白血病との闘いを続けている京大大学院生・山口雄也さん(Twitter: @Yuya__Yamaguchi)のご著書、『「がんになって良かった」と言いたい』から抜き書きして、自分のメモを記すシリーズの7回目です。
 私は Amazon Kindle 版を購入しましたが、紙の書籍もあります。





(2017. 4. 24)


 この節は、伊勢物語に出てくる詠み人知らずの短歌の引用から始まります。そして、桜の美しさと生と死をめぐる逡巡と思索が、交錯するさまざまな感情とともに、繊細かつリズミカルな文章で語られます。


散ればこそ いとど桜はめでたけれ
憂き世になにか 久しかるべき


 がんの手術を終えた山口さんは、まだ退院できずにいたものの、がんは寛解していました。そして振り返るのは、「強いね」「治ってよかったね」といった他者の言葉に対する自分の心の動きです。


強がることには昔から長けていたから、そうしていただけだった。
(引用者注:がん告知に平気な顔をしていたのは)見栄だけは一人前だった。
そのうちにどれが自分の感情なのかを見失ってしまった。
もう笑っているのか口を結んでいるのか。泣いているのか怒っているのか。
果たしてどれが自分の感情が創り出した表情なのか分からなくなってしまった。
コミュニケーションの潤滑油として、ありもしないところから無理に表情を引っ張ってくる。
生ぬるい無造作な皺が、心との温度差を生じる。

 いちいち、身に覚えがあります。私自身が「障害者界」に閉じ込められてしまってから数年間の経験として。山口さんと同じ「がん患者界」に閉じ込められたわけじゃないのに、なぜ経験に共通点が感じられるのでしょうか。

 障害者も、その時点でのがん患者も、他者たちに何となく「こうあるべき」と定められてしまう存在です。定めるのは、障害をもたない人々、あるいは、その時点ではがん患者ではない人々です。
 障害者は、日本の全人口の10%に満たない少数派です。先進諸国と比べて異様に少ない理由は、日本の障害認定が異様に厳しいことにあります。
 日本人の約50%は生涯の中で1度はがんを経験し、約25%はがんで亡くなります。しかし「その時点でのがん患者」、特に若年のがん患者は、少数派であるはずです。国立がん研究センターの最新がん統計によれば、10代あるいは20代でのがん罹患率は0.5%未満と見てよさそうです。同世代の中では、障害者よりもさらに1桁少ないことになります。
 人口比で50%、せめて30%なら、その人と同じ側にいない50%あるいは70%が何を言おうが、ただちに「数の暴力」という種類の政治力が発揮されるわけではありません。しかし、10%未満の障害者、そして同年代では1%未満の10代・20代のがん患者に対しては、「90%以上」「99%以上」の数の暴力が否応なく降り注ぎます。各人に「暴力」のつもりが全くないとしても、「私の考える障害者像とは」「僕の考えるがん患者像とは」というものが存在するだけで、数の暴力になってしまいます。では、マジョリティは何も知らなければよいのでしょうか? それはそれで、無知ゆえに善意をもって相手をすり潰してしまい居ないのと同然にするという、さらにタチの悪い暴力となってしまいます。

 解決方法? ありませんよ。だって、数の不均衡を是正する方法がないんですから。もしも是正できたら、その時には「みんな障害者」「みんな、がん患者」です。それは、やはり望ましいことではないだろうと思います。「現在の健常者は、将来の中途障害者」「がんを経験していない人の半分は、将来のがん患者」とは言えるかもしれません。「わがことになるかも」という想像力は、少しだけ状況を変えるかもしれません。でも想像上の「将来のわがこと」は、別の誰かの「現在のわがこと」とは、やはり似て非なるものです。「想像できるから、私はあなたの理解者になれるはず」なんて言われた日には、ぶん殴(以下自粛)。

