みわよしこのなんでもブログ : 2020年09月

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。



2020年09月

[猫ばか日記]猫の食欲喚起 「幕の内弁当」作戦

 12歳男子・4歳女子・3歳女子の3猫を抱えた我が家、この夏は特に、12歳男子の食欲不振でヤキモキしました。
 ウエットフードの固形分とスープを組み合わせる「一汁一菜」作戦と、ドライフードを少量多品種風に演出する「幕の内弁当」作戦で、なんとか乗り切りました。

 写真は再掲になりますが、慢性腎不全を抱えた12歳男子・瑠(りゅう)の「幕の内弁当」です。
 「幕の内弁当」とは、ドライフード4種類を、なるべく混ざらないように食器に入れたもの。
 瑠の食べ方を観察していると、あくまで彼自身の選択であること、「この味が食べたい」という時に確実に食べられることが重要なようなんですよね。その状況に近づけてみると、ビンゴ! でした。

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 「4種類も?」と驚かれそうですが、シニア用1種類(30%くらい)、腎臓病療法食2種類(60%くらい)、4歳と3歳の妹たちも食べている成猫用1種類(10%くらい)の組み合わせです。

 腎臓病療法食の1種類だけが瑠のツボだった日。出したらそれだけパクつかれました。
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 4歳の咲・3歳の灯は、今のところ、煮干しを砕いて混ぜた「味付けごはん」です。
 煮干しが大好きなふたりを自分たちのごはんに誘導し、お兄ちゃんの前日の食べ残しもレンチンして軽く乾燥して混ぜ、お兄ちゃんのごはんに手を出される可能性を低めています。
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 ちょっとした工夫でも、たとえば「瑠が自分の身体に合わせた療法食を多めに食べられる日が3日続く」という結果につながると、嬉しいものです。


[猫ばか日記]夏場の猫の水分摂取 「一汁一菜」作戦

 夏を無事に乗り切れそうでホッとしている猫家族の皆さん、今年は多そうですね。
 12歳男子・4歳女子・3歳女子の3猫を抱えた我が家も、ホッとしています。
 この夏は、「一汁一菜」作戦と「幕の内弁当」作戦で乗り切りました。

 「一汁一菜」とは、固形分とスープの組み合わせです。

瑠(12)の「一汁一菜」。彼はドライフード派なのですが、スープを舐めるのは好きです。
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咲(4)・灯(3)の分は、固形分の方が多くなっています。
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 「一菜」と「一汁」の組み合わせは、少し水を加えたウエットフードに猫用スープ(0.5倍~2倍の水で薄める)を組み合わせたり、味付けの濃いウエットフードを水で薄めてスープと固形部分に分けたりして作っています。
 つまり、なんとしても水分を摂取する機会を増やすということ。あまりにも水っぽくすると食べてくれなくなって逆効果。そこは、前日やその日のその時間までの食べっぷりで調整します。

 「一汁」部分には、乳酸菌サプリ(たいていは粉末青汁)が耳かき半分くらい混ぜてあります。ほんの少しで大丈夫です。効果は、UNKOのアンモニア臭が薄くなることで確認できます。腎臓の疲弊が少しは減らせているだろうと期待しています。
 既に腎臓が悪くなっている瑠(12)の「一汁」には、慢性腎不全の薬を砕いて粉末にしたものとリン吸収サプリも混ぜてあります。瑠に14歳を迎えてもらい、「息子が中二病」と冗談を言うのが夢です。
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夏場の猫の水分摂取に、大変有用なスープです。しかも安価です。
 
 

[雑感]私は希望を抱くことができるのか? ~ 母親と味噌汁

 私が作った味噌汁を、母親が「まずい!」と言ってひっくり返したことがある。1983年。私は19歳だった。目撃者はいなかった。数分違いで食べた他の家族は、同じ味噌汁に対して、特に何も言っていなかった。母親にだけ、特製の美味しくない味噌汁を出したわけでもない。母親は、勝ち誇ったような嬉しそうな表情を浮かべていた。私は、嘆きも悲しみもしなかった。毎度のことだ。

