「難忘的一夜」とは、中国で天安門事件を指すときに用いられる言い回しであるとのことだそうです。
2ヶ月近く経過しても、私が未だに思い出し怒りを抑えられずにいる2014年7月下旬のある一夜の出来事を、ここに記録しておきます。

  • 事の顛末をざっくり言うと

ざっくり言うと、下記の通りです。
夫君の仕事の都合でインドに滞在している旧知のブラ美さん(仮名)が、日本に帰省していた。仮住まいは関西にある。
私が京都の大学院でのゼミのために京都に宿泊するときに、会って一杯やることにした。
ところがブラ美さんは終バス終電を逃し、私のホテルに転がり込んだ。
私は翌日ゼミであること、まだ準備をしていないということを何度も言ったが、ブラ美さんは私を話し相手にしつづけた。
翌朝、私は話したがるブラ美さんを振りきって無視し、ゼミの準備をした。
終わったらブラ美さんは意気消沈し、落胆した様子で、まったく饒舌でなくなっていた。

  • ブラ美さん(仮名)について
(プライバシーに配慮し、ディテールは変えてあります)
53歳、岡山県生まれ。短大卒。
オーストラリア人大学教員の夫と結婚。現在は夫の勤務先であるインドA州(ムスリムが多いことで知られるB地域)に在住。
娘2人の母。上は大学を既に卒業して就職。下は高校3年。

  • それまでのブラ美さんとの付き合い
SNSで知り合った。
2012年夏 日本の大学教員(女性)と3人で会った。特に問題ある感じではなかった。
2013年夏 彫刻家(男性)と3人で飲んだ。その後、有名広告代理店に勤務する若い男性(B市でブラ美さんに世話になったということ)と合流。私は終電があるからおいとました。

過去、一対一で会ったことはなかった。
今にして思えば、同席していた大学教員・彫刻家・有名広告代理店の会社員などが「歯止め」になっており、ブラ美さんの悪意や攻撃性が表面化しなかっただけなのではないかと思う。

  • ブラ美さんにどのように困らされたか
・居酒屋で

ブラ美さんは席に着くなり、大声で話し始めた。他にお客さんがいなかったのは幸いだったが、不思議だった。こんな無神経な言動をする人であったか? と。
ブラ美さんは「おみやげ」と言って、ガムテープで止めた紙袋を私に渡した。中には、そこのコンビニで売っている化粧品・地元名物という袋菓子・現在滞在しているインドの食器・自分が過去に使っていたマグカップなどが入っていた。私は、おみやげを貰うことを期待していたわけではなかったが、そういったものを「いかに価値があるものか」と説きつつも「現地の100円均一ショップで買った」と語るブラ美さんにどう反応していいか困った。
ブラ美さんは「傍若無人」という感じで、自分の話したいことを一方的に大声で話し続けた。口調は攻撃的だった。私がトイレに立つと、「それ、ステテコ?」と大声をあげた。私はユニクロの「リラコ」を穿いていたのだが、そういうことを大声で言うか?
ブラ美さんはその日、京都のお友達の家に泊めてもらうことになっていたが、携帯電話を忘れてしまい、相手の住所も電話番号もわからないという。とりあえず私のスマホでお友達のFBアカウントにメッセージを送り、連絡があるのを待ちつつ、お店の方にタクシーを読んでもらい、ブラ美さんのお友達の住まいがあるという方面に向かった。なお、飲み代は割り勘にした。
お友達の家には、ブラ美さんは行ったことが一度あり、近くにいけばわかるはずだという。

