みわよしこのなんでもブログ : 2020年08月

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。



2020年08月

[エッセイ]「違う、そんなの美談じゃない!」 ~ 障害者差別に怒らない「寝たきり社長」のエッセイと感想への応答

本ブログは、note記事の下書きを兼ねています。

 「寝たきり社長」こと佐藤仙務さんの連載エッセイ『寝たきり社長の突破力』、2020年8月13日に公開された「差別されても 障害者の私がネガティブ投稿しないわけ」を読んで、私は正直なところ、頭を抱えてしまいました。記事の内容は、タイトルのとおりです。

 もちろん、佐藤さんご自身がそういう選択や表現をすることについて、外野がとやかく言う筋合いはありません。しかし、そのエッセイを読まれた健常者の方々がどう考えるか。それは障害者に対してどういう風当たりとなるか。リアルに想像できるだけに、どうにも落ち着かないのです。

 そして本日、Yahoo!ニュースでも公開されていることに気づきました(新聞社との契約により数日後には消えるのですが、一応URL)。コメント欄を見ると案の定。想定範囲内のコメントが並びます。私よりも立場の弱い人々のことを考えると、とても黙っているわけにはいきません。

 以下、典型的なコメントの分類と、それぞれへの応答です(太字は筆者による)。

  • 「権利の主張ばかりではダメ」論
権利を主張することも時には大事だけれど、そればかりだと現実社会では人は離れていってしまうからバランスが大切ですよね。
特にSNSでは意図していない方向に話が転がっていってしまったり、むやみに炎上してしまう可能性があり、ネガティブなことは発信しないに限ると思います。

 日本の教育が、「人権」を理解とともに腹落ちさせることに失敗しているということでしょうね。人間としての権利を主張し、差別に対して異議申し立て(実質的に怒りの表明や告訴になります)を行うことは、現実社会で処世術を駆使しながら生きていくための基盤になるものです。「人が離れないようにバランスよく権利の主張を」では権利主張にならないし、「ネガティブ発信は避けたほうがいい」というのは一般的な処世術。本人の人権あっての話です。

  • 「良い障害者なら支援に値する」論
支援してもらうのが当たり前、自分の思い通りにならないとやれ、差別だと騒ぎ出す。そんな障害者(と周囲の人間)が増えている。そんな状況だから、支援を求められれば応じてもあえて自分からすすんで支援の手を差し伸べようとする気持ちは私にはない。でも、自分の権利だけを主張することなく支援する側の事情や気持ちを考える、記事のような人には最大限の支援をしたいと素直に思う。

 コメントを書かれた方が「差別」を理解しているのかどうか疑問です。ともあれ、典型的な「良い障害者と悪い障害者を分断してよい」「悪い障害者なら支援されなくてもしかたない」論。それ自体が差別なんです。
 障害があろうがなかろうが、ヤな奴はヤな奴、迷惑をかけられたら迷惑ですよね。そこに障害をからめる必要はないはず。
 しかし相手が障害者などマイノリティである場合、ヤな奴だから「あっちに行け」と言い、迷惑だから「その振る舞いをやめてほしい」と言っただけなのに、「差別だ」と言われる可能性を気にしなくてはならない現実は、確かにあります。それは私の現在進行形の問題ですから(ただし、差別する側として)。面倒くさいっすよね。
 たとえば、単に「男性からボディタッチされたくない」というだけなのに、相手が生活保護で暮らす障害者だったりすると、あとで「生活保護差別」「障害者差別」と言われる可能性を覚悟しなくてはならない現実は、私にもあります。数カ月後に「生活保護について記事書いてる障害者なのに差別した、あいつ酷い」という噂話が派手な尾ひれつきで流布されていると知るといったことは、数え切れないくらい経験してますよ。でも、私が「この人と性的な関係になりたい」と思っているわけでもなんでもない男性にボディタッチされて我慢しなきゃいけない理由は何もありません。だったら「その場で肉体的に反撃してやめてもらう」というのが正解であるようにも思えますが、相手の身体のコンディションをよく知らないと、躊躇してしまいます。指や腕を捻ったら骨折するような身体(たとえば糖尿病による下肢不自由だと、大いに考えられます)だと、物理的な手出しは、ちょっとね……。
 この面倒くささを無くす方法は、日常から差別をなくすことしかありません。障害者差別が事実として全くない社会なら、障害者に対して「お前はヤな奴だ」「その振る舞いやめろ」ということは、単にその人が「イヤだ」と思う相手に「イヤだ」と言い、やめてほしいと思った振る舞いを「やめろ」と言っただけになります。もちろん、犯罪レベルで”やりすぎ”になってしまったら、相手が健常者である場合も障害者である場合も、同様に問題になるだけです。
 障害者差別に対して言挙げする障害者たちの多くは、そういう社会を目指したいと考えているのではないかと思います。国連や国際人権団体が考える「障害者差別が解消された状態」はそのようなものですし、私自身もそう考えています。
 日本政府も一応、そのように考えたので、障害者差別解消法を制定しました。それらの国内法整備があったから、国連障害者権利条約を2014年に締結できたわけです。しかし、次のコメントを読むと、まったく効果ないようですね。

  • 「合理的配慮をしないことが許されないのは苦しい」論
障がい者差別解消法が施行されてから、
本音と建前、この人までは対応できるがここからは無理が許されなくなり、ややこしくなった。
大家さんも人間だし、不都合があったとき全部被るのが自分だから、
あまりにも手に余るケースは尻込みするだろうに。
入居時は大丈夫大丈夫、傷もつけない、自分でやると言い切るが、
実際にぼやでもおきれば、やれ避難経路が確保できないからこれじゃ死ぬとか、
この状態で契約してるんだから整備するのが合理的配慮だとか、
そんなことになるんだよ。
映画館でも、介助が一人いるとして、ストレッチャーなら緊急避難時には後二人は必要だ。
平日でキリキリで回してる映画館だと、厳しい時もある。
両者の合意がなければ結べないのが契約のはずなのに、
断る自由が許されない。
この人は引いてくれたけど、引かないと思えばどこまでも闘ってくるから…。
定員割れ高校の件みたいに、何年も。
きついよ。

 この方は映画館にご勤務のようですが、民間事業者に求められている合理的配慮義務の範囲を全くご存知ないようです。愚痴る前に、担当省庁に問い合わせてみられてはどうでしょうか。建物が古くて対応が難しい商業施設や小規模事業者にまで、ゴリゴリに要求されているわけじゃないんですよ。無理だもん。特に、日本は超絶ユルユルです。
 合理的配慮を「建前」として掲げ、本音では「提供しません」というのは、どうしようもなく差別です。しかし「この人までは対応できるがここからは無理」の限界を超えた合理的配慮の提供は、その企業や施設の規模等によりますが、通常は要求されていません。
 ご自分の無知を障害者のせいにされては困ります。さらに職業の場においては、雇用者や施設責任者には周知させる義務があります。結果として、この方のご勤務先のしょうもなさまで明らかになっています。
 「引かないと思えばどこまでも闘ってくるから…。」という「定員割れ高校の件」は、コミュニケーション障害や知的障害を持つ重度障害者が、定員割れしている高校を受験しても合格しないという事例です。今、高校までの教育は事実上義務教育のようなものになっています。そして、障害者差別をしないことを国際社会に約束した日本(国連障害者権利条約を締結するとは、そういうこと)は、障害児を特別支援学校に分離して教育するスタイルを減らしたりなくしたりする義務を負っています。その方々が特別支援学校の高等部ではなく、あくまで高校受験と高校在学にこだわっている背景は、そういうことです。「Yahoo!ニュースの読者さんには伝わっていない」ということでしょうか。