 現在の私の住まいには、もろもろの都合で、母親が味噌汁をひっくり返した現場と同じ配置、同じような日照条件となる場所がある。日中、その部屋のその場所に行くたびに、私は母親の「まずい!」とひっくり返された味噌汁を思い返す。思い出したくて思い出すのではない。記憶のほうから勝手に出てくる。忘れたいのに忘れられない。トラウマ記憶とはそういうものだ。



 ところが2ヶ月ほど前、2020年7月、大きな変化が起こった。

 その場所で、私が母親の「まずい!」と言う声と、勝ち誇ったような嬉しそうな表情と、ひっくり返された味噌汁を思い出すことは変わらなかった。しかしその時、ひっくり返されて椀の中からこぼれ出た味噌汁が、竜巻に巻き上げられたように浮かび上がり、母親の頭の上から降り注いだ。

 私は「えっ?」と驚いた。まあ、物理としてあり得ない話ではあるんだけど。その日から、私の中に少しずつ変化が起こりはじめた。

 母親はじめ原家族から受けたことは、今のところ「言われっぱなし」「やられっぱなし」「泣き寝入りさせる」でしかない。幼少のころ、さらにそれを引きずって成人後も現在もそうである私としては、「せめて、なかったことにしないことができる」という希望を見出したい。それは、たった一つだけ私に残された、原家族に関する希望である。

 でも、私が「なかったことにしない」という現実を作ろうとすると、原家族によって、あるいは原家族の影響が濃厚な何かによって全力で潰された。原家族にはもちろん、なかったことにしなくては都合が悪いという現実があるだろう。

 私も、最初からそんなことはされなかった過去を望んだ。もしも、望んで叶うものなら。でも過去は変えられない。過去にその事実があったこととその影響自体は消せない。誰かの都合で、なかったことにされるかどうかは、また別の話。

 私が最初からそんなことをされなかった過去とは、両親はじめ原家族が私にそんなことをしなかった過去である。でも両親は、私の記憶にある限りは55年前(私が2歳のころ)よりも前に、今となっては「なかったことにしなくては」と必死にならなくてはならない現実を作る道を選んだ。

 これは戦争なのだ。私は生まれて物心ついたら、両親が作った戦争に巻き込まれていた。好きで巻き込まれたわけではないが、勝たなければ生き延びられない。でも、勝ち目はない。どうせ負ける。生まれて来ないほうがよかった人生の「生まれて来ないほうが良い」度が増すだけだ。負けがひどくなるだけのなら、損切りしなきゃ。自分が死ぬことによって。ずっとずっと、そう考えていた。客観的に「それは違う」と言える変化は、少なくとも私が知る限り、何もない。

 両親にとっても、事情はおそらく似たりよったりだろう。55年前に止められず、その後もエスカレートを止められなかった。今となっては隠蔽するしかないのだが、当事者である私は絶対に応じない構えを示し続けている。こうなったら私を消すなり潰すなりするしかないのだが、私は全力で抵抗を続けている。両親の真意や心情は推測するしかないのだが、ここで停戦したら、過去少なくとも55年分のすべてが無駄になるのかもしれない。勝ち目があろうがなかろうが、私を消して潰すことに全力を尽くすしかないのかもしれない。

 私は抵抗を続けてきたが、正直なところ、「両親の思い通りにならない結末がありうる」と考えたことはない。相手の方が圧倒的に優勢だ。人数だけで言っても、両親と弟妹で4人。最初から4対1の負け戦だ。その後、弟妹の配偶者とその社会的地位と経済力などが加味され、さらに両親側が優勢になった。弟妹夫妻の子どもたちは成長し、いまだ未成年ながら、さまざまな輝かしい活躍をしているようだ。もう絶望的だ。親を選んで生まれたわけではない甥たちに対して何かをしたいとは思わないが、私は自分と自分の人生と自分の猫たちと暮らしを守りたい。でも、どうやって?