・タクシーの中で

ところがブラ美さんの説明は要領を得ない。「自動販売機がある道を曲がって、暗い道を登っていく」というものである。そんな道はいくらでもある。タクシーでブラ美さんが「こっちだったと思う」という方面に行ってみても該当する住まいは見当たらない。引き返すにしても、もう終電も終バスもないブラ美さんをどうするかが問題なので(放り出せばよかった!)、私は宿泊を予約しているホテルに電話し、「一人帰れなくなった人がいるんだけど、空きはありますか」と尋ねた。空きがあり、受け入れ可能ということだ。
ブラ美さんは、このことを後に
「みわちゃんが、私と話したいからそうしてくれたんだと嬉しかった」
と言った。また、タクシー代約4000円は
「私が遠回りさせたから」
とブラ美さんが払った(強引に割り勘にしておくのだった。このことも後に恩着せがましく言われることになったから)。
なお結局、ブラ美さんが「泊めてもらう約束をしている」という人からのお返事はなかった。友人関係も、泊めてもらう約束も、もしかすると最初からなかったのかもしれない。


・ホテルで(翌朝まで)

ホテルに着くと、シングルルームの空きはなくツインかダブルだという。女同士で寝る趣味はないので、ツインにしてもらった。ブラ美さんは「やったー!」と言った。後にブラ美さんは「みわちゃんが私と話したいからそうしてくれたんだと思った」という。私はダブルベッドで女性と寝たくなかっただけだ!
部屋に入るなり、私はパソコンと参考書籍を出して作業を始めようとした。するとブラ美さんが横にやってきて
「みわちゃん、ブラジャーしてるの? 私、これ」
と、自分のブラジャー(レース付き、ベージュ色)を私の目の前にぶら下げた。アンダーバストの締め付けがないのだそうだ。
「きついブラジャーしてるとガンになるよ」
とブラ美さんは言った。
私は「明日はゼミで、準備が必要」と再三繰り返していた。ホテルの部屋に入ってからも何回も繰り返したのだが、聞こえなかったかのように、ブラ美さんは自分のしたい話を話すのであった。
私は
「30分くらいちゃんと話を聞いたら気が済むんだろうか」
と相手することにした。でも、1時間ほど一方的な話を聞いた痕に
「じゃ、私は明日の準備をするから」
と何度か努力したが、ブラ美さんは
「それでね……」
と話し始め、私を解放しなかった。
午前3時過ぎ
「じゃ、寝るから」
と私がベッドに入ると、ブラ美さんはなおも話しかけ続けた。
「宗教を信じている人は寛容だと思う、あなたも宗教を持つべきだ」
という内容だった。私は
「ごめん、寝かせて」
と頭から布団をかぶって寝た。

・私の身体障害に対して

ブラ美さんからは「何かあったら手伝うから言ってね」と何回か言われた。何も頼んでなくてもこれだけしゃべられて妨害されるのなら、何か頼んだらどういう代償が待っていることか。怖いから何も頼まなかった。

・ホテルにて(翌朝)

朝、私が目覚めると、ブラ美さんはいなかった。近所の喫茶店で朝食を食べるというような書き置きがあった。私はこれ幸いとホテルの朝食を食べにいった。するとブラ美さんがいた。自分の好みに合うような喫茶店はなかったのだそうだ。
私はそそくさと朝食を食べ、ブラ美さんが何度もバイキングのおかわりを繰り返しているなか、自室に戻った(近所のネカフェ情報などが全く分からなかったので、とっととチェックアウトするか、またはそこで作業するしかなかった)。
私が机に向かって必死で作業しているところに、ブラ美さんが戻ってきて話し始めたが、私は
「今、作業してるから!」
と言い、作業の手を止めなかった。途中、何回かブラ美さんは話しかけてきたが、私は
「あと○分くらいで終わるから」
と言い、相手しなかった。
なんとか私はゼミ発表の資料を作り上げることができた。そしてブラ美さんは不機嫌になり、あの饒舌さはどこに行ったのか? という感じだった。
後にブラ美さんは
「大丈夫だと思った時にだけ話しかけた」
と言っていた。それがもし事実であったとしても、ブラ美さんの「大丈夫だと思った」は、まったく当たっていなかったということだ。
お昼ごろ、ブラ美さんと私は京都駅で別れた。ブラ美さんによれば、この時、私は
「こんどは私の結婚生活の話も聞いてね」
と言ったことになっている。私は
「こんどは私の話も少しくらいは聞いてね」
くらいは言ったかもしれないが、結婚生活の話と言ったことはない。過去10年以上、結婚生活というものと無縁なので、語るべき結婚生活がないのだ。
  • ブラ美さんが私に語ったこと
下記のとおり、極めて下らない話の数々であった。後にブラ美さんは「みわちゃんに、種まきをしてあげたんだ」と語ったが。
百歩譲ってそれが本音であったとしても、なぜ、「明日ゼミ発表で、まだこれから資料を作らなくちゃ」と私が言っている時に「種まき」をする必要があるんだ?

