埼玉県の高校教諭が自分の子どもの入学式に欠席するために勤務校の入学式を欠席した件、引き続き話題になっているようです。
たとえば、「BLOGOS」には2014年4月19日づけで下記の記事が。

母親教師の「入学式欠席」問題にニコニコ読者「批判するのはモンペか社畜」

私自身の考えは、このようなものです。

  • 今はかならず担任・副担任の二人体制になっているようだよね? 私の高校生時代(35年前)と違って。担任も副担任もいなかったんなら、さすがに問題だと思うけど、副担任はいたんでしょ? 問題、何もないじゃん?
  • 何か実務上の支障はあったの? 問題になったわりに全く報じられていないところを見ると、何もなかったんでしょ? 何を騒いでるわけ?
  • 支障が発生したんだったら問題かもしれない。でも、もし何か支障が発生したのだとしても、担任教諭が一人いないだけでガタガタするような運営体制の問題。担任教諭が欠席したことが問題なのではなく。
  • 教員だって病気もする。事故に遭って負傷するかもしれない。夫であり妻であり子であり親であり地域住民であり……といった数多くの側面を持っている。仮面ライダーでもウルトラマンでもない普通の人間。その普通の人間の普通の生活についてまわる数多くのことを織り込んで、学校は運営されているべきもの。担任教員が事前にわかっていた私用で、事前に有給を申請した上で勤務校の入学式を欠席することは、突然の事故や病気による欠席に比べれば影響は非常に少ない。「教員は事故に遭ってはならない」「教員は急病になってはならない」と言う人はめったにいないのに、なぜ事前に申請して有給を取得したら問題になるわけ? 問題にするほうがヘンだよ。
     

……ですけど、感情的にそうは割り切れない人がたくさんいるから、問題になるし論争になるし、なんでしょう。

河本準一さんのお母さんが生活保護受けてた件が問題になったのと共通するものを感じます。
河本さんは余裕があるときには仕送りしてた(=扶養義務は果たしていた)のに、
「本人は稼いでるのに、お母さんが生活保護受けてた」
ということ「のみ」をもって指弾されていたわけですから。
非常に理不尽な指弾なんですが、そういう指弾が堂々と行われ、なおかつ同調する人がたくさんいたということに対して、私は今回の
「母親でもある教員が、子どもの入学式を優先した」
に対する騒がれ方と非常に共通点が多いと思っています。


さて。
この理不尽に対して「理不尽」と声をあげ、「もしかしたら自分は理不尽なことをしているのかも」と思っていただくことが、どうすればできるのでしょうか。
それはモノカキとして自分が大いに考え、悩まねばならないことですが、同時に
「そんなこと出来るんだろうか?」
という絶望感も感じるところです。 
 
この高校教諭の方や河本準一さんを問題にする方々には、
「高校教員や困窮者家族には理不尽な要求をしても許される」
という思い込みがあるように思われます。その思い込みを「理不尽」というのは容易ですが、その思い込みを修正していただくことはできるのでしょうか?
ご自分の考える「かくあるべき」を押し付けてもよい、という思い込みをただすことは可能なのでしょうか?
たぶん無理でしょう。「高校の担任教員なのに」「人気芸人で稼げているのに」という突っ込みどころは、非難の声を上げる方々にとっては「どういう非難をしても許される」という錦の御旗のようなものなのでしょうから。
 

相手は、日本の土着宗教のようなものであり、その土着宗教のようなものに支えられたメンタリティでもあるのでしょう。論理や合理性の通じる余地があるとは思えません。
そして私には、まるで相手がモンスターであるかのように見えてならないのです。
モノカキとして出来ることは……たぶん多くはないでしょうね。 多くはないとしても、後悔は残さないように出来ることはしておきたいところですが。