小学生のころ、父親に「本当に俺の子か」と疑われたことがある。
時期は、弟が絵を描くようになって私との比較が可能になっていたころであるはず。だから、4つ下の弟が6歳~8歳、私が10歳(小4)~12歳(小6)の時期だと思う。ただ、私は小学生だった記憶がある。また、4年生ではなかった記憶もある。だから小5か小6のころであろう。
父親が私について「本当に俺の子か」と疑ったのは、正確にいうと、
- 私が小学5年か6年だった1974年度か1975年度に
- 家の中で
- 父親ふくめ他の大人が家の中におらず、なおかつ弟や9歳下の妹が近くにいない時に
- 母親が私に対して「お父さんがアンタの絵を見て、下手くそだから、『ヨシコは本当に俺の子か』とお母さんに言ったとよ」と言って、「ふふふ」と笑った
- 母親はさらに、「アンタのせいでお母さんが疑われる」とキレて、「どうしてくれる」と言いながら、いつものように荒れ狂った
という成り行きだった。
父親は、若い頃から画家になる可能性を認められていたほど、絵が上手だった。母親も、世の中一般との比較では充分に絵が巧かった。家のなかに画材がゴロゴロしており、絵を描く習慣を持つ大人がいた。福岡市近郊の実家から、休日にたまに一家で出かける先は久留米市にある美術館だったりした。そこで、子どもも含めて全員で「ベン・シャーン展」を見たりするのだった。とはいえ、小学校低学年だった私には、その展覧会で展示されていた絵の記憶はまったくない。両親に怒られないように、後で怒られる種を作らないように必死だったんだろうと思う。
そんな環境で育つ子どもは、自然のなりゆきとして、世の中一般よりは絵が巧くなりがちなのではないかと思う。私ときょうだいもそうだった。ただ私は、絵に限らず、課題やモティーフの内容による合う合わないの差が激しかった。
小5小6のころは、担任教諭主導のクラス概ね全員からのイジメに遭っていた。何をどうしようが、担任教諭に悪く言われた。満点であるはずのテストは、どこかにツッコミどころを見つけて減点された。その担任教諭が無理やり減点したポイントのうちいくつかは、その後の学びで、担任教諭のほうが誤っていたことが分かった。そのたびにスカッとした。
音楽は「伴奏など目立つことはさせない」程度の嫌がらせだった。それ以上にやりようがなかったのだろう。体育は、小5小6の時期は同じ学年の全クラス合同授業だったから比較的安全だったが、私が比較的得意な種目では、担任教諭が難癖をつけて「参加させない」という嫌がらせパターンもあった。担任教諭は女性で、専門は家庭科だった。家庭科はもう、何をしてもしなくても、そこにいるだけで難癖のオンパレード。何を言われたかいちいち覚えていない。
そして図工も、なんとでも難癖のつけようがある科目だった。しかし私が小5のとき、図工専任の若い女性教諭がやってきた。それが救いだった。ただし、その女性教諭は、私の担任教諭にイジメられていた(注)。
父親は、若い頃から画家になる可能性を認められていたほど、絵が上手だった。母親も、世の中一般との比較では充分に絵が巧かった。家のなかに画材がゴロゴロしており、絵を描く習慣を持つ大人がいた。福岡市近郊の実家から、休日にたまに一家で出かける先は久留米市にある美術館だったりした。そこで、子どもも含めて全員で「ベン・シャーン展」を見たりするのだった。とはいえ、小学校低学年だった私には、その展覧会で展示されていた絵の記憶はまったくない。両親に怒られないように、後で怒られる種を作らないように必死だったんだろうと思う。
そんな環境で育つ子どもは、自然のなりゆきとして、世の中一般よりは絵が巧くなりがちなのではないかと思う。私ときょうだいもそうだった。ただ私は、絵に限らず、課題やモティーフの内容による合う合わないの差が激しかった。
小5小6のころは、担任教諭主導のクラス概ね全員からのイジメに遭っていた。何をどうしようが、担任教諭に悪く言われた。満点であるはずのテストは、どこかにツッコミどころを見つけて減点された。その担任教諭が無理やり減点したポイントのうちいくつかは、その後の学びで、担任教諭のほうが誤っていたことが分かった。そのたびにスカッとした。
音楽は「伴奏など目立つことはさせない」程度の嫌がらせだった。それ以上にやりようがなかったのだろう。体育は、小5小6の時期は同じ学年の全クラス合同授業だったから比較的安全だったが、私が比較的得意な種目では、担任教諭が難癖をつけて「参加させない」という嫌がらせパターンもあった。担任教諭は女性で、専門は家庭科だった。家庭科はもう、何をしてもしなくても、そこにいるだけで難癖のオンパレード。何を言われたかいちいち覚えていない。
そして図工も、なんとでも難癖のつけようがある科目だった。しかし私が小5のとき、図工専任の若い女性教諭がやってきた。それが救いだった。ただし、その女性教諭は、私の担任教諭にイジメられていた(注)。
もともとの得意不得意の差が激しい傾向は、小5小6の時期、この担任教諭のもとで激しくなっていた。私は、比較的得意だった写生に注力することにした。学校が無関係なコンテストに積極的に応募し、下書きや仕上げの段階で図工専任教諭に指導してもらった。銅賞または佳作にはコンスタントに入っていたし、商品として絵の具が得られていた。私にとっての絵の具は、白以外は「残り少なくなったらコンテストでゲットしよう」というものになっていた。
