2015年9月9日、猫の摩耶(18歳+約4ヶ月)が他界してから、2ヶ月と1日が経過しました。
一緒に暮らした猫を見送るのは3にゃん目ですが、何度繰り返したからといって、慣れるものではないようです。 
といいますか、過去に味わったことのない激しい喪失感といいますか、心身の激しい変調があり、まだ続いています。

摩耶。2015年8月24日。貧血のせいか、ちょっとダルそうです。
DSC05071

  • 長く激しい夢が、終わろうとしている
摩耶が倒れて入院した9月6日夜、動物救急センターにタクシーで連れて行き、応急処置のあとお願いして一人で帰宅しようとした時、身体が締め付けられるような、削ぎ落とされるような感じがありました。
「今日、今これから」というほど緊迫した状況ではなかったものの、厳しい状況、摩耶の生涯最後にさしかかってしまったことは間違いありませんでした。
弟猫の瑠(7)がひとり待つ住まいに戻った時、やまだ紫「しんきらり」の
長い
長い——夢の中にいた
あの人にめぐりあって6年
結婚して10年
あわせて16年もの夢——
わたし自分を無欲な平和な女だと思っていた
結婚生活に過大な期待をもたず
ただ平和な日々がおくれたらとささやかな
夫婦が長く平和に——という望みは「ささやか」な望みなんかじゃなかった
こんなに激しい夢ってなかったんだ

というモノローグが、脳裏に浮かび上がってきました。
摩耶との約18年3ヶ月、1997年6月に生後1ヶ月の摩耶を迎えてから18年以上の時間を、とにもかくにも共に、互いに信頼しあって歩み通してきた奇跡。
ただただ、ありがたくて愛おしくて、 でも、遠からぬ将来に終わってしまうことが悲しくて。
ベッドの上にへたりこみ、何十分もそのままの姿勢でいました。

  • 摩耶との最後の10時間
亡くなる前日の2015年9月8日、午後3時少し前、摩耶が最後にお世話になった動物救急センターに駆けつけました。
摩耶の「おかあさん、おかあさん」と呼ぶ声が聴こえたので、取るものも取り敢えずそちらに向かっていたら、あと10分というところで「呼吸停止しました」という電話。蘇生と人工呼吸を「しますか」と尋ねられたので、お願いしました。
午後3時から午後9時少し前までの約6時間、私は摩耶のことだけを考えながら、摩耶の横にいて、撫でたり話しかけたり音楽を聞かせたりしていました。
摩耶をたいへんかわいがってくれた友人が迎えを手伝いにきてくれたのは、午後9時少し前。
連れて帰る準備が整い(住まいには酸素ボックスを用意していました)、友人に抱かれた摩耶とともに住まいに着いたのは、午後10時過ぎ。
午後11時過ぎには、友人は帰って行きました。もう1回2回は会えると思っていたそうです。私も、もう1日2日は頑張ってもらえるだろうと、ケアの心づもりをしていました。
リラックスした様子で横たわる摩耶を、ずっとずっと見ていたかったのに。一緒にいたかったのに。
日付が変わってまもなく、摩耶は他界しました(詳しくはこちら)。
最後に、摩耶と濃密な10時間を過ごせたのは良かったと思っています。
でも私はなぜ、摩耶が元気なときに、もっと向き合って、遊んで、愛さなかったのでしょうか。
やはり後悔が残ります。


  • 病院から初めて「おうち」に迎えられる赤ちゃんのように
亡くなる前日、9月8日の午後9時少し前、摩耶をたいへんかわいがってくれた女性の友人が迎えを手伝いに来てくれました。
呼吸器使用の難病患者さんを専門とする介護事業所を経営し、ヘルパーとしても活動する友人は、仕事の帰りでした。仕事に使っていた淡黄色のエプロンを持っていました。
動物救急センターを出るときは、雨でした。
腰から下をペットシーツでくるまれ、友人の淡黄色のエプロンをかけられた摩耶は、私に抱かれてタクシーに乗りました。
摩耶が濡れないように、獣医さんと友人が傘をさしかけてくれました。
タクシーで住まいに着いたら、友人に摩耶を抱いてもらい、私は車椅子をトランクから降ろして組み立て、住まいのドアを開け、用意した酸素ボックスが「スタンバイOK」であることを確認しました。
摩耶は、淡黄色のエプロンにくるまれ、友人に大切に抱えられて、住まいに入ってきました。
その様子は、産まれた病院から、おくるみに包まれてパパやママに抱かれて「おうち」に迎えられる新生児のようでした。
摩耶は産まれたばかりの人間の赤ちゃんではなく、余命いくばくもない病気の高齢猫で、意識もあるのかどうか明確にはわからない状態でした。
これからの成長を期待されての帰宅ではなく、最後の時間を「おうち」で過ごすために戻ってきたのでした。
でも、私たち家族の大切な娘であり、妹であり姉であり、友人たちにも愛してもらった摩耶は、とにもかくにも「おうち」に戻ってきました。
私たちの大切な生命が、私たちの暮らしの場である「おうち」に戻ってきたのです。
大切な生命の輝きは、迎える者たちの喜びは、人間であるかどうか・将来があるかどうかなどとは関係がないのだと思いました。

