仕事の合間の走り書きです。いずれnoteで記事としてまとめるかも。

 コロナ禍で、「大学の講義は、やはり対面でなくては」という議論が盛り上がっています。いわゆる「キャンパスライフ」だけではなく、学生が大学という場に行くことを前提としたあらゆる体験の機会が、2020年度の新入生からは失われてしまってるわけですよね。それは問題だと思います。

 しかし私は、現役の大学生でも、大学生の親の立場でもありません。
 大学院博士課程の院生ではありますけど、単位は修了に余りあるほど取得し、あと博論を残すのみ。大学院は京都にあり、最初からリアル通学の必要性が少なかったんですよね。図書館も年に数回しか行けないから、オンラインサービスを中心に利用。間に合わないときは国立国会図書館など、東京の地の利をフル活用。そんなわけで、私の院生生活は、コロナ禍でほとんど影響を受けませんでした。

 というわけで、「高い学費を払ったのに、オンライン講義だけでは意味がない」をはじめとする大学生や保護者の方々の痛みは、すみません。我が事としては分かりません。

 しかし、2020年に入って以来のコロナ禍と、各大学や教員、職員、学生、院生など多様な大学関係者の動きを見ていて、一つ思い至ったことがあるんです。

 大学って、完全にクローズしてて教職員も学生も院生も来ず、もちろん市民講座も行われないとしても、活動を停止してるわけじゃないんです。教職員はオンライン講義で大変な思いをしていますけど、それ以外にも、外部から見えやすかったり見えにくかったりする多様な営みがあります。

 一例をあげると、農学系の学部がある大学は、たいてい演習林を持ってます。農場もあったりします。まるまる半年間なり1年間、それらを使った実習や講義がなかったら、どうなるのでしょうか?
 もしも
「使われず、学生たちの学びや単位取得といった成果にも結びつかないから、維持コストは意味がない」
という判断のもと放置すると、演習林は演習もできない荒れ放題の林になり、農場の動物たちは死んでしまいます。コロナ禍以前の状態に戻そうとすると、おそらくカットした維持コストの10倍くらいの費用が必要になるでしょう。
 というわけで、実習も講義もできず、学生や院生が来ず、さらには全員が休学したり退学したりしてしまって学費収入がなくなってしまったとしても、維持せざるを得ないのです。

 このことが意味するのは、まず、そこで働いている教職員(場合によっては院生)の人件費が必要だということです。もちろん、建物や水や飼料などのランニングコストも必要です。目に見える形で「利用者」や恩恵を受けるはずの人がいないとしても。

 このようなことは、大学のあらゆる部署で起こります。たとえば大学図書館が、貸し出しも入館も停止しているとしても、図書館業務がなくなるわけではなく、したがって一定の人件費をはじめとする費用が必要。そしてそれは、「無駄だから削りなさい」と言えるものではありません。そこを削ったら、もう、生きていられなくなるギリギリのラインです。人間でいえば、寝ていて活動しなくても必要な「基礎代謝」のようなもの。

 学生・院生やその保護者にも、似たような部分があります。本人あるいは子どもが、在籍している大学に通えないとしても、大学生の身分はあります。フルタイムの学生であるということは、学生の身分と、その他の生活への何らかの制約を意味します。大学に通えていようがいなかろうが、オンライン講義で何とかなっていようが、学習ができない状況になっていようが、とりあえず生命体として人間として生きています。それがなければ、将来の大学通学再開あるいはその他の選択肢が意味を持ちません。

 「その組織」「組織の機能を果たす人」「その組織に(学費等を支払って)所属する人」のどのレベルにおいても、まずは生存が今後数年にわたって保障されていないと、現在も近未来も考えられません。今、コロナ禍下での最大の問題は、あらゆるレベルでの「生存」。

 問題は「オンラインか対面か」「払った学費をどうしてくれる」というところにはありません。もちろん、それらは非常に重要な課題ではあります(特に貧乏学生にとっての学費は……)。しかし、本質はそこではありません。

 何をどうすればいいのか。私にも答えは見えません。
 しかし、困難が数多く積み重なっているからこそ、筋のよい試行錯誤に近づきたいものだと思います。