2015年9月9日未明に猫の摩耶(18歳+約4ヶ月)を失ってから、あと3日で満3ヶ月となります。
早いものです。
摩耶に逝かれた後は、二度と立ち直れないかのような気持ちになり、ダメージを引きずっている状態が11月中旬まで続きました。自覚していないだけで、まだダメージは残っているのかもしれません。
しかし、一つの気づきがありました。
そして、「立ち直り?」と思える出来事が三つありました。

2013年12月の摩耶(17歳7ヶ月)と私。
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  • 一つの気づき
2009年12月、私は公私ともに最低に近い状況にありました。
そんな中で、猫の悠(当時11歳)の慢性腎不全が発覚し、毎日の服薬が始まりました。悠は5月には甲状腺機能亢進症であることも判明し、薬剤の量の調整に成功しないまま夏を迎え、2010年8月には、夏が越せるかどうかも危ぶまれる危機的な状態に陥りました。
同じ2010年8月、摩耶(当時13歳)の慢性腎不全が発覚しました。
2010年8月、私は公私とも、最低より酷い「ドツボ」というべき時期にありました。
しかし摩耶と悠の闘病を支えることで自分を支え、立ち直り、現在に至っています。
2009年12月に始まった摩耶と悠の闘病は、2013年3月に悠が他界し、ついで2015年9月に摩耶が他界したことで、ひとまず終止符が打たれました。
5年10ヶ月。
長いような短いような、毎日、プレッシャと大変さに「放り出してしまいたい」と思うような、しかし同時に、永遠に続いてもいいと思えるような、濃密な時間でした。

甘え上手で、可愛さのアピールが上手だった悠。
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摩耶を失ってしまった私は、9月半ばごろから、脳内に一気に噴き上げてくる幼少時からのトラウマティックな記憶に苦しめられました。主に原家族での記憶で、登場するのは両親ときょうだいです。
しばらくの間、まるで自動筆記マシンになったかのようにツイートし、ときおりtogetterに「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」というまとめを作りながら、気づきました。
大学4年で23歳だった秋、最初の猫と暮らし始めて以来、私は「目の前の猫を守る」に没頭することで、辛い記憶の数々から、目をそらし続けてきたのです。
2009年12月以後、摩耶と悠の闘病が始まって以後は、なおさらそうでした。その時期、特に2010年から2012年前半にかけて原家族のメンバーとの間に何があったかは、「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」に書きました。知りたい方は、そちらをどうぞ。もちろん私は今でも思い出すことができますが、あまりにも辛いので、繰り返し思い出して書きたくありません。
原家族の中での辛い体験の辛い記憶に直面することを避けながら、原家族のメンバーと表面的な付き合いを続けながら(2007年、実質的に縁を切られるまでのことですが)、私は51歳まで、何とか生き延びて来ました。
原家族のメンバーとの話し合いの努力は、精一杯してきました。話し合いに応じられないので対決することも試みました。しかし、何も通じませんでした。
さらに2010年から2011年にかけての出来事で、私は原家族に対して、どのような望みも抱かなくなりました。あの状況で何かを望んだら、私が愚か過ぎるということです。何があったかは「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」をご参照ください。
摩耶を失い、毎日の注射や皮下補液や服薬や健康状態チェックや……という日課と生命を守るプレッシャから解放された私に、長年、直面することを避けていた原家族との問題が、一気に降りかかってきた気がしました。
「摩耶と悠を守らなくては」という5年10ヶ月間の緊張は、原家族の問題によるダメージから自分を守る殻としても機能していたのです。
摩耶が逝ってしまって初めて、私はそのことを自覚したのでした。
「母は強し」と言いますが、母は子のために強くなることによって、初めて、自分を守れる人間になれたのかもしれません。
過去に読んだことのある「母親」の物語を、そういう視点から、もう一度たどり直してみたいものです。


  • 一つ目の出来事
2015年12月1日朝。
私は目覚め、中国・北京市のホテルで朝風呂をしました。
学会参加のため11月29日夜から北京市のホテルに滞在していた私は、11月30日に無事に発表を終え、ほっとした気持ちで長湯しました。
じっくりと身体を温め、浴槽の中で悠の愛した「アンパンマンのマーチ」を歌い(我が家で「読経」と呼んでいる日課です)、冷水シャワーを浴び、汗が引いたところで身体を拭いて服を着て。
私は
「動物虐待 動物虐待 大変だ 大変だ」
と歌い始めました。意識してではなく、自然に。
それは、摩耶の毎朝の皮下補液とインシュリン注射のために作った歌の冒頭でした。