  • 妊娠経験からの「感謝すると優しくされやすくなる」というご意見
この記事を読んで、すごく勉強になりました。
妊婦の頃は席を譲ってくれない、
乳児を抱えて電車に乗れば舌打ちされる、
子連れで店に入れば何もしてないのに睨まれる、
こんな理不尽なことを経験するたびに、自分も含め、怒りに震えてきた人多いと思う。
でもそれって、心のどこかに、妊婦は席を譲って当たり前、妊婦は優しくされるのが当たり前、という思いがあったから、
それがどことなく伝わってしまっていたのかな、なんて思います。
すべてに対して感謝しまくっていると、
だんだん周囲の対応も変わってくるような気がします。
周囲にペコペコ頭下げながら感謝しながら、泣き喚く赤ちゃんを汗だくであやしてるママさんを見たら、
誰だって席を譲ってあげたい、って思うだろうし。
障害者も妊婦も子持ちママも同じですよね。
全員が謙虚と感謝を持てば、社会はすごく良くなっていくと思う。

 私には妊娠・出産・育児の経験はありません。そして、電車やバスの中で赤ちゃんが泣きわめいていたり幼児が聞き分けない様子であったりすると、別の意味でムカつきます。親御さんが恐縮していると、さらにムカつきます。泣く赤ちゃん、暴れる子どもに対して不快をあらわにし、親に責任を問おうとする周囲の人たちにムカつくのです。
 親御さん(たいていは母親←これも問題)は恐縮して、赤ちゃんを早く泣き止ませようとしたり、幼児を静かにさせようとしていることが多いです。しかし、特に親御さんが母親である場合、非難がましい視線や声がお母さんに向けられます。父親である場合はそうでもないのは、なぜでしょうね? 
 親御さんが、赤ちゃんや幼児を放置しているように見える場合もあります。疲れ切っていたり、「どうすればよいのかわからない」という様子であったりします。周囲からの非難の視線や声は、さらに非難がましくなります。
 私はそういう時、先手を打ちます。「赤ちゃんは泣くのが仕事ですよねえ、元気でいいですねえ」「子どもは暴れるのが仕事(以下同文)」と親御さんに話しかけ、その赤ちゃんや幼児の月齢年齢や性別や名前を聞いたりします。親御さんと私が和やかに話していると、赤ちゃんの泣き声のトーンは下がり、幼児は話に割り込んでこようとします。自分のことが話されているわけですからね。そうなればしめたもの。どの駅で降りるのかを聞き、その駅で無事に降りられそうか周囲を見ながら、赤ちゃんや幼児と遊ばせてもらいます。生育にかかわる責任を一切負っていない通りすがりのオバサンがそのくらいしたって、バチは当たらないでしょう。
 生涯ただ1回きり、あるいは、せいぜい2回目の子育てで経験を蓄積するところまで至れないイマドキの親の事情を理解してアクションすることは、子育て世代よりも年長の世代の務めではないでしょうか。母親に「必死で恐縮して席を譲ってもらう」というライフハックを編み出させてしまうことは、日本社会の、特に年長世代の失敗。「みんなが協力して配慮してくれるから、子育ては楽しい♪」と思われるくらいで、ちょうどいいんです。少子化って、日本の課題でしょ?
  • 「精神的成長」論
〉人は、人を批判することで一時的にすっきりするかもしれないが、本当の心の豊かさは得られないと知った。

自分は辿りつけていない境地だと思った。
反論したり、批判したりしなければならない場面はたくさんある。でも、時にはこう考えることも必要なのだろう。
すぐには変えられないかもしれないけれど、少しずつ意識していこうと思った。

 佐藤仙務さんが重度障害者であることを度外視すれば、特になんということはない、ありがちなコメントです。逆境を精神的修養の機会に置き換えることは、よくある合理化機制の一つであり、社会的弱者がエージェンシー(せめてもの主体性)を発揮する手段の一つでもあります。
 しかしながら、言挙げする障害者や言挙げするマイノリティの多くは、すっきりするために批判しているわけではないはず。そこへの眼差しが全く感じられないのは、なぜでしょうか?

佐藤仙務さんご自身は、何をどう書いたのか

 当該のコラム「差別されても 障害者の私がネガティブ投稿しないわけ」に書かれている内容は、以下のとおりです。
  1. オフィス探しで障害者差別に遭った。幼少のころから、差別される経験は重ねてきている。しかし今は、差別や世の中の理不尽とは決して真正面から戦わないスタンス。
  2. 映画館で障害者差別に遭い入館を断られたとき、SNSにその事実と怒りを示すと、顧客の一人に窓口の人に事情があった可能性を考えるよう示唆された。
  3. 批判をあからさまにすると、権利を盾に相手を傷つけることになる。
  4. 自分のせいで、他の障害者が色眼鏡で見られたり、親切にしようと思っている人への善意を踏みにじりたくはない。
  5. そこで自分のルールを変えた。理不尽なことや差別をされても、私はお陰様と感謝の気持ちを持つことにした。
  6. すると、周囲にたくさんの仲間ができた。普段親切にしてくれる周りの人間をより大切にしたくなった。
  7. 人を批判することで一時的にすっきりするかもしれないが、本当の心の豊かさは得られないと知った。
 エッセイには、幼少時からの経験、障害者団体の関係者からの意見なども記されています。狭い障害者の世界の「誰かが自分の苦痛を訴えただけなのに他の誰かを殴ったことになる」という複雑なアヤ、それを健常者中心の日本社会がどう見るかという問題は、おそらく意識された上での本エッセイだと見ています。なによりも冒頭で書いたとおり、佐藤さんには、思ったり考えたり書いたりすることすべての自由があります。

 ただ、上記「7」の「人を批判することで一時的にすっきりするかもしれないが、本当の心の豊かさは得られない」については、私自身の言論の自由を行使して、異議を申し上げます。
 障害者差別が行われた事実、怒り、悲しみといったものを表明する行為は、多くの障害者にとって、「批判することで一時的にすっきり」という性格のものではありません。誰かが表明しなくては、「そのような現実がある」「そのような苦しみが生み出されている」ということが知られないから、勇気をもって、極めて面倒な反応の数々や炎上を覚悟しつつ表明しているのです。
 少なくとも、私自身はそうです。イヤなことは、さっさと忘れたいですから。でも、私よりも声をあげにくい女性障害者たちは、もっと黙らされている可能性があります。だから可能な限り、黙らないようにしています。
 私は生まれながらの障害者ではなく、中年になってからの中途障害であり、現在は佐藤仙務さんの親であってもおかしくない年代です。そして、女性でもあります。このことが、佐藤さんと異なる認識と異なる判断をもたらすのは、当然でしょう。