・岡山県の封建的な両親のもとに生まれた。弟と二人きょうだい。そもそも封建的なので、長男である弟が大切にされていた。弟は出来が悪かったため、「出来が悪い子ほど可愛い」という面からも大切にされていた。不満はあったが、今は両親とも弟一家ともまあまあ良好な付き合いができている。家族だから、最終的には分かり合えた。
(感想:あからさまな虐待に遭うようなことはなかったらしい)
 
・インドA州B地域(Tさんが数年来在住している地域)の日本人会婦人会で、東日本大震災以後ボランティア活動をしていた。内容は主に募金。
(感想:これは、そうしかなりようがないと思う。さらにA州B地域内での募金と日本への送金は容易なことではなかったらしい。Webで公開されているA州B地域日本人会の会報に、彼女の手記が載っていた)
 
・一度、婦人会で、募金を届けた東北の被災地を訪問したことがある。東北の人々が支給される手当金に甘えて働かないことが問題になっていた。
(感想:私はそのとき、そもそも働こうにも、震災前から充分な就労先があった地域ではなかったことを指摘しようとした。2010年に私が石巻を訪れてハロワにも行ったときの話をしようとしたが、遮られた)
 
・東北の人たちは、被災者といってもお金を持っている人が結構多かった。家や家財などにそれほどの被害を受けたわけでもないけれども、余震が続いているのでとりあえず避難所にいた人も。一人10万円(?)の手当金が配られて、食べ物は炊き出しなのでお金を使う機会がない。そういう避難所に真珠のミキモトが訪問営業し、いい商売をしていた。
 
・日本人はそれほど心正しい民族でもなく、略奪も若干はあった。ご遺体から指輪やネックレスなど貴金属を盗んで売る人もいた。ご遺体の指を切り取って指輪を盗む人もいたが、それは日本人ではなく中国人。
(感想:とりあえず、被災地関連はここまでにしておきます。ブラ美さんは非常に多くを被災地について語りましたが。日本の中にいても、激甚被災地の現状を知ることは容易ではないのに、なぜ海外にいる彼女のほうが「自分はたいへんよく知っている」という態度に出られるのか不思議でした。しかも東日本大震災後、訪問したのは2011年中か2012年前半の一回きりだったという話)
 
・友人の研究者H子さんが白黒はっきりつけたがる性格でイヤだという話
(感想:私はここで「データとロジックで勝負するのが研究者だ」という話をしたら、「じゃ、こんどH子と会ってみる?」とのこと。どういう意味だろうか? 会ったら「白黒はっきりつけたがるイヤな奴」と私も思うだろうとでも? この話は7月25日の1時~3時くらいの間に行われたと記憶。彼女は後日、その時刻に自分はすでに寝ていたと主張)
 
・スウェーデンがイスラム圏からの難民を寛容に受け入れていたら人口の50%がイスラム系になったという話。イスラム文化では、富める者は貧しい者に喜捨をすることで神に評価されるので、貧しい者は「喜捨されてやっている」という意識でいる。だからスウェーデンがそういうふうになるのは当たり前。
(感想:結果として起こったことは事実かもしれないけど、なんかすごい偏見だなあと思う。もしかするとイスラム教の教義には、そういう内容が実際に含まれているのかもしれないが)
 
