2014年6月ごろのことだったと記憶しています。
私は、10年以上の付き合いだった一人の青年に、「東大は東大話法」と食ってかかられました。
毎年参加させていただいている、東大の学外施設での研究合宿から帰ってまもない折のことでした。
青年は長年、精神疾患を持っており、精神障害者でもあります。現在は生活保護を利用して暮らしています。
青年の精神疾患は知り合った時からのことでした。
青年が精神障害者手帳を取得したのがいつだったのかは知りませんが、たぶん知り合って数年の間、円満な交友関係があった時期のことだっただろうと思います。
いずれも、問題にするようなことではありませんでした。
こちらも精神障害者なんだし。
生活保護を必要とする事情が発生する可能性は、ほとんど誰にでもあるし。それどころか、福祉事務所で生活保護の申請を勧められた経験まであるし。2006年、もう10年近く前のことですが。

「東大話法」は、概ねこのように説明されています(Wikipedia「東大話法」)。
 安冨の示した東大話法の概念は、「常に自らを傍観者の立場に置き、自分の論理の欠点は巧みにごまかしつつ、論争相手の弱点を徹底的に攻撃することで、明らかに間違った主張や学説をあたかも正しいものであるかのようにして、その主張を通す論争の技法であり、それを支える思考方法」というものである。
青年が「東大は東大話法」とした根拠は、一人の東大教員(当時)の語りでした。私も、青年が問題にした東大教員の語りそのものを知っています。
その語りのどこが、上記のような「東大話法」の特徴に当てはまるのか、私には現在も分かりません。
しかし青年が執拗に繰り返した以上、青年にとっては「東大話法」だったのでしょう。
 
その東大教員(当時)の語りには、守らなくてはならないものを守るための、やや煮え切らない語り口が含まれていたりはしました。最も守らなくてはならないと考えられていたのは、トップレベル研究拠点であることであり、トップレベルの人材育成を行うことでした。
分かりやすく言えば、ブランディングであり、エリート教育です。
当たり前でしょう。それは東大に期待される重要な役割の一つです。
東大のブランディングやエリート教育は、日本全体の高等教育を守り底上げする役割も、不完全ながら果たしています。「不完全」になってしまう理由は、現在の日本全体の高等教育の構造が95%、現在の東大運営サイドの姿勢によるもの5%、程度でしょうか。
トップにはトップで頑張ってもらわないと、ボトムも困ることになります。もしもトップとボトムが分断されておらず、有機的なつながりを持っているのであれば、当然、そういうことになります。

青年の逆鱗に触れたのは、その「東大が守らなくてはならないと考えられることがら」そのものだったのだろうと思います。
高校中退、苦労して大学夜間部に進学したものの中退した青年は、自分の適応できなかった学校を「下らない」とし、「学校などというものがあるからいけない」と考えており、学問に対して価値を認めつつも認めたくないという、非常に捻れた感情を抱いていました。大学院を修士・博士×2と3箇所も経験している私も、彼の
「小学校より中学校が下らなかった。高校はもっと下らなかった。大学は高校より下らなかった。大学院はもっと下らないんだと思う」
という言葉を、何百回ぶつけられたか分かりません。
私は彼ほどではなかったものの、学校という場所で居心地よい思いや達成感を味わったことは、ほとんどありません。学校の集団生活には、常に不適応気味でした。まったく尊敬できない、問題ある教員によるイジメを受けたことも何回もあります。
その経験から、私は学校教育を「無条件に良いもの」とは考えていません。
しかし、学校教育が大きな機会の一つであり、学校教育によってしか成し得ないことが数多くあることも、また確かだろうと思います。
学校をより良い場とし、より質の高い学びを提供しようとする努力を続ける教員たちを、私は数多く知っています。
自分自身も、高校までの学校教育で「学校教育って何? 教員の役割は何?」という疑問を持ちました。「学校は下らない」「教員はダメだ」と言う前に、学校や教員について「ちゃんと知ろう」と思ったので、大学では教員免許を取得しました。幸いにも教職科目の教員や教育実習の受け入れ教員に恵まれ、私は
「なぜ、学校というものが、そこに来る児童・生徒にとっての幸せな経験と学びの場であることから、しばしば遠ざかってしまうのか」
について、背景や構造を理解する糸口に立つことができました。