 今でも、客観的に私の不利が減ったという事実はない。でも2ヶ月前、約40年前の記憶の中の母親がひっくり返した味噌汁は、空中に飛び上がって母親の頭に降り注いだ。それは私の脳内での出来事に過ぎないけれど。

 その次の日も、さらに次の日も、私は同じように母親と味噌汁を思い出した。そして味噌汁は、同じように母親に降り注いだ。日を重ねるごとに、母親の表情が変わっていった。勝ち誇ったような嬉しそうな表情は、頭の上から味噌汁が降り注ぐと「まさか」「なぜ」「どうして」という驚きと悲しみへと変わるようになった。

 私は驚いた。おそらく、私の知る範囲の現実として、原家族のメンバーが私に対してしてきたことに向き合うことはないだろう。自分たちが正義であり、私には何をしても許され、何もかもを「なかったこと」にできる。都合が悪ければ、私をさらに踏みつければいい。ずっとそうしてきた、それしか出来なかった人たちが、同じ相手に対して違うことを始められるわけはない。私も、その可能性には全く期待していない。

 しかし、もしかすると、原家族からのもろもろを「なかったこと」にされず、その懲罰として消されたり潰されたりすることもない今後が、私に訪れるのかもしれない。
 根拠はないけれど、ぼんやりした希望を抱くことができるようになった。

[雑感]「としまえん」閉園にまつわる心のザワザワモヤモヤ

 2020年8月31日、東京都内の遊園地「としまえん」が閉園した。
 閉園がアナウンスされてから閉園まで、私は内心、怯えていた。私に対して誰かが「としまえん」を話題にしたらどうしようか? と。
 何よりも恐れていたのは、「としまえん」が話題にされるとき、その人自身の「懐かしい」「楽しかった」という記憶が語られて、同意が求められることだった。
 その次に恐れていたのは、「行きたかったけど、お金がなくて行けなかった」という形で「としまえん」が話題にされることだった。
 幸い、そういう話題になる相手と会うことはなく、閉園の日が過ぎた。私はホッとした。
(本記事はnote記事の下書きを兼ねています)

  • なぜ「楽しかった『としまえん』」に同意したくないのか
 私は福岡市で生まれ、福岡市と隣接する春日市で20歳までを過ごした。
 当時の福岡市には本格的な遊園地がなかった。太宰府の「だざいふえん」が、たぶん最も近くて遊園地らしい遊園地だったのでは。比較的アクセスしやすかったのは、天神にあったデパート「岩田屋」の屋上遊園地、福岡市動物園の遊具コーナーといったところ。
 それでも子どもにとっては、楽しい非日常。そうだったはずだ。

 私自身には、遊園地で楽しく遊んだ記憶がほとんどない。
 福岡市動物園には、両親の両方または片方、弟妹のどちらかまたは両方とともに、しばしば訪れていた。私は、大きな滑り台やブランコで楽しく遊ぶことができた。父親がいれば、ティーカップやミニ電車に一緒に乗ることもできた。しかし、家族とともに有料の遊具に乗った記憶は、概ね6~11歳くらいで途絶えている。ミニ電車に最後に乗った時は、9歳下の妹とそのお友達と一緒だった。母親が妹たちを連れて動物園に来るにあたり、面倒を見る係として私も一緒に行くこととなり、小さい子どもたちの安全を守りながら遊具に乗っていたのだった。

 一番切なかった記憶は、4歳下の弟が3歳、私が7歳くらいの時のこと。
 母親は、弟と私を連れて福岡市動物園に行った。
 動物を見て、無料の遊具で遊んで、有料遊具のコーナーへ。そこには当時、小さな飛行機に乗って空中をぐるぐる回るような遊具が出来たばかりだった。弟は「あれに乗る」と言った。母親は弟とともに、飛行機に乗って空中遊歩を楽しんだ。私はそれを眺めているだけだった。母親が「アンタはここで待ってなさい」と言ったからだった。
 「弟だけは乗せられるけど私は乗せられないほどお金がなかった」というわけではない。
 私を乗せることに、何か不都合があったわけでもない。
 今から考えれば、母親はただ、素晴らしいものは弟にだけ味わわせたかっただけであろう。さらに、結果として唯一の息子になった長男と2人だけの時間を楽しみたかっただけであろう。まだ幼稚園児だったり小学校低学年だったりした弟に対して、母親は「将来、何になってもいいけど、結婚相手だけはお父さんとお母さんに決めさせなさい」と言い聞かせていた。同時に、小学生だった私は、弟の将来の結婚相手選びが母親の意向に沿ったものになるような振る舞いを、母親に要求されていた。

