2019年11月、京都市に在住していたALS患者の女性(当時51歳)を嘱託殺人した疑いで、2020年7月23日に医師2名が逮捕されました。
 それから1ヶ月が経過したわけですが、私は日に日に、報道や障害者団体の発言等の一部に耐えられなくなってきました。
 8月20日ごろ、記事や声明を見ていると苦痛で泣き叫びそうになり、「限界だ」と感じました。読むと心と精神をタコ殴りされ、口や手に見えない猿ぐつわや見えない手錠がかけられようとしているような気持ちになってくるのです。
 私は障害者です。「障害者だから言うべき」も「障害者だから言ってはならない」も、あってはなりません。しかし、期待されることを言わずタブー発言を口にすることは、「障害者としては生きていけなくなる」、すなわち生きていけなくなることにつながりかねません。そういう世界に自分が閉じ込められていることを、思い知らされつづけているのです。


理由1 報道が寄ってたかって介護者支援者像を作ってないか?

 報道が開始された当初から、「なんだか怪しい」と感じていました。世論が介護事業者やヘルパーの責任を問う方向へと流れないように、報道が先手を打っている印象を受けたからです。
 亡くなった林優里さんは、「死にたい」という思いやヘルパーによる苦痛を、ブログツイートに書き残していました。
 最初に「怪しい」と感じたのは、介護事業者など支援者側が、林さんのブログやツイートを「知らなかった」としているという報道を見かけたときです。「なぜ、わざわざ、そんなことを書くかなあ?」と思いましたよ。そもそも、不自然すぎる話です。
 役所の福祉部門も介護事業所等も、障害者や生活保護利用者によって自分たちの悪口が書かれていないかどうか、けっこう神経を尖らせているものです。

 私なんて、誰にも存在を話していない英文のブログに書いた杉並区障害福祉とのゴタを書いた3日くらい後、「そんなことを書くと、今のわずかな障害者福祉もなくなるぞ」と圧力かけられたことがありますよ。居住している杉並区の区役所ではなく、区役所が強引に押し付けた訪問医療の作業療法士からでしたけど。2007年から2008年にかけての話です。

 全くチェックしていないとしたら、危機管理の観点からいって、ちょっと問題ありそうに思えます。「サービスや制度の利用者に自分の悪口を書かれる」という恐れもあるでしょう。虐待やハラスメントなら、そういう書かれて困ることは最初からしなければいいんですけどね。逆に「組織や上司の目のとどかないところで、末端の従業員が何をしているかわからない」という恐れから、ある程度の”エゴサ”を行い、利用者が公開している文書をチェックするのは、非常に自然です。
 林さんの場合は、「京都市」「ALS」「24時間介護」「女性」あたりから、ブログやSNSアカウントを簡単に突き止められたはず。介護事業所との関係の中での救いのないストーリーを、結末が救いのないままながら希望のもてる書きぶりで締めくくっていたりするあたり、実際に起こっている虐待的な扱いをマイルドにしているように思える書きぶりなどから、介護者・支援者の目や反応を意識していた可能性が見受けられます。
 もちろん、メールやSNSメッセージのやりとりを介護者や支援者が知るのは、好ましくありません。ましてや安楽死の相談となると、林さんは見せない努力をして成功していた可能性が高いと思われます。
 ブログやSNSアカウントの存在や内容に関して、報道の数々に紹介された支援者や介護者の言葉は、非常に不自然な点が目立ちます。フツーの健常者は疑問を持たないかもしれないけど、障害当事者でありモノカキ稼業23年目の私を、煙に巻けるとは考えないでほしいです。そもそも報道が解禁されはじめてから数日間の記事は、締切時間とコメントが取られたと考えられる時間帯とコメントの主だけで「怪しすぎる」ものがいくつも。
 最大の疑問は、「なぜ、そんなことを?」「なぜ、ここまで?」でした。今もそうです。


