2020年8月31日、東京都内の遊園地「としまえん」が閉園した。
 閉園がアナウンスされてから閉園まで、私は内心、怯えていた。私に対して誰かが「としまえん」を話題にしたらどうしようか? と。
 何よりも恐れていたのは、「としまえん」が話題にされるとき、その人自身の「懐かしい」「楽しかった」という記憶が語られて、同意が求められることだった。
 その次に恐れていたのは、「行きたかったけど、お金がなくて行けなかった」という形で「としまえん」が話題にされることだった。
 幸い、そういう話題になる相手と会うことはなく、閉園の日が過ぎた。私はホッとした。
(本記事はnote記事の下書きを兼ねています)

  • なぜ「楽しかった『としまえん』」に同意したくないのか
 私は福岡市で生まれ、福岡市と隣接する春日市で20歳までを過ごした。
 当時の福岡市には本格的な遊園地がなかった。太宰府の「だざいふえん」が、たぶん最も近くて遊園地らしい遊園地だったのでは。比較的アクセスしやすかったのは、天神にあったデパート「岩田屋」の屋上遊園地、福岡市動物園の遊具コーナーといったところ。
 それでも子どもにとっては、楽しい非日常。そうだったはずだ。

 私自身には、遊園地で楽しく遊んだ記憶がほとんどない。
 福岡市動物園には、両親の両方または片方、弟妹のどちらかまたは両方とともに、しばしば訪れていた。私は、大きな滑り台やブランコで楽しく遊ぶことができた。父親がいれば、ティーカップやミニ電車に一緒に乗ることもできた。しかし、家族とともに有料の遊具に乗った記憶は、概ね6~11歳くらいで途絶えている。ミニ電車に最後に乗った時は、9歳下の妹とそのお友達と一緒だった。母親が妹たちを連れて動物園に来るにあたり、面倒を見る係として私も一緒に行くこととなり、小さい子どもたちの安全を守りながら遊具に乗っていたのだった。

 一番切なかった記憶は、4歳下の弟が3歳、私が7歳くらいの時のこと。
 母親は、弟と私を連れて福岡市動物園に行った。
 動物を見て、無料の遊具で遊んで、有料遊具のコーナーへ。そこには当時、小さな飛行機に乗って空中をぐるぐる回るような遊具が出来たばかりだった。弟は「あれに乗る」と言った。母親は弟とともに、飛行機に乗って空中遊歩を楽しんだ。私はそれを眺めているだけだった。母親が「アンタはここで待ってなさい」と言ったからだった。
 「弟だけは乗せられるけど私は乗せられないほどお金がなかった」というわけではない。
 私を乗せることに、何か不都合があったわけでもない。
 今から考えれば、母親はただ、素晴らしいものは弟にだけ味わわせたかっただけであろう。さらに、結果として唯一の息子になった長男と2人だけの時間を楽しみたかっただけであろう。まだ幼稚園児だったり小学校低学年だったりした弟に対して、母親は「将来、何になってもいいけど、結婚相手だけはお父さんとお母さんに決めさせなさい」と言い聞かせていた。同時に、小学生だった私は、弟の将来の結婚相手選びが母親の意向に沿ったものになるような振る舞いを、母親に要求されていた。

 ともあれ私は、なぜ自分が飛行機の遊具に乗れないのか分からず、呆然としていた。
 楽しそうに降りてきた母親に「私も乗りたい」と言ったけれど、母親は無視して弟と楽しそうに話し続けていた。
 私は、泣きも怒りもしなかった。そんなことをしようものなら、飛行機の遊具に乗れなかったこと以上に恐ろしいことが起こることを、既に学習していた。
 私にとっての遊園地とは、そういうものなのだ。

