本ブログは、note記事の下書きを兼ねています。

 「寝たきり社長」こと佐藤仙務さんの連載エッセイ『寝たきり社長の突破力』、2020年8月13日に公開された「差別されても 障害者の私がネガティブ投稿しないわけ」を読んで、私は正直なところ、頭を抱えてしまいました。記事の内容は、タイトルのとおりです。

 もちろん、佐藤さんご自身がそういう選択や表現をすることについて、外野がとやかく言う筋合いはありません。しかし、そのエッセイを読まれた健常者の方々がどう考えるか。それは障害者に対してどういう風当たりとなるか。リアルに想像できるだけに、どうにも落ち着かないのです。

 そして本日、Yahoo!ニュースでも公開されていることに気づきました(新聞社との契約により数日後には消えるのですが、一応URL)。コメント欄を見ると案の定。想定範囲内のコメントが並びます。私よりも立場の弱い人々のことを考えると、とても黙っているわけにはいきません。

 以下、典型的なコメントの分類と、それぞれへの応答です(太字は筆者による)。

  • 「権利の主張ばかりではダメ」論
権利を主張することも時には大事だけれど、そればかりだと現実社会では人は離れていってしまうからバランスが大切ですよね。
特にSNSでは意図していない方向に話が転がっていってしまったり、むやみに炎上してしまう可能性があり、ネガティブなことは発信しないに限ると思います。

 日本の教育が、「人権」を理解とともに腹落ちさせることに失敗しているということでしょうね。人間としての権利を主張し、差別に対して異議申し立て(実質的に怒りの表明や告訴になります)を行うことは、現実社会で処世術を駆使しながら生きていくための基盤になるものです。「人が離れないようにバランスよく権利の主張を」では権利主張にならないし、「ネガティブ発信は避けたほうがいい」というのは一般的な処世術。本人の人権あっての話です。

  • 「良い障害者なら支援に値する」論
支援してもらうのが当たり前、自分の思い通りにならないとやれ、差別だと騒ぎ出す。そんな障害者(と周囲の人間)が増えている。そんな状況だから、支援を求められれば応じてもあえて自分からすすんで支援の手を差し伸べようとする気持ちは私にはない。でも、自分の権利だけを主張することなく支援する側の事情や気持ちを考える、記事のような人には最大限の支援をしたいと素直に思う。

 コメントを書かれた方が「差別」を理解しているのかどうか疑問です。ともあれ、典型的な「良い障害者と悪い障害者を分断してよい」「悪い障害者なら支援されなくてもしかたない」論。それ自体が差別なんです。
 障害があろうがなかろうが、ヤな奴はヤな奴、迷惑をかけられたら迷惑ですよね。そこに障害をからめる必要はないはず。
 しかし相手が障害者などマイノリティである場合、ヤな奴だから「あっちに行け」と言い、迷惑だから「その振る舞いをやめてほしい」と言っただけなのに、「差別だ」と言われる可能性を気にしなくてはならない現実は、確かにあります。それは私の現在進行形の問題ですから(ただし、差別する側として)。面倒くさいっすよね。
 たとえば、単に「男性からボディタッチされたくない」というだけなのに、相手が生活保護で暮らす障害者だったりすると、あとで「生活保護差別」「障害者差別」と言われる可能性を覚悟しなくてはならない現実は、私にもあります。数カ月後に「生活保護について記事書いてる障害者なのに差別した、あいつ酷い」という噂話が派手な尾ひれつきで流布されていると知るといったことは、数え切れないくらい経験してますよ。でも、私が「この人と性的な関係になりたい」と思っているわけでもなんでもない男性にボディタッチされて我慢しなきゃいけない理由は何もありません。だったら「その場で肉体的に反撃してやめてもらう」というのが正解であるようにも思えますが、相手の身体のコンディションをよく知らないと、躊躇してしまいます。指や腕を捻ったら骨折するような身体(たとえば糖尿病による下肢不自由だと、大いに考えられます)だと、物理的な手出しは、ちょっとね……。
 この面倒くささを無くす方法は、日常から差別をなくすことしかありません。障害者差別が事実として全くない社会なら、障害者に対して「お前はヤな奴だ」「その振る舞いやめろ」ということは、単にその人が「イヤだ」と思う相手に「イヤだ」と言い、やめてほしいと思った振る舞いを「やめろ」と言っただけになります。もちろん、犯罪レベルで”やりすぎ”になってしまったら、相手が健常者である場合も障害者である場合も、同様に問題になるだけです。
 障害者差別に対して言挙げする障害者たちの多くは、そういう社会を目指したいと考えているのではないかと思います。国連や国際人権団体が考える「障害者差別が解消された状態」はそのようなものですし、私自身もそう考えています。
 日本政府も一応、そのように考えたので、障害者差別解消法を制定しました。それらの国内法整備があったから、国連障害者権利条約を2014年に締結できたわけです。しかし、次のコメントを読むと、まったく効果ないようですね。