摩耶の皮下補液の様子を記録した、唯一の動画です。歌も入っています。


でも、そこは北京のホテルです。
ずっと東京で暮らし、3ヶ月近く前に死んでしまった摩耶がいるわけはありません。
私は歌い続けましたが、歌の途中で涙が止まらなくなり、数分間、そのまま涙を流し続けました。
そして思いました。
摩耶は猫の肉体をもって、18年と約3ヶ月を私とともに過ごしてくれました。
今もきっと、摩耶は私とともに生きているのだ、と。
  • 二つ目の出来事
12月3日、帰国のため北京市内を駅に向かって移動していた時のことです。
信号も横断歩道もなんのその、車の流れが途切れない交差点を渡ろうとしていたら、車がすぐ横手に迫ってきました。
頭の中に
「失敗は許されんとよ(許されないのよ)」
という声が響きました。母親のものでした。私だって「失敗したくない」と思っている入試などの直前に、母親が何十回も耳元で繰り返す「失敗は許されんとよ」に、私はどれほど苦しめられてきたか。言い表しようもありません。
外国で交差点を渡ろうとするときも含め、一歩間違えば身の危険に繋がるような場面、あるいは仕事や学業で強いプレッシャの下にあるとき、私の頭の中には母親の「失敗は許されんとよ」がいつも鳴り響いたのでした。私は頭の中でガンガン鳴り響く「失敗は許されんとよ」に絶叫したいような気持ちになりながら、いくつかの困難に立ち向かいました。乗り越えられた困難も、避けられた危険もありますが、失敗の方が多かったのではないかと思います。母親によれば、成功すれば「お母さんが言ってやったから」と母親のおかげ、失敗したら私のせい。
しかし、その北京の交差点で、私は
「失敗は許されんとよ」
という母親の声に
「そうですか」
と答え、そのまま車を避けて交差点を渡り終えました。
当惑して立ち尽くす母親の姿が交差点の中に見えましたが、まもなく、行き交う車に隠されて見えなくなりました。

たったそれだけのことですが、私にとってはエポックメイキングな出来事でした。
私は長らく、脳内に深く打ち込まれた辛い記憶に苦しめられずに生きられるようになれれば、と望んできました。
この時、「もしかすると現実になるかもしれない」と確信できたのです。
少なくともその一瞬、私は自分の「そうですか」という言葉で、「失敗は許されんとよ」という母親の声に混乱させられることなく、危険な交差点を渡り切ることができたのです。

  • 三つ目の出来事
いくつもの病気を抱えることになった摩耶と悠に対し、資金も時間も体力も限られた中で、出来るだけのことはしてやりたいと思いました。それは、99%くらいは実現できたと思っています。
しかし摩耶の最後にあたって、私には大きな心残りがありました。
亡くなる3日前の9月6日夜、タクシーで摩耶を動物救急センターに運びこんだとき、脳神経疾患を疑った獣医さんにMRI検査を勧められたものの、「10万円」という費用を聞いて尻込みしてしまったのです。
住まいの耐震補強に伴う仮住まいへの引っ越しなどなど、何かと出費のかさむ時期だったので、10万円という費用に対して「お願いします」と即決できませんでした。
摩耶は翌朝、いったんは起きて食事が出来るところまで回復しましたが、その後すぐ容体が悪化。二度と起き上がることなく、9月9日早朝に亡くなりました。
死後のMRI検査・CTスキャン検査・髄液検査で、死因は脳髄膜炎であること、脳にリンパ腫があり脊髄に転移していた可能性も高いことが判明しました(麻酔不要なので、頭部MRIと全身CTスキャン合わせて3万円でした)。
私は大いに後悔しました。なぜ、あのとき、10万円を惜しんだのだと。
脳と脊椎の状況が判明したからといって、大きな改善が見込めるわけはなく、せいぜい数日の延命が可能だった程度でしょう。
でも、そのせいぜい数日、意識のある摩耶に話しかけ、コミュニケートすることができれば。
今、身体の中で何が起こっていて、これからどうなるのかを話して聞かせてやることができれば。
摩耶の最後の何日かは、もっと幸せだっただろうに、と。

