まだ、本調子でない状況が続いています。
一日実働6時間くらいで力尽き、どうにもならないので仮眠しようとしたら最後、9時間とか10時間とか眠り込んでしまいます。
衆議院解散、総選挙、ろくでなし子さん再逮捕などが私の周辺の精神的に弱い生活保護利用の人々にもたらした変調と、それによって私が受けたダメージの大きさは、自分でも計り知れない感じです。
でも、とにかく、回復しなくちゃ。仕事に対する責任を果たさなくちゃ。
私は、仕事に対して責任があります。猫たちに対して責任があります。
精神障害を持っており、生活保護を利用している立場の人々の、しがみつく手や「話を聞いて欲しい」という要求を断るのは、とても困難でした。
「仕事をしていない」というか、働くことのできない人々に「私は、仕事が」と言うこと。
「自分と家族の生活を守るためにも、私は仕事しなくては」と言うこと。
いずれも、働けないから生活保護を利用している人々を、決定的に傷つける可能性のある一言です。
でも、私は、断らなくてはなりませんでした。
考えてみれば。
その人々は、「健康で文化的な最低限」にも足りていないとはいえ、一応、生きていくことができるだけの生活保護費を得ています。精神医療にもつながっています。ときに悪質な精神医療も存在しますが、その人々がつながっている医療機関は良心的なところばかりです。医療機関は医療を提供することが職務であり、報酬を得られます。
その人々から見て好悪いかなる存在であるかは別として、福祉事務所のケースワーカーをはじめとする援助者もいます。公的な援助者たちもまた、援助を提供することを職務としており、報酬も得られます。
でも私は、しがみつかれて話を聴くことを要求されたら、その分の時間と精神的エネルギーが完全に持ち出しになる存在です。「持ち出しだから、一切しない」などというつもりはなく、これまでも友人・隣人として出来るだけの助力はしてきました。時に「限界だ」と感じつつも、話に耳を傾けてきました。でも、その人々が満足することはなく、私は消耗するだけでした。
やはり後悔してしまいます。自責してしまいます。 なぜ、しがみつく手を振り払わなかったんでしょうか? 苦痛に耐えつつ、話を聞きつづけたんでしょうか? 相手に精神障害? 相手が生活保護?
冷静に考えてみれば、そんなことは何一つ、私が「振り払う」という行動をしない理由にはなりません。もし、相手がそれを、私の時間やエネルギーを奪い取ることを正当化する理由としたとしても。
私は、「その人達の要求から自由になるために死にたい」と思いつめるところまで追い詰められてしまいました。
そして、やっと、その人達との関係を断ち切る決心がつきました。
その人達が私の時間やエネルギーを必要としていても、私は応じることができません。だから応じない。それでよかったんです。私が応じなければ、その人達は、別の誰かにしがみつくでしょう。別の誰かが振り払うことを続けていれば、いつか、医療機関や行政に、もしかしたら「本当はイヤ」と思いながらもしがみつき、さまざまな援助を業としている方から援助を受けることになるでしょう。そのうちに、同じ悩み苦しみを抱えた仲間のいる場所にたどりつくかもしれません。
私は、関係を断ち切るための行動を起こしました。ほんの一週間前のことです。
それから数日間、私はクリスマス前のちょっと浮かれた街の雰囲気、書店に並んでいる本といったものを見て、いちいち涙ぐみました。私も、街のあたりまえの一部でいていいんだ、私も、自分の読みたい本に心が動いていいんだ、と。
気分を変えて仕事に集中するためにネットカフェに行き、トイレの壁に貼ってあった新着コミック一覧を見て、
「ああ、私も、読みたかったら読んでいいんだ」
と、また涙ぐみました。
その人々には、共通することがありました。
「悪の医療に痛めつけられてきた自分」「ひどい精神医療に痛めつけられてきた自分」「新自由主義に痛めつけられている自分」
といった意識でいっぱいで(医療の問題は一部は事実でもあると私にも思われますし、新自由主義も現在進行中の事実ですが)、そういう本ばかり読み、私にそういう本を読むことを強く求め、自分と同じような感想を語ることを暗に求めるのです。
なのに「自分は社会的弱者だから」を理由として、何の行動もしません。
私が行っている、国連各種委員会や国会でのロビイングや集会、パブリックコメント投稿、大学院での研究などは、全部「くだらない」「意味が無い」と非難されます。そのうち、怖いので口にしなくなりましたが、ネットでの活動は知られてしまいます。すると、次に接触した時に、非難されるわけです。