・B地域で親しくしている大家族で、赤ちゃんが哺乳瓶の黒い液体を飲んでいるので、何だと聞いてみたらコカコーラだったという話。やめろといったら、「あとで永久歯が生えてくるから大丈夫」と答えられた。永久歯にも悪影響が出ると話したら、ブラ美さんがいるときには「ブラ美が来ているから」と目の前ではやらなくなった。赤ちゃんは乳歯がボロボロに。永久歯の歯並びにもやはり悪影響が出ている。
(感想:これはまあ、そうだろうと思う)
 
・B地域に働きに来ているフィリピン人やインドネシア人の話。ドミトリーをベッド一つ単位で借り、それをさらに昼勤と夜勤でタイムシェアして住居費を浮かせ、本国への仕送りを増やしたりしている。
(感想:これもまあ、ありうることだと思う)
 
・更年期でホルモンバランスが悪い。娘も十代後半でホルモンバランスが悪い。だから母と娘でぶつかる。
 
・娘(こんど(?)高校3年、B地域で学費が一番高い高校に在学)の学校は、授業を受けるというのがなく、全部プロジェクト学習。
 
・娘はベッドの上でノートパソコンを開いて、背中を丸めてパソコンを使って学校のプロジェクトをやっていることが多い。
 
・下の娘が来年から大学。あと5年、学費がかかる。
 
・夫は64歳。B地域の大学教員。契約は単年度更新。まだ仕事があるだけマシ。
 
・もし夫の仕事がなくなったら、2週間で国外退去しなくてはならない。
(感想:そうなのかもしれない)
 
・夫への愛が冷めた。
 
・夫は教員なので、人に話をして指図するのが習い性になっているが、人に話されることや指図されることを嫌う。夫に何か別の選択肢を提案するようなことを「Don't control me!」と怒鳴られる。
 
・夫が日本の現在の仮住まいを気に入らないため、仮住まいの近くに新しくアパートを借りた。小型冷蔵庫などの家電・家具類を、自分が暑い日に台車で何往復もして運んだ。汗だらだらながして台車押している横を、トラックやバンが通って行った。誰も自分に「乗りなよ」「運んであげるよ」と言ってくれなかった。日本人はひどい。インドでもどこでも、「どこまでいくんだ?」と声をかけて荷台に乗せてくれるもの。
(感想:話からして、独立した歩道のある道路ではないだろうと思う。せいぜい二車線+路側帯、もしかすると一車線とか。車のほうは、気になったとしても停止できなかったという可能性がある。それにブラ美さんは車の運転ができる。「レンタカーを借りる」という選択肢もあったはず。その程度のお金もないということは考えにくい)
 
・夫のサラリーがよくない。教員なのでサラリーはそれほど良くはなく、プール付きのマンションには住めない。自分もプールのないマンションに住んでいるので、近くのジムに通っている。面倒くさいし、ジム代が高い(でも聞いてみると日本と同水準だった。月極で1万円ちょっとくらい)。ジムは会員にならないと、一回あたり2000円とか3000円とかして高い。(これも日本の通常のビジター料金程度だと思う)
 
・毎日寝る前に薬を飲んでいる。 
(と大変深刻そうな表情で言って、目の前で薬を飲んだ。その薬は抗不安薬か睡眠導入剤かというようなことを言っていた記憶がある。「私も飲んでるけど?」と返すと、不快そうな表情になった。「そうなの、大変ねえ」と言われたかったのだろうか?)
 