 ともあれ私は、なぜ自分が飛行機の遊具に乗れないのか分からず、呆然としていた。
 楽しそうに降りてきた母親に「私も乗りたい」と言ったけれど、母親は無視して弟と楽しそうに話し続けていた。
 私は、泣きも怒りもしなかった。そんなことをしようものなら、飛行機の遊具に乗れなかったこと以上に恐ろしいことが起こることを、既に学習していた。
 私にとっての遊園地とは、そういうものなのだ。

  • 機会を奪われた子どもに起こりがちなこと
 私が幼少期の経験について話すと、しばしば「一番上の子だったから、二番目の子に親の愛情を奪われて嫉妬したのでは」という反応が返ってくる。実はこれが非常にしんどい。
 弟が生まれたのは、私が3歳9ヶ月のときだったけれど、「お母さんを取られた」的な記憶は全くなかった。
 まず、環境の変化はそれほどではなかった。かなりの頻度で、私が母親の実家に預けられていたからである。母方祖母の近くにいて、さまざまな「家の仕事」で多忙な祖母の横で本を読んだり折り紙を折って(年下のいとこ達と遊ぶのは、数年後のことだった)。祖母と手をつないで買い物に行くついでに池の亀や神社の鶏を一緒に見せてもらって、毎日を平穏に楽しく過ごし、しばらくして両親のいるところに戻ってくる。すると、赤ちゃんがいたり、赤ちゃんが大きくなっていたりする。
 母親からのはじめての「これって虐待?」の記憶は、2歳半くらいの時期のことだった。その時期の私が文字や言葉を早く習得したため、母親と父方祖母(元小学校教師)の確執が発生したことを、後に母親から聞いた。それは本当に、理由らしい理由なく平手打ちをあびせる理由だったのかどうか。母親本人にしか分からないはずだ。いずれにしても、その時期の母親は、弟をまだ妊娠していなかったはずである。
 私は、弟が生まれることによる変化を、あまり感じていなかった。そもそも、両親や弟とずっと一緒にいたわけではなかったため、感じようがなかった。今から振り返ってみると、もともと年齢なりの両親への愛着が形成されていなかったようである。形成されようがなかったとしか言いようがない。ともあれ、4歳下の弟は「お父さんとお母さんの息子さん」、その5年後に生まれた妹も含めて「お父さんとお母さんの息子さんと娘さん」という感じになっている。その「息子さんと娘さん」と同じ意味で、「お父さんとお母さん」が親であるとは、どういう感覚なのだろうか。私には、現在も理解できない。
 ともあれ私は、両親と弟妹と同じ屋根の下にはいたのだが、その4人とは最初から分断されていた。分断は年々、激しくされていった。両親は、私が実家を離れたせいにしている。私は「そんなことはない」と、事実の数々をもって示せる。分断を激しくしていったのは主に両親であり、その状態を温存することによって利得はあっても損失はない弟妹である。弟妹に配偶者ができ、子どもたちが生まれると、両親はさらに分断を激しくしていった。その詳細についてここでは書かないが、私はまだこの世にいる。あの世にまで排除されているわけではない。だからまだマシだと思わなくてはならない現在がある。
 話を幼少時に戻そう。

