白血病との闘いを続けている京大大学院生・山口雄也さん(Twitter: @Yuya__Yamaguchi)のご著書、『「がんになって良かった」と言いたい』から抜き書きして、自分のメモを記すシリーズの7回目です。
 私は Amazon Kindle 版を購入しましたが、紙の書籍もあります。




望み(2017. 3. 30)


 最初に見つかったがんの手術を終えた山口さんは、病棟で共通点の多い中年の男性患者と出会います。違いは、山口さんのがんは予後不良とはいえ治る可能性が高いものであり、男性が患っているタイプの膠原病は不知の病であるということでした。

 入院先の京大病院は、日本で肺移植を取り扱うことができる10施設のうち1つです。男性は35歳で、皮膚だけではなく血管や臓器が侵されていくタイプの膠原病に肺まで侵されました。

 男性が最後の望みを託したのは、脳死肺移植でした。肺移植のリスクは非常に高く、他のどの移植手術よりも術後生存率が低く、文字通り「必死」で臨むこととなります。手術室に入って麻酔を受けたら生きて戻ってこれないかもしれない移植手術の日は、前日に突然、電話でやってきます。しかし、男性は生き延びました。そして経過観察のための入院で、山口さんと出会い、手術が成功して妻と川べりを散歩した時のことを語りながら涙ぐみました。

どうして俺はこうやって生きていられるんだろう、そう思って泣き続けたという。

 山口さんと車の趣味が合う男性は、愛車の話題を振られた時、今は車の運転をしていないと答えました。薬を飲み続けている限り、運転できないからだそうです。

 しまった、と思った。職だけでなく、趣味さえも取り上げられてしまうのか。もしこれが自分だったら、何を楽しみに生きていいか分からなくなるかもしれない。


 しかし男性には、生きる希望がありました。当時4歳の息子です。息子が小学校に入り、中高生になり、成長していく様子を見ることです。その希望が叶う可能性は高くありません。病気は、少しずつ進行していました。

 人生とは、理不尽である。自ら命を断つ人もいれば、こうして生きたくても生きられない人もおり、あるいは何も考えずに生きている人もいる。彼の息子が僕と同じ年齢になったとき、果たして彼は生きているのだろうか。
 生きていてほしい。

 山口さんは、子の立場での経験から、次のように語ります。

 もし親をなくしたらここまで生きてこられなかっただろう。
 親にとっての生きる希望が子であるように、子にとってもまた、生きる希望は親なのである。

 このくだりは、引用していて胸にズキンとくるものがありました。
 貧困問題の取材をしていると、貧困と虐待は強く結びついているという事実を否応なく突きつけられます。搾取するために子どもを増やす親も、DVの結果として子だくさんになった父親も、いるところにはいます。その環境の中で育つ子どもたちは、家庭といえばその家庭。親といえばその親しか知りません。親の役割を果たせていない親の子どもたちは、リアルな親自身に希望を見出すことができません。そういう子どもたちは、自分の「親を支える」という役割、いつか親を変えられる可能性、その他、想像力と思考力の限りを駆使して、親とその周辺に「親という希望」を見出そうとするのです。空想? 妄想? 虚構? そうかもしれませんが、なくしたら子どもは生きていけなくなるでしょう。

 虐待のもとにある子どもたちとは異なる意味で、理不尽な運命の真っ只中にいる男性は、山口さんに次のように語ります。

「病気になるとさ、色んなことが見えてくるよね。それにはすごい感謝してるかな。
でもこんな病気にはなったらいかんよ」


 神谷美恵子氏の「私たちではなく、なぜあなたが? あなたは代わってくださったのだ」という詩の一節を、どうしても思い浮かべてしまいます。神谷氏の著書に引用されているハンセン病患者、「天刑病」と言われていた病気を抱えて生きてきた人による「癩は天恵でもあった」という詩の一節も。
 男性の述懐を言い換えれば、「私に当たったので、引き受けることになりました。病苦は病苦ですが、天恵でもありました。だけどあなたは、この病気に当たらないでくださいね」ということになるでしょうか。どう言い換えても、重さや深さは変わらないように思えます。

 そして数日後の山口さんは、青い空、美しい川の流れ、水辺で遊ぶ鳥たちを見ました。澄んだ風を感じました。でも、心は晴れませんでした。

 自分自身の病が前者(引用者注:治る可能性のある病気)であることを手放しで喜ぶことは、もはやできなかった。


 生体肺移植も、受けられて生き延びる機会が出来るからといって、手放しで喜べるものではありません。その肺を持っていた誰かが亡くなったから、その肺を受け取って生きる人に機会が生まれているわけです。

 医学の発展が、彼の病を後者(引用者注:治らず、進行して最後には命を奪う病気)から前者へと変えることを切に望むほかなかった。

 生命の危機は、生きることの尊さやかけがえなさを否応なく認識させます。しかし、生命の危機自体は決して歓迎したいものではありません。不幸や理不尽は減ることが望ましく、減ったら減ったで新しい不幸や理不尽に直面しなくてはならず、日頃から深く考えていれば「いざ」という時の衝撃がより深く重くなり、日頃何も考えていなければ「いざ」という時の奈落感が大きくなるわけです。どう生きることが正解なのか。正解は、誰も知りません。

 膠原病の男性には、自分の人生の明確な理想像がありました。その理想像を、山口さんは次のように描写します。

 彼が、妻と息子と三人で、出来るだけ長く寄り添って歩けるよう、心から願うばかりだった。



山口雄也さんを応援する方法の例

 ご本人やご家族のために何かしたいというお気持ちを抱かれた方は、どうぞご無理ない形で応援をお願いします。ご家族を間接的に支えることも、ご本人への支えになります。
  • ツイッターで「いいね」やメンションによるメッセージを送る
  • ご著書を読んで、Amazonhonto読書メーターなどにレビューを書く
  • noteでご記事を読む・サポート(投げ銭)する・有料記事を購入する
  • 献血をして、献血センターがいかに素敵な場所であるかをSNS等で述べる(山口さんは、治療に大量の輸血を必要としています)
  • 献血できない人は、日赤などによる献血のお願いをSNS等で拡散する
  • 重い病気と闘病する人々やその家族の心境について、信頼おける書籍を読む

本記事を書いて推薦したくなったコンテンツ

 石井光太さんのご著書の中には、厳しい状況と制約の中で、それでも希望を創造しようとする人々の姿が数多く現れます。石井さんは、人間一人一人が心の中に作り上げる希望を「小さな神様」と呼んでいます。




 移植については、一宮茂子さんのご著書『移植と家族』が必読でしょう。一宮さんは、京大病院の臓器移植を取り扱う病棟で、長年にわたって看護師として働いて来られた方です。看護師としての経験から抱いた問題意識を研究へと昇華され、さらに「読ませる」書籍へと展開されたのが本書です。臓器を提供する側にとって、提供される側にとって、臓器移植とは何なのか。本書の対象は家族間の生体肝移植ですが、ここまで深く掘り下げて描き出した書籍は、未だに他に存在しないと思います。