  • 「合理的配慮をしないことが許されないのは苦しい」論
障がい者差別解消法が施行されてから、
本音と建前、この人までは対応できるがここからは無理が許されなくなり、ややこしくなった。
大家さんも人間だし、不都合があったとき全部被るのが自分だから、
あまりにも手に余るケースは尻込みするだろうに。
入居時は大丈夫大丈夫、傷もつけない、自分でやると言い切るが、
実際にぼやでもおきれば、やれ避難経路が確保できないからこれじゃ死ぬとか、
この状態で契約してるんだから整備するのが合理的配慮だとか、
そんなことになるんだよ。
映画館でも、介助が一人いるとして、ストレッチャーなら緊急避難時には後二人は必要だ。
平日でキリキリで回してる映画館だと、厳しい時もある。
両者の合意がなければ結べないのが契約のはずなのに、
断る自由が許されない。
この人は引いてくれたけど、引かないと思えばどこまでも闘ってくるから…。
定員割れ高校の件みたいに、何年も。
きついよ。

 この方は映画館にご勤務のようですが、民間事業者に求められている合理的配慮義務の範囲を全くご存知ないようです。愚痴る前に、担当省庁に問い合わせてみられてはどうでしょうか。建物が古くて対応が難しい商業施設や小規模事業者にまで、ゴリゴリに要求されているわけじゃないんですよ。無理だもん。特に、日本は超絶ユルユルです。
 合理的配慮を「建前」として掲げ、本音では「提供しません」というのは、どうしようもなく差別です。しかし「この人までは対応できるがここからは無理」の限界を超えた合理的配慮の提供は、その企業や施設の規模等によりますが、通常は要求されていません。
 ご自分の無知を障害者のせいにされては困ります。さらに職業の場においては、雇用者や施設責任者には周知させる義務があります。結果として、この方のご勤務先のしょうもなさまで明らかになっています。
 「引かないと思えばどこまでも闘ってくるから…。」という「定員割れ高校の件」は、コミュニケーション障害や知的障害を持つ重度障害者が、定員割れしている高校を受験しても合格しないという事例です。今、高校までの教育は事実上義務教育のようなものになっています。そして、障害者差別をしないことを国際社会に約束した日本(国連障害者権利条約を締結するとは、そういうこと)は、障害児を特別支援学校に分離して教育するスタイルを減らしたりなくしたりする義務を負っています。その方々が特別支援学校の高等部ではなく、あくまで高校受験と高校在学にこだわっている背景は、そういうことです。「Yahoo!ニュースの読者さんには伝わっていない」ということでしょうか。


  • 妊娠経験からの「感謝すると優しくされやすくなる」というご意見
この記事を読んで、すごく勉強になりました。
妊婦の頃は席を譲ってくれない、
乳児を抱えて電車に乗れば舌打ちされる、
子連れで店に入れば何もしてないのに睨まれる、
こんな理不尽なことを経験するたびに、自分も含め、怒りに震えてきた人多いと思う。
でもそれって、心のどこかに、妊婦は席を譲って当たり前、妊婦は優しくされるのが当たり前、という思いがあったから、
それがどことなく伝わってしまっていたのかな、なんて思います。
すべてに対して感謝しまくっていると、
だんだん周囲の対応も変わってくるような気がします。
周囲にペコペコ頭下げながら感謝しながら、泣き喚く赤ちゃんを汗だくであやしてるママさんを見たら、
誰だって席を譲ってあげたい、って思うだろうし。
障害者も妊婦も子持ちママも同じですよね。
全員が謙虚と感謝を持てば、社会はすごく良くなっていくと思う。