図工の中でも苦手な分野、たとえば読書感想画は、担任教諭にクラス全員の前で「この学年相当の絵ではない」とまで言われたこともある。
話を父親に戻すと、父親がたとえば私の読書感想画を見て下手くそさに呆れたのであれば、それは大いにありうる話だ。
私は、このエピソードを、その後も繰り返し繰り返し思い返した。わざわざ思い出そうとしているのではなく、記憶の方から勝手に出てくるのだ。
しかし今年になって、思い出し方が変わってきた。
昨年まで、客観的には下手くそではなかったはずの絵画について、たまたま見た一枚を「下手くそ」とされたことへの悔しさとともに思い出していた。
そして、父親が悪く言っていたのは私だけではないことを思い返し、自分をなだめていた。実家で父親が誰かを悪く言いはじめると、母親がビールを次々と飲ませた。まるで「わんこそば」の給仕のように。あっという間に酔っ払った父親は、べろんべろんになりながら、思いつく限りの誰かの悪口を「どいつもこいつも」と言い続けるのだった。父親に悪口を言われている人々の中には、母親が大切にしており関係が円満だったはずの母親自身の弟もいた。母親は相槌を打ちながら、さらに父親に飲ませるだけだった。父親の語る内容があまりにもひどいので、私は録音や文字での記録を試みた。すると、母親は全力で止めた。母親のしていたことは、絵に描いたような「イネイブリング」だった。私は今にして思う。
私の絵の上手下手について父親が言ったことは、今となってはどうでもいい。私は90年代終わりごろ、武蔵野美大の短大通信教育部デザイン科に入って卒業した。絵画の授業で描いた人物像は、好ましい評価を受け、参考作品にしてもらった。なにも、父親に評価してもらわなくてもいい。
最大の問題は、両親の関係性ではないか。そのことに思い至ったのは、56歳になった今年だった。
父親が「ヨシコは本当に俺の子か」と言ったのかどうかは分からない。私の記憶が正しいとしても、それは母親の「お父さんが『ヨシコは本当に俺の子か』と言っていた」という言葉の中のことだ。母親が、事実ありのままを私に言ったのかどうかは分からない。今、母親にただしても「覚えとらん」という答えしか返ってこないだろう。
しかし父親と母親の関係の中には、「父親が母親に対して、自分の子どもではない子どもを産んだ疑惑を持つ」という可能性があった。少なくとも、母親が私にそう言った時、母親の中にはその可能性があった。母親は母親で、家の外での父親の行動に対する疑惑や不安を私にぶつけていたのだが、その話は長くなるので割愛。
両親にそういう関係性しかない中で、私は育った。私の記憶の中にある、両親や弟妹や父方祖母(私が実家を離れる前年に他界)と同居していた実家の記憶の中で、両親の関係性は常にこのようなものだった。
(注)
20代だった図工専科の女性教諭は、確か私が小5になった1974年度はじめ、大学新卒・新任で私の出身小学校に赴任してきた。
私の小学5年・6年の頃の担任教諭は、当時40代の日教組活動家教員だった。終戦時に長崎の師範学校生だったということだった。「原爆投下当時は遠隔地に動員されていて助かった」と言っていた気が。ただし、ご家族やお友達を亡くした話を聞いた記憶はない。どこまで事実なのか不明だが、1945年に18歳なら、1975年に48歳だったことになる。今、生きていたら93歳。
日教組活動家教員は、教員としての技量を磨くことに熱心なタイプ(大多数。教員の研鑽の機会って教研集会くらいしかなかったから)と、労働者性の主張にだけ熱心なタイプ(少数)のどちらかだった。私の当時の担任は後者。授業は自習ばかりだった。クラスの児童に自習させておいて、担任教師は教卓や職員室で日教組の作業をしていることが多かった。したい指導は我流で、したくない指導は放棄。たとえば体育で自分のできない種目の指導とか。
こういう教員に担任されてしまう案件は、私の世代だと結構よくあったパターン。だけど、その前までの学年で勉強の習慣がついていたり、もともと学びやすい環境にあったりする子どもは、ろくでもない教員に指導されるより放置されて自習ばかりの方がマシな学びにつながった。「それにしても算数や理科は無理だろう」と、理科が専門の教頭先生がときどきクラスに教えに来てくれたし。自分が担任ぐるみのイジメターゲット(効率的なクラス経営の手段として)にされていなかったら、そう悪くはなかったと思う。
何が書きたいのかというと、私のクラス担任が、その新任の図工専科の教員をイジメたことである。職員室でそれはそれは壮絶なことがあった噂も聞いている。イジメられていたせいか、教員は放課後や昼休みは図工準備室にいることが多かった。おかげで私は個人的に指導を受けやすかった。
しかし図工専科教員が2年目になると、私のクラス担任は、周囲に誰かの目があっても図工専科教員をイジメるようになった。図工以外の授業中やホームルームの時に、その図工専科教員の指導内容をくさすのである。サイテー。
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