 私が5歳の頃、両親は家を買って転居した。母親の実家は遠くなった。ほぼ常時、母親と弟と私の3者しかいない家になった。翌年には父方祖母が同居しはじめ、母が父方祖母への憤懣を漏らし続ける中で、身の置きどころがない毎日となった。それでも、父方祖母がいればまだ良かった。父方祖母は、緊張が高まりそうになると娘たちの家で数週間を過ごしてくる知恵を持っていたのだが、それは私への攻撃への抑止力がなくなるということである。
 母親もまた、他者に咎められない形で虐待をする知恵を持っていた。母親と弟が談笑しながらテレビを見ながら温かいカレーライスを食べているとき、私は黙って見ていなくてはならなかったが、後に冷えて固まったカレーライスを食べることはできた。私が小学3年の時に妹が生まれると、夕食の手伝いの途中に何か母親が口実を作って私に罰を与えたりした。私は台所の床に正座させられ、食卓の裏面と母親と弟と妹の脚を見ながら、食卓の上の食器の音や食事の臭いを聴いたり匂ったりしながら、弟妹と母親がテレビを見ながら楽しそうに談笑しているのを聴きながら、「反省」していなくてはならないのである。私はその1時間か2時間か後、宿題に加えて懲罰的な漢字の書き取りを何度もさせられた後(そもそも就学前に覚えている漢字の書き取りをさせ、「態度が悪い」「表情が恨めしい」とか何とか言って3回も5回もやり直しさせるのである)、冷えた食事を食べることはできたが、それが何だったのか覚えていない。

 こういう経験が日常であった子どもが、どのように経験を位置づけるかは、子どもによって異なるだろう。私は意識したわけではないが、自分がアクセスできないものや、アクセスすると母親によって恐ろしいことがもたらされるものに対して魅力を感じる回路を遮断した。
 私は、当時の女児向けテレビ番組をほとんど見ていない。せいぜい、テーマ曲を知っているだけだ。しかし、仮面ライダーやウルトラマンやゴレンジャーはリアルタイムで見ていた。テレビのチャンネル権は弟のものだったから。
 大人にくっついていれば大人向け番組は見られるので、小学2年生からNHK大河ドラマを見るようになった。小学3年時の『国盗り物語』以後は記憶がハッキリしている。しかし私が本格的に関心を向け、シナリオの勉強を始めたりすると、母親による妨害が始まった。というわけで、中学2年の時に大河ドラマ『花神』を見た後は、テレビから卒業した。「見たい」と思わなければ、妨害されて悲しい思いをすることはない。以後、テレビ番組は年に1~2回、家族に対する周到な根回しの上、家族からの冷やかしや嘲り、その後の嫌味を覚悟して見るものとなった。
 高校3年の秋からは予備校に特待生として通うようになり、帰りがけに電気店の店頭で見ることもあった。カール・セーガンの『コスモス』は、再放送を電気量販店の店頭で見た。1982年3月から4月ごろのことだと思う。昭和でいえば57年。テレビがまだ「一家に一台」には程遠く、プロレスの試合を見るたびに子どもが電気店の店先に群がっていたのは、昭和30年代前半、私が生まれる前の話である。
 
 遊園地や遊具を「行きたい」「乗りたい」と思う余裕は、私にはなかった。原家族のメンバーとともに行って乗って楽しい思いをした記憶は皆無というわけではないが、「帰宅後に些細な出来事を蒸し返されて母親にぶちのめされる」といった「ああ、やっぱり」の”アフター”を伴わない記憶は、20歳までの期間に5回もない。その数少ない例外的な記憶には、両親と弟妹、弟妹のお友達などの他に、誰かがいた。たとえば、母方の叔母とか。そこに身内であっても他者の視線を持つことの出来る人がいると、全く違う経験となった。しかし、子どもだった私には人選の権利がなかった。
 私自身のためという名目での遊園地行きは、たった1回だけあった。私が小学校を卒業した3月の春休み。でも、母親と弟妹が一緒なのである。母親はもちろん、弟妹が私よりも多く(数と金額の上で)楽しめるようにしましたとも。そして私は母親から、「アンタのために行ってやった」と恩に着せられるのである。もしも母親が「自分の大切な長男と次女を楽しませるために、長女はどうでもいいけど口実に使った」と言ってくれたら、どんなに救われたか。

