一週間ほど前に撒いた綿の種、双葉を出しつつあります。
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1983年5月以来、 31年越しの夢の第一歩です。

1983年5月、19歳で浪人中だった私は、綿の種を頂戴しました。
さっそく 、実家の庭で誰も使っていなかった植木鉢に種蒔きしました。
あのときも、綿の種はこんなふうに、双葉を出していました。
どんなふうに育つだろうかと、心から楽しみにして、毎朝様子を見て水を与えていました。所要時間は2分以下だったと思います。

でも、綿が双葉を出したころから毎朝、私は植木鉢が倒れているのを見ることになりました。
最初は「間違って何かがぶつけられたのだろうか」と思っていました。
でも毎日、毎日、植木鉢は倒されていました。
私は、母親のしわざだろうとは思っていましたが、黙って元に戻して水を与えていました。
一週間後のある日、同じように植木鉢は倒されており、綿の新芽は折れてしまっていました。もう、救うことはできそうにありませんでした。 

私は母親に
「あそこの植木鉢が毎日倒れているんだけど」
と言いました。
母親は
「アンタが余計なことをせずに勉強するように、お母さんがしてやっとうとよ(してやっているのよ)」
と言い、ニヤニヤしました。

それまでも、私が大切にしているもの、仲良くしている相手を母親が傷つけることはよくありました。
お気に入りの茶碗が、わざと手が滑ったことにされて割られ、母親がバーゲンで衝動買いしたかなにかした結果としてストックされていた趣味の悪い茶碗を
「お母さんが買ってやった、感謝して使わんと」
と押し付けられたり。
でも、生き物に累が及んだのは初めてでした。

私は、綿の新芽に謝りました。
私のところに来たばかりに、こんな悲惨な運命をたどらせてしまって、ごめんなさい、と。

それから、家庭菜園で綿を栽培することは、一般的になりました。
ドライフラワーとして飾られていることも珍しくなくなりました。
綿の花を見るたびに、私は1983年5月のことを思い出して、胸が痛みました。
なぜ私は、母親にあんなことをされなくてはならなかったのか、今でも理解できません。
悲しさや悔しさや苦しさが、今でも心の中にそのまま残っています。 
今は、母親がいかに私のせいだと主張していた(いる)としても、私に若干の問題はあったのだとしても、母親の行動は母親に原因あっての問題だと考えています。
その認識は、私のこれからを少しだけ楽にしてくれるかもしれません。
でも私の「これまで」の解決にはなりません。

私は、母親に痛めつけられ続けた生育歴から自由になりたいと思い、今年、綿を育てる決意をしました。
この写真の綿の双葉に、何らかの形で母親の影響が及ぶ可能性は、否定できません。なんといっても相手あることです。
私は31年前と同じように、母親によって綿の鉢がひっくり返され、芽が折られるのを見なくてはならないのかもしれません。そして、31年前と同じように泣くのかもしれません。
でも来年も、その次の年も、綿を育ててみようとする努力をやめることはないでしょう。
そこに、私の生き直しがかかっているような気がするのです。

綿の花言葉は「優秀」だそうです。
母親がこの花言葉を知っていたかどうかは知りませんが、母親は、私が「優秀」と認められることを、何よりも嫌いました。 
私は、この綿の新芽を育て、花を咲かせて、自分も「優秀」になるための・そうであるための努力ができる毎日を取り戻したいと切実に思います。
10代、20代のころに、そういう努力をしたかったのです。
私の努力を母親は徹底的に踏みにじろうとしましたし、踏みにじることにかなり成功していたと思います。
もう遅すぎるかもしれませんが、 これからでも、可能な限り、その努力をしたい。
私は生き直したい。

この綿の双葉に、すくすくと育ち、花咲く秋がありますように!