わが家が2番目に迎えた猫の摩耶は、本日17歳になりました。
私が寝起き頭ですけど。
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1997年6月18日、元夫と私と9歳のお姉ちゃん猫のいた我が家は、ちょうど1ヶ月前の5月18日に生まれたという子猫を迎え、「賢くて心優しい子に」という願いを込めて「摩耶」と命名しました。
二匹の猫は、あっという間に仲良しになりました。

それから、本当にいろんなことがありました。
私は当時の勤務先で、いわゆる「血で血を洗うリストラ」に巻き込まれはじめました。
ある日突然、誰もが私に声をかけられたら逃げるようになってしまったのです。
心労から、私は胃炎を起こして入院しました。
その一部始終を見ていた長女猫も心労から胃炎になり、7月25日に他界しました。
摩耶は、せっかく仲良くなれた「お姉ちゃん」を亡くし、たいへん気を落としました。摩耶にやっと子猫らしさが戻ってきたのは、9月ごろのことでした。
翌年の1998年6月18日には、弟猫の故・悠(当時1ヶ月)も家族に加わりました。
そのころ、勤務先の同僚でもあった元夫は、自分の身分を守るため、先鋒に立って私を攻撃し、退職を迫るようになっていました。
私は退職を選択しました。同時に、元夫と別れたいと思いました。正確に言うと、なかなか退職の意志を表明いない私にガマンできなくなった元夫の方が「終わりにしよう」と言い出したのでした。私は、望むところでした。そこで別れるための具体的な話を進めようとすると、元夫は周囲の人々に「別れないように」と私に圧力をかけさせたのです。
元夫は私がどれだけ仕事を大切にしているか、職業を持ち続けることを大切にしているかを知っているのに、仕事を手放すことを求め、その後は「主婦」「嫁」となることを求めようとしたのです。ならば、仕事にそれほど重きを置かず、「妻として母として嫁として」という世界に収まることを自ら望む女性を選べばよい話。私はそうではないし、そうなることを強制される言われもありません。
しかし元夫は、私と一緒にいたがりました。苦闘の末、元夫に出て行ってもらうことに成功したのは、2001年5月のことでした。この時期、西荻窪には元夫の味方をした人々が何人かいました。その人々のことを、私は未だに許すことができません。
摩耶の「お父ちゃん」は、酒と薬でラリって刃物を振り回し、生活費や家賃は入れないような男になりました。もともとそういう男だったことが、勤務先の問題で露わになっただけかもしれませんが。
そんなゴタゴタの末、摩耶の「お父ちゃん」はいなくなりました。

私・摩耶・悠の平和な暮らしが続くかと思ったら、2005年には私に運動障害が発生しました。
2007年からは、ヘルパーさんや訪問医療の人々や仕事仲間が住まいを訪れては、私を痛めつけるような状況が続きました。摩耶はそういうとき、悠を連れて離れた場所に行くなどしていましたが、どんなに心を痛めていたことだろうかと思います。ときどきでもヘルパーさんに私が叩かれたり引っかかれたりする状況は、2011年はじめまで続きました。
2010年夏、摩耶は慢性腎不全に罹患していることが判明しました。ステージIIIでした。闘病生活が始まりました。2012年秋には、糖尿病との闘病も始まりました。
2013年3月、悠が他界しました。
摩耶は激しく寂しがり、落ち込み、食欲をなくし、一ヶ月経過しても立ち直る気配がありませんでした。
15歳だった摩耶が新しい猫の家族を迎えることにはリスクもありましたが、私は、摩耶にふたたび弟を迎える決心をしました。
そして、2013年4月、もうすぐ5歳という瑠がやってきました。面倒見のよい摩耶ねーちゃんを、瑠はすぐ大好きになりました。
今日の摩耶と瑠です。
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不安材料を数えれば、地球レベルから個人レベルまで限りありません。
しかし、とにもかくにも今日、17歳になった摩耶と瑠と私の平穏な暮らしが、私の大好きな地域の大好きな住まいにあることを心から喜び、支えてくださっている方々に感謝したいと思います。
願わくば、来年の今日も、18歳の摩耶と過ごせますように!