・B地域の日本人学校で、精神障害のある中学生の女の子が母親ごと排除された。
(感想:ありうることだとは思う(あってよいと言いたいわけではないが))
 
・ブラ美さんの馴染みのある日本の一地域で統合教育が始まった。モンスターペアレントが増えているので、統合教育が教員のストレスになるのではないかと心配。友人がそこで小学校教員をやっている。大変そう。
(感想:私はこのとき、統合教育は日本としてしないわけにいかないこと、分離教育と差別の関係、分離教育が地方では少子化で成立しなくなっていることを話そうとしたが、遮られた)
 
・B地域では、外に出ている車椅子の障害者はあまり見ない。しかしイスラム風の部族社会で大家族、親類同士の行き来もあるので、社会の方から障害児のところに来てくれる。
 
・おしゃべりは無駄ではない。大切である。コミュニケーションと情報交換と社交の機会である。
(感想:私が、彼女のおしゃべりから離れて自分の課題に向かおうとした時のこと。おそらく、おしゃべりを非難されたことが過去にもあるのだろう)
 
・日本在住中、身体の弱い子猫を大切に育てた。子猫は近所の子どもたちにも可愛がられていたが、早死にした。近所の子どもたちと一緒に、その猫の墓を河原に作った。一ヶ月後、工事が始まり、ショベルカーに墓が掘り返されてしまった。

(感想:よほどご本人にとって重要な話なのだろう。SNSで何回か書かれていた記憶がある。ただ、その一晩の間に、口頭で10回近くも繰り返された。おかしいと感じた)
 
・B地域の獣医たちは、伝染病の猫は治療せず安楽死させる。
 
・健康不安について。本来2つある臓器の片方がダメになった。もうひとつもダメになったらと思ったら心配。 
(感想:「わかるわかる」「大変ねえ」とか言われたかったんだろうか? 私だって健康不安ならいくつもあるし、すでに障害者で車椅子生活なんだけど?)
 
・若い時、日本ではよくディスコで踊っていた。今でも踊るのが好き。
 
・今年から、B地域の日本人会婦人部長になった。年一回の総会のやりかたを変えた。踊る時間を作り、自分がステージの上で「恋のフォーチュンクッキー」を踊った。他の会員から「今年はなんだか違うんですねえ」と言われた。心のなかで「だって会長が変わったんだから」と思っていた。
 (感想:そういうのがイヤな人は困惑するだろうなあ)
 

  • その後のブラ美さんの行動
3日後、短大の同級生のお宅にお茶に行って翌日まで滞在。「その同級生とよくしゃべった」とブラ美さんはSNSに書いていた。私同様、一方的に話を聞かされた上、泊まり込まれて迷惑しただけじゃないだろうかと思っている。
5日後、彫刻家(2013年に会った人)の個展に、お友達と待ち合わせて行った。お友達には買っていった高級ハンカチか何かを土産に手渡し、個展でもそれほど無作法だったり違和感を持たれたりする行動はしなかったとのこと。

これらの行動を見て、私は自分がされたことが何だったのかを理解した。
不要品やガラクタの詰め合わせを「おみやげ」にしてよい人間であると、軽く扱われたのだろう。
その軽く扱われるべき人間が大学院だゼミだと言っているから、是が非でも妨害しなくちゃいけないことになったのだろう。
その軽く扱われるべき人間が、大学院のゼミのために交通費と宿泊費を使って東京から京都に来ていたわけだが、だからこそ、その目的は叩き潰さねばならなかったのだろう。

  • 私が怒りをぶちまけて以後
私はSNSで、ブラ美さんに対して怒りをぶちまけた。
ブラ美さんは素直に謝罪する一方で、「覚えてない」「自分はその時刻に起きてなかったはず」などと表明した。
さらにその一方で、個人向けメッセージで「みわちゃんのためにしていたこと」「そんなことは言ってない」といった主張を「タクシー代は出してあげた」といった恩着せがましい主張、その他の自己正当化や弁解とともに繰り返した。
私はさらに怒り、絶交することにした。
ブラ美さんはそれを「スピリチュアルな意味のある出来事」と解釈して、自分のプライドを守ったようである。