 大人になった私は、行きたい時に遊園地に行ける。1日くらいなら、おそらく好きなだけ遊具に乗れる。しかし、何が楽しいのか全く分からない大人になっていた。絶叫系の乗り物のように、極めて分かりやすい肉体的な感覚を伴うものは、「楽しい」と思える。が、遊園地や遊具に「行って乗りたい」という魅力を感じることはなかった。『としまえん』にも何回か行ったことはあるのだが、高飛び込み用のプールを使って高飛び込みをするためのみ、だった。
 東京ディズニーランドは、私が東京で大学に進学してから出来た。その後、妹が中学受験合格のごほうびに東京旅行をすることになり、私のアパートに泊まった。妹が行きたがったから、私も付き添って東京ディズニーランドに行った。何が楽しいのか全く分からないまま、後に母親から攻撃の口実に使われるような失敗をしないように緊張していた。以後、東京ディズニーランドには一度も行っていない。
 子ども時代に適切な学習をしていないと、子ども向けの何かに楽しさや魅力を感じる回路は育たないのかもしれない。少なくとも私はそうだった。遊園地だけではなく、子ども向けの絵本も、子ども向けの書籍も。今でも、日本語の絵本や児童書を読むのは、トラウマが刺激されて辛い。
 
  • なぜ「行きたかったけど、お金がなくて行けなかった『としまえん』」の話が辛いのか
 書いていて辛くなってきたので、こちらについては短めにしようと思う。
 私は現在、貧困問題を中心に活動している。当然、貧困によって機会を失ったまま成長した大人多数、貧困によって機会を失っている子ども多数に接している。
 現在進行形で機会を失っている子どもたちは、「東京ディズニーランドに行ってみたい」といった希望を語らないことが多い。東京だからではないだろう。関西の子どもが、USJや「ひらかたぱーく」に行って楽しむという発想を持っていないことは珍しくない。本当に知らないのか。それとも、知っていても行けないことを考えたくないから、憧れる心の回路を遮断したのか。
 しかし私は、そこまで厳しい状況に置かれたわけではない。福岡市動物園の有料遊具のコーナーの前までは行くことができた。そういった場所での飲食や服装を含め、誰が見ても「中流家庭の子ども」だったはずだ。
 私よりも絶対的に何かが不足していて遊園地に行けなかったり行くことを考えられなかった子どもたちや元子どもたちの話を聞く時、その話はその話として受け止めるしかない。受け止める。何らかの理解を示す。部分的には理解出来る話でもある。しかし「私にも同じような経験があって」とは、口が裂けても言えない。その人々と同じような欠落があったわけではないという時点で、「同じような経験」ではない。客観的に見れば、その人々よりも私は圧倒的に恵まれている。私は、どう嘆けばいいのか。どう語ればいいのか。相手と離れて一人になると、いつもは忘れたことにしている痛みが噴き上げてくる。
 所詮、私は嘆くことも語ることもできなさそうだ。嘆いたり語ったりすると、「親御さんたちにも事情があったのでは」「あなたの思い込みでは」「もっと恵まれない人が」「昔のことになってよかったじゃないの」などなど、四方八方から嘆かせず語らせない圧力がかけられることになる。
 仕事として、厳しい子ども時代を送った人々の経験や体験や出来事を聴き、仕事として形にする。それが、現在の私にできることの限界のようだ。

 ともあれ、「としまえん」は閉園した。当面、『としまえん』と子ども時代の記憶に刺激されることはないだろう。
 跡地は『ハリポタ』テーマパークになるようだが、私は『ハリポタ』を読んでいない。私には無縁の何かとして、ニュースや語りに接することができるだろう。

[料理メモ]レバノン風にんにくソース(toum)

 北米や西欧で、費用を圧縮しつつ出張するときの強い味方は、その土地の移民コミュニティのカフェやレストランです。概して「安い・旨い・気取らない」。ときには「早い」もついてきます。

 2012年2月、バンクーバーで学会に参加したときは、宿のすぐそばにあったレバノン料理カフェにお世話になりました。なにしろ、スパイシーなピラフ・たっぷりの量の生野菜サラダ・ひよこ豆のコロッケ(ファラフェル)や肉のグリルのセットで、日本円で1000円以下だったり1200円程度だったり。それをテイクアウトし、自炊のおかずや惣菜を足して2~3食分にして食べてました。
 肉やファラフェルや生野菜の上にタラーリとかけてあった白いソースが、その後も気になり続けていました。いつか、あれを白ごはんとチリメンジャコにかけて食べたい。