 どうか佐藤仙務さんの本エッセイが、立場が弱く差別されやすい人々を抑圧するツールとして、健常者中心の日本社会で独り歩きさせられませんように。

[ニュースクリップ]なぜ、モーリシャス重油流出事故の報道が少ないのか

2020年7月26日(日本時間)、モーリシャス沖で日本の大型貨物船が座礁して重油が流出した事故、私が購読している海外メディアでは、かなり大きな扱いです。しかし、日本のメディアでの報道は「なぜ?」と疑問が持たれるほど小さい感じがします。そこで、世界でどのように報道が拡大していったか確認してみました。なお本記事は、note記事の下書きを兼ねています。

 Google検索で日付を指定して検索してみると、座礁から数日間に見られた報道は、現地ローカルメディア、海運業界メディアなどに限定されていたようです。「ようです」というのは、多くは私がちゃんと読めない言語だからです。

 8月6日、燃料油が流出しはじめると、世界のメディアでの報道が少しずつ見られるようになります。

 8月7日、フランスのブランド新聞「ル・モンド」に記事が現れました。フランスでは、かなり大きな社会的反応があったようす。

 8月8日、世界の大手メディアが続々と報道し始めました。ニューヨーク・タイムズなど。内容は、美しい海に座礁船から黒い油が流れ出しているようすを上空から撮った写真、環境への影響、モーリシャス政府の環境非常事態宣言など、非常に似通っています。おそらく、ロイターはじめ通信社から提供を受けた記事なのでしょう。これは、世界のどこでもメディアの普通です。世界のあらゆる場所に特派員を常駐させ、あらゆるテーマを取材しつづけられるメディア企業はありません。こちら、本家ロイター記事

 以後、数多くの報道が続いています。日本以外では。



 とはいえ、この日以来、日本でもポツポツと報道が現れはじめました。たとえばNHK(記事Web Archive)。
商船三井運航の貨物船 モーリシャス沖で座礁 大量の油流出
 2020年8月8日 12時30分
7月下旬、日本の海運大手、商船三井が運航する貨物船が、インド洋の島国モーリシャスの沖合で座礁し、現場の衛星画像から、周辺に大量の油が流れ出ていることがわかりました。商船三井は、関係当局と連携して対応するとしています。
 なんともいえない他人事感が気になりますけれども、とにかく報道は現れました。しかし、扱いが小さいんですよね。

 私が愛読している東京新聞電子版(紙の新聞のフォーマット)でも、間違っても第一面にデカデカと出るわけではなく、第二社会面や国際面にチラホラ。数多くのニュースがある中で「これを特に」と言えない事情があることくらいは想像つきますが、それにしても「このニュースがモーリシャス沖の日本船の原油流出事故より優先されるべきなのかなあ?」という疑問を抑えきれません。8月14日、15日、16日は記事ゼロ。

 Webでニュースチェックしている人には伝わっているのでしょうか? どうも、それも期待できなさそう。国際ニュースとして掲載されてはいるのですが、扱いが慎ましすぎる印象です。

 本日8月16日夕方、「東京新聞 TOKYO Web」のトップページには、この重油流出事故のニュースそのものが見当たりません(PDF)。ただし国際ニュースとしては、さすがに取り上げられています(PDF)。

 

 今、紙の新聞を買ったり図書館で読んだりして比較する余裕がなく残念ですが、他紙も似たりよったりではないかと思われます。朝日新聞の「Asahi.com」では、一応はトップページに存在します。ただ、意識して読もうとしないと気づかない感(PDF)。

 良い意味で異色を放っているのは、NHKです。
 8月16日夕方、「NHK NEWS WEB」のトップページに、気づかない人の方が多そうな配置ながら、ピックアップニュースとして写真が掲載されています(PDF)。さらに国際ニュースを見ると、目立ちませんが、記事はあることはあります(PDF)。
 この記事は、8月16日17時台のアクセスランキング5位でした。
       NHKランキング

 「読まれるべき記事が読まれるようにしたい」というNHKの中の方々の思い、それに応える読者さんたちの思い。嬉しいじゃないですか。ただ、NHKニュースが情報源の中心になっている方々に、どの程度届いているのか。TV持ってない歴37年目の私には分かりません。

 世界的な関心は、当初よりは若干下がってきた感もありますが、かなり注目されているニュースです。

 こちら米国の CNN International トップページ、8月16日夕方。
 国際記事のコーナーではありますが、やはり目先の大統領選挙と関係する半分内政のような記事が大きく取り上げられています。しかし、そういった記事のすぐそばに、この重油流出事故のニュースが現れます。「これオオゴトなんだから、関心を持ってもらわなきゃ」という「中の人」の思いが透けて見えるようです。

 20200816_CNN_International

 こちらBBC。国際ニュースではなく一般ニュースの中ですが、少しスクロールすると出現します。目を引く写真つきで。

20200816_BBC

 これだけの国際的大事件、しかも「日本が世界の世間様にご迷惑をおかけしまして」という事件でありながら、なぜ日本ではこんなに報道されないのか。不思議です。

 当事者である商船三井は、ごく当たり前と考えられる対応をしています。

当社運航船 座礁および油濁発生の件(2018年8月7日)

(筆者注:座礁した「わかしお」は)日本時間7月26日(日)にモーリシャス島沖で座礁により船体が損傷し、救助作業中の8月6日(木)に燃料油が流出しました。これにより現場海域・地域に甚大な影響を及ぼしています。

 当社は座礁事故発生後より社長をトップとする海難対策本部を立ち上げ、日本およびモーリシャスをはじめとする関係当局と連携して対応しています。また、現地への早期要員派遣を含め準備しています。当社は、引き続き船主や関係者と協力し、早期の事態解決に向けて全力で取り組みます。

WAKASHIO 座礁および油濁発生の件(その2) 2020年08月11日

 座礁した船の状況、行っている重油除去作業が説明されており、末尾に用語解説があります。
(ご参考)
お問い合わせを多くいただいている「船主」「運航」の意味について、以下の通り記者会見より抜粋し補足します。
船主とは、「本船を建造、所有し、乗組員を乗船させ、荷物を運べる状態にする。それにより、運航者である用船者(商船三井)に提供している」
用船者とは、「一定期間、船主(長鋪汽船)から船を借り、荷物を付けて輸送する。『運航』とは船を実際に動かしているのではなく、『どこの港へ行ってください』などのお願い、指令をすることを指す」

 責任範囲を明確にするために用いられる業界用語に対して、「責任逃れか」といったクレームでも殺到したのでしょうか。いずれにしても「素人さんが読むのだ」ということを意識したプレスリリース。その点では好感度大です。「記者会見で用語解説した」という記述があるところから、ふだん、記者向けにそのような配慮をしている様子も伺えます。

 プレスリリースは、その後も続いています。

WAKASHIO 座礁および油濁発生の件(その3)2020年8月13日
WAKASHIO 座礁および油濁発生の件(その4)2020年8月16日

 必要な情報開示は行い、新型コロナのせいで活動が制約されている中で、出来ることはやっている印象を受けます。ただ、国家賠償といった事態に発展する可能性はあるでしょうね。
 いずれにしても、日本の大メディア各社から「商船三井を守らなくては」といった意図を見出すのは、難しいように思えます。すると、「何か差し障りがあるわけではないのに報道されない」ということになります。