  • 腎臓は頑張ってくれていた
2010年8月、摩耶の多飲多尿が気になったので病院で検査してみると、腎臓がかなり悪くなっていました。CRE3.1だったか。慢性腎不全の病期分類ではステージIII。透析ステージが猫にはありえないので、ステージIVよりも先はありません。その一歩手前。
それから5年1ヶ月、血液検査の結果では、摩耶の腎臓はじわじわと悪くなってきてはいたものの、CRE3.1が時に3.5や3.8になる程度。BUNは少しずつ高くなってきており、腎機能が少しずつ低下していることは否めませんでした。
2012年10月に糖尿病との付き合いが始まって以後は、糖尿病と腎臓病の間で綱渡りするような日々が続いていました。
動物救急センターに最後の入院をさせたとき、私の匂いの染みたタオルを一緒に預けました。
そのタオルは、摩耶の尿にまみれて住まいに帰ってきました。薄めながら、しっかりアンモニア臭のする尿でした。
救急センターで最後の救命処置を受けていたときに敷かれていたペットシーツに染みていた尿からも、最後に住まいで呼吸停止したときの尿失禁の尿からも、しっかりアンモニア臭がしました。
髄膜炎と、おそらくその原因になったと思われる脳腫瘍さえなければ、摩耶は成人式を迎えてくれたのかも。

  • 摩耶のいない生活に慣れるまで
私は驚くほどスムーズに、摩耶の不在そのものに慣れました。
朝起きて、摩耶の姿が見えないのを「なぜ?」と思うようなことはありませんでした。 
しかしながら、摩耶がいないという事実は、日に日に重くのしかかってくる感じでした。 

  • 食欲がなくなった
摩耶が亡くなってから、食欲が激しく減退しました。
2ヶ月が過ぎた今でも、1日にお子様ランチ程度の食事1回程度を完食、あとは軽く野菜や果物をつまむ程度の食事しかできません。
食べることを考えただけで胃が重くなります。
なんとか固形物をお腹に入れると、またそれで胃が重くなります。
食べないと動けないし仕事もできないし研究もできないし。苦痛に耐えて食事をする日々が続きました。 
体重も激減しました。2ヶ月で6kg減りました。もとが高度肥満でしたから、まだ立派な肥満体ですけど。
今朝、目が覚めた時に「お腹すいたな、何か食べたいな」と思いました。
摩耶が亡くなってから、初めてのことでした。
摩耶が倒れた9月6日朝は、それなりに普通に朝食を食べた記憶があります。
それ以来、2ヶ月と5日ぶりのでした。

  • 瑠と、母一人息子一人に
2013年3月、愛してやまなかった弟分の悠(享年14)を失った摩耶は、ひどく力を落とし、嘆き悲しみ、寂しがりました。
私が近所のコンビニまで買い物に行って帰ってきて住まいに近づくと、たった20分足らずの不在なのに、「大泣き」という感じの摩耶の声が聞こえてくるのでした。
1ヶ月経っても立ち直りの気配もない摩耶のため、私は意を決して、アニマルシェルターから新しい猫を迎えました。虐待から救われ、シェルターで5歳まで育てられていた猫の瑠(りゅう・7歳男子)です。
いまだ人間不信・人間恐怖が若干残っている瑠ですが、摩耶ねーちゃんとは、あっという間に仲良くなりました。
摩耶と仲良くやってるし、摩耶も喜んでるから「ま、いっか」と思っていました。
しかし、摩耶がいなくなり、瑠と人間のカーチャンは一対一で向き合わなくてはならなくなりました。

ギクシャクしていた瑠との関係は、少しずつ少しずつ、ほぐれてきています。

瑠(7)。なかなかシャッターチャンスをくれないコです。
2015-05-11-10-11-13


摩耶がこよなく愛した弟分の悠(1998-2013)。甘え上手なコでした。
 268267_133912520022325_6271274_n

  • お酒が飲めなくなり、ついで深酒連続になったので、当分のあいだ禁酒
摩耶が亡くなってから、お酒がまったく飲めなくなりました。
1ヶ月ほど、ビール1本も飲めませんでした。飲もうとすると、途中で気持ち悪くなるのです。
ところが1ヶ月半ほどすると、逆にお酒がいくらでも飲めるようになりました。日本酒換算で、1日あたり4合や5合を飲み、翌朝は酒は残っているものの二日酔いになるでもなく。
そのうちに、朝、眼が覚めたときに「お酒飲みたいな」と思うようになっていました。
これはヤバいです。そこで飲んだら連続飲酒状態に陥ります。アルコール依存症の仲間入りです。
カーチャン元気でないと、摩耶が悲しむぞ。
というわけで、本日から10月22日まで、禁酒することにしました。

愛と信頼で結ばれた大切な家族を失うことは、こんなにも辛いものなのですね。
これまで、(人間の)ご家族を亡くした方に、自分はなんと無神経な言葉がけをしてきたものだろうかと反省しています。