  • 機会を奪われた子どもに起こりがちなこと
 私が幼少期の経験について話すと、しばしば「一番上の子だったから、二番目の子に親の愛情を奪われて嫉妬したのでは」という反応が返ってくる。実はこれが非常にしんどい。
 弟が生まれたのは、私が3歳9ヶ月のときだったけれど、「お母さんを取られた」的な記憶は全くなかった。
 まず、環境の変化はそれほどではなかった。かなりの頻度で、私が母親の実家に預けられていたからである。母方祖母の近くにいて、さまざまな「家の仕事」で多忙な祖母の横で本を読んだり折り紙を折って(年下のいとこ達と遊ぶのは、数年後のことだった)。祖母と手をつないで買い物に行くついでに池の亀や神社の鶏を一緒に見せてもらって、毎日を平穏に楽しく過ごし、しばらくして両親のいるところに戻ってくる。すると、赤ちゃんがいたり、赤ちゃんが大きくなっていたりする。
 母親からのはじめての「これって虐待?」の記憶は、2歳半くらいの時期のことだった。その時期の私が文字や言葉を早く習得したため、母親と父方祖母(元小学校教師)の確執が発生したことを、後に母親から聞いた。それは本当に、理由らしい理由なく平手打ちをあびせる理由だったのかどうか。母親本人にしか分からないはずだ。いずれにしても、その時期の母親は、弟をまだ妊娠していなかったはずである。
 私は、弟が生まれることによる変化を、あまり感じていなかった。そもそも、両親や弟とずっと一緒にいたわけではなかったため、感じようがなかった。今から振り返ってみると、もともと年齢なりの両親への愛着が形成されていなかったようである。形成されようがなかったとしか言いようがない。ともあれ、4歳下の弟は「お父さんとお母さんの息子さん」、その5年後に生まれた妹も含めて「お父さんとお母さんの息子さんと娘さん」という感じになっている。その「息子さんと娘さん」と同じ意味で、「お父さんとお母さん」が親であるとは、どういう感覚なのだろうか。私には、現在も理解できない。
 ともあれ私は、両親と弟妹と同じ屋根の下にはいたのだが、その4人とは最初から分断されていた。分断は年々、激しくされていった。両親は、私が実家を離れたせいにしている。私は「そんなことはない」と、事実の数々をもって示せる。分断を激しくしていったのは主に両親であり、その状態を温存することによって利得はあっても損失はない弟妹である。弟妹に配偶者ができ、子どもたちが生まれると、両親はさらに分断を激しくしていった。その詳細についてここでは書かないが、私はまだこの世にいる。あの世にまで排除されているわけではない。だからまだマシだと思わなくてはならない現在がある。
 話を幼少時に戻そう。

 私が5歳の頃、両親は家を買って転居した。母親の実家は遠くなった。ほぼ常時、母親と弟と私の3者しかいない家になった。翌年には父方祖母が同居しはじめ、母が父方祖母への憤懣を漏らし続ける中で、身の置きどころがない毎日となった。それでも、父方祖母がいればまだ良かった。父方祖母は、緊張が高まりそうになると娘たちの家で数週間を過ごしてくる知恵を持っていたのだが、それは私への攻撃への抑止力がなくなるということである。
 母親もまた、他者に咎められない形で虐待をする知恵を持っていた。母親と弟が談笑しながらテレビを見ながら温かいカレーライスを食べているとき、私は黙って見ていなくてはならなかったが、後に冷えて固まったカレーライスを食べることはできた。私が小学3年の時に妹が生まれると、夕食の手伝いの途中に何か母親が口実を作って私に罰を与えたりした。私は台所の床に正座させられ、食卓の裏面と母親と弟と妹の脚を見ながら、食卓の上の食器の音や食事の臭いを聴いたり匂ったりしながら、弟妹と母親がテレビを見ながら楽しそうに談笑しているのを聴きながら、「反省」していなくてはならないのである。私はその1時間か2時間か後、宿題に加えて懲罰的な漢字の書き取りを何度もさせられた後(そもそも就学前に覚えている漢字の書き取りをさせ、「態度が悪い」「表情が恨めしい」とか何とか言って3回も5回もやり直しさせるのである)、冷えた食事を食べることはできたが、それが何だったのか覚えていない。

 こういう経験が日常であった子どもが、どのように経験を位置づけるかは、子どもによって異なるだろう。私は意識したわけではないが、自分がアクセスできないものや、アクセスすると母親によって恐ろしいことがもたらされるものに対して魅力を感じる回路を遮断した。
 私は、当時の女児向けテレビ番組をほとんど見ていない。せいぜい、テーマ曲を知っているだけだ。しかし、仮面ライダーやウルトラマンやゴレンジャーはリアルタイムで見ていた。テレビのチャンネル権は弟のものだったから。
 大人にくっついていれば大人向け番組は見られるので、小学2年生からNHK大河ドラマを見るようになった。小学3年時の『国盗り物語』以後は記憶がハッキリしている。しかし私が本格的に関心を向け、シナリオの勉強を始めたりすると、母親による妨害が始まった。というわけで、中学2年の時に大河ドラマ『花神』を見た後は、テレビから卒業した。「見たい」と思わなければ、妨害されて悲しい思いをすることはない。以後、テレビ番組は年に1~2回、家族に対する周到な根回しの上、家族からの冷やかしや嘲り、その後の嫌味を覚悟して見るものとなった。
 高校3年の秋からは予備校に特待生として通うようになり、帰りがけに電気店の店頭で見ることもあった。カール・セーガンの『コスモス』は、再放送を電気量販店の店頭で見た。1982年3月から4月ごろのことだと思う。昭和でいえば57年。テレビがまだ「一家に一台」には程遠く、プロレスの試合を見るたびに子どもが電気店の店先に群がっていたのは、昭和30年代前半、私が生まれる前の話である。
 