理由2 なんのために、介護者や支援者の像を作らなくてはならないのか

 まず、「ケアマネの横暴やヘルパーによる虐待の可能性に注目されたくない」という至極当然の理由は、そりゃまあ、あるでしょうね。ただ、それは単純に「不適切な対応や虐待があったら都合が悪い」という話でもないと思われます。
 自分自身の記事でさんざん書いてきていますが、そもそも介護業界には深刻な人材不足があります。仕事と責任の重さに見合う給料じゃないですから。最低賃金よりは相当高いけど、コンビニやスーパーが人手不足から時給を上げれば簡単に抜かれる時給です。2019年は、1人のヘルパーさんを14.5件の求人が奪い合う状況でした。さらに、高齢者福祉よりも障害者福祉、障害者福祉の中でも医療的ケアを伴う分野だと、さらに深刻な人材難になります。
 ALSの介助は、特別な技術をいくつか身につけ、さらに各患者さんに個別対応する必要があります。しかし、長期にわたって腕を磨きながらキャリアを継続できる可能性もあります。私の直接知る範囲に、キャリアアップして介護事業所の経営に至った女性もいます。「介護は給料が安くて悪条件で不安定な仕事」という”常識”の例外を生み出しやすかった障害分野の一つは、ALSの介助だったりしました。ヘルパー資格を持っていない人の登用をやりやすくする仕組みも、長年かけて作られてきました。
 それでも深刻な人材難。厚労省の報酬削減の影響がないわけはありません。「人であればなんでもいい」という採用をせざるを得ない場面も増えてきているようです。それで「虐待があるわけない」と言われたって、信じられません。
 とはいえ、世の中や患者さんたちに「そんな介護を受けて暮らすしかないのなら、もう死んだほうがいい」と思われてしまったら、今までの蓄積まで失われてしまいます。24時間介助を受けて地域生活をする重度障害者を増やし、そのポジティブなイメージを広報していけば、人材難が解消されてヘルパーの質も上がるかもしれません。良心的な支援者たちや介助者たちが、それを何とか目指し続けようとしているのは私にも分かります。
 が、その路線に報道が沿い続けていいんでしょうか。広報ではなく報道であることの意義は、どこにあるのでしょうか。現状を伝えながら、ポジティブな事実もあることは伝えながら、しかし虐待の可能性に蓋をせず、介護や介助に関する構造的な問題を解決する方向に世論を動かしていく方向性はあるのではないでしょうか。
 私は、心ある報道陣の一部がそういう動きをしていると見ていました。それに期待していました。でも、今後も期待していいんでしょうか。「たぶん無理だろう」と絶望的な気持ちになっています。
 ALSの介助に関わっている数少ない介護事業所や支援団体や当事者団体は、取材にあたって情報源の中心にならざるを得ません。その意向に沿わない取材や報道は、「やってもいいけど出禁覚悟」ということになるでしょう。政治スキャンダルなら、ときには公益のために、信用させておいて裏切ることもありえます。しかし、このケースで「公益」とは? ALSの介護に関わっている数少ない事業所を減らし、虐待はするけれど仕事は一応するヘルパーを退場させると、「公益」どころではなくなるでしょう。しかしながら、障害者虐待の可能性に蓋をすることも「公益」ではないでしょう。




理由3 「死人に口なし」とは言うけれど


 私が報道に接することに耐えられなくなっていったのは、2020年8月5日の京都新聞記事『ALS女性嘱託殺人事件報道について、日本自立生活センター記者会見全文』を読んだ時が決定的な契機だったと思います。
 会見した障害当事者スタッフ3名のうち、大藪光俊さんと増田英明さんには直接の面識があります。私は、増田さんの言葉に、なんといいますか。立ち上がれないくらい打ちのめされてしまいました。

私たちは生きることに一生懸命です。安楽死や尊厳死を議論する前に、生きることを議論してください。

 私自身の記事での立場は一貫しています。今の日本には、安楽死や尊厳死を云々する前提がありません。なぜなら、「安楽生」「尊厳生」が無条件に保障されているわけではないからです。生きることに関する多数の魅力的な選択肢があり、どれも容易に選ぶことができ、それよりやや選びにくい位置に「安楽死」「尊厳死」があること。それが、明日も生きる選択の代わりに「安楽死」「尊厳死」を選択できるための最低条件でしょう。「生きる選択が事実上出来ないから死ぬ選択を」というのなら、社会全体で自殺幇助しているのも同然です。この点では、増田さんとの意見の相違はないと思います。

そしてヘルパーさんや経営者のみなさんにエールを送ってください。おねがいします。


 エールだけじゃ無理です。同情するなら人間らしい暮らしが営める報酬を。そういう経営が無理ゲーにならない環境整備を。もちろん、増田さんを含む日本の重度障害者たちは、そのために闘ってきています。しかし、この文は何のためにあるのか。次の文を読むと浮かび上がってきます。

安易に彼女の言葉や生活が切り取られて伝えられることや、そうやって安楽死や尊厳死の議論に傾いていくことに、警鐘を鳴らしてきました。いま私たちの間には静かな絶望が広がっています。