日本の報道が少ない理由は、今のところは謎

 もちろん、「他にも報じるべき事件事故がたくさんあるから」という理由は大いに考えられます。戦後75周年、戦争を知る方々の高齢化を考えると、とにかく風化させないことが大切。というわけで、8月に入ると、日本の多くのメディアが終戦記念日モードへと舵を切り、直接知る世代に取材した記事、忘れられかけている史実に光を当てた記事を多数掲載しています。それはそれで、必要かつ重要なことです。

 しかしその事情は、世界のどこでも同じです。8月4日にレバノンで大爆発事故が起こり、その直後は、国際ニュースの半分くらい(体感)が、この爆発事故に関する報道でした。でも世界のメディアは、たった2日後に始まった座礁船からの重油流出も、それなりの重みをもって報道しています。

 日本、何が違うんでしょうか。
 謎です。

[エッセイ]「特攻」に関する記憶(2)-昭和50年代の中学生・高校生として

 本日、2020年8月15日は、終戦から70年の節目の記念日です。
「特攻」に関して、2014年8月15日、当時はオーサーであった「Yahoo!ニュース個人」に書いた記事を転載します。ヤフーのサービスはどうにも肌が合わず、ほとんど使っていなかったのですが、「Yahoo!ニュース個人」編集部からのお声がけをいただき、2014年はじめから2018年10月までオーサーを務めていました。現在は、そのお声がけに応じたことを心から後悔しています。
 以下、当該記事です。

中学生・高校生の時のことは「黒歴史」として封印していましたが

 まず、出身中学校・高校について書くことについて、言挙げをします。

 私はこれまで、出身中学校・高校(1976年中学入学~1982年高校卒業)について「女子校だった」以上に明かしたことはありません。
 柳美里さんが作品化している中高生時代が「まだマシ」と思えるほど酷いイジメに遭っていたからです。

 学校でイジメに遭っているだけならまだしも、地域にも家庭にも逃げ場がありませんでした。家は学校から徒歩15分程度、市境をはさんだ隣町。同じ町内に、同じ学校に子どもを通わせている家庭が10軒はありました。

 もともと、その女子中学校に進んだのは、そこの出身者である母親の強い希望によってのことでした。正直なところ、私は女子校に自分が合うとは思っていなかったのです。

 しかし小学6年のときの私は、担任教師の奨励のもと、日常的に暴力にさらされていました。コンパスの針でつつかれたり、傘で殴られたりすることが日常茶飯事。それどころか、クラスや班で作られた奇妙なルールにより、私は「罰金」を支払わなくてはならないことにされていました。担任教師は「クラス(班)のことだからクラス(班)で解決を」と、まったく取り合ってくれませんでした。「罰金」は毎日毎日増えていき、利子までつけられました。小学6年の2月には、その総額は数千円に達しており、支払わないからといって私はさらに暴力を受けるのでした。

 私の中学受験は、「受験勉強は結構楽しいからする、入試は力試しに受けてみる」くらいの感じでした。子どもだけで通える範囲に進学塾は存在しませんでしたから、参考書・問題集・過去問を買ってもらって、自学自習でした。私はそれを結構楽しんでいました。私の世代だと、少なくとも福岡あたりでの中学受験は概してこんなものでした。塾や家庭教師に助けてもらっての受験が一般的になったのは、私の2学年下あたりからです。
 「受けたら受かった」という結果に対し、周囲の大人たちが「せっかく受かったんだから、行ったら?」と言ってくれたとき、
「やった、これで小学校のイジメから救われるかもしれない」
と思いました。そこで、女子中学校に進学することにしたのです。

 小学校時代の「罰金」は、その後、追いかけてきませんでした。

 しかし同じ小学校から5人程度が、その女子中学校に進みました。その一人が、私の忌み嫌っていた小学校時代のアダ名と「いじめられっ子だった」ということを周囲に吹聴したため、私は中学校でも高校でも、時に自殺または退学を考えるほどのイジメにさらされることになったのです。

 もちろん中学生のとき、高校受験で逃れることは考えました。当時、「嫁入り学校」として認識されていたその女子中・高の教育は、私自身が思い描く職業人としての将来計画には有益ではなさそうでした。イジメがなかったとしても、県立高校を受験したいと考えていただろうと思います。
 しかし、その高校の出身者でもある母親の強い希望により、私は高校にエスカレーター進学することとなってしまいました。

 高校時代はほぼ毎朝、登校すると上履きが下駄箱にありません。すぐ近くのゴミ箱に捨てられていたり、どこにも見当たらなかったりしました。下駄箱にあったとしても、中にはチューインガムやプッシュピンが入っていたりしました。

 教室にいけば、椅子の上にプッシュピンがあったりしました。私がそれをつまみあげて壁に刺すことが数日続いたあと、セロファンテープでプッシュピンが止められている朝があったりしました。机の中にはしばしば、手紙が入っていました。利き手でない側の手で書いたと思われるグチャグチャの文字で書かれた手紙の内容は「気持ち悪い」「消えて欲しい」「死んで欲しい」といったものです。

 担任教員は、「いじめられる側に問題がある」ということにしたがる典型的な学校教員でした。私は、毎日どのような目に遭っているかを訴えたいとも思いませんでした。一度訴えたところ、たいへん大げさに問題にされ、私はほとんど「晒し者」に近いような扱いをされてしまったからです。

 私は高校時代、クラスメートとほとんど会話していません。朝、教室に行ったら「おはよう」、帰りがけには「さよなら」とは言っていました。返事はありませんでしたが、「こちらから口を聞かないわけではない」という態度表明として、私はその空しい挨拶を続けていました。

 ただ単に辛く惨めだっただけではなく、実害もありました。中学3年の3学期、私は音楽の筆記テストでカンニングしたことにされたのです。机にテストの答えが書いてあったという「証拠」があったそうです。何が書いてあったのか、私は知りません。もちろん書いてもいません。でも、騒ぎ立てたグループの一人は模範的な生徒で、その学校の体育教員の子どもでした。音楽の先生たちは
「あなたがカンニングするとは思わないし、する必要があるとも思わないけど、でも、N先生の子どもが問題にしているから、しかたない」
と私に釈明しつつ、音楽のテストを0点にしました。

 卒業後は、同窓会との付き合いが始まるわけですが、これがまた苦痛に満ちたものでした。もと同級生との関係は言うまでもないことですが、同じ中学・高校の出身者であり同窓会と強い関係を維持している母親が、自分の望み通りの付き合いを私に強制するのです。

 私は東京の大学に進学し、ほぼ同時に勤労学生となりました。その後も、就労していなかった期間はありません。

 当時の同窓会は、ほとんどが専業主婦である卒業生たちの都合に合わせて、行事が開催されていました。平日の昼間に、時には1万円以上の費用を必要とする同窓会の集会に参加することは、私には不可能でした。その事実は、母親を激しく怒らせました。