おそらく青年にとって、東大は「自分を苦しめた下らない学校」のトップに立つ存在以外の何でもなかったのでしょう。
青年が私に期待していたことは、「学校は下らない、東大はさらに東大話法だから下らない」という主張に「Yes」と答えることだけだったのでしょう。
もちろん私に、「東大は東大話法」「東大は下らない」という説に「Yes」と言う理由はありません。
東大教員に限らず、守らなくてはならないものがたくさんある人が、守りの話法となるのは当然です。家族、部下、もちろん自分。誰が、「守らなくてはならない」こと自体を責められるでしょうか?
私は青年に、その東大教員の語りのどこが「東大話法」なのかを説明して欲しいと、何度もただしました。
青年は、あまり明快な根拠なく「だって東大話法じゃないですか」と繰り返すだけでした。
百歩譲って、その東大教員一人の語りが「東大話法」であることは認めるとしても、東大で行われている運営・研究・教育の努力のすべてを否定することは、私には出来ません。
1コマの授業に10時間の下準備をする東大教員がいることも知っています。
「入念な下準備が出来るほど、やはり東大は恵まれている」
ということでもあるのですが。
私は青年に、その話を何十回したか分かりません。
すると青年は、「学校は下らない、教師は下らない」という話を始めるのでした。
学校組織とは、確かに下らないものであるのかもしれません。大学の同級生には、学校組織に嫌気がさして中高教員を辞めた人も何人かいます。しかしそれは、下らない学校組織の中で個々の教員が尽くす配慮や努力を否定するものではないと思います。
「学校は下らない、教師は下らない」
と言う言葉は、配慮や努力まで否定することになってしまいます。
私自身、非常勤ながら教員経験を持っており、学校の方針や組織の問題はそれはそれとして、目の前の教室で、目の前にいる生徒・学生に出来るベストを尽くしてきました。
私は青年に、
「あなたの『下らない』の対象は、私自身なのか?」
と聞くべきであったかもしれません。その答えは、本人が口にするかどうかはともかく、おそらく「Yes」だったでしょう。
曲りなりにも大学院に在学して研究を続けている私。
年に一回、東大の学外施設の研究合宿に参加することのできる私。
なんとか職業キャリアを手放さずにいられる私。
挫折、失意、芽が出ようとしたらまた挫折、ちょっと芽が出てまた失意、の連続なのですけどね。
青年に、その挫折や失意の部分についても話そうとしたことはあるのですが、
「学校に行くからいけないんじゃないですか?」
と言われるだけだったので、二度とその話はしませんでした。
私が、どんな思いをしてきた末に、どんな経験をしてきた末に、周回遅れで、今も学問の場にいようとしているのか。
何のために、そうしようとしているのか。
高等教育や学問の意味を、私はどう考えているのか。
自分にとって大切な思いを、「行くからいけない」と切って捨てる青年に話す気にはなれませんでした。

