1963年生まれの私は、25歳になるまで母親から結婚への強いプレッシャをかけられた。しかし26歳になると、いったん結婚プレッシャはなくなった。実家があるのは福岡市近郊だが、当時、私の親世代にとって、26歳を過ぎて結婚できなかった女の子は何か訳ありの傷物扱いだった。私は傷物であることが確定したということであった。

 ところが世の中が変わると、親の考え方は変わる。1990年、電機メーカーの総合職として就職し、結婚や育児が仕事と両立できるとは限らない状況のまっただなかにあった私は、1993年、30歳が近づいてくると、ふたたび結婚プレッシャにさらされはじめた。こんどは高校を卒業していた妹も母親と同調した。

 母親は、「アンタはなんで、親に孫を見せてやろうと思わんとね」と言った。忖度というか自発的隷従というか、私にはいつも母親の欲求を先読みして実現することが期待されていた。自慢できる場面では母親は自分の意向であったことを述べることもあったが、状況が悪くなると、私が勝手にしたことにされる。その時期よりも前に、結婚よりも小さなもろもろで、そんな理不尽が積み重ねられすぎていた。そもそも、結婚だの出産だの育児だのといった重大事を、誰かの思惑で決めるわけにはいかない。その誰かが、言ったことの責任をとらないことがはっきりしているのであれば、なおさらだ。

 妹は、母親が私の今後を案じてそう言っているのだと述べた。もちろん私にも、結婚して子どもを持ちたいという希望はあった。そのためには、共働き育児に協力的な夫を確保し、保育園など環境も整備する必要がある。さもなければ、私が職業を手放すことになるだろう。それはあまりにもリスクが大きい。

 電話の向こうの妹に、「保育園の送り迎えなどの環境も整える必要があるから、すぐにとはいかない」と言った私は、妹に「保育園? 子どもがかわいそう」と言われた。

 私は、心臓が止まるかと思った。大学に入学した1984年ごろから、すでに結婚して共働きの先輩たちも含め、将来の自分のキャリアと家庭の両立についてイメージし、情報を収集していた。そうして10年ほど蓄積してきたものを、20歳前後の、そういう問題について悩んだことがあるとは思えない妹に、あっさり否定されてしまったのだ。

 妹は2000年を過ぎて結婚し、3人の子どもの親になった。2番目と3番目の子どもは双子だった。妹は専業主婦だったが、実家が近くにあるわけではなかった。幼児を抱えて双子の乳児を育てるにあたり、地域の保育園はじめ公共の手厚いサポートが得られたということである。それは良かったと思う。

 でも、なぜ30歳前後だった私は、20歳前後だった妹に保育園を非難されなくてはならなかったのだ?