 耐えかねた私は、1997年ごろ、中学・高校の同窓会に手紙を書きました。内容は、同窓会との付き合いが困難な事情と、「今後は同窓会の一員としないでほしい」というお願いです。
 でも、それで同窓会から無縁になれたというわけではありません。母親が同窓会にいる以上、それは無理というものでした。頻度と程度は減りましたが、その後も、うんざりするようなことの数々が続きました。

 というわけで、私は出身中学・高校について明かしてきませんでしたが、今日のエントリーを書くにあたって、明かさないわけにいかないので、明かすことにします。
 現在は進学校としての一面「も」知られる、福岡女学院中学校・高等学校です。歴史あるミッション・スクールとして知られています。

 私の在学中は、学力を伸ばしたい女子・キャリアにつながる進学をしたい女子に対して、むしろ妨害するような傾向のある学校でした。
「九州中から頭のいい女の子を集めて、6年かけてバカにして卒業させる学校」
と言う人までいたくらいです。

 しかしながら、ごく少数の教員たちの理解と協力に恵まれた結果として、私の現在があります。それらの出会いには感謝しているのですが、「行ってよかった」と手放しで言う気には、未だなれずにいます。

中学・高校時代の教員たちにとっての戦争

 私が中学・高校生時代を送った昭和50年代、45~55歳程度の「ベテラン」としてリーダーシップを発揮していた女性教員たちは、終戦時に女学生だったり、女子専門学校(現在の大学に相当)の生徒だったりしました。

 私が中学1年のときに数学を教わった故・山崎マツエ先生は、現在の東京女子大の学生だったと聞いています。学徒動員や疎開で学業どころではない学生生活を送り、東京の学校には戻れないまま、なんとか卒業はできるということになりました。私の記憶ですが、確か昭和21年3月、福岡県にいた同級生と一緒に卒業式に行こうとして下関まで行ったところ、下関駅の駅員さんが、
「卒業式? 生きるか死ぬか、食うか食わずやの人たちがたくさんいるのに、卒業式のために東京に行く人に切符は売れない」
と言い、結局、卒業式には行けずじまいだったということです。
「生きるために東京に行かなくてはいけない人が優先されるのは、それは当たり前だと思ったので、そういう不幸を生み出さないように仕事をしたいと思った」
というようなことを話してもらった記憶があります。

 この山崎先生は、小説家を志していた中学1年の私の数学の素質を見抜き、理数系への進学をそれとなく促してくれた恩人です。

 高校2~3年のときには、化学を内田孝子先生に教わりました。内田先生は、福岡女学院中学・高校が「福岡女学校」だった時期の卒業生です。理科系に進学する女子が一学年230人中7人しかいないという環境で、その女子たちをモチベートし、科学の楽しみや意義を教え、もちろん学力も高め……ということに非常に尽力され、結果も出していました。内田先生がどれほど有能な教育者であったのかを認識したのは、自分が教員免許取得のために大学で教職課程を履修し、教育実習も行ってからのことですが。

 私のうろ覚えですが、内田先生が女学生だった時期に、福岡女学校の生徒たちも学徒動員の対象となったそうです。平和台競技場かどこかで行われた出陣式で、旗手を務めたのは内田先生であったとも聞いた記憶があります。

「振武寮」の立地が意味するもの

 特攻隊は「振武寮」という宿舎を持っていました。何らかの理由で特攻出撃が出来なかった特攻隊員の宿舎でした。
 やや長いのですが、Wikipediaより引用します。
 振武寮(しんぶりょう)とは、福岡の旧日本陸軍第6航空軍司令部内におかれた施設。軍司令部のあった福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)向かいであり、福岡女学院の寄宿舎を接収して設置された。所在地には現在福岡市九電記念体育館が建つ。実質的な管理者は陸軍の特攻を指揮した菅原道大中将部下の倉澤清忠少佐。戦後、長らく知られてこなかったが、映画『月光の夏』の上映以降で近年その存在が明らかにされた。
(略)
 振武隊(西日本にあった陸軍航空部隊第6航空軍指揮下の特別攻撃隊の名称)の特攻隊員として出撃したが、何らかの要因により攻撃に至らずに基地に帰還した特攻隊員が収容された施設である。要因とは様々あり、悪天候・エンジントラブル・機器トラブル・敵機の攻撃のような外的要因から、内的要因まであった。
(略)
 特攻隊員は一方向・一回限りの攻撃であり(実際は敵戦闘機に遭遇したら引き返すよう指示)、その原則を崩すと隊員の士気に関わると考えた特攻隊の指揮官は、これらの帰還特攻隊員を他の特攻隊員から隔離するべしと命令を下したとされる。また死して軍神となったのに実は生きていたとなると大本営発表の虚偽が露見するところとなるため、一般軍人や一般市民からも隔離されたといわれ。振武寮に送致された帰還特攻隊員が、自分より先に特攻で出撃し戦死したとされていた同僚と再会することもあったという。
(略)
 帰還特攻隊員は帰還の直後に福岡の司令部に出頭命令が下り、即座に振武寮にて事実上の軟禁状態に置かれることになる。振武寮の日々は反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経など精神再教育的なものが延々と続けられた。死して軍神となるはずの特攻隊員が生きて戻ってきたことは激しく非難され、「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵られたという。振武寮の目的は帰還隊員にもう一度死を覚悟させて特攻に赴かせるものであったともいわれ、隊員のなかには精神的に追い詰められ、自殺を図る者もいたといわれる。
(略)
 振武寮に関する公的資料はいまだ発見されず(私文書で「振武寮」という言葉のあるものは存在する)、また振武寮の存在は当時の軍の機密事項に属したため、今でも知る人は少ない。振武寮が存在した期間は1945年の5月から6月頃までの1ヶ月半ほどで、約80人が収容されたといわれている。また、振武寮そのものは1945年6月19日の福岡大空襲で焼失したという説も、終戦まで存在したという説もあり、どのように役割を終えたのかは明らかになっていない。

 振武寮で実際にそのような懲罰的なことが行われていたかどうかについては、「なかった」「あるわけがない」という主張もあるようです。
 私がたいへん気になるのは、その立地です。

 当時も現在もミッション・スクールである福岡女学校(Wikipediaの記述には「福岡女学院」とありますが、当時は「福岡女学校」だったはずです)の寄宿舎であったということ。
 そこは数多くの女子校が集中する、東京でいえば飯田橋~四谷あたり、横浜でいえば「乙女通り」のような場所であったこと。

 20歳まで福岡にいた私の記憶の中では、もと振武寮、現・九電記念体育館は、泳げる小学生なら入っても怒られない50メートルプールのある「県営プール」の向かいにあり、プールの後は九電の科学館(うろ覚えですが)のお楽しみがありました。卓球の試合(中学時代)でも何回か訪れた場所です。その時期、福岡女学院は現在と同じように福岡市の南端に移転していました。
 しかし昭和30年代まで、福岡女学院は現在の西鉄大牟田線・薬院駅の近くにあったということです。九電記念体育館は、そこから徒歩15分程度の場所にあります。

 振武寮が存在したとされる当時、そこはもともと、ミッション・スクールである福岡女学校の寮であっただけではありません。
 すぐ近くに福岡高等女学校がありました。現在の福岡雙葉学園も、すぐ近くにありました。もちろん、福岡女学校も近所にありました。女子校・女学生に囲まれているような場所です。