 林さんが書き残した程度も内容もさまざまな苦痛の数々は、そう安易に切り取れるものではありません。時系列的にも内容的にも、矛盾がありません。全体を踏まえながらどこかを切り取ると、「つまみ食い」になりようがありません。論理的に「だから生き続ける選択はなく、安楽死しかない」という結論が導かれます。私は、林さんのその明晰な思考を否定したいとは思えないんですよ。それはそれで尊重したいです。そして、「だから安楽死しかない」という結論を導く前提条件や仮定を突き崩したいです。というか、何があれば死ななくてよいのか、林さん自身が見抜いていました。介護報酬を高めること。他の仕事にも就ける人が誇りをもって介護職に就けるように地位を高めること。ツイートに繰り返し出てますよ。アケスケに書いてはありませんが、それで介護業界に「良貨が悪貨を駆逐」が起これば、解決になるでしょうね。実はリーマン・ショック後の2~3年間、現実になりかけていました。
 「虐待に甘んじていなくてはならないのはイヤだ」という林さんの魂の叫びが浮かび上がってくるような記述の数々を、なぜ、障害当事者や介護や支援に関わる人々が、よってたかって掻き消さなくてはならないのでしょうか。「死人に口なし」にしてしまうのでしょうか。そうなってしまう背景は、ある程度は分かるつもりです。それだけに、私は深く深く絶望します。

 私の仲間はこの報道を聞いて、自分がどうしていいのかわからなくなったといいました。支援者もこの事件や報道に傷つきながら、わたしたちを支えてくれています。


 福祉・介護・医療のパターナリズムは、障害者だけで話をするとき、「あいつら最悪」という形で語られることが多いものです。しかし障害者が抵抗して声をあげようとすると、うまいこと”回収”されてしまうんですよね。「私たちも、もう少し考えなくてはなりませんね」「私たちも、そういうお気持ちを理解できるようにならなくてはなりませんね」などと。
 私は「こういう言動がイヤだからやめてほしい」と言いたいだけです。それは膨大なリストになるようなものではなく、重要なものに絞れば10項目以下になりそうなものです。でも、それを聞いてもらえたことがありません。そういう話にしようとすると「その前に相互理解が」とか言われて、さらにすり減り、絶望して離れていくことの繰り返しです。あまりにも同じパターンが繰り返されるので、「相手が意図的に、こちらの消耗と絶望を誘起しようとしている」と考えるようになりました。
 増田さんの仲間の当事者の方の「自分がどうしていいのかわからなくなった」という言葉。私も、どうすればよいのかわかりません。でも、現状がおかしいのは、はっきりしています。このおかしな現状を変えなくてはなりません。

彼女のひとつだけの言葉をとって、安楽死や尊厳死の議論に結びつける報道は、生きることや、それを支えることにためらいを生じさせます。いまこの事件をしって傷ついているひとたちに、だいじょうぶ、生きようよ、支えようよ、あきらめないでと伝えて、応援してほしいです。生きていく方法は何通りも、百通りだってあります。ひとの可能性を伝えるマスメディアの視点を強くもとめます。

 
 増田さん。なぜ、そうなるのでしょう? 
 生きることに向かおうという方向は、私も同じくしているつもりです。
 でも、生きる方法や可能性を探る前に、苦痛を取り除かなくていいんですか? 
 少なくともご本人が虐待だと感じていて、読んだ私や友人の障害者たちが「これ虐待だよね」「これだったら私だって死にたくなる」と感じるようなことを、まず止めさせるべきではないのですか?
 そこに女性というジェンダーや、「にもかかわらず」の高学歴や過去の職業キャリアが絡んでいて、苦痛が除去しがたいものになっているとすれば、まず、女性であっても高学歴であっても職業キャリアがあっても快適に今を生きられるようにすべきなのであって、その阻害要因を除去するべきではないのですか? 
 現実の問題として、阻害要因を除去したら抱き合わせで支援が除去されてしまい、生きていけなくなるわけです。その現実に正面から向き合って環境を変えなければ、いつまでもこのままになるのではないのですか?

 私は、その可能性に向かうメディアの一員であろうとしています。
 が、毎日のように「これでもか、これでもか」と繰り返されるポジティブ重度障害者ライフキャンペーンに、ぶちのめされてしまいました。
 ポジティブ要因が悪いと言いたいわけではありません。虐待や差別といったネガティブ要因に蓋をせずにポジティブキャンペーンを展開することだって出来るはずだと言いたいのです。

私は疲れ果て、絶望しています

 ともあれ、私はぶちのめされてしまいました。
 ことさらに誇示されるかのような、ポジティブ重度障害者ライフの数々に。
 「安楽死上等」という意見だって人の意見であり、それも尊重してこその言論の自由なのに、「言ってはならない」と言わんばかりの識者の声の数々に。
 立場の弱い人の主張を支えて拡大する方向や、誰もが自分の言論の自由を行使出来る方向に向かっているとはいえない、本件の報道の数々に。
 虐待や差別や排除が「ある」という事実を認めて無くすのではなく、「つながり」「共生」「包摂」といった実体不明の言葉で明るい将来像が示され続けることに。
 絶望しました。疲れ果てました。
 しばらく本件から離れていようと思います。