今、京都に来ています。
ちょっと時間が出来たので、京都市街を散策していたところ、大日本スクリーン製造(株)さんの社屋の横を通りすがりました。感謝とともに思い出される社名です。
歩みを止め、わが家の長男猫である故・悠(1998-2013)に、「キミが生まれる前にね」と昔の仕事を話してやるなどしました。

悠も、彼の姉貴猫の摩耶(1997-)もまだ生まれていなかった、1997年春のこと。
私は応用物理学会の全国大会で、半導体の洗浄に関するシミュレーションの研究について発表していました。
職場で干されていた私は、クラッシャー上司が潰して追い出した先輩の机の上に、帳簿上は廃棄されていたことになっていたけれども予算不足で廃棄できていなかった古いワークステーションを乗せ、会社どうしのお付き合いで購入したけれども誰も使っていなかったシミュレータを動かして、 パワハラや嫌がらせに涙を流しながら、研究を続けていたのです。
その成果がやっと出始めての発表でした。
発表が終わった後、私は周囲をスーツ姿の男性5人に囲まれて
「あの、今の発表について質問させてほしいんですが」
と質問責めに遭いました。
「今、やろうと思っている装置改良があるんだけど、シミュレーションしてみたら効くかどうか分かりますか?」
といった内容です。
それらは、私が既に試したものばかりでした。
「どうすれば、このタイプの装置で有効な洗浄と乾燥ができるのか、提案できたらいいよね」
という理由から。でも「どうもこの装置は今後はちょっと……らしい」という結論が分かっただけだったんですが。
そのスーツ姿の男性5人は、大日本スクリーン製造で、そのタイプの装置の研究開発を行っている方々でした。
よくもまあ、全く世界が違うシミュレーションのセッションまでお越しになったものです。そして、よくもまあ、34歳の私に丁寧に熱心に質問をされたものです。
仕事に対する熱意に頭が下がりました。
「もうその洗浄装置は、改良レベルの何かでは今後のプロセスに対応できないよ」
という私の発表は、かなりのセンセーションを巻き起こし、多くの方々から関心と期待をいただきました。
しかし上司たちから疎まれていた私が成果を挙げるということは、つまり、次の瞬間には上司たちによって何もできない状況に追い込まれるということでありました。
その研究は、そこで終わらされてしまい、その後にはつながっていません。自宅でLinuxマシンを利用して続けるという選択肢? 自宅には、上司たちの手先と化した元同僚の元夫がいました。何もできませんでした。彼らが「これだけはさせてやってもよいか」と考えたらしいのが、Linuxサーバ構築・管理に関する技術記事です。私がそういうものを書くことにとどまっている限り、彼らのメンツは潰れないということだったのでしょうか。
私は、その悔しさを忘れたことはありません。ずっと、ずっと、思い出しては涙していました。思い出さなかった日はたぶん一日もないと思います。
でも今の私は、
「上司たちに潰された元研究者」
のままではなく、まあまあ社会的に活動しており、自分の収入を手放さずに済んでいます。
そして、その自分の社会的活動の延長として訪れた京都で、たまたま、私の仕事に注目してくれた方々が在籍しておられた会社の前を通りすがりました。
私は、もう、上司たちに潰されたかつての私を「自己責任」「やり方が下手くそ」と責めなくていいんじゃないか?