 では当時、福岡女学校はどういう位置づけにあったのでしょうか? 私が読んだことのある学校史にも、あまり詳しくは書かれていた記憶がありません。記録されているのは、学徒動員で生徒が工場で働いたということ、負傷者(?)も出たということと、お下げ髪・制服、スカートではなくモンペの女学生たちの写真です。

 当時の福岡女学校は、キリスト教を積極的に前面に出すことはしていませんでしたが、捨ててもいなければ、否定してもいなかったと聞いています。学徒動員先の寮でも礼拝を守っていたとか。そんなミッション・スクールが、戦時中に迫害されなかったとは考えられません。
 戦時中にありえたはずの迫害について、当時女学生であった教員たちにたずねてみると、非常に沈鬱な顔つきになって「制服で歩いていたら石をぶつけられた」というような話を少しだけしてくれたこともあります。しかし、口は極めて重かったです。語られていないだけで、語りえないほどトラウマティックなことが、たくさんあったのかもしれません。

 福岡女学校の寮が「振武寮」になった理由の正確なところは、今となっては調べようがありません。しかし、女学校が集中している地域の、しかもミッション・スクールの寮をわざわざ選択したということに対して、私は「狙った感」が拭えません。
 もしかすると、「宿舎として手頃な建物があるぞ、そもそも学寮だし」が最大の理由だったのかもしれません。
 しかし、迫害や差別の対象ともなっていたミッション・スクールの寮をわざわざ選んで、そこに特攻できなかった特攻隊員たちを収容したということ。そこで、さらに懲罰的かつ屈辱的な扱いが行われていた可能性。
 私はそこに、「多重の差別、多重の迫害を効率的に行いたい」という意志を読み取らずにはいられないのです。


「君が代・日の丸・元号」と無縁だった福岡女学院

 戦時中、キリスト教を捨てなかったことによって迫害されたキリスト教系学校は、少なくありません。その直接的な結果であるかどうかは別として、現在も君が代・日の丸・元号を用いないキリスト教系学校もあります。
 少なくとも私が在学していた1976年~1982年の福岡女学院でも、徹底して、君が代・日の丸・年号は用いられていませんでした。

 一方で、
「戦時中のキリスト教への迫害はそれはそれとして、その国の国旗・国家・歴史的慣習を尊重する」
という視点から、君が代も日の丸も用いているキリスト教系学校もあります。

 最後に読んだのが数十年前でうろ覚えなのですが、横浜・栄光学園の校長であったグスタフ・フォス氏の著書「日本の父へ」には、
「わが校では、戦時中のことはそれはそれとして、君が代と日の丸は国家・国旗として尊重し、尊重することを生徒にも教えます」
というような記述があったと記憶しています。フォス氏のジェンダー観には大変閉口したものの、私にとって得るところの多い本でした。

 グスタフ・フォス氏が栄光学園で行った「それはそれとして、国旗国家だから」という選択は、それはそれで一つの見識だと思います。


 福岡女学院が私の在学していた時期に行った選択は、
「威張ってばかりでロクに働かない商店主の夫を、立てつつも実際にはいうことは聞かず、家庭や家業の実権を握っている妻」
「同額の資金を出して家を建てようとする共働き夫妻の妻が、封建的な土地柄なので夫の意向ばかり通りやすくなってしまうことに対し、建った後の夫の住み心地を悪くすることで鬱憤を晴らす」
といったものに近いのかもしれません。
 それらは少なくとも1990年代以前、福岡の女性によく見られた「女の抵抗」です。
 現在の福岡女学院で、君が代・日の丸がどのように用いられているのか、あるいは用いられていないのかは知りません。元号に対しても、どのように扱っているのか知りません。

 在学中のできごとは、未だ、思い出すだけで辛いです。学院や同窓会に問い合わせてみたいとは思えません。
(現在、福岡女学院に在学中の中学生・高校生の方、もしよろしければ情報提供いただけたら嬉しいです)

 けれども、もしも現在の福岡女学院が「君が代・日の丸」や元号と無縁であることを貫いているのであれば、思想信条の自由という観点から、その選択を「卒業生として」応援してもいいと思っています。
 そういう学校「も」存在するべきなのです。
 そういう学校の存在「も」許されなくなるときは、日本にとって、ほんとうの危機だと思います。

[エッセイ]「特攻」に関する記憶(1)-昭和40年代の小学生として

 本日、2020年8月15日は、終戦から70年の節目の記念日です。
「特攻」に関して、2014年8月15日、当時はオーサーであった「Yahoo!ニュース個人」に書いた記事を転載します。ヤフーのサービスはどうにも肌が合わず、ほとんど使っていなかったのですが、「Yahoo!ニュース個人」編集部からのお声がけをいただき、2014年はじめから2018年10月までオーサーを務めていました。現在は、そのお声がけに応じたことを心から後悔しています。
 以下、当該記事です。

私の親と同じ世代にとっての、終戦と戦後民主主義

 私は1963年(昭和38年)、1933年(昭和8年)生まれの父親と、1939年(昭和14年)生まれの母親の長子かつ長女として出生しました。

 父親は1945年8月15日、国民学校(当時)の6年生でした。父親の父親、つまり私の父方祖父は、1945年2月、軍需工場を狙った空襲により、勤務先の軍需工場(現在、東京都北区にある豊島五丁目団地)で亡くなりました。

 私にとっての父方祖父が亡くなった時には埼玉県浦和市に住んでいた父親たち5人きょうだい(父親は3番目で長男)は、終戦時、母親(私の父方祖母)の郷里である佐賀県の山村に身を寄せていました。

 父親はその時期のことを、私を含む3人の子どもたちに対して、ほとんど語っていません。しかし、1945年8月15日を境に周囲の大人の言うことが全く変わってしまい、9月の新学期が教科書の「墨塗り」からはじまったこと、それから戦後の「カストリ小説」やエログロナンセンスの氾濫については、なんとも沈痛な顔つきで何回か語っていました。父親の死、まったく異なる環境への移住、さらに終戦は、多感な少年の心にどのような影響を残したことだろうかと思います。もしかすると、戦後民主主義や戦後民主主義教育そのものが、父親にとっては「裏切り」でありつづけているのかもしれません。

 終戦当時に6歳だったはずの母親は、福岡市・博多地域に生まれ育ちました。終戦時は、母方祖母の郷里である福岡県郡部の農村に疎開していたと聞いています。母親の方は、小さすぎたせいか、あまり記憶がはっきりしていません。「いとこたちのいる家に滞在し、基本的には楽しく過ごした」という感じだった様子です。母親は、ほぼ戦後民主主義教育を受けて育った世代には属していますが、家庭や血縁社会や地域社会は「イエ」「ムラ」そのものだったようです。戦後民主主義教育は、「家庭や地域とは全く別世界である学校」という、ねじれた状況を母親にもたらしていたのでしょうか?