いつしか私は週刊の連載も、Yahoo!ニュースの執筆も、恐る恐る、ビクビクしながら、恐怖に耐えつつ行うようになっていました。「政権に睨まれる」あたりは、最初から覚悟の上です。でも、政権よりも警察よりも公安よりも、私は、その人々を恐れるようになっていました。
自分が落ち込んでいるときには同様に私が落ち込んでいることを、自分が悪い状況にあるときには同様に私が悪い状況であることを求める、ということもありました。
よくよく、共感を求めていたのでしょう。理解してほしかったんでしょう。でも、私は、本当に辛かった。
私が精神障害も持っているからといって、私が生活保護問題について書いているからといって、その人達の精神障害と生活保護の世界に閉じ込められなくちゃいけない理由はなかったんです。
嬉しいとか楽しいとか思いたかった。笑いたいと思うときに、笑いたかった。
私の小さな前進や小さな達成を、喜びたかった。
でも、できなかったんです。その人たちの不快・不満・悲しみにつながることが怖くて。
食欲、日常生活については、かなり復調してきています。
そんな本日の朝ごはん。

冷蔵庫に、蒸したジャガイモが一個ありました。たぶん今月初めごろのもの。
塩と梅酢をまぶして下処理してから蒸してはいますが、一部は腐敗していました。
腐敗している部分を切り落として、塩ワカメとともに味噌汁に。残りは、オムレツ(卵の白身だけ)風(中央上・混ぜてレンジ加熱しただけ) に。
卵の黄身は前の晩から醤油漬けにしておきました。卵かけごはんに。
クレソン、味噌汁に使った塩ワカメの残りは、ピエトロの醤油ドレッシングにチューブ入りショウガ・梅肉・練りゴマを混ぜたものとともにサラダに(左上)。
今日は魚もあります。冷蔵庫から出しただけのイワシのごま漬け(出来合い)。
豆製品が味噌汁の味噌だけですが、ま、いっか。
そして、摩耶(17歳6ヶ月8日)、愛してるよ!
摩耶のためにも、「できないことは、できない!」とはっきり言い、自分のすべき仕事や責任を守らなくては。

ちょこっとアフィリエイト。
ピエトロのドレッシングがないと生きていけない(おおげさ)福岡県人。
毎朝お世話になってます。
一日実働6時間くらいで力尽き、どうにもならないので仮眠しようとしたら最後、9時間とか10時間とか眠り込んでしまいます。
衆議院解散、総選挙、ろくでなし子さん再逮捕などが私の周辺の精神的に弱い生活保護利用の人々にもたらした変調と、それによって私が受けたダメージの大きさは、自分でも計り知れない感じです。
でも、とにかく、回復しなくちゃ。仕事に対する責任を果たさなくちゃ。
私は、仕事に対して責任があります。猫たちに対して責任があります。
精神障害を持っており、生活保護を利用している立場の人々の、しがみつく手や「話を聞いて欲しい」という要求を断るのは、とても困難でした。
「仕事をしていない」というか、働くことのできない人々に「私は、仕事が」と言うこと。
「自分と家族の生活を守るためにも、私は仕事しなくては」と言うこと。
いずれも、働けないから生活保護を利用している人々を、決定的に傷つける可能性のある一言です。
でも、私は、断らなくてはなりませんでした。
考えてみれば。
その人々は、「健康で文化的な最低限」にも足りていないとはいえ、一応、生きていくことができるだけの生活保護費を得ています。精神医療にもつながっています。ときに悪質な精神医療も存在しますが、その人々がつながっている医療機関は良心的なところばかりです。医療機関は医療を提供することが職務であり、報酬を得られます。
その人々から見て好悪いかなる存在であるかは別として、福祉事務所のケースワーカーをはじめとする援助者もいます。公的な援助者たちもまた、援助を提供することを職務としており、報酬も得られます。
でも私は、しがみつかれて話を聴くことを要求されたら、その分の時間と精神的エネルギーが完全に持ち出しになる存在です。「持ち出しだから、一切しない」などというつもりはなく、これまでも友人・隣人として出来るだけの助力はしてきました。時に「限界だ」と感じつつも、話に耳を傾けてきました。でも、その人々が満足することはなく、私は消耗するだけでした。
やはり後悔してしまいます。自責してしまいます。 なぜ、しがみつく手を振り払わなかったんでしょうか? 苦痛に耐えつつ、話を聞きつづけたんでしょうか? 相手に精神障害? 相手が生活保護?
