っていた社会的影響力や実権も、そういうものを直接取り扱う現役でなくなってから数十年が経過すると、激減している。父親のパワーのピークは私が大学院生くらいのころだったが、その後の私は、ジリジリジリジリとしぶとくしつこく、簡単に潰されないように根を張り枝を伸ばしつつ逃げ足を鍛えてきた。たぶん力関係は、父親のパワーを最大に見積もっても「気を付けろ、依然として、油断したら自分がやられる可能性はある」程度であろう。

しかし今、私は父親に対して、自分史上最大の恐怖を感じている。私が物心ついて以来、苦しんで痛めつけられて育った世界のルールは、一言で言えば「男尊女卑」、より正確に言えば「女は使役動物で産む機械(例外はありうるが、例外条件は明確にされない)」。

時間を共にする時間が圧倒的に長かったのは母親と弟妹だった。私を直接に痛めつけたのは主に母親と弟だった(妹は9歳下で、私が実家を離れた20歳時点までは、さほどの脅威ではなかった)。しかし、「そうしてよい」というルールがある実家の世界のトップにいてルールを決定しているのは、父親だ。

私は20歳で実家を離れるのと同時に、自分を「使役動物で産む機械」とするルールからも離れるはずであった。むろん、原家族の世界がそんなことを許すわけはない。今となっては、その後の私に起こったことは、たったこれだけで概ね説明がつく。しかし「なぜ? どうして?」と自問しながら必死であがく時間が、その後、延々と続いて現在に至っている。まるで、ゴキブリホイホイにつかまったゴキブリのように。

私は生きたまま、このゴキブリホイホイから解放される日を迎えたい。父親に対して、根拠に基づきつつ実際の5倍10倍の恐怖心を抱くのは、おそらく生き物として正常なことなのだろう。恐怖と悲しみと怒りを叫び続けつつ、解放される日と、いかなる意味でも解放されたことの罰を受けないその後の未来を生きたい。

父親がそのようなルールの支配する家庭社会を作るにあたっては、むろん、父親一人だけに責任があったわけではない。終戦時の国民学校6年生として経験した過酷な出来事の数々があり、生き延びるために余儀なかったかもしれない多様な選択(たとえば結婚。母親の兄などとの関係はじめ、子ども心にも不可解なことが多かった)の影響があり、「そうしかやりようがなかった」という側面が多々あるのであろう。それは理解している。というより、理解と共感を強制されてきた。

もしかすると、今の私に起こっていることは、56年間にわたって感じないことにしてきた恐怖を、56年分まとめて味わっているということなのかもしれない。自分が他のきょうだいのように人間扱いされていないという事実を、幼少の私は認めたくなかったのだ。何をしても、両親に価値を認められることはなく、認められたらその後に恐ろしいことが起こるという自明の成り行きに対して、「そんなことはないと言える日が来る」と信じたかったのだ。自分の愚か者め!

今より愚かだった少し前の私、もっと前の私を責めても、何も返ってこない。責めるなら私じゃない。まず、私をそういう状況に置くことについて責任あった父親、そして母親、その状況を利用してきた弟妹だ。しかし、誠実な対話ができる相手ではない。もしそうなら、こんなことにはならなかった。

私はただ、自分と自分の人生とキャリアと、自分の大切な猫たちや大切な人々を、これまで以上に守って育てて生きていこう。
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(2013.7 日本評論社)

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あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

Part5「測定器、使えてますか?」は、
東日本大震災後、
環境測定を始められる方々のために
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