その後も青年は、私に対して、何百回「東大話法」「学校は下らない」を蒸し返したか分かりません。
「何百回」というのは誇張ではなく、数秒~3分程度しか続かない10~20通りの定型句のような語りを延々と繰り返すのが、当時の青年の話しぶりの特徴でした。何らかの精神疾患の影響であった可能性もあるとは思います。
私はそのたびに、
「東大は東大だからこそのことをすることに意味があるんだから、それを守るのは当たり前、むしろすべきこと」
「東大にもいろんな先生がいて、地道な教育努力をしている先生もいる」
「今の日本の学校にいろんな問題があることは、学校の拘束時間や権限を減らすことも含めて、解決すべき問題。学校そのものをなくす理由にはならない。学校だからこそ発見して解決に繋ぎやすいことが、たとえば貧困状態の子どもの家族の支援も含めて、たくさんある」
というような話をしました。
反応は
「そうですかあ? でも……(と次の『下らない』に移る)」
のみでした。
私がなかなか青年の主張に「Yes」を言わない、というより言えずにいると、青年の口調は激しくなり、罵倒といってよい口調に代わっていきました。
青年の主張に対し、青年を満足させないであろうと考えつつも、私は自分の知る事実によって「No」を言い続けるしかありませんでした。
青年が用事を思い出して私から離れるまで、いつ終わるとも知れない拷問のような時間が続く中で。
私は
「自分はなんと、愚かなことをしているのだろう」
とも思いました。
青年の考えを少しでも変えることなど、おそらくは不可能でしょう。おそらく青年は「東大話法」「東大」「学校」そのものを問題にしているのではなく、自分の感情のハケ口が欲しいだけです。
私は「東大話法だから」「東大だから」「学校だから」ダメ、とする青年の意見にYesと言わず、そうではない根拠を言い続け、青年の激しい言葉と口調と、時に飛んでくるツバに打たれつづけているわけです。
青年にとって、私は「東大側」「学校側」の人間なのでしょう。そう思われてもしかたがない、とは思います。
私自身が「東大」「学校」で、良い思いをしているというわけではないのに。
青年の「東大話法」という攻撃のきっかけとなった東大学外施設での研究会では、私に対して「ほんとは来てほしくないんだけど」という態度をあからさまにした人もいます。何らかの貢献をしようとしたら、すぐに「それを無意味化しようとしているのかな?」という動きがあったこともあります。他の参加者に露骨な差別を受けたこともあります。
人が集まる場所である以上、当然起こりうることも起こる。それだけの話です。
学校というものと相性が良かったことは一度もない私は、異質な存在とも考えられやすいでしょうし。
貧困問題について書いていたりする現在の私を、「エスタブリッシュメントの敵」と見る人も現れるでしょうし。
それそのものの直截な言葉を直接ぶつけられたことはありませんが、「そう思われているのかな」と感じたことは、数えられないほどあります。
そうは考えないであろう参加者も多数いますし、そういう方々と会話していれば平和な時間が流れるのですが、時には差別の方から近づいてくることも、やっぱりあります。
なのに私は「東大」「学校」の代表であるかのように、攻撃の矢面に立たされているわけです。
私は、東大を守りたいわけではありません。
学校というものを守りたいというわけでもありません。
ただ私は、自分の経験、知っていることがら、見聞きした事実から、青年の主張はおかしいと考え、Yesと言わなかっただけです。
そんな私を、もし他の誰かが見ていたら、どう思うでしょうか。
やはり
「東大にいい思いをさせてもらっているから、東大をかばっているんだろう」
「教員経験があるから、教員や学校組織の味方なんだろう」
としか思わない人の方が、圧倒的多数ではないでしょうか。
貫いても何の利益もない信念を貫き、誤解され、打たれて潰される。それが自分の人生なのか。
なんと愚かな自分。
こんな自分は生きている価値がない。
青年の攻撃にさらされながら、私は自責を続けていました。

青年とは、2015年1月に絶交しました。以後、どうしているのか全く知りません。
絶交直前、私は
「自殺か、夜逃げか、あるいは青年が何らかの理由でこの世から消えるか」
以外の解決の可能性が考えられないようなところまで追い込まれていました。
おそらく、この悩みは、精神障害を持つ人を強制入院させたいと望む家族と同質のものであったでしょう。
しかし幸いにも、私は青年の家族ではないので、強制入院・強制医療につながるような行動の選択肢はまったく持っていませんでした。
唯一可能だったのは、絶交でした。

それから7ヶ月が経過し、徹底的に痛めつけられた私の心身は、かなり回復してきました。
研究に向かおうとすると、頭の中や目の前に蘇る青年の声や言葉や表情は、今も私を苦しめています。
こんなことに苦しめられ、打ちのめされ、前に進めないままの人生を送るのか。
こんなことに苦しめられたけれども、前に進むことができ、一定の達成はでき、
「妨害は受けたし、そのダメージはやはりあるにはあるけれども、ここまで来れたから自分を評価することにする」
と思える将来を手にするのか。
1990年代末期のある日、10代だった青年と出会って楽しい交友関係を持てたことは、後悔するようなことではありません。 
2005年の不幸な出来事から、もともと精神を病んでいた青年は精神症状を悪化させ、2007年には強制入院に至ったと聞いています。
そして2014年には、こういう不毛な会話(というより私が一方的に聞かされ、相槌を求められるだけなのですが)の連続につながってしまいました。
受けてしまったダメージは、とても否定できません。今も引きずっています。
なんで、青年からさっさと離れなかったのか。もっと早く絶交しなかったのか。自責の念も、未だにあります。
過去はどうしようもありません。
過去の不幸な出来事やダメージを引きずりながら、
「あんなことがあったけれど、今ここまでこれた」
と、小さな自己満足につながる今後を作るしか、ないのです。