さんざん書いているとおり、私は今でいうところの「毒親育ち」だ。
そのことを隠さないのは、それらのトラウマを克服したいから。あまりにも深刻で、未だに表に出せない話もたくさんあるけれど。
隠すと、心の中で疼きつづけるだけ。新しいトラウマの蓄積も続く。こちらが相手たちや相手たちを信じている人々の期待する行動を取っていると、相手たちの行動は変わらず、したがって自分がトラウマを負い続ける。
もちろん、明らかにすればトラウマが克服できるとは限らない。明らかにする試みが、新たなトラウマを引き寄せる可能性もある。事実であることが証拠とともに示せても、名誉毀損が成立する可能性もある。
相手たちにとっては、明らかにされたくないことでもある。もしかすると、明らかにしようとする私ごと葬り去ろうとするかもしれない。私が想像をたくましくしているのではなく、被虐待のもとで育った娘を精神科病院に協力してもらって強制入院させる事例は少数ながら実在する。精神科病院に監禁してもらわなくても、寝屋川市の監禁致死事件のように閉じ込めておくことが出来る。本人を社会的に潰して声をあげられなくすることが出来れば、相手たちの側が罪に問われかねないような強引なことをする必要さえない。
しかし、幼少の子どもが原家族の中でトラウマを負い続けるのは、まず、立場が弱いからである。そして、何をされても「なかったこと」にすることを求められる。周囲の大人や児童相談所等に知らせても、たいていは一時しのぎにしかならない。ホットな出来事ではなくなったころ、「周囲の人にバラした罰」が倍返しでは済まない可能性だってある。私は、実際にそうだった。
言い換えれば、トラウマを負い続ける弱い立場から脱することと「なかったこと」にしないことのどちらか(できれば両方)ができれば、克服への可能性が開けるということ。
だから、語り続けてきた。消えない電子文字で。命がけで。
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