 父親より2歳~4歳上の人々は、軍の学校に進学することを考えたり、進学したり、あるいは招集が現実化する可能性に実のところビクビクしたりしていたようです。5歳以上上だと、従軍経験があることも珍しくありませんでした。父親の姉たちの夫の中には、終戦のおかげで、スレスレで招集を免れた人もいます。


昭和40年代の小学生の日常に出現した「特攻」

 福岡市のベッドタウン化が進みつつあった町で育った私は、小学4年の秋、風邪をこじらせ、学校を欠席して4日ほど寝込んでいました。
 二段ベッドの上の段で寝ていると、午後、幼稚園から帰ってきた弟(当時5歳)と向かいの家の同い年の女児・タカコちゃんが積み木遊びを始めました。二人は、積み木を重ねて塔のようなものを作っていました。それはいつもどおりの二人の遊びでした。
 しかしその日は、塔のできあがった後が少し違っていました。
 タカコちゃんと弟は、手に積み木を持ち、「天皇陛下ばんざーい!」「特攻!」と言いながら、塔に突入させて壊したのです。
 どこかで誰かに、特攻隊の話を聞いてきたばかりだったのでしょう。
 二人がそういう遊び方をするのを、私はその日、初めて見ました。前日も二人は積み木遊びをしていましたが、「特攻ごっこ」はしていなかったのです。
 姉である小学4年生の私は、特攻隊とは何であったか、「天皇陛下バンザイ!」がどういう場面で発せられたかを、既に知っていました。
 だから二人に、
「そんな、遊びにしてふざけるものじゃない」
と言いたかったです。
 しかし、風邪で喉と呼吸器をやられていたその時の私は、声を出せませんでした。
 声を出せたとしても、言えたかどうかわかりません。長男である弟に対し、長女である私には発言力がありませんでした。
 子ども向け番組がTVで放映されている時間帯のチャンネル権は、完全に弟にありました。私は、昭和40年代後半に小学生だった女児の多くが見ていたTV番組のほとんどに対して
「存在くらいは知っている」
「主題歌だけは聞いたことがある」
という調子です。
 私が見て育ったのは、「仮面ライダー」「ウルトラマン」「ライオン丸」「キカイダー」の類。夕食時に弟が選んだTV番組が、そういうものばかりであったからです。「アルプスの少女ハイジ」や「ふしぎなメルモ」は、弟が見たかったので見ることができましたけど。
というわけで、
「特攻を遊びにするなんて、やめさせたほうがいいんじゃないか」
と思った私は、「やめなさい」と言えなかったわけです。
 その時、確か、母親は家にいませんでした。言ってやめさせることがもしも可能だったとすれば、弟はそれをあとで母親に報告するでしょう。そのとき、「弟とお友達が楽しく遊んでいるのを、姉が妨害した」というふうに伝わったら、あとで私はどういう罰を受けるでしょうか。想像するだけで恐ろしいことでした。実際に、そういうことは私が5歳くらいのときから、多々ありましたから。

 私は黙って、タカコちゃんと弟の「特攻ごっこ」の背景に想像をめぐらせました。
 二人がその日、誰かに特攻隊の話を聞いてきたのは、おそらく間違いないでしょう。
 誰から聞いたのでしょうか?
 特攻隊そのものに属していたことがあったり、日本軍に属していて特攻隊のことを良く知っていたりした、当時45歳前後くらいの男性だったのでしょうか? でも、平日の午前中や昼間に、そういう壮年世代が町にいて幼稚園児に特攻の話をするというのは考えにくい話でした。
 特攻できょうだいや恋人や夫を失った、自分たちの両親より少し上の世代だったのでしょうか?
 特攻で子どもを失った、当時60~70代の女性や男性だったのでしょうか?
 その人は、どういうつもりで幼稚園児に特攻隊の話をしたのでしょうか?
 タカコちゃんと弟は、どういうふうに受け止めているのでしょうか? そもそも、内容を理解できていたのでしょうか?

……そこまで考えた私は、
「ああ、二人は『お国のために飛行機に乗って自殺攻撃をする』という人たちがいた事実を、実は理解しきれていなくて、気持ちの中で受け止めきれていないのかもしれない。だから、今、積み木で『特攻ごっこ』をしているのかもしれないな」
と思い至り、
「続くようだったら、方法や言い方を考えて、やめさせよう」
と考えました。

 二人はその後、少なくとも私の見ているところでは、積み木での「特攻ごっこ」はしていませんでした。「何も言わずに様子を見る」は、結果から見れば正解だったのかもしれません。その時「天皇陛下ばんざーい!」「特攻!」と叫びながら積み木で塔を壊すことで、二人は聞いた話を受け止めることができ、その後、繰り返す必要がなくなったのかもしれないと思ってます。

 タカコちゃんは、たいへん学業優秀な小中学生に成長しました。高校は地域トップの進学校に進み、大学時代の途中からは海外の大学に留学したと聞いています。
 20歳でその地域を離れた私は、タカコちゃんのその後についてほとんど知らないのですが、7年ほど前に聞いた最後の消息では、タカコちゃんは国連に勤務しているということでした。

 5歳のときの「特攻」を覚えているかどうか、その時にどう感じていたのか、今どう思っているのか。
 機会があれば、タカコちゃんに聞いてみたいと思い続けています。

[メモ]ALS嘱託殺人に関して報道されていないけれど気になることがら

いつものように、note記事の下書きを兼ねています。

 2020年7月に報道が開始されたALS嘱託殺人(発生は2019年11月)に関して、報道は概ね、以下の5点に集中しているように思われます。
  1. 容疑者の医師たちが異常
  2. 呼吸器をつけて明るく楽しく生きている人たちがたくさんいる
  3. 安楽死の是非、安楽死の議論を行うことに関する是非
  4. 周辺の人々(介助者や支援者など)の記憶や思い
  5. 亡くなった林優里さん(当時51)の人となり
 どうも、私には違和感があります。

1. 容疑者の医師たちは異常なのか?

 「死にたいなら殺してあげますよ」という人なら、恐らくいつでもいます。2017年の座間9遺体事件もそうだったし。1998年には、「ドクター・キリコ」を名乗る人物が青酸カリ入りのカプセルを通販し、実際に飲んで自殺した女性がいました。当時、SNSはまだ出現していませんでしたが、「自殺系サイト」は珍しくありませんでした。



2. 呼吸器をつけて明るく楽しく生きている人は確かにいるけど?