 8年後の2020年8月。偶然から、レバノンで一般的な「toum」というソースであったことが判明。
 本場の味そのものっぽいこちらのレシピを参考に、ウチの事情に合わせて、ウチにある道具で作ってみました。

材料
  • ニンニク 1個 (バラバラにして薄皮を剥いておく)
  • 植物油(今回はエキストラバージンオリーブオイルと菜種油を半々で使用) たぶん合計100ccくらい
  • レモン汁 たぶん合計20ccくらい
  • 塩(ふつうの精製塩)たぶん5gくらい(保存性を高めるために多めに)

道具
ハンドミキサーに「潰す」モードのアタッチメントを装着(1997年モデルのバーミックス+ミンサー)

参考にしたレシピには「通常のブレンダー(ミキサー)はおすすめしない」とありましたが、ちゃんと出来ました。
要は使い方。
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プロセス
  1. ニンニク1片を2~3切れに切り、塩をまぶし、少し水分が滲み出てくるまで待つ
  2. ハンドミキサーの低速で、上からネチョネチョという感じで潰していく。概ね潰れたら高速に切り替え、さらにネチョネチョさせ、ニンニクの塊をなくす
  3. 植物油をスプーン1杯加えてはハンドミキサーでよく混ぜて乳化を促す。これを5回くらい繰り返す。
  4. 植物油を20cc加えてハンドミキサーで混ぜ、レモンジュースをスプーン1杯加えてハンドミキサーで混ぜることを、5回くらい繰り返す。
  5. マヨネーズを固くしたようなペーストの状態で保存容器に移して冷蔵庫に入れる。いくつかのレシピを見たところ、油や酢の配合が結構まちまち。塩分濃度が相対的に高く保存性が高い状態にしておき、用途に従って適宜のばして調味できるように、と考えた。

お味は?

レンチンしたアスパラガス、焼いて冷蔵しておいたナスに添えて。んまい。
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白ごはんにカエリジャコをのせて、このソースとともに。
バンクーバーでの「日本に帰ったら」という夢が、8年後に叶いました。
うまい。
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南インド料理の名店・西荻窪「大岩食堂」風の半熟卵アチャールを、我が家風にテキトーにアレンジしたものに添えて。
うまい。
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こんな昼ごはんでした。
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食べてみて
  • 豆腐もアスパラガスも何もかも、このソースを少しだけ塗ったり混ぜたりして食べると、その食材の味が引き立つ感じです。「ニンニクにはこういう能力があるのか」という感じ。
  • このソースを生野菜をテキトーに切ったものにまぶし、冷蔵庫に1晩寝かせておくと、漬け汁と漬かった野菜が出来、それぞれスープのベースと生野菜として美味しく食べられます。作った容器に相当量こびりついているソースがもったいないのでトマトを切ってソースを絡ませて一夜漬けしてみたわけですが、保存性のために塩分量を多めにしておいたことが「謎中東風一夜漬け」への応用につながりました。

反省点
  • 作っていると、強烈にニンニクの臭いが立ちます。柚子胡椒を作っている時と良い勝負です。翌日になっても、外から帰ってくると家の中がニンニク臭いです。
  • どうも本場でも、ニンニク臭さは悩みの種らしいです。「ニンニクの皮を剥いて切ったら、氷水にしばらく漬けて冷やしておく」といったノウハウが、レシピに臭い対策として書かれていたりします。

補足
 本場風のレシピ複数に、「ブレンダー(ミキサー)はオススメしない」とあります。
 では何を使っているのかというと、乳鉢と乳棒(mortar and pestor)の電動版なんです。

日本のAmazonには、そもそも取り扱いがないようです。電動ではないものならあります。

 結論からいうと、ハンドミキサーで作れました。
 通常のフードプロセッサやミキサーでも、ニンニクがカットされず潰されるようにノウハウを工夫すれば、なんとかなるのかも。
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「生活保護リアル(Kindle版)」
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(共著 2009.10 技術評論社)

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