 私には妊娠・出産・育児の経験はありません。そして、電車やバスの中で赤ちゃんが泣きわめいていたり幼児が聞き分けない様子であったりすると、別の意味でムカつきます。親御さんが恐縮していると、さらにムカつきます。泣く赤ちゃん、暴れる子どもに対して不快をあらわにし、親に責任を問おうとする周囲の人たちにムカつくのです。
 親御さん(たいていは母親←これも問題)は恐縮して、赤ちゃんを早く泣き止ませようとしたり、幼児を静かにさせようとしていることが多いです。しかし、特に親御さんが母親である場合、非難がましい視線や声がお母さんに向けられます。父親である場合はそうでもないのは、なぜでしょうね? 
 親御さんが、赤ちゃんや幼児を放置しているように見える場合もあります。疲れ切っていたり、「どうすればよいのかわからない」という様子であったりします。周囲からの非難の視線や声は、さらに非難がましくなります。
 私はそういう時、先手を打ちます。「赤ちゃんは泣くのが仕事ですよねえ、元気でいいですねえ」「子どもは暴れるのが仕事(以下同文)」と親御さんに話しかけ、その赤ちゃんや幼児の月齢年齢や性別や名前を聞いたりします。親御さんと私が和やかに話していると、赤ちゃんの泣き声のトーンは下がり、幼児は話に割り込んでこようとします。自分のことが話されているわけですからね。そうなればしめたもの。どの駅で降りるのかを聞き、その駅で無事に降りられそうか周囲を見ながら、赤ちゃんや幼児と遊ばせてもらいます。生育にかかわる責任を一切負っていない通りすがりのオバサンがそのくらいしたって、バチは当たらないでしょう。
 生涯ただ1回きり、あるいは、せいぜい2回目の子育てで経験を蓄積するところまで至れないイマドキの親の事情を理解してアクションすることは、子育て世代よりも年長の世代の務めではないでしょうか。母親に「必死で恐縮して席を譲ってもらう」というライフハックを編み出させてしまうことは、日本社会の、特に年長世代の失敗。「みんなが協力して配慮してくれるから、子育ては楽しい♪」と思われるくらいで、ちょうどいいんです。少子化って、日本の課題でしょ?
  • 「精神的成長」論
〉人は、人を批判することで一時的にすっきりするかもしれないが、本当の心の豊かさは得られないと知った。

自分は辿りつけていない境地だと思った。
反論したり、批判したりしなければならない場面はたくさんある。でも、時にはこう考えることも必要なのだろう。
すぐには変えられないかもしれないけれど、少しずつ意識していこうと思った。

 佐藤仙務さんが重度障害者であることを度外視すれば、特になんということはない、ありがちなコメントです。逆境を精神的修養の機会に置き換えることは、よくある合理化機制の一つであり、社会的弱者がエージェンシー(せめてもの主体性)を発揮する手段の一つでもあります。
 しかしながら、言挙げする障害者や言挙げするマイノリティの多くは、すっきりするために批判しているわけではないはず。そこへの眼差しが全く感じられないのは、なぜでしょうか?

佐藤仙務さんご自身は、何をどう書いたのか

 当該のコラム「差別されても 障害者の私がネガティブ投稿しないわけ」に書かれている内容は、以下のとおりです。
  1. オフィス探しで障害者差別に遭った。幼少のころから、差別される経験は重ねてきている。しかし今は、差別や世の中の理不尽とは決して真正面から戦わないスタンス。
  2. 映画館で障害者差別に遭い入館を断られたとき、SNSにその事実と怒りを示すと、顧客の一人に窓口の人に事情があった可能性を考えるよう示唆された。
  3. 批判をあからさまにすると、権利を盾に相手を傷つけることになる。
  4. 自分のせいで、他の障害者が色眼鏡で見られたり、親切にしようと思っている人への善意を踏みにじりたくはない。
  5. そこで自分のルールを変えた。理不尽なことや差別をされても、私はお陰様と感謝の気持ちを持つことにした。
  6. すると、周囲にたくさんの仲間ができた。普段親切にしてくれる周りの人間をより大切にしたくなった。
  7. 人を批判することで一時的にすっきりするかもしれないが、本当の心の豊かさは得られないと知った。
 エッセイには、幼少時からの経験、障害者団体の関係者からの意見なども記されています。狭い障害者の世界の「誰かが自分の苦痛を訴えただけなのに他の誰かを殴ったことになる」という複雑なアヤ、それを健常者中心の日本社会がどう見るかという問題は、おそらく意識された上での本エッセイだと見ています。なによりも冒頭で書いたとおり、佐藤さんには、思ったり考えたり書いたりすることすべての自由があります。

 ただ、上記「7」の「人を批判することで一時的にすっきりするかもしれないが、本当の心の豊かさは得られない」については、私自身の言論の自由を行使して、異議を申し上げます。
 障害者差別が行われた事実、怒り、悲しみといったものを表明する行為は、多くの障害者にとって、「批判することで一時的にすっきり」という性格のものではありません。誰かが表明しなくては、「そのような現実がある」「そのような苦しみが生み出されている」ということが知られないから、勇気をもって、極めて面倒な反応の数々や炎上を覚悟しつつ表明しているのです。
 少なくとも、私自身はそうです。イヤなことは、さっさと忘れたいですから。でも、私よりも声をあげにくい女性障害者たちは、もっと黙らされている可能性があります。だから可能な限り、黙らないようにしています。
 私は生まれながらの障害者ではなく、中年になってからの中途障害であり、現在は佐藤仙務さんの親であってもおかしくない年代です。そして、女性でもあります。このことが、佐藤さんと異なる認識と異なる判断をもたらすのは、当然でしょう。

 どうか佐藤仙務さんの本エッセイが、立場が弱く差別されやすい人々を抑圧するツールとして、健常者中心の日本社会で独り歩きさせられませんように。