 呼吸器をつけて、大変ながらも楽しい毎日を送っている方々は、私の直接知る範囲に多数います。
 そのお一人である練馬区の橋本みさお(日本ALS協会相談役)さんは、身体の状況は亡くなった林優里さんと同様ですが、人工呼吸器を装着して大活躍。ヘルパーが痰の吸引をできるように制度を創設するなど、最重度の障害者が生きて暮らせるように社会を変えてきたお一人です。
 それだけではなく、派手で可愛い服に身を包んでアイドルグループの追っかけを楽しみ、時には高級レストランで胃ろうから美食とワインを楽しみ、犬のポンちゃんのしつけに苦労していました(ポンちゃんは高齢のため既に他界)。
 私の身体障害が発生したとき、ALSも疑われていました。どういう病気か知らなかったのでネット検索してみると、最初に見つかったのが橋本みさおさんの暮らしぶりでした。こんな楽しそうな暮らしが最悪の可能性なら、何を恐れる必要があるでしょうか。私はヘラヘラ楽観的になってしまいました。楽観的なので、障害や難病に嘆き悲しむ私を期待する周辺の人々との間に軋轢が引き起こされることになり、むしろ私はその軋轢に困惑したものです。
 しかし、橋本さんのような暮らしは、全身の運動能力を奪われた難病患者や障害者の全員に対して「当然の権利」として与えられるものではありません。自ら支援者や介助者を組織し、行政に立ち向かうことの出来る人々だけが獲得できるものです。まだまだ、例外的な少数の人々が道を切り開いて「既成事実」を作っていかなくては、現在は生きられている人々まで生きられなくなるのが実情です。日本の障害者の間では、「障害者は、生きるために障害者運動家にならざるを得ない」と言い伝えられてきました。程度の大小はともあれ、それは2020年現在も事実です。
 問題は、障害者運動家として生きる道を切り開いていく「例外的な少数」に入れない人々、あるいは、障害者になったために否応なく押し付けられる運命や宿命の数々が存在することを受け入れられず、したがって「生きることを諦める」ということになる可能性の高い方々です。「障害者になったら特別な何かをしなくては生きていけない」という現実は、私自身にとっても未だに受け入れがたいものです。適応しなくてはならない現実だし、適応してきたから今があるわけです。でも、それで良いとは思っていません。



3. 安楽死の是非、安楽死の議論を行うことに関する是非

 生の選択肢の一つとしての「安楽死」は、私は「アリ」だと思っています。だから、実質的に選ぶことも選ばないこともできるようにしてほしいと思います。「安楽生」は選べないけど「安楽死」なら選べるというのでは、消極的に自殺を奨励しているようなものです。
 ところが現在は、闘う障害者、せめて道を切り開くリーダー的障害者にならないと、「安楽生」どころか「生きる」ことが実質的に選べないわけです。この状況を変え、障害者になったら誰もが安楽に必要な支援と資源を得て楽しく生きられるように、そういう障害者たちが頑張っているわけです。現状がこのようである以上、多くの障害者にとっては、生きて暮らしながら享受する「安楽生」の数々の選択肢の端っこに「安楽死」という選択肢があるわけではなく、生きて暮らすだけで消耗する日常から降りたいと思ったら死ぬしかなくなるわけです。
 私から見れば、安楽死を議論する以前の問題です。現状も現実も充分に知られていません。安楽死を希望する障害者たちのSNSでの発言を見ると、確かに苦痛や不安に満ちています。最初にすべきことは、何がその苦痛をもたらしているのかを見極め、苦痛や不安を減らしたりなくしたりするために必要なもろもろを提供することではないでしょうか。生きることを容易に可能にするための議論は、安楽死の議論に比べて、あまりにも不足しています。



4. 周辺の人々の記憶や思い

 林さんが嘱託殺人によって亡くなった以上、周辺の介助者や支援者が林さんに「この楽しい人生を明日も生きたい」と思えるようなケアや支援を提供できていなかったことは、事実として認めるべきでしょう。
 何がどのように欠落していたのか。あるいは、どのように、あってはならない虐待などの出来事があったのか。その視点からの検証が、少なくとも現在までの報道には見当たりません。
 とはいえ、報道機関がコメントや参考情報を求める対象は、生きて道を切り開くALS患者さんや介助者や支援者や家族にならざるを得ないでしょう。ALSの介助に対応できる介護事業所やヘルパーさんは、非常に少ないという現実があります。これ以上減ると「現在は地域で生きて暮らせているALS患者さんが、施設にはいらざるを得なくなる」といった成り行きも想定されます。コメントや参考情報が、辛うじて支え合っている介助者や支援者や家族の小さなコミュニティからしか出てこないことは、どうしようもありません。せめて「そういうものである」と理解し、「実はどうなのか?」を照らし出せる別の誰かの視点からのコメントを添えるのが、現状では精一杯でしょう。



5. 亡くなった林優里さん(当時51)の人となり

 ご本人は既に亡くなっており、深堀りしても新事実が出てくるわけではありません。
 私から見ると、林さんにとっての障害者福祉の使い心地が大変気になるところです。日本の福祉制度の多くは、社会的弱者に対する「これだけは、してあげる」という恩恵的な発想から脱しておらず、「基本的人権を無条件に保障する」というものにはなっていません。林さんのような高学歴キャリア女性は、想定範囲に入っていません。制度の「あなたのような障害者は想定していない」という言外のメッセージは、林さんにとってどのように感じられていたのでしょうか。高学歴で留学歴もある専門職、しかも今はALS患者ということで、あまりにもマイノリティになりすぎてしまったゆえの苦痛はなかったでしょうか。
 周囲の方々は、林さんに気遣いをされていたけれども気づいていなかった可能性が高いと思われます。その方々から聞き取っても、おそらく何も出てこないでしょう。



障害者コミュニティの「外」の方々に期待しています

 「このまま、林さんご本人の声はヴェールに隠されたままになってしまうのか」と思っていた8月4日、江川紹子さんのご記事に、「おおっ」と思いました。Yahoo!ニュースじゃないから安心して読めて、助かります。

【ALS患者・嘱託殺人】亡くなった林優里さんの発信が投げかける、社会への重い課題

 私の「おおっ」を抜き書きします。

 難病に限らず、「死にたい」という言葉は、「生きたいのに生きられない」というメッセージでもある。今回のケースについても、「どうすれば彼女は生きられたのか」との議論が必要だろう。

 死への願望がある種のタブーにされ、亡くなった林優里さん(当時51)の声がメディアであまり伝わっていないのは、それはそれで気になる。彼女のSNSなどを読むと、同じ難病の患者などと対話をしながら、患者自身の“命の権利”を訴え続けていたことがわかる。今回は、その発信から、彼女が社会に投げかけた重い課題を考えたい。

 死への願望をタブーとし、困難ななかでも前を向いて懸命に生きる人ばかりが登場するメディアの報じ方には、いささかの疑問を感じている。それで私たちは、本当に課題の重さを感じ取ることができるのだろうか。

 林さんは最後まで精神的に自立した日々を送っていた。「安楽死」を望んではいたが、それは自分の生を主体的に生きることの延長線にあり、背景には「心の安堵と今日を生きる希望」を切望する思いもあった。

 抜き書きした部分からは、「障害者と介助者と支援者のコミュニティの中で障害者が生きざるを得ないことについて、江川さんは実は詳細を相当ご存知であったり、解き明かさなくてはならない謎だと思っていたりされるのかも」と期待したくなってしまいます。ブログとツイッターに残された林さんの言葉も、丁寧に読み込まれています。難病や障害の当事者の方々から、江川さんは早くも期待されているようで、「安楽死の法制化 江川紹子さんとつながる」というmixi日記に一端が示されています。

 障害者のコミュニティの外からの視線が、「前向きに生きれば道は開ける」と「安楽死は認められるべき」ばかりでは困ります。まったく外の立場から、障害者が生きて暮らすことの現状を明らかにし、「死にたい」を増幅する要因は何なのか明らかにする記事がもっと増えることを願っています。

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「生活保護リアル(Kindle版)」
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(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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