そういう実感が、はじめて、心のなかから沸き上がってきました。
1997年から数えて、17年目のことです。
逆にいえば、17年も経っています。
トラウマの自然治癒に過ぎないのかもしれません。
でも、途方もない時間はかかっても傷は癒えるようです。
どんな巨大な力によって潰されようとしても、最終的に「潰されなかった人生」 を生きることは可能なのかもしれません。
潰されてしまって「女の小さな幸せ」に逃げるのでもなく「仕方なかった」と諦めるのでもなく、「潰されなかった」と自分で小さく胸を張れる人生を生きることは、もしかしたら私にも出来るのかもしれません。
私はそこに小さな希望を見出したいと思っています。
ちょっと時間が出来たので、京都市街を散策していたところ、大日本スクリーン製造(株)さんの社屋の横を通りすがりました。感謝とともに思い出される社名です。
歩みを止め、わが家の長男猫である故・悠(1998-2013)に、「キミが生まれる前にね」と昔の仕事を話してやるなどしました。

悠も、彼の姉貴猫の摩耶(1997-)もまだ生まれていなかった、1997年春のこと。
私は応用物理学会の全国大会で、半導体の洗浄に関するシミュレーションの研究について発表していました。
職場で干されていた私は、クラッシャー上司が潰して追い出した先輩の机の上に、帳簿上は廃棄されていたことになっていたけれども予算不足で廃棄できていなかった古いワークステーションを乗せ、会社どうしのお付き合いで購入したけれども誰も使っていなかったシミュレータを動かして、 パワハラや嫌がらせに涙を流しながら、研究を続けていたのです。
その成果がやっと出始めての発表でした。
発表が終わった後、私は周囲をスーツ姿の男性5人に囲まれて
「あの、今の発表について質問させてほしいんですが」
と質問責めに遭いました。
「今、やろうと思っている装置改良があるんだけど、シミュレーションしてみたら効くかどうか分かりますか?」
といった内容です。
それらは、私が既に試したものばかりでした。
「どうすれば、このタイプの装置で有効な洗浄と乾燥ができるのか、提案できたらいいよね」
という理由から。でも「どうもこの装置は今後はちょっと……らしい」という結論が分かっただけだったんですが。
そのスーツ姿の男性5人は、大日本スクリーン製造で、そのタイプの装置の研究開発を行っている方々でした。
よくもまあ、全く世界が違うシミュレーションのセッションまでお越しになったものです。そして、よくもまあ、34歳の私に丁寧に熱心に質問をされたものです。
仕事に対する熱意に頭が下がりました。
「もうその洗浄装置は、改良レベルの何かでは今後のプロセスに対応できないよ」
という私の発表は、かなりのセンセーションを巻き起こし、多くの方々から関心と期待をいただきました。
しかし上司たちから疎まれていた私が成果を挙げるということは、つまり、次の瞬間には上司たちによって何もできない状況に追い込まれるということでありました。
その研究は、そこで終わらされてしまい、その後にはつながっていません。自宅でLinuxマシンを利用して続けるという選択肢? 自宅には、上司たちの手先と化した元同僚の元夫がいました。何もできませんでした。彼らが「これだけはさせてやってもよいか」と考えたらしいのが、Linuxサーバ構築・管理に関する技術記事です。私がそういうものを書くことにとどまっている限り、彼らのメンツは潰れないということだったのでしょうか。
私は、その悔しさを忘れたことはありません。ずっと、ずっと、思い出しては涙していました。思い出さなかった日はたぶん一日もないと思います。
でも今の私は、
「上司たちに潰された元研究者」
のままではなく、まあまあ社会的に活動しており、自分の収入を手放さずに済んでいます。
そして、その自分の社会的活動の延長として訪れた京都で、たまたま、私の仕事に注目してくれた方々が在籍しておられた会社の前を通りすがりました。
私は、もう、上司たちに潰されたかつての私を「自己責任」「やり方が下手くそ」と責めなくていいんじゃないか?
そういう実感が、はじめて、心のなかから沸き上がってきました。
1997年から数えて、17年目のことです。
逆にいえば、17年も経っています。
トラウマの自然治癒に過ぎないのかもしれません。
でも、途方もない時間はかかっても傷は癒えるようです。
どんな巨大な力によって潰されようとしても、最終的に「潰されなかった人生」 を生きることは可能なのかもしれません。
潰されてしまって「女の小さな幸せ」に逃げるのでもなく「仕方なかった」と諦めるのでもなく、「潰されなかった」と自分で小さく胸を張れる人生を生きることは、もしかしたら私にも出来るのかもしれません。
私はそこに小さな希望を見出したいと思っています。