冷静に考えてみれば、そんなことは何一つ、私が「振り払う」という行動をしない理由にはなりません。もし、相手がそれを、私の時間やエネルギーを奪い取ることを正当化する理由としたとしても。
私は、「その人達の要求から自由になるために死にたい」と思いつめるところまで追い詰められてしまいました。
そして、やっと、その人達との関係を断ち切る決心がつきました。
その人達が私の時間やエネルギーを必要としていても、私は応じることができません。だから応じない。それでよかったんです。私が応じなければ、その人達は、別の誰かにしがみつくでしょう。別の誰かが振り払うことを続けていれば、いつか、医療機関や行政に、もしかしたら「本当はイヤ」と思いながらもしがみつき、さまざまな援助を業としている方から援助を受けることになるでしょう。そのうちに、同じ悩み苦しみを抱えた仲間のいる場所にたどりつくかもしれません。
私は、関係を断ち切るための行動を起こしました。ほんの一週間前のことです。
それから数日間、私はクリスマス前のちょっと浮かれた街の雰囲気、書店に並んでいる本といったものを見て、いちいち涙ぐみました。私も、街のあたりまえの一部でいていいんだ、私も、自分の読みたい本に心が動いていいんだ、と。
気分を変えて仕事に集中するためにネットカフェに行き、トイレの壁に貼ってあった新着コミック一覧を見て、
「ああ、私も、読みたかったら読んでいいんだ」
と、また涙ぐみました。
その人々には、共通することがありました。
「悪の医療に痛めつけられてきた自分」「ひどい精神医療に痛めつけられてきた自分」「新自由主義に痛めつけられている自分」
といった意識でいっぱいで(医療の問題は一部は事実でもあると私にも思われますし、新自由主義も現在進行中の事実ですが)、そういう本ばかり読み、私にそういう本を読むことを強く求め、自分と同じような感想を語ることを暗に求めるのです。
なのに「自分は社会的弱者だから」を理由として、何の行動もしません。
私が行っている、国連各種委員会や国会でのロビイングや集会、パブリックコメント投稿、大学院での研究などは、全部「くだらない」「意味が無い」と非難されます。そのうち、怖いので口にしなくなりましたが、ネットでの活動は知られてしまいます。すると、次に接触した時に、非難されるわけです。
いつしか私は週刊の連載も、Yahoo!ニュースの執筆も、恐る恐る、ビクビクしながら、恐怖に耐えつつ行うようになっていました。「政権に睨まれる」あたりは、最初から覚悟の上です。でも、政権よりも警察よりも公安よりも、私は、その人々を恐れるようになっていました。
自分が落ち込んでいるときには同様に私が落ち込んでいることを、自分が悪い状況にあるときには同様に私が悪い状況であることを求める、ということもありました。
よくよく、共感を求めていたのでしょう。理解してほしかったんでしょう。でも、私は、本当に辛かった。
私が精神障害も持っているからといって、私が生活保護問題について書いているからといって、その人達の精神障害と生活保護の世界に閉じ込められなくちゃいけない理由はなかったんです。
嬉しいとか楽しいとか思いたかった。笑いたいと思うときに、笑いたかった。
私の小さな前進や小さな達成を、喜びたかった。
でも、できなかったんです。その人たちの不快・不満・悲しみにつながることが怖くて。
食欲、日常生活については、かなり復調してきています。
そんな本日の朝ごはん。

冷蔵庫に、蒸したジャガイモが一個ありました。たぶん今月初めごろのもの。
塩と梅酢をまぶして下処理してから蒸してはいますが、一部は腐敗していました。
腐敗している部分を切り落として、塩ワカメとともに味噌汁に。残りは、オムレツ(卵の白身だけ)風(中央上・混ぜてレンジ加熱しただけ) に。
卵の黄身は前の晩から醤油漬けにしておきました。卵かけごはんに。
クレソン、味噌汁に使った塩ワカメの残りは、ピエトロの醤油ドレッシングにチューブ入りショウガ・梅肉・練りゴマを混ぜたものとともにサラダに(左上)。
今日は魚もあります。冷蔵庫から出しただけのイワシのごま漬け(出来合い)。
豆製品が味噌汁の味噌だけですが、ま、いっか。
そして、摩耶(17歳6ヶ月8日)、愛してるよ!
摩耶のためにも、「できないことは、できない!」とはっきり言い、自分のすべき仕事や責任を守らなくては。

ちょこっとアフィリエイト。
ピエトロのドレッシングがないと生きていけない(おおげさ)福岡県人。
毎朝お世話になってます。