 ハンデを持つマイノリティが、ハンデを持ったマイノリティであるままで尊重されることを、「多様性の尊重」「ダイバーシティ」と言います。しかし、マジョリティによる多様性の尊重やダイバーシティ推進の程度を、誰が評価するのでしょうか? マジョリティに任せておくと、「自分たちは充分によくやっています。少しは反省すべき点もありますが」という評価にしかなりません。マジョリティが「マイノリティの声を聞く」という姿勢を見せることもありますが、人選や聞き方をマジョリティにまかせておくと、自分たちに都合のよい声しか聞かれません。マイノリティの中には「この政治を利用して自分の地位を確保したい」という動きが必ず現れます。すると、マイノリティは結果として分断されたり、あるいは出世した少数のマイノリティに支配されたりすることになります。たいへん具合悪い状況ですが、マイノリティである各個人の誰かがそういう選択をすること自体は、一概に否定できないように思えます。マイノリティの誰か1人が、権力や地位や達成に関する欲望を抱き、実現しようとするとき、誰が「あなたはマイノリティだから、そんなことを考えてはいけない」と言えますか? それはそれで人権侵害です。放っておくとマイノリティ全体の人権侵害に及びかねないという問題はありますが、だからといって、誰が「全体のために、あなた個人は犠牲になれ」と言えるでしょうか? 
 まことに面倒くさいのですが、この面倒くささは、障害ある学生や障害ある職業人として変化の中を生きている人々、障害がない時期に何者かとなった後に障害者となった人々につきまとう宿命です。障害者の社会参画に関して先進的と見られている西欧や北欧や米国にも、形を変えて存在します。よりマシだと思える「面倒くさい」を選ぶことはできても、自由になることは無理そうです。

 大学院生(大学生)として学業と研究の世界にも生きている山口さんは、がん患者ではない大学院生(大学生)だから求められることと、がん患者である現実の自分、そして2つの自分を取り巻く社会との間で、人知れず苦しまれたことが多々あるだろうと拝察します。それは、障害者であり現実にハンデを負っている人々が、福祉的ではない職業に就いてパフォーマンスを求められたり挙げたりしている場合に直面する困難そのものでもあります。

 5年後、10年後。山口さんと同じように苦しむ若年のがん患者、障害者、その他マイノリティが、少しでも減っていればいいと望みます。マジョリティの”苦しめ方”がもう少しマシになっていればいいと願います。今すぐには無理でしょう。だけど、少しずつ。

 さて、この節のタイトルは「桜」です。山口さんの状況は、死を意識しなくてもよいタイプの健康な障害者とは異なっていました。

五年以内に死ぬだろうと思って生きることの恐怖と失望とは、あなたには決して分からない。なぜなら自分にもさっぱり分からなかったからだ。
背水を気にせずどう生きろというのか。

 そして山口さんは、自分が感じている怖れと悲哀を、丁寧に腑分けしていきます。

万物無常、早かれ遅かれいつかはサヨウナラ。じゃあ悲哀の対象はというと、”存在がなくなること”ではなくて、むしろ”忘れられること”だった気がする。

 昔から、「人は二度死ぬ」と言われてきました。一度目は肉体的な死。二度目は、その人を知っている人が全員いなくなるという意味での死。2021年現在、Web空間に残した情報は永久に残る可能性があり、「忘れられる権利」が問題になっています。でも、Web空間に自分の残した情報が残りつづけていても、参照されなくなれば、発見されるまでは無と同じ。情報が埋もれるスピードが速くなるのとともに、二度目の死が早く訪れるようになるのかもしれません。

あなたに会えないことよりも、あなたに忘れられることの方が恐ろしい。生きたことが忘れられたとき、「わたし」はその人にとって存在しなかったことになる。その人を忘れた時、あなたは無意識にその人を殺している。