それから自責しました。
私は2014年度のほぼ一年間、「生活保護」というキーワードに関連して、二人の男性に苦しめられました。
一人は「生活保護詐欺」というべき悪質なタカり。実際に支出させられることになり、「返します」という再三の言葉にもかかわらず返されることのなかった費用は、直接の出費だけでも9万円に及びます。あの9万円が失われていなかったら!
(本件、ここに詳しい事情は書きませんが、いわゆる「不正受給」には当たりません。その期間、カネを出させた相手(妄想性の精神疾患ありと思われる)は保護廃止中でした。タカった直接の相手はその人の親で、日本人ですが日本には住んでおらず、もちろん日本の生活保護受給者でもありません。外国居住中の日本人に対する「生活保護を利用した都合の悪い家族の捨て方マニュアル」でも存在するのか? と思うほど巧妙な、居住地・現在地など生活保護の「ツボ」を知り尽くして突いているとしか思えないパターンでした。2015年2~3月に大変な目に遭い、ついで6月に「タカられた」が確定して以来、タカった相手への怒り・騙された自分への自責と嘆き・無理解から(なにしろ詳しい事情を語ることができませんので)私を責めた人々・私がリアルタイムで苦しんでいるというのに社会運動の論理でさらに追い打ちをかけてくる人々などへの怒りでいっぱいでした。しかし、激しい感情は、そろそろ収まってきました。来年前半には、この件をまとめて書く事ができるかと思います)

もう一人については、相手が10代のころから15年以上にわたる付き合いでしたが、もう、書きたくも思い出したくもありません。かつては良い友人関係にありましたが、最後は単なる搾取者でしたから。
もしも私が「自分は生活保護」「自分は精神障害」を理由にして時間・気力・体力を奪いつづける男性を、2014年度に自分に近寄らせていなかったら、金額換算で何十万円を得ることができていたでしょうか? 失った時間、それによって失った機会、それを取り戻そうとしての消耗を考えると、いまだ数百万円の損害を被っているのかもしれません。
(「こんなことを書くと人格攻撃してくるだろうな」と思い浮かぶ反貧困運動界隈の男性が何人かいるのですけれども、「もう勝手にしろ」としか思いません。その人たちは、私と家族の人生に責任を負っているわけではないし、負いたくても負えないわけですから)
私が愚かすぎて、ジェンダーというものに対して充分な注意を払わずに男性のメールに答えたり、男性に会ったりしたから、こんなことになった。
だから、摩耶に最後に充分に治療を受けさせてやれなかったんだ。愚か者め、愚か者め、愚か者め!
私はそんなふうに、自分を責め苛み続けていました。3ヶ月近くにもわたって。

でお12月3日、中国から帰国して。摩耶ねーちゃんが大好きだった瑠に再会して。
幼少のとき虐待から救出され、5歳までシェルターにいた瑠は、今でも人間を簡単には信頼しません。
一緒に暮らし始めて2年8ヶ月になる私も、数日に一度は触らせてもらえるかどうかです。
でも、ちょっとぎこちないコミュニケーションで、アイコンタクトで、再会を祝しあっているうちに。
「摩耶の最後に10万円を出し惜しむことになったのは、あの二人のせいだ。あの二人が、摩耶から最後の十分な治療と、最後の数日間を奪ったんだ。悪いのは、あの二人。自分を責めるのはやめよう」
という気持ちになり、
「そういうリスクをもたらす人との接触は、これからは最小限にしよう、人語を話せない猫たちに、しわ寄せが及ぶんだから。私が『猫のおかあさん』である以上、しなくてはならないことなんだから。私はまず、私を守らなくちゃ。どういう名目でも、私の安全や健康の脅威になる人は近づけず、脅威になってきたら全速力で遠ざかるようにしなくちゃ」
と決意しました。
摩耶と一緒に苦しみ、摩耶と一緒に吹っ切った気がします。

2015年12月6日、これから50cmほどの下降ジャンプを試みようとする瑠(7歳7ヶ月)。
私の出張中、過食気味だったようで、太っちゃってます。
適量のご飯にカーチャンがいる心の満足をプラスして、少し痩せてもらわなくちゃ。
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  • たぶん、まだまだ続くプロセス
なんといっても、18年3ヶ月という長い時間をともにしてくれた摩耶がいなくなった喪失感は、やはり多大なものです。
これからもまだまだ、私自身の回復のプロセスは続くのでしょう。
もうすぐ3ヶ月になろうとしている今のところを、とりあえず記録しておきます。