 遊園地や遊具を「行きたい」「乗りたい」と思う余裕は、私にはなかった。原家族のメンバーとともに行って乗って楽しい思いをした記憶は皆無というわけではないが、「帰宅後に些細な出来事を蒸し返されて母親にぶちのめされる」といった「ああ、やっぱり」の”アフター”を伴わない記憶は、20歳までの期間に5回もない。その数少ない例外的な記憶には、両親と弟妹、弟妹のお友達などの他に、誰かがいた。たとえば、母方の叔母とか。そこに身内であっても他者の視線を持つことの出来る人がいると、全く違う経験となった。しかし、子どもだった私には人選の権利がなかった。
 私自身のためという名目での遊園地行きは、たった1回だけあった。私が小学校を卒業した3月の春休み。でも、母親と弟妹が一緒なのである。母親はもちろん、弟妹が私よりも多く(数と金額の上で)楽しめるようにしましたとも。そして私は母親から、「アンタのために行ってやった」と恩に着せられるのである。もしも母親が「自分の大切な長男と次女を楽しませるために、長女はどうでもいいけど口実に使った」と言ってくれたら、どんなに救われたか。

 大人になった私は、行きたい時に遊園地に行ける。1日くらいなら、おそらく好きなだけ遊具に乗れる。しかし、何が楽しいのか全く分からない大人になっていた。絶叫系の乗り物のように、極めて分かりやすい肉体的な感覚を伴うものは、「楽しい」と思える。が、遊園地や遊具に「行って乗りたい」という魅力を感じることはなかった。『としまえん』にも何回か行ったことはあるのだが、高飛び込み用のプールを使って高飛び込みをするためのみ、だった。
 東京ディズニーランドは、私が東京で大学に進学してから出来た。その後、妹が中学受験合格のごほうびに東京旅行をすることになり、私のアパートに泊まった。妹が行きたがったから、私も付き添って東京ディズニーランドに行った。何が楽しいのか全く分からないまま、後に母親から攻撃の口実に使われるような失敗をしないように緊張していた。以後、東京ディズニーランドには一度も行っていない。
 子ども時代に適切な学習をしていないと、子ども向けの何かに楽しさや魅力を感じる回路は育たないのかもしれない。少なくとも私はそうだった。遊園地だけではなく、子ども向けの絵本も、子ども向けの書籍も。今でも、日本語の絵本や児童書を読むのは、トラウマが刺激されて辛い。
 
  • なぜ「行きたかったけど、お金がなくて行けなかった『としまえん』」の話が辛いのか
 書いていて辛くなってきたので、こちらについては短めにしようと思う。
 私は現在、貧困問題を中心に活動している。当然、貧困によって機会を失ったまま成長した大人多数、貧困によって機会を失っている子ども多数に接している。
 現在進行形で機会を失っている子どもたちは、「東京ディズニーランドに行ってみたい」といった希望を語らないことが多い。東京だからではないだろう。関西の子どもが、USJや「ひらかたぱーく」に行って楽しむという発想を持っていないことは珍しくない。本当に知らないのか。それとも、知っていても行けないことを考えたくないから、憧れる心の回路を遮断したのか。
 しかし私は、そこまで厳しい状況に置かれたわけではない。福岡市動物園の有料遊具のコーナーの前までは行くことができた。そういった場所での飲食や服装を含め、誰が見ても「中流家庭の子ども」だったはずだ。
 私よりも絶対的に何かが不足していて遊園地に行けなかったり行くことを考えられなかった子どもたちや元子どもたちの話を聞く時、その話はその話として受け止めるしかない。受け止める。何らかの理解を示す。部分的には理解出来る話でもある。しかし「私にも同じような経験があって」とは、口が裂けても言えない。その人々と同じような欠落があったわけではないという時点で、「同じような経験」ではない。客観的に見れば、その人々よりも私は圧倒的に恵まれている。私は、どう嘆けばいいのか。どう語ればいいのか。相手と離れて一人になると、いつもは忘れたことにしている痛みが噴き上げてくる。
 所詮、私は嘆くことも語ることもできなさそうだ。嘆いたり語ったりすると、「親御さんたちにも事情があったのでは」「あなたの思い込みでは」「もっと恵まれない人が」「昔のことになってよかったじゃないの」などなど、四方八方から嘆かせず語らせない圧力がかけられることになる。
 仕事として、厳しい子ども時代を送った人々の経験や体験や出来事を聴き、仕事として形にする。それが、現在の私にできることの限界のようだ。

 ともあれ、「としまえん」は閉園した。当面、『としまえん』と子ども時代の記憶に刺激されることはないだろう。
 跡地は『ハリポタ』テーマパークになるようだが、私は『ハリポタ』を読んでいない。私には無縁の何かとして、ニュースや語りに接することができるだろう。