 このフレーズには、個人的な気づきがありました。
 私の母親は、私が物心ついたころから「親をないがしろにする」と怒り続けていました。2000年を過ぎてからは、通算で3時間も会話していないはずですが、たぶん現在もそうなのでしょう。私は積極的に母親を「ないがしろ」にしたかったわけではありませんが、何をすれば「ないがしろ」にしなかったことになるのか、全く見当がつきませんでした。母親の「自分をないがしろにされたくない」という思いが、死や忘却に対する母親自身の何らかの感情と結びついていたのであれば、幼少だった私、そして成人して現在に至っている私には、どうしようもなかったことになります。もう、そういうことにして、母親が自分にとって何であったかという問題を少しずつ棚上げし、自分の責任の及ばない問題ということにして、そして自分の問題としては終わらせてしまおうと思います。息子でもおかしくない年齢の山口さんが書かれた文章に、長年の親との問題の個人的な解決を少し助けてもらいました。ありがとう。

 ともあれ山口さんは、いずれ自分が忘れられ、存在しなかったことになり、無意識のうちに誰かに殺されるかもしれない運命を心に抱え直しつつ、桜をめぐって生命への思索を続けます。

雨にも負けて、風にも負けて、そうして一瞬のうちに散りゆくから、生命は美しい。
死こそが生命を生命たらせ、そうして平等にする。
残酷さが、美しさを創り上げる。
今年も、美しい桜が忘れられていく。
散ればこそ、めでたけれ。

 ぱっと咲いてぱっと散るのは、ソメイヨシノ系の桜の特徴です。ソメイヨシノは江戸時代以後の品種で、伊勢物語の時代には「それそのもの」はなかったはずですけれど。
 他にも、たくさんの桜があります。散り急がない桜もあります。そして私は、花の後の葉桜が、咲いた桜よりも好きなのです。

 山口さんが、来年の桜を見られますように。散るから美しい桜ではなく、咲き続けるから美しい桜の数々も見ることができますように。そして、今まで重ねられてきた思索の上に、さらに思索と自分の人生を重ねて行かれますように。

 ただ、祈ります。


山口雄也さんを応援する方法の例

 ご本人やご家族のために何かしたいというお気持ちを抱かれた方は、どうぞご無理ない形で応援をお願いします。ご家族を間接的に支えることも、ご本人への支えになります。
  • ツイッターで「いいね」やメンションによるメッセージを送る
  • ご著書を読んで、Amazonhonto読書メーターなどにレビューを書く
  • noteでご記事を読む・サポート(投げ銭)する・有料記事を購入する
  • 献血をして、献血センターがいかに素敵な場所であるかをSNS等で述べる(山口さんは、治療に大量の輸血を必要としています)
  • 献血できない人は、日赤などによる献血のお願いをSNS等で拡散する
  • 重い病気と闘病する人々やその家族の心境について、信頼おける書籍を読み、傷つけることなく支援する方法へと近づく



本記事を書いて推薦したくなったコンテンツ


 多数派の思い込みの世界に、あるいは政治的に強い力を持った存在の思うがままの世界の中に自動的に閉じ込められてしまう人々を、スピヴァクは「サバルタン」と名付けました。




 精神科医・中井久夫氏の著書『時のしずく』には、愛弟子の1人であった安克昌医師への追悼が収録されています。中井氏は阪神淡路大震災における精神医療の総指揮に当たり、安医師は最前線でケアにあたりました。リアルな生と死の重みに向きあった精神科医の1人が旅立ち、師であった精神科医が悼むという巡り合わせが生んだ追悼文。いずれはやってくる安医師の「二度目の死」への中井氏の怖れが胸に迫ります。



 なお安克昌医師は、NHKのドラマおよび映画『心の傷を癒やすということ』の主人公のモデルです。ご本人による同名のご著書もあります。余談ですが、私はNifty-Serveの心理学フォーラムで接点がありました。「自分の居場所」という言葉を含むお返事を、私は終生忘れそうにありません。私が生きている限り